壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

瞬間、心、重ねない

梗概

 

悪意の価値は

 俺はお前を見下しているんだ、バカにしているんだぞ、と表明したがる人間の気持ちなど、俺はには永遠に理解できないだろう。そんなことを一々、言葉や態度に表すことに、一体どんな、何の意味があるんだろうと、俺は憤りよりも奇怪さの方を強く感じる。ネット上でも実社会でも、そんなことを逐一隠しもせずに開陳したがる人間の精神構造に、却って興味津々である。

 単にその手の念を向けられる俺がナメられているだけだと言ってしまえばそれで話は終わってしまう。しかし、俺をナメるのは当人の勝手だが、それを俺に目に見えて分かる形で伝えて、何がどうなるというのか。見下してやった、蔑んでやった、嘲ってやったぞと、憂さが晴れて満ち足りた気持ちになるのだろうか。どこまでもその者の勝手にすればいいだけのことだが、虚しくないのだろうか。

 長い歳月を生きてきたが、俺は他者が持つこの手の「気持ち」が皆目見当もつかない。他人に危害を加えたり何らかの形で損害を与えたりすることにより、己に利する何かがあるというなら話は別だ。俺に害意や悪意といった類いの感情を吐露することで、何も得をしないだろうに、一々それを言いたがりやりたがる人間の心理を、俺は絶対に理解できないだろうし、したくもない。

 かく言う俺も、その手の下卑た情動を全く抱かないということもない。しかし、そんな念が頭に浮かんだ時、それと同じくして虚しく、また恥ずかしいという思いも伴って現れるのが常だ。こいつは俺よりも劣っていて、叩いていい相手だ、自分にはそれが許されるのだと確信し、それを実行に移すとして、その時にその行為者としての己自身を貶める結果になると、思い至るから俺は結局何も表明も行動もしない。

 余人の大半はそうではないということを、俺は身をもって知っている。醜く浅ましく、それでいて下らない精神を一々吐露してくる人間が世間にあまりに多いので、俺は心の底から辟易させられる。自分よりも下だとか、劣っておりだとかと値踏みして、軽はずみに貶したり侮ったりして、そもそも疲れないのだろうか。それで一円でも金になるなら、理屈としては分かるのだが。

 結局、その手の御仁というのは自分の気持ちが此の世で最も尊いのだろう。損得も善悪も、己の満足のためには霞んでしまう、そんな精神性の持ち主だと見なすべきだ。俺は心底、そういった手合いとは接したくない。心、それも自分自身のそれを何よりも重んずるという考えは、途轍もなく了見が狭く、ハッキリ言って幼稚きわまりない。そして世間というものはそんな者どもの集まりなのだから、絶望せざるを得ない。

 また、他ならぬ自分が、劣等と見なした相手に侮蔑や嘲弄の意思表明を行えば、その対象が何らかの打撃を被ると確信しているのも噴飯物だ。他者を「バカにする」時、その行為者は無条件に対象者よりも価値があるという前提を踏まえて発言することになる。それが盤石で揺るぎなく、バカにされている側がその前提なるものを自明で疑いようのないものとして受け入れると、本気で思っているのだから笑わせる。こちらから言わせれば、お前ごときにどう思われようが知ったことではないと、見栄を切ってやりたくもなる。

取り合わない

 たとえどれだけ誹謗中傷され、辱められたとしても、それらに対して何かを思ったり感じたりする義務などない。他人の心だの気持ちだのと言ったものに対しては、意に介さずに済ますという手段も取れる。それは別に悪事でもなければ知性や良識の欠如でもない。思えば俺は、誰から構わず他人の意図や考えを逐一汲んでいたような感がある。特にこれと言った意味もなく。

 相手のことを分かるということは、人間として絶対に欠かしてはならないことではない。意を汲むにも、相手を選ぶべきだろう。自分の気持ち()に無条件に価値があると思い込んでいるような連中について、俺は慮ってやる義務などないと確信している。付け加えれば、俺は生きて居る人間には皆、等しく価値などないとさえ、思っている。ましてや浅はかで幼稚な人種など、言うに及ばず。

 人間の精神や、個人が持つ心といったもの、及び感情や思いなどとについて、どこまで重んずるべきだろうか。たとえどれだけ貴い身分の御仁であったとしても、そもそも人間の気持ちなるものを、それほど大切にしなければならないのか、俺には甚だ疑問である。ある一人の人間の気持ちのために右往左往したところで、それで餓えや寒さがを凌げるというのか。一円でも何かの足しになるというのか。

 自分の気持ちが、金や物質的な恩恵よりも優先されると信じている厚顔無恥な輩。そんな連中が存在し、肩で風を切りながら此の世を我が物顔で渡り歩いている現実を思うと、ただただ虫酸が走る。手前勝手な気分やそれに基づいた言動により、他人が痛めつけられたり損害を被ったりさせられると考えるのは、単なる自惚れでしかない。そんな魂胆を臆面もなく表に出せるような人間に、なぜ俺が気を配らなければならないというのだろうか。

 適当にあしらい、何も思わずにその者自体を端から存在しないものとして扱えばいい。それは己が被ったことを見なかったこと、なかったことにするのではなく、それが為したり言ったりしてくることに対し、精神を影響されないようにするということだ。抱かれ、また表される悪意や害意といったものについて、律儀に反応する必要も義務もないというのは言い過ぎるということはない。

 加害に対して報復するのもまた正しくない。他人の情動を読み取り、それに則り定石どおりの反応をした時点で既に相手に呑まれていると言っていい。そのような下衆の思考や言動に対して、全く心が動じなくなってはじめて、俺はそれに対して勝利を収めたと言えるのだ。要するに、他人の心を如何に汲まないか、また察しないかであり、別の言い方をすればどれだけ空気を読まないかだ。

 あらゆる人間関係において、否が応でも伝わってしまう、分かってしまう、推し量れてしまう。それらの全てが時に苦しみの源となる。何も察することができない人間は、その点で見ればこの上なく幸福だと言ってしまって構わないのかもしれない。必要もないことが嫌でも分かってしまい、覗き見たくもない本音が見透かせてしまう時、俺は自他の別なく、人間というものがつくづく嫌になる。

 

 他人の気持ちなど分かって何になるというのか。意を汲まなければならないような人間が、この世の中に一体どれくらい存在しているというのか。目の前に存在している他者が、慮らなければならない程の人物である可能性は、果たしてどれくらいだろうか。世間における有象無象など一顧にも値しないような事物に過ぎないと、言い切ってしまったとして、それに一体どんな問題があるというのだろうか。値踏みなどするまでもなく目下、生きている人間なんぞに、大した価値はないと決めてかかったとして。

 生きているという時点で、尊敬には値しない。優劣も善悪も貴賤も、生きているという、ただそれだけの前には霞んでしまう、俺にとっては。とどのつまり、食って寝て糞をしているだけの存在でしかない、生き物は。それの中で、価値があるだの優れているだのと評することは、ナンセンス以外の何物でもない。本当に尊い存在とは、既に此の世を去った者だけだ。

 生きながらにして、他人から褒めそやされ、敬われたいなどとは何たることか。他社に対して、コイツは自分よりも格下で、劣っているから、コイツごときは俺を崇敬して当然だ、などと臆面もなく思える人間が、俺には全く理解不能である。浅ましくそして、おぞましいとさえ思う。そしてそれらを越えて、滑稽でさえある。どれだけ見下せる者が相手であったとしても。

 だが、その手の御仁が世間には溢れかえっているのは恐ろしい。社会生活というものが、俺にとって物憂く思えるのは偏に、この一点によるものである。言ってしまえば身の程知らずもいいところだ。自分というものを、無条件で価値があり、大切で、自分が下に見たものからは敬われたり重んじられたりするのが当然だと思っているのだから。それが世間のマジョリティなのではないかと思うと、俺はとたんに恐ろしくなる。

 実は、俺を避けるなと、ある男からシツコク付きまとわれたことがある。その男はかつて存在した会社における俺の先輩社員であった。会社がある間、その男は俺を小文化召使のように扱い、公私の別なく使役したものだ。俺が単に言いなりになるだけでは彼は満足しなかった。例の男は俺の精神まで操作しようと企んだが、俺はそのようにはならなかった。面従腹背では満足できないその先輩社員は、俺に慕われたがり、また尊敬されたがった。

 それらの念を自分が相手(つまり俺)から抱かれて当然だと思える厚顔無恥さ。その性質が発揮されたのは会社が健在だった頃ではなく、むしろそれが無くなってからだった。会社が潰れてからもその男は俺の「先輩」であろうとした。俺はその男といつまでも繋がりが切れない存在だと彼自身は認識していたようで、延々と電話をかけてくるのだからたまったものではなかった。

 その男のケータイの番号を着信拒否すれば、別のケータイを使って俺に電話をかけ、俺の不義理を責めながら脅した。お前は引っ越しはしたのか、俺から逃げられると思うな、俺は逃げれば追う男だ、などと喚き散らして。会社があった時点においても、俺は先輩社員に虐使されながらも、それの気持ちなど全く理解できなかったし、会社がなくなってからもしつこく複数のケータイを使い分けて脅迫電話をかけてくる段に至っては、分からないを通り越してただ恐ろしかった。

朴念仁

 今勤めている会社の社長も、例の「先輩」と本質的には変わらない。自分が他人、と言うよりも自分が下に見ている相手から尊敬されてしかるべきと考えている人種。世間を見渡して見れば、その手の者どもがどこにでも居る。そしてさらに悪いことに、それは組織や集団の中ではそれなりの地位を占めているような傾向され見られる。自惚れが強い人間に限って社会的に成功を収めるのかもしれない。

 そんな手合いの気持ちが分からないのは能力の欠如でも人間性の欠落でも何でもない。そんな精神構造や人格を持っている人間のほうがおかしいのだ。そして付け加えて言えば、そんな輩が除かれずに当たり前のように生きられるようなこの国やこの社会の方が間違っており、狂っているのだと言える。この国のすべての人間にとって、俺は「足りない」としても、俺はそれを恥だともなんとも思わないし、また思うべきではない。

 他人の気持ちなど分からないくらいでいい。

胸襟つまびらか

 果たして本当に、文章とは「書く」ものだろうか。俺が、と言うよりも現代人にとって言葉を用いて何かを表す時、その行為を指して書いているとするのは適切だろうか。目下、俺は断るまでもないがパソコンにキーボードで文字を入力している。その行為は紙の上で字を書くということと、全く異なっている。それは「書く」と言うより「出す」と言った方が現実に即しているのではないだろうか。そして、何を出しているかと言えば、それは人間の精神そのものなのではないだろうか。

 

文章が下手で

 言文一致というのは簡単なようで難しい。話すように書けなんて、文章読本的な本には載っているけど、そもそも俺は喋ることが苦手だった。昔から、話すのは苦手ではあったが書くことには長けていると思い込んでいたが、実際はそうでもなかったのだから全く度し難い。故あって俺は頻繁に文章を書かなければならなず、また作った文章を他人に評価される機会があるのだが、それが芳しくない。

 文章が硬いだの分かりづらいだのと言われるのは心外だ。面白くないだとか、難しすぎ高尚すぎるだのといった指摘なら、むしろ喜んで甘んじるところだが、俺が作る文章はそもそも読み手に意図が伝わらないような類いの代物らしい。要するに俺は話すことに限らず、文章を書くという能力も他人より劣っているという結論に至る。この事実が俺にとって相当、嫌なものであった。

 文章の書き方など、学校でも習ったし、独学でも色々と学んでいる。だから俺はそのことについて、一家言あるくらいのつもりでいたのに。文章教室で課題をやって、その講評という段になると、俺は毎回気が重くなる。俺が書いたものなど、箸にも棒にもかからないような出来栄えで、同じ講義を受講している他の人間の方が良い評価を受けるるのを脇で見るだけなのだからたまらない。

 学校で褒めそやされている者が書く文章は、俺からして見れば決して上手くも面白くもない、ように思う。しかし俺は、それらの点で評価の対象になるような文章一つ提出できずに居るという、この体たらく。俺がまずやらなければならないのは、伝わる文章を作れるようになることなのだろう。文章をうまく作れるかどうかは、その第一のハードルを越えられるようになってからの話だ。

 そもそも俺は、頭の中にある考えなり何なりをきちんと出力できているのだろうか。大学時代に課題で艇首したレポートに、意味が分からないなどと講師に言われたのを唐突に俺は思い出す。きちんと書いたはずなのに、良し悪しの前に意味不明と烙印を押されたのは、俺にとってかなりショッキングであった。自分が文章で人並み以上であるなどとは、とんだ自惚れというか単なる誇大妄想にすぎない。

 俺はきちんとした、書き言葉を駆使して考えを文章にしているつもりだった。思い返せばそれがそもそもマズかったのかもしれない。正しい日本語の書き言葉を意識しながら俺は、どんな局面でも文章を作ってきた。小学校の作文から大学のレポート、仕事上での文書から文章教室の課題や公募の投稿まで、俺は一貫して書き言葉を意識し続けた。学校で習った、本で読んだ通りの形式に則ってやって来たつもりだった。

 学校の講評でいい評価をもらっている他の受講生たちは、俺ほど書き言葉が云々などとは考えていないだろう。自然体のままで作った文章が、講師から評価されているのを俺は何度も目の当たりにしている。講師はプロの作家であり、第一線で現役として活躍している、ということになっている。そんな御仁が良しとする代物が、自然体と言うかほぼ言文一致の文章なのだから、俺も己がこれまでにこだわってきたものを、かなぐり捨てるくらいのつもりで文を作っていくべきなのだろう。

そぞろ綴り

 頭の中にあるものを、そのまま散文として出力する事から始めなければならない。脳内で思ったことや感じたことそれ自体を、フォーマルな文章でなくても取り敢えず出力は難なくできるという程度にはならなければ、話にもならない。考えや思いといったものを、正式な書き言葉から逸脱した体裁になったとしても、そのまま出力するためには、「書く」という通年から、敢えて逸脱する必要があるのかも知れない。

 そもそも端から、俺は書いているのだろうか。便宜上、文章を作るという行為を指して書くと称するのは一般的ではある。しかし、本来の意味で言うところの書くという行為は、紙の上に筆を走らせることだ。モニターに向かい、キーボードを打つ行為を「書く」と称することに果たして本当に必然性があると言えるだろうか。己がやっている行為に極限まで意識的になれば、その疑問は自ずと出てきてしまう。

 俺が今やっていることは、本質的に言えば精神活動の外部化あるいは可視化だろう。それは書くと言うより「出す」と言った方がより適切であるように思える。書き方について、俺は常に固執してきたが、改めて思えば見当違いな徒労でしかなかったのかもしれない。教科書通りの、正しい形式の、見てくれが良く整った文章になるよう、俺は書いてきたつもりであったが、それは大本から間違っていた。

 すべきなのは文章を書くことではなく、己の精神を可能な限りそのまま出力することだ。断じて文章を作るだとか書くだとかいうことではない。いや、それは上辺だけ見れば正しいように見え、現に一応はそうなのだが、それは本質には迫っていないモノの見方だと言えよう。俺は学校で習った書き方に固執し続けてきた。だがそれは、肝心なことを無視し、表面をただなぞるに等しい行為でしかなかった。

 俺の精神が最低でも人並みであったら、それを完全に他人に伝えられれば、それなりのコンテンツとなるはずだ。その前提さえも怪しいとするなら最早、絶望するしかない。取り敢えず、そうでないということにして話を進めたい。俺の精神活動の能力が余人の平均的な水準を満たしており、考えたり感じたりする事柄に普遍性や幾ばくかの価値や何らかの意味といったものがあるなら、それを如何に出せるかが鍵となるのは言うまでもない。

 自分で言うのは憚られるが、俺はよく考え込む方だ。自らが身を置いている状況や体験する現象といったものについて、俺は決して無関心でも無感動でもない。何に対しても思うことも感じることもある。そして世の大半の人間もまたそうであるはずで、それらを正確に出せさえすれば、それだけで価値のある文章コンテンツを精算することができると考えたい。

 つまり、念頭に置くべきなのは精神の出力の如何であり、文章を書く、あるいは作るといったことではない。学校などではそのようには習わなかったが、これまで俺が仕込まれてきたことが根っこからデタラメで間違っていたのである。何をどう書くかといったことを気にかけるのではなく、自分の頭の中にあるものをどれだけ損なわない形で外に出せるかを問うべきなのだ。

 

 それには第一に、文を作るにあたって、書くと称することをやめる事から始めなければならない。先に触れた通り、いま俺がやっている行為はそもそも書いてはいない。字義通りに言えば、論ずるまでもなく書いているとしたいならやはり、紙に手書きで文字を書き込んではじめて、その行為にその言葉を当てはめることができるのだ。キーボードをカタカタやることはそもそも書くことではない。

 キーボードで文字を入力し、データとして形に残す行為は単に出力するとでも称するのが妥当だろう。そして出力している実質とは即ち、精神そのものである。その精神そのものをどのように涵養し、また陶冶していくかということも大切ではあるが、今この記事においてそれは、ひとまず置いておくとしよう。とにかくこの記事を作成している「この瞬間」において俺がやっている行為について、明らかにする必要があるのだ。

 高校の時、小論文の授業で教師が「文は人なり」などと言っていたことを思い出す。文章には書き手の人となりや知識の多寡や精神の貴賤とでも言い表せるような代物が、滲み出るという定番の説である。たしかに、文章にはたしかにそういった側面があることは言を俟たないだろう。しかしそれからもう一歩、踏み込んで考えてみればここで重ねて述べてきたように文章とは出力された精神それ自体であると言っても決して過言ではない。

 精神の修養や知識や教養の蓄積といったことも重要だが、それよりも先に身に付けなければならないことがある。それは普段の、常日頃の生活や日常生活といったものにおいて、己が経験したり考えたり思ったり、感じたりしたこと写実的に言葉に表す能力ではないだろうか。それは例えるならば、言葉による素描とでも言ったようなものである。平常時における精神活動を出来るだけ正確に、不足なく言葉として表せる能力が、俺にはなかったのではないか。

 そのように自らに問うてみれば、文章学校で振るわないのも腑に落ちる。ある課題が出て、それに則って指定された文字数に収まる文章を作って提出しろと講師に言われる。しかし俺は、それに取り抱える前の段階で既に躓いており、及第には至っていなかった。それをやるよりも先に、普段の思いや考えを正確に出力するという気にさえもなってなかったのだから、どうして他人よりもいい文章が作れるだろうか。

 そしてそのいい文章というものに対しての認識が、これも前述の通り根本から見誤っていたのだ。俺は文章というものをこれまで、単に文字が大量に並んでいる情報の塊か何かだと思っていたフシがある。即物的に言えば確かに正しいのだが、それは事務や実務といった分野において妥当な見方だ。いわゆるクリエイティブ・ライティングといったような文章における本質としては、それは正しくない。

 手書きで文章を作るのではなく、キーボードでの文字の入力という手段を用いるからこそ、その本質はより明確な形で浮き彫りになる。精神活動の外部化の手段として、言葉を用いているという意識の有無が、文章の質を大きく左右する。言ってしまえば、心の中をどれだけ精緻に外に出せるかが決め手となる。それをしようという気になることと、それを可能にする能力の習得を俺は目標にしなければならなかったのだ。

「書く」のではなく

 文章を書くことは誰にでもできるが、自身の内面を開陳する技能は万人が身に付けてはいまい。商用文や実用文などといった類いの文章は、単なる実務的な情報の伝達を旨として書かれるものでしかない。俺は文章教室に通って色々と学んでいるが、その学校で習得すべきなのは、そのようなプラクティカルな「書くこと」ではないというのは言うまでもないことだ。

 俺は書くことから離れなければならない。文字を書き、書類を作成することから離れ、純粋に精神活動を他人に伝わる形で出力するための方法として言葉を用いる技術を会得することを目指すべきだ。その点で言うなら、俺がこれまで習ってきたことや独学で学んで来たことの全ては、まるで用をなさないと言い切っていいだろう。重ね重ね言うが、書くことは誰にでもできる。俺がやるべきことはそれではない。

 俺の内面の一切合財が取るに足らないものである可能性はある。しかし、それはその内面とやらを余すところなく十二分に出せてから問題になることであり、それよりも先に越えなければならない出力というハードルについて、俺はまだ直視さえしていなかった。土台、「文章を書いている」などと言ってしまうようでは、スタートラインにも立っていないと言っていい。

 普段、思っていることを言葉として正しく出力すること。そしてそれにおいて重要なのは字面ではなく、表される精神そのものだ。ありきたりすぎる言い方になってしまうが、心を込めなければならないのだ。センテンスの一つ一つに入魂するくらいの気持ちが必要なのだ。そのような意図を持たずに、何をどれだけ書き連ねたところで、それは会社や役所で交わされる文書と同じである。

 実用文や商用文で、面白く価値があるものなど、なにもないだろう。なぜならそれらには精神がこもっていないからだ。書き手の内面が全く表されていないから、その手の文章が値打ちを持つことは有り得ない。そして俺がこれまで「書いてきた」ものは、まさしくそのような代物であったといえるだろう。俺はビジネス文書検定などといったものを高校時代に受験させられたが、その時から全く進歩していないのだ。

 無論、勤め人としてはそのような文章を作成する技能は必要であろう。しかし俺が文章教室に通ったりブログを毎日更新するのはその能力を伸ばすためではない。プラクティカルな文章を書くことと、精神の表現として言葉を用いることの根本的な相違について、まず正しく明らかに知ることから始めなければならなかったのだ。

 もしかしたら、俺は未だにそれについて朧気なのかもしれない。また、ハッキリ分かっていたとしても、それを実践するだけの能力が依然として身に付いていないとも言える。それを習得するまでは、かなり長い歳月を要するかもしれない。仮にそれが成ったとして、俺は何歳ぐらいになっているのだろうか。そのことを考えると途方もない道のりのように感じられてしまうが、まぁ試みてやるしかないだろう。

おざなり

 どうしてもスラスラと文章を書き連ねることができない。手書きならともかく、所詮はキーボードをカタカタやるだけのことに、俺は一体どれだけ無駄に時間を掛けているのだろうか。我ながら手際の悪さに苛立ち覚えずにはいられない。理想としては、呼吸をするのと同じくらい自然に、難なく散文を作れるように成りたいのだが、そんな日が本当にくるのか、現時点においては甚だ疑わしく、悲しい。

 

時間の無駄を

 文章を書くためのトレーニングとしてブログを毎日書いている。自らに課しているのは毎日の更新に加えて、記事1つあたり最低5000字書くということだ。具体的にどんな内容で、どの程度のクオリティの文章を書くかといったことはどうでもいい。とにかく毎日、最低5000字以上書くことをハードルとして設定している。そして今のところそれは途切れずに続けられている。

 しかし、それを継続するためにかなりの時間を割いているのは無視できない。土日や祝祭日ならどうにでもなるが、問題は平日である。他人に雇われ働きに出、朝から晩まで職場に拘束されて帰宅するのは大体20時以降となる。それから更に晩飯の支度などをしなければならず、加えて言うと更に、次の日の労働に備え、睡眠をとる時間もまた確保しなければならない。

 こうして考えてみれば、俺の平日は偏に労働のためだけにある。それ以外の何かなど、本来なら入り込む余地などないと言っても過言ではないだろう。俺は働くために眠り、働くために食べ、働くために身だしなみを整えている。そう考えれば、なんという惨めな存在だろうか。言うなれば俺は、赤の他人に使役されるために、唯そのためだけに生きているのだ。

 そんな俺の平日において、文章を書く時間を作らなければならないのだから、なんとも大儀なものである。毎日毎日、俺は文章を作るために相当な時間を割いている。それにより他のことをやる時間を当然、削らなければならない。その代表的なものは言うまでもなく睡眠時間だ。下らなく何の意味も価値もない文章を作ってネットに晒すために、俺は慢性的に寝不足となっている。

 なぜそんなことをしなければならないのかについては、明記しない。なぜなら他の記事で何度か既に触れたからだ。加えて、その動機や理由などこの記事においては関係が薄い。何のために文章を書くかについては問題ではなく、それのために費やされる時間について取り上げたい。俺の目下の生活で、ブログの更新はかなり大きな比重を占めており、最早かなりの負担となっているのだ。

 書くことも伝えたい事もないのに、一日も欠かさずに5000字を超える散文を書く。体力的にも辛いが、それ以上に足りないのは時間だ。数百字や1000文字程度の文章なら、何かの片手間で簡単にこなせるだろう。しかし数千字を超えるものとなると、たかがブログと言えども一筋縄ではいかない。生活を逼迫するくらいの負担がかかる行為に、どうしてもなってしまうのだ。

 一々断る必要さえないが、ブログのためだけに生きているわけではない。こんなもののために一日における相当な時間や手間暇を費やすとしたら、その時点でよろしくない。重ねて言うが、別にブログを通して世に問いたい何かがあるのではない。単に日課や訓練や習慣付けのための行為でしかないのだから、こんなものは出来るだけ手っ取り早く片付けてしまうに限る。重要でないことに長々とかかずらうのは無能の証でしかない。その状態から脱することができれば、この暮らしも少しはマシになるだろう。

やっつけで

 どうしても上手くやろうと下心を抱くのが、そもそもいけない。当初の方針としては、ノンストップライティングという訓練法で書くという目標を掲げていたような気がする。ようするに思いついたまま手を止めず、推敲も書き直しもせずにひたすら書くというスタンスでブログを手早く書き、それでもって毎日5000字書けるだの何だのと、虚空に向かってドヤることを目的としていたのだ。

 ところがどっこい、そうは問屋が卸さなかった。ノンストップナンチャラなどといった手法は形骸化し、はじめに意図していたような感じはどうしてもならなかった。言ってしまえば、単なる手すさびのようなもので、主題もメッセージもなにもなく、取り敢えず5000字の散文を量産できる能力を身に付けるためのブログに過ぎなかった。にもかかわらず、書いているとどうしても手が止まってしまう。

 これまでに、マトモでいい文章にしようなどといった、いわゆる作為を持たなかった試しがない。そんなことを目標にしているわけでもないのに、そんな魂胆でブログを始めたわけではないのにと、思いながらもそういった助平心がどうしても抜けないのであった。立派で恥ずかしくないような記事にする必要性など皆無であるにも関わらず、どうしてもこだわりを捨てられないのだ。

 別に誰に褒められも認められもしないのに。第一、そんなことのためにこんなはてなでブログをやっているのではない。仮にそんな目標があるなら、もっと文章をねらなければならないだろうし、書くこともないのに毎日、惰性で無意味に記事を作ることもないだろう。重ねて言うようにそんな大層な目的を掲げているのわけではないのだから、取り敢えず毎日5000文字を最低限、書きさえすればそれでいい。

 言わば、駄文を書き続ける体力づくりのためだけにやっているのだ。良いコンテンツを作りたいだの、己に箔をつけたいだのといったことは、完全に度外視していい。いや、むしろしなければならない。仮に俺が学生かニートであったなら、ブログに一日の全ての時間と労力を割くのも一興だろう。しかし残念ながら、俺はそういった悠長な身分ではない。

 先に述べたが、俺には時間の余裕がない。全く一分もないとまでは言わないが、無職並みに贅沢に何かに取り組めるほどではない。そんな事情がまず前提としてあり、それを踏まえて毎日文章を書き続けなければならない。つまり、一記事作成するためにどれだけ短い時間で済ませるかということが、何よりも重要だということになる。毎日やっていると、どうしてもそれを失念してしまう。

 取り敢えず日本語の散文として体をなしていれば、それだけで十分なのだ。それを念頭に置いて、それだけをハードルにして5000字の文章を作るとしたら、所要時間は相当短くなるはずだ。俺がこれから先に目指さなければならないのは、如何に短い時間でブログを書き終えるかということに尽きるだろう。何度言っても言い足りないが、良い文章をアップロードすることを目的にしているブログではないのだから、それで何も問題はない。

 

 やっつけ仕事でも取り敢えずやること、やり続けることは無意味ではない。粗製乱造というのは、どのような分野においても決していい意味では用いられないが、文章においてもそうだろうか。俺の私見としては、散文体のものであるなら、そうではないと思っている。どれほどひどく、つまらなく、また下らない類いの代物であったとして、何も書かないよりはナニガシカの文章が存在している方が良いのだ。

 文章を作るという行為は突き詰めれば「削る」作業だとは、広く言われていることである。しかし、その削るという段にたどり着くまでにはまず、それを為す対象としてのモノが必要となる。価値なり意味なりがある文章を作る前に、それがどんなものであれ叩き台としてのナニカがまず存在していなければならない。それがなければ削るというフェイズに取り掛かることさえ能わないのだ。

 ある者の文章の腕前の良し悪しについて論じたり評したりするにあたり、その者がまず何文字の文章を生産できるかという能力、それを無視することは出来ないはずだ。どんな駄文であっても、ないよりはあった方がマシだと俺は考える。そのため俺は、純粋なアウトプットの能力を向上させる必要性を感じたのだ。そしてそれを習得するために、このブログを始めた。これについては言い過ぎるということはない。

 行為を伴わない思弁に、一体どれほどの価値があるだろうか。たとえどれだけ支離滅裂で間違いだらけの、つまらない内容の文章であったとしても、一文字たりとも此の世に存在しないよりは、不格好であったとしてもあった方が良いと考える。それをブラッシュアップするなり書き直すなりすればいいだけのことだ。書くことは書き直すことだと、どこかの誰かが何かに書いていたのを思い出す。

 一貫した内容の文章にしようと考えるのもまた良くない。ノンストップライティングと言うと、簡単そうに思えるが、それを言葉そのままの意味で実践すると、中々そうもいかない。文章全体に統一感がないと気が済まない俺の悪癖が、どうしても出てきてしまう。先の述べたように、それのせいで手が止まってしまうために、俺はブログごときのために長い長い時間を浪費してしまう。

 いっそ、もっとメチャクチャな内容や構成にしてしまうべきなのかもしれない。もっと狂ったような文面にするべきだ。それで手早く5000字こなせるようになれば、ブログ以外のことができるようになるのだから。ブログを書くだけではなく、他にも色々と書いたり読んだりしなければならない。それらを行う時間を確保するのは、俺にとって急務である。そのためにブログのクオリティを犠牲にすることは全く厭わない。

 凝った、または練った内容でなければならないとどうしても無意識に思ってしまうのが我ながらネックとなっている。ブログの巧拙やそれに下される評価で、俺の生活や人生が大きく左右されると言うなら話は別だ。実際、ブログでない文章は、それと比べても推敲や書き直しにたくさんの時間を掛けている。それがどう扱われるかで、俺の行く末に多少は影響があるからだ。翻って、ブログにはそんなものはない。

上手くやらない努力

 思慮深さと鈍重であることはよく似ている。おれは熟慮に熟慮を重ねることにより、人生の最も重要で価値がある時期を、棒に振りドブに捨ててしまった。それについて振り返ると、後悔で身を裂かれるような思いだ。子供の頃から、俺は一人で深く考え込むタイプだった。そのような気質は、結果的に見れば単にマイナスでしかなかった。俺は考えるだけで満足し、具体的には大したことはしなかった。

 そんな生き方をして、何が得られるというのか。何もしなければ、何も起こらない。何も作らなければ、何も形に残せない。そんな当たり前で、簡単なことにも気づかないほど、若い時分の俺は愚かだった。そして愚かでありながら、俺は己を心の何処かでは賢しいとさえ思っていたのだから度し難い。頭の中でどれだけ高尚で価値のあることを考えていたとしても、だから何だというのだろうか。

 子供の頃から、あれこれと考えたり感じたりしてきた事柄をもし逐一、書き記してきたなら、俺の人生は全く異なったものになっていたかもしれない。それ自体が何らかの意味を持たなかったとしても、それができるのとそうでないのとでは、雲泥の差があっただろう。できれたなら、それは何らかの形で俺の頭の外側に残っていたのだ。考えるだけで終わらさえたから、それは跡形もなく消えてしまった。

 どんなものが、いつ役立ち意味や価値を持つか、誰に分かるものか。俺が考えて終わらせたことの中で、人生を決定的に変えうる何かが、なかったなどとなぜ言い切れるだろう。それを書き留めていたら、俺はこんな生き方、他人に使役され時間や労力を搾取されるような惨めな人生は、送らずに済んだかもしれないのだ。ものぐさで、面倒臭がって、その可能性さえも俺は自ら捨ててきたと言っていい。

 そもそも、言葉にして表せるなら、それだけで立派な能力だ。それが満足にできるかどうかは重要だと思う。現に俺は、よどみなく頭の中にある考えを文字としてアウトプットすることに窮している。それを難なくこなせたなら、俺は楽々ブログの更新を終わらせることが出来ただろうし、飯の時間も極端に遅くならずに済んだだろう。上手くやれるかどうか以前に、そもそもこなせるかどうかというハードルがまずある。

 それを超えられるか、超えられるとして、それにどれだけの労力と時間を要するか。それらの要するものをどれだけ少なくできるか。それについて、これから先はもっと気を配った方がいいだろう。誰でも読み書きはできるが、文章を作る力は万人に等しく備わっているわけではない。だからこそ文章力を身につけることには意味があるのであり、その嚆矢として叩き台としての文章を大量にできる能力が求められる。

 おざなりでもなおざりでもいいから、形としての文章を容易く作れるようにならなければならない。具体的にどんなものをどれくらいの質で作るかどうかは気にしなくていい。叩き台の時点で見られる物を作ろうとすれば、余計な時間がかかる。手が止まってしまい、結局何もできずに夜を明かす事にもなりかねない。下手くそであるよりも、何もせず、できずに終わってしまうのが、最も悪いのだ。

お笑われ

 俺は人の目が気になって仕方がない。いつも他人を恐れ、悪く思われずに済むように命がけだった。見下され嘲笑されることが、俺は物心ついてからずっと、我慢ならなかった。しかし俺は世間の全ての者どもから侮られる人間でしかなかった。それを変えることは不可能であり、まさしく絶望的だろう。しかし、悪者とは本当に他者なのだろうか。そうとしか見えず、思えなかったとしても、それは本当に正しいのだろうか。

 

気に病む権利

 国中の人間が自分をバカにしているような気がする。此の世の森羅万象がこの俺が生存し、存在し続けることに反対しているように思えてならない。俺が置かれている状況は、それらの念に囚われてしまう程に悪く、惨めで、また無様だ。己が見舞われている事柄について、一つ一つ事細かく認識していけば、穏やかに過ごすなど到底できるはずがなく、俺が抱いている感情は全くもって正当だと言える。

 またそれは「いまここ」、いわゆる現在という瞬間に限った話ではない。先のことは言うまでもなく、自分の過去についても何の前触れもなく思い出してしまい、これもまた俺を苛める。俺の頭の中にある記憶は全て、思い出したくない類いのものだけだ。それが唐突に脳裏に浮かんできて、俺を不愉快にさせる。理由も原因もなく、それは発作的に見舞われる。

 過去の記憶においても俺は、おびただしい人間に嘲られ蔑まれてきた。そしてそれは完全にすぎさった出来事では決してない。なぜならそれは、今の俺が現在進行形で思い出していることであり、それによってもたらされる感情や思いなどといったものは、他ならぬ今この瞬間に生じているからだ。かつてあった何かを思い出す時、当人の感覚においてそれは、リアルタイムで体験しているのと、全く何も変わらない。

 情景がありありと思い起こされ、俺に侮蔑や嘲弄の眼差しを向ける者どもの顔が目に浮かぶようだ。その手のことに対して、俺はどうすれば良いのだろうか。どのような気持ちで、そのような出来事や情動を処理していけばいいというのか。あからさまに他人から見下され愚弄された時には。何も感じないわけにはいかなかった。何も思わないわけにもいかなかった。どうすればいいというのか。

 生きている最中に俺が被るあらゆる諸問題について、親は「気にするな」と言うだけだったのを、今になって思い出す。気にしなければ、眼が潰れようが手足が千切れようが、確かになんということもないだろう。心頭滅却すれば火もまた涼しと嘯いて、どんな面倒事も見なかったこと、なかったことにしてしまうというのも、処世の術として有効だと、言えなくもないのかもしれない。

 しかし、果たしてそれで良いのだろうか。あらゆる怒り、憎しみ、悲しみ、葛藤や煩悶などといった一切合財を気にするな、仕方がないで済ませるのは。それは済ませるというよりも、単に諦めているだけだ。解決したり解消したりする能力が、自らにないことを正当化するために、気にするなと言っているだけのように思える。実際、父も母も貧しく無知で、社会的には無力と言って良い人物であった。

 貧しさや惨めさ、不足や欠乏、不平不満といったものについては結局のところ、我慢や辛抱でやり過ごす以外にないのだと、両親は結論づけ、俺にもそれを実践するよう求めた。俺は親に言われた通りに、概ねしてきたと言っていいだろう。己の無力さや至らなさによって被り、見舞われ、そして抜け出せないあらゆる不幸や理不尽と言ったものに対して、仕方がないと自らに言い聞かせてきた。

 かくして俺は、貶されたり侮られても仕方がないと念じ、ひたすら気にしないようにして生きていた。しかしそうしようといくら努めても、それには限界がある。俺の人生はその意味で、とうの昔に限度を超えてしまっているのだろう。他人共から笑われることが、俺にはあまりにも多すぎた。そしてそれに然りということができないから、俺は精神的に立ち行かなくなっているのである。

見なされる度に

 軽々しく他人に値踏みされることほど不愉快なものはない。他人に見下されるとき、俺の気持ちとしては直に暴力を振るわれているのと全く同じだ。現にそれは無形の暴行に他ならない。他社によって痛めつけられるとき、それが肉体的なものか精神的なものか、いちいち分けて論じる意味はない。それは打撃でしかなく、また暴力でしかない。ただただ、単にそれだけだ。

 こいつは自分よりも下だとか、こいつは低く見ても差し支えない相手だと他人に思われるとき、俺はその者の内面を手に取るように推し量ることができる。そのような能力を全く持たない人間がいると聞くが、それは全くもって幸福だと言えるだろう。それは別段、珍しいものでなく、世の大半の人間が持っているような類いの能力でしかない。だが、そんなことが分かってしまうから、多くの人間は不幸なのだ。

 男として、あるいは人として、価値がないだとか低いだなどと思われるとき、本当に死んだ方がマシだと思う。値踏み行為を表明する相手がどのような意味合いを込めているかは問題ではない。その者はもしかしたら、親しみを込めて、冗談のつもりで言ったりやったりしているのかもしれない。実際、そういうニュアンスを込めているのだろうな、ということまで分かり伝わるのもまた珍しいことでもない。

 しかし、それがなんだというのか。たとえギャグだろうが「ネタ(俺はこの言葉が心底嫌いだ)」だろうが、ニュアンスを込めている行為者の意図や気持ちなど、俺の知ったことではない。すぐムキになると言われればそれまでだが、俺は基本的に他人に何か言われたら忘れずに根に持つ。無論それは悪い意味でであり、冗談だろうが何だろうが、重ねて言うが俺は相手の気持ちなど汲み取ることはない。

 いつだったか働かされていた職場で、やれ田舎者だの脚が短いだのと囃し立てられた、勤務時間中に。それをしている一人は一応、その会社の社長であり、もう一人は俺の先輩にあたる従業員であった。職場における属性や役職から言うと、俺は最も新参者であり、また単なる平社員でしかなかったから、その連中にどんなことを言われようとも、愛想笑いをする以外にその場をやり過ごす術がなかった。

 連中は一体どんなつもりだったのだろうか。それはもう、遠い昔のことだから、俺の記憶もあいまいになってしまっており、細かくは思い出せない。連中としては、忌憚なく何でも言うことで、俺と自分たちとの精神的な距離を縮めようなどと考えたのかもしれない。かれらにとってそれは、いわゆるコミュニケーションだったのだ。俺の生い立ちや身体的な欠点について明け透けに、無神経かつ無遠慮に言うことが。

 

 しかし、俺が連中について不躾な批評を行ったとしたら、彼らは絶対に許さなかったろう。結局のところ、それは盤石な主従関係や上下関係を確認するためのマウンティングでしかなかった。そもそも、勤務時間中に行うような会話ではないのだが、仕事中であるために俺もそれから逃れることができず、今にして思えばそれは巧妙な構図であったのだと言える。

 先天的な特徴や属性などについて、直すことなど誰にだって能うまい。それについてとやかく言われたところで、俺としてはどうしようもないのだ。そんなことを一々言い立てるような輩に反応したり気に病んだりするのは、単に時間の無駄である。例の会社は設立して一年ほどで潰れてしまったのだが、極論を言えば営業時間中に俺を腐すようなバカなことばかりしていたのだから、当然の帰結といえるだろう。

 会社がなくなるのは別に構わないが、その職場の連中に痛めつけられた俺の精神の傷とでも言い表すべき代物は、決してなくなりはしない。それに対して一体だれが、どんな形で埋め合わせをしてくれると言うのか。そんなことは誰にもできないだろうし、そもそも誰もしようとしないだろう。だから気に入らないだとか不服だだのと言いたのではなく、他人から負わされた精神の打撃は取り返しがつかないと言いたいだけだ。

 道を歩けば、すれ違う者どもが俺を馬鹿にしているように感じられる。身なりからして綺麗とは言えず、背丈も人並み以下で顔貌もまた優れているわけでもない。歩き方がおかしいと人に言われたことさえある。一期一会の全ての人間が俺をあざ笑っているのではないかと疑わずにはいられないのだ。頭の中では、理屈ではそれが被害妄想の類いでしかないと分かっていても。

 出歩いている時に、身長について特に俺は鋭敏になる。それは客観的な指標であるため、被害妄想だの気のせいだの考えすぎだのといった慰めや誤魔化しの入り込む余地がない。加えてそれは男として、生物として決して軽視できない要素であるため、俺は他人との身長差がとりわけ気がかりになるのであった。すれ違う者や電車で同じ車両に居る人間と自分を無意識のうちに比較してしまう。

 場合によっては、俺は女よりも背が低い。同世代の平均を大きく下回る俺の体格は、主に遺伝によってもたらされたものだ。今にして振り返れば、父方は特に問題がなかったが母方の人間は押し並べて背丈が低かった。2年ほど前に母親と再会した折、俺は彼女の小柄さに衝撃を受けた。子供の頃や郷里に居たころには全く気にならなったはずの母の体格が、今の俺にはどんなことよりも目につく。

 どんな理由は背景があろうとも、それについて考えたり調べたりしたところで、一体何になるだろう。俺が何について他人から文字通り「低く見られ」、その根本的な原因について俺が知り抜いても、それによって何かが解決するようなことは絶対にない。巷の「東京人」と比べて低すぎる俺の身長が、街角で明らかになる度に俺は、いっそ死んでしまいたくなる。

自他の別なく、「人間」から

 誰もいなければこんな目には遭わないのは言うまでもない。誰とも関わらずに済むような所で安楽に暮らせれば、それが俺にとっては最も良いのかもしれない。どんな人間の目にも触れない場所に死ぬまで居られたら、俺はどれだけ楽になれるだろうか。それが叶わぬ望みでも、人混みの中で心を掻き乱されながら、俺は胸中で独りごちる。どこか遠くへ行きたいと。

 それならば精神病院か刑務所にでも行けば良いのだろうが、物事はそれほど容易くはいかない。俺程度の者が精神病院に隔離されるなら、国中が病人だらけになってしまうだろう。刑務所に行くだのと簡単に言うが、独房に入れるのは余程のケースだろう。大抵の受刑者は雑居房だろうし、刑務作業をやらされるのを考えれば、会社で労働をするのとそれほど違いはないだろう。

 何より、俺は俺という人間を何よりも恐れている。他人にどれだけ嘲笑われたとしても、それを他ならぬ俺が別にそれでも構わないとすれば、それで話は終わってしまう。それを良しとしないのは誰でもなく自分自身なのだ。他人に見下され、物笑いの種にされることを俺はどうしても許容できない。他人に良いようにされ、蔑まれながら生きる自分自身が許せない。

 誰しも、己からは自由になれないだろう。問題は他人ではなく、それにいいようにされることが許せない自分の中の自分であったりする。此の世のあらゆる全ての他人から背を向け、逃げ切ったとしても、自分自身からは片時も逃れられはしない。たとえ地獄の果てまで行ったとしても、俺は俺で有り続ける。改めて考えてみれば、なんという絶望だろうか。

 他人に見下され、蔑まれ、虐げられることが許せず、それにより心身を苛めるのは最終的には己自身にほかならない。それでもいい、構わないと思えれば、何も問題はない。他人など何するものぞと、たとえ虚勢に過ぎなかったとしても、言うことができたなら、それだけで十分だろう。それができない自分がいるからこそ、俺は嘲笑われることを、どんな瞬間においても恐れざるを得ない。

 重ね重ね言うが根本かつ本質は、己自身である。他人を避けることは何の解決にもならない。更に言えば、他人から何をされ何を言われようがそれは上辺だけの現象でしかない。それを気に病み、根に持ち、引き摺るのは偏に自分の、内面の問題である。他人など問題ではなく、極端な話いてもいなくても一緒なのだ。それにどう思われ、何を言われたところで、そんなものは「だから何だ」で終わることだ。

 人生は自分との戦いであり、それ以外の何かでは決してない。外界に在る何かによって、人間の精神は痛めつけられるのではない。人間の内面が打撃を受ける時、真の加害者は己の内側に存在している。俗世間から離れたところで、その内的な存在がそのままなら終生、人間は苦しめられ続けるだろう。他人を遠ざけたり遠ざかったりしたところで、何の解決にもならない。

 俺を貶し嘲る者の邪悪さや陰険さを言い立てても、何も解決しない。他人の心の中について、どれだけ探ろうとも何を得るものはない。世の中のどこにも犯人は居らず、また原因も存しないのだ。俺が穏やかに生きられないという問題を生み出している、真犯人ににして本当の原因とは、即ち自分だった。笑われることが悪いのではなく、それを悪いと思うことが悪いのであり、それを悪いと思うなら、ひたすら自省する以外に道はない。

思い煩うな

 俺の胸中にあるのは不安と焦燥と、後悔と絶望だけだ。後ろ向きで鬱々とした感情だけが俺の生活の全てを覆い尽くしている。真綿で首を絞められるような窮屈さを覚える。また、自分を取り巻いている世界が音を立てずに狭まって、じわじわ押しつぶされていくような感覚を味わわされる。それは俺が低賃金で他人に雇われ、働かされているからだ。何の心配も気苦労もなく暮らせるようにならないから終生、俺は満たされも安らげもしない。

 

労働中に

 仕事をしている時に気がかりなのは、その日における作業を首尾よく終えられるかよりも、むしろ明日や明後日、来週や来月における懸案材料の方だ。今日という日を乗り切っても、次の日にはもっと面倒なことがたくさんあるのではないか、起こるのではないかと、未来に関わることばかりが心憂く思えてならない。一日を終えても、夜が明ければすぐに次のことにかかずらわされる。

 俺は日雇いやスポット派遣の人間が、ふと羨ましくなることがある。どんな仕事もその日の内に全てケリがつき、あらゆる人間関係が最短一日でリセットされるような、そんな身の上が。明日や明後日の仕事について、アレコレ考えずに済むなら、どれだけ気楽な心持ちだろうか。生活が不安定で、将来がお先真っ暗であったとしても、正規雇用の仕事で被る気苦労と縁が切れるなら、それはそれで良いのかもしれない。

 心配事は多岐にわたる。発注した品物が本当に次の日に届くかどうか。出荷した商品の送り先に間違いがないかどうか。荷物を海外へ発送する時に使う送付状の残数は十分か。生産終了品に着いての報告が、戦法の担当者の神経を逆なでし、次の日にクレームの電話なりメールなりを寄越すのではないか。自分がやった仕事に不手際があったかもしれないし、他人に依頼した何かの作業を、受け持った人間がしくじり、その尻拭いをさせられるかもしれない。

 一度考え出せばキリがない。そもそもそれらの大半は杞憂であり、仮にそれが明日、実際に起きたとしてもどうのしようもないというわけではない。第一、仕事でどれだけやらかしたところで、物理的に首が飛ぶわけでもなければ前科者か何かになり社会的に抹殺されるわけでもない。単に社会の人間に責められたり社内で居づらくなるだけだ。それ以上の何かが起こるとしても、せいぜい解雇されるだけだ。

 一体俺は何をこれほど恐れているのだろう。焦燥や不安に駆られながら、俺は奇妙にも感じる。会社をクビにされたところで、そのまま即死するわけではない。職を失い収入がなくなれば生活には困るだろう。しかし、それで全てが終わるわけではない。職場における対人関係が悪化したり悪い評価をくだされたりしたところで、所詮は他人の集まりにすぎないのだから、そんなことはどうでも良いだろう。

 俺は仕事が好きではない。労働という行為それ自体が嫌いだということもあるが、それは別としても目下の会社が好きでない。やらされている仕事の内容もそうだし、社風にせよ他の従業員ひとりひとりにせよ、とにかく俺にとっては好ましくない。もし仮に、俺に今すぐ一生困らないほどの金が転がり込んできたら、その日の内に会社をバックレるだろう。

 仮に俺が勤勉で、従事している仕事を愛しているとしたら、仕事上の結果の良し悪しは重大かつ大切だと言える。働くことが俺にとって価値がある何者かであったなら、それで不手際に見舞われたり評価を残ったりするのはマズい。しかし実際には層ではないのだから、俺は一体なにを怯えているのだろうか。よくよく考えていみると、他人が作った会社に金で雇われているだけの身だ。単にそれ以上でもそれ未満でもない。

明日があるさ

 次の日の仕事について色々と思うことは多々ある。商品の受注が多いかもしれない。嫌な客からの電話を取らされるかもしれない。社長や上役に何の意味も正当性もないようなことでネチネチと責められ、理不尽を被らされるかもしれない。もしも俺に、明日という日が来なかったなら、それらの一切は考えなくていいことだ。この夜で俺の寿命が尽きるなら、会社のことで悩む必要はない。

 現実には俺の命はまだまだ尽きない。 明日も明後日も明々後日も俺にはある。そのことについて思うと、それだけでウンザリとした気持ちにさせられる。攻めて例の職場での仕事が、今日で最後だったなら、そこでのことで思い煩うことなど絶対に有りはしないだろう。言うまでもなく、次の日には次の日のことがあり、その一部は家の中でも想像が届いていしまうような代物だ。

 さらに悪いことに、まだ月曜の夜である。今日を終えても、金曜の夜まであと4日間も働かなければならない。それまで仕事が終わったあとにも、次の日のことで気を揉む夜を過ごさなければならない。それが杞憂であり、仮に現実のものとなったとしても、それについて何かを感じる必要はないと先に述べたが、それでも心情的にはやはり万事ツツガナク済んで欲しいものだ。

 職を転々とするよりは、一つの職場に居続けた方が生活は安定する。収入が一定である方がストレスなく生きられるから、気に食わないことが多少あったとしても、今の仕事に甘んじている方がいい。そのように考えれば、職場において立場が悪化するようなことはやはり避けなければならない。先ほど書いたことと完全に矛盾するが、やはり暮らしを保つためには面倒が少ない方がいい。

 それにしても、明日がなければどれだけ気楽だろう。俺に明日がなかったら、職業や収入を安定させるために云々など、考える必要もないものを。よく、歳をとったら自分はどうなるのだろうか、などといったことをアテもなく考えてしまう。その度に俺は暗い気持ちになるのだが、俺にとっては死ぬことよりも惨めに無意味に、醜く老いさらばえていく未来の方が余程おぞましく思えてならない。

 貧しいまま、他人に扱き使われて一つまた一つ、歳を重ねていくことは耐え難い。そんな思いをさせられるのは、他でもなく俺に明日があるからだ。ひもじさや虚しさを伴った未来に見舞われかねないから、生きるということはシビアかつシリアスにならざるをえない。たとえ腕や足が千切れたり、目や耳が潰れたりしたとしても、明日がなければそれさえも、お笑い草になるかもしれない。

 血も涙もなく夜は開けて、季節はめぐり暦は進んでいく。それは全く無慈悲であり、情けも容赦もありゃしない。一日一日をどうやってやり過ごすかで、ただそれだけのことで日々、汲々としなければならない。気楽に、適当に暮らせるような身分に生まれなかったことが、歳を重ねるほどに悔やまれる。シリアスな感情から解かれたいと、いくら願っても状況がそれを決して許しはしない。

 

 暮らしに窮した惨めな自分を思い浮かべれば、仕事が上手くいかないことへの懸念は、ひとしお強まってしまう。空腹に苦しみ、寒さに耐え忍ぶような生活は、どのような言葉や理屈をもってしても、美化も正当化もできず、またすべきではない。貧しく、足りないということは単なる不幸でしかなく、それを良いことだとするのは却って悪徳だと俺は思っている。

 その悪徳から僅かでも遠ざかるために、誰もがやりたくもない仕事を嫌々やっていて、それに拠って成り立っているのが社会というものなのだろう。正当な対価を得て、望ましい職に就く人間が、この国に一体どれくらい居るだろうか。仮にそれがどれだけ大勢いたとしても、俺にはそんなことは何の意味もない。なぜなら俺自身がそれではないのだから、他人の幸運や幸福など無価値だ。

 目下、俺が働かされている職場において、賃金は同世代の平均を遥かに下回る。毎月の手取りが具体的にいくらか、そんなことは他人にはとても明かすことはできない。その雀の涙ほどの薄給でもって生活費の全てを賄わなければならない。そのため毎月毎月、俺は預金通帳に載っている数字に全神経を集中させることになる。実入りが増えないのだから、如何に出費を抑えるかの勝負だ。

 給料日が25日で、マンションの家賃の支払いがその5日ほど前だ。給料が口座に振り込まれると俺は、通帳の記帳を行うが、その時に家賃を振り込んで残った分の残金を知ることになる。大体、マンションの月々の支払いだけで給料の3分の1に相当する。更にそれから公共料金やら税金やらが引かれる。ダメ押しで食費なども残りの金から出さなければならないのだから、最終的に手元に残るのは本当に幾ばくかの金だ。

 今日が16日だから、あと10日ほど凌げば給料日となる。例の「幾ばくか」を一円でも多くするために、俺は毎日の食費を出来る限る切り詰めて生活している。電気代やガス代についても同様で、一円でも無駄にしないようにと最新の注意を払いつつ生活を営んでいる有り様だ。何という貧乏性だろうか。明日、来週、来月のために生身を置く一日を極めて窮屈なものにしている。

 明日がなければ、そんな吝嗇とは無縁だろうに。好き放題に飲み食いできるだろうし、エアコンもガスコンロも使い放題、湯も沸かし放題だ。そんな日が一日でもあったなら、俺はどれだけ満ち足りた気持ちになれるだろうか。明日を見越さなければならず、しかもそれが厳しいことこの上ないからそれは叶わぬ望みだが。生きている限り、現在の暮らしぶりが好転しない限り、吝嗇は免れない。

 明日など俺にとっては、ただただ重苦しい。どれだけ金を稼ぎ、またどれだけそれを使わずに済ませるか。そのことに囚われ続け、いたずらに消耗し続けるだけの生活が、死ぬまで延々と続いていくだけだ。我慢や辛抱に終りがあるならまだマシだが、それを迎える日は少なくとも、現状の生活における延長線上には絶対にないと言い切れる。貧困や窮乏を前提とした人生しか、俺には許されていない。

一日分だけで

 大昔、人間が背負う苦労はその日一日分だけで十分だなどと、フザケたことを抜かす輩がいたのだという。有名すぎるフレーズではあるが、現実にその通りの心持ちで生活できる人間が、果たして此の世にどれくらい居るのだろう。鳥や草には明日の心配事などないのだから、それと同じようにせよ、などと。本音を言うなら、俺だってそう出来るならそうしたいが、それは机上の空論でしかない。

 一日という区切りの中だけで、あらゆる全てが完結させられるなら、此の世はきっと極楽だろう。聖書に書いてある通り、全てを上に委ねてしまえるなら、その方が良いのだろう。また、別の宗教になってしまうが、自力よりも他力の方が大きく、後者は前者を圧倒する。意識的に出来る範囲の工夫だの努力だのよりも、超越的な思考の一者に帰依し、それに全てを任せてしまうくらいで丁度いいのかもしれない。

 そんなことは重々承知ではあるが、やはり明日を憂わずして、俺の生活は成り立たない。理想を言えば、世間ずれした、みみっちい暮らしから、抜け出せるなら今すぐにでもそうしたい。しかし、それはとてつもない贅沢というものだ。俺の両親は常に明日を、未来を憂うように、焦るように、そして悔やみ惜しむようにと、俺を仕込んだ。それは世知辛い教育であった。

 その指針について、間違いだと俺は思わない。下層階級においては、そのような生き方を手放せば、即ちそれはそのまま破滅を意味する。俺がもし金遣いが荒く、また月々の収支さえ計算できないような人間だったら、俺は今以上に悲惨な目に遭っていただろう。明日を煩うから、俺はこの程度で済んでいるとも言える。それはまさしく、社会の最底辺で行き続けるための処世の術が、俺に備わっていることを表している。

 人生を、生活を、そして己の生命を守るための嗅覚と本能を俺は徹底的に叩き込まれた。両親が俺に施した躾や教育の全ては、生きるという単純にして明快な目標を達するためのものであった。しかしそれを成すために俺は、心を穏やかにすることも能わず、何かにつけて怯え、憂い、恐れるようになった。そのようにならざるを得なかった。身を置いている環境や状況などといったものが、俺をそのようにさせてきた。

 気が休まらないまま他人に使われ続けても、せいぜいギリギリ、ホームレスにならない程度の暮らししか送れない。そんなものに、一体どれほどの値打ちのがあるというのか。生活の破綻や破滅を恐れながらも、それを免れている日常に価値を見出すことができず、俺は進むのにも退くにも二の足を踏む。有閑階級には終生、理解できないような浅ましい葛藤が俺の人生には絶え間なく付いて回る。

 明日の心配をしなくていい星の下に生まれてこられなかったのが、そもそも運の尽きだろう。心憂いままで地獄のような日々を過ごすしか道がないのだから、諦めるより他はない。俺はキリストでもなければ親鸞でもない。悟り澄まして生きるには、あまりにも卑しすぎる。現実や日常という重苦しく、行き詰まるような語句で言い表わせる低次元の世界で、生きていかなければならないことを、ひたすらに懊悩し呻吟し、悲嘆に暮れるしかない。

いっそ綺麗に死のうか

 人間という生き物と、それが行うことやそれによる所産の全てが、不意に嫌なものに思えてくる。それは暮らしていくのに欠かせないものであっても、それが不可欠な自分自身に対して、嫌悪の情の矛先が向かうだけだ。人間なるものに俺は幻滅し絶望せずにはいられない。生きることをつくづく倦むような毎日を送っていると、死ぬことが待ち遠しくなってきてしまう。

 

怨憎会苦に

 人間が嫌いだ。特定の誰かが嫌いだというのではなく、人間という存在とそれによる営みの全てが、俺はトコトン嫌いなのだ。本当に言葉そのままの意味で、俺は人間というものがどうしようもなく嫌いで仕方がないのだと最近、ハッキリと感じるようになった。子供の頃からずっと、好きになろうとしたり、嫌わないようにしようとしてきた。しかし、それは己の本心から目を背ける行為でしかなかった。

 興味がないのではなく、嫌いなのだ。誰も彼も腹立たしくまた、いけ好かない。善良というのは所詮ファンタジーにすぎないと、長い歳月を生きてきた俺の結論である。此の世で生きている人間は、ただ一人の例外もなく邪悪で陰険で、理に適ってもいない、正しくもないようなことを後生大事にして、身勝手きわまりない欲を振りかざして、他人を害することを当たり前だと信じている。

 他人と関わっている時間は、俺にとって全て苦痛だ。家族と一緒にいることさえ、俺にとっては嫌な時間でしかなかった。誰と一緒であっても俺は窮屈に感じ、此の世のどんな場所においても俺は針のむしろに座っているかのような感じだった。俺にとって他者というのは全て不可解で不気味な存在でしかなく、そのような意味合いでもやはり、一人の例外もなかった。

 学校も嫌だったし、会社もまた言うに及ばずだ。誰もと接することなく一日をやりおおせることができれば、それは俺にとっては幸福で良い日だった。誰かと顔を合わせ、言葉を交わし、場合によっては交渉や取引までしなければならないなど、考えるだけで気が滅入る。誰かに会わなければならないと、そのことを頭の中で思い浮かべるだけで俺はめまいがして、嫌な感じがする。

 家に引きこもってネットをやっていても同じような気持ちを味わわされる。掲示板でも動画サイトでも、俺は他人の意見が流れてくるのを恐れている。生身の人間が放つ言葉は俺にとっていつも無神経かつ無遠慮、箸にも棒にもかからない手前勝手な暴論や放言でしかなかった。実在する人間の意見や言葉、あるいは吐露される感情といったものが、俺にとっては常に目の毒にしか思えなかった。

 子供の頃、此の世からすべての人間がいなくなることを俺は夢見た。幼かった俺は、地球上から自分以外の全ての人間が一掃され、己一人が地球外生命体に救い出され、何処かの別世界で安楽に暮らすといった空想を繰り広げたものだった。また、家族全員を何者かに売り渡し、それらの代償として大金を手に入れて自分ひとりが幸せに暮らすという望みを抱いたこともあった。

 そんな妄想において何か問題があるとしたらそれは、自分自身というものを絶対不可侵のものとしたということだろう。他人など取るに足らず、省みる価値もないと思うのは個人の思想にすぎないのだからそれは自由というより勝手だろう。しかし、人間というものが嫌いだということには一つの致命的な問題を抱えている。それは、その嫌っている自分自身が、他ならぬ人間だということだ。

誰も好きじゃない

 合理的でも論理的でもなく、単に身勝手で己の都合だけを醜く、やかましく言い立てるだけの存在が人間だ。それはいいとしても、では自分自身は一体どうなのだろうか。己だけは例外的に綺麗で潔白、清廉な存在だなどと言って憚らないほど、俺は恥知らずではない。人間を忌み厭うならば、それは最終的に己を否定する結論に至ることになる。それについてどうするべきか。

 生きて動いているものは全て嫌いなのだ。人間だけではない、蚊やゴキブリ、ネズミや猫も嫌いだし、生命という代物それ自体が、根本的に俺はどうしても好きになれない。生きとし生ける物のあらゆる営みが俺にとっては何というか汚らわしい。マンションの脇に生えてくる雑草さえも、俺には憎らしく感じられる。生きているものは生きるということへの憎悪が俺の中にはある。

 そしてその憎悪は最終的に己へ向かう。俺もまた人間であり、生き物のうちの一つでしかないという簡単かつ揺るぎないこの事実を。俺が外界に存在するあらゆる他者、あらゆる他人に対して抱く嫌悪や厭世の感情は、全て翻って自分に返ってくるのだ。俺が人間であるなら、先に述べたような要素の大半が言うまでもなく自分にも当てはまり、それは婉曲的な自己批判になる。

 俺にとって他人というのはどんな時も陰険で欲深く、理不尽で自分勝手な嫌なものだった。しかし俺もまたそれらの要素をすべて備えていて、人間である限りそれから逃れることは絶対にできないのだと、事あるごとに思い知らされた。自分のことが嫌いだから、俺はこの世の誰ひとりとしても、どんなことに対しても、好きになれなかった。捉える一切が呪わしく思えた。

 俺は国を、故郷を、そして家族さえ嫌いだった。生きて存在しているというだけで、万死に値するように感じられた。だが、オレはそれらの中でしか生きられない。この根本的な矛盾について考えれば、どんな局面においても白けてしまう。嫌いな国に産み落とされ、憎むべき故郷で育てられ、卑しい家族とともに生きてきた。そんな己の存在自体はやはり、嫌いで憎むべき、卑しい存在だった。

 他人だけが嫌いなら、それから遠ざかりさえすればいい。だが、嫌悪の情が自己に向かうなら、逃げ場などどこにもない。逃げる場所はおろか目指すべき先もなく、オレはただ途方に暮れるしかなかった。家の中で姿見に視線を投げれば、それにそのまま此の世で最も蔑むべき存在が映し出される。外にいるときでさえ、車や建物に填め込まれた窓に映る己の像を、俺は何よりも恐れ、避けた。

 自分が自分であることが、俺にとっては忌まわしい。昨日も今日も、そして明日も明後日も俺は俺以外の何かであることは決してない。この事実がどんなことよりも残酷に感じられる。顔も身長も、これから先に悪くなることはあっても良くなることは絶対にないのだという絶望。何をどれだけ頑張ろうが、それが覆ることも変わっていくこともないのだから、生きる甲斐もない。

 何をやっても面白くも楽しくない。何かを行う主体としての己も、その客体となるナニモノかも、まるで好ましくなかった。そのために俺は何も人並み以上にできなかった。お前は出来損ないで、生きている価値が無いと会社でも学校でも、家の中でさえ俺は全ての他者に言われ続け、罵られ、貶され、嘲られ続けた。しかしそれも無理からぬ事だったのかもしれない。

 

 何も好きになれなかったから、何にも打ち込めなかったし、誰からも好かれなかった。しかしそれを問題だとも思わなかった、何も好きでなかったから。俺は何者かを愛したことはなく、そのために何者からも愛されることはなかった。家族にも邪険にされ、家の中でも居場所などありはしなかった。俺は身一つで誰かから肯定されたことなどなく、またこれから先もそんなことは決してないだろう。

 他人が俺に構い、無関心でないからといって、その者が俺を気にかけているというわけではなかった。それは両親でさえ例外ではなかった。彼らにとって俺は掛け替えのない存在ではあったかもしれない。しかしそれは実子の、長男という記号として替えがきかないという意味でしかなかった。それとして振る舞い、骨の髄までその役割に徹し、機能することを彼らは俺に求めていただけだった。

 生身の俺など、他者にとってはまるで問題ではなく、その意味において俺は親をはじめとしたあらゆる人間からないがしろにされてきた。俺が人間を好きになれなかったのは、それも大きな理由であったと言える。両親だけでなく、此の世のありとあらゆる人間関係というのは、煎じ詰めれば単にある役割や記号として機能しているかどうかだけが重要で、それ以外はどうでも良かった。

 それについて俺は、どんな時においても意識せざるを得ず、それが嫌だった。他人が設定したハードル超えるよう、俺は常に要求された。そしてそれは実存的な存在としての俺ではなく、相手が求めている役目やアイコンとしての存在として機能せよ、という指図や命令でしかなかった。そして俺がそれを完遂できない時、他人は俺に情け容赦なかった。両親でさえ。

 それが何より気に入らず、いけ好かなかった。だから俺は人間の営みというものを理解することができず、人間という生き物がどうしても好きになれなかった。だが、他人を記号としてしか見ず、己の都合や勝手に則って動き機能することを求めるのは俺もまた同じだったように思う。俺は他社というものを実存的な存在として、一度でも見なしたことがあっただろうか。

 己のそのような性質も含めてやはり、俺は人間が嫌いだった。ありのまま肯定されるなど、自他ともに到底ありえないという動かしようがない現実。それについて目を背ければ、それができたなら、世間というものに幻滅せずに生きられただろう。現に世の中のほとんど全ての普通の人間なるものは、それを当然のこととして社会生活を営んでいる。そんなことはできて当たり前だ。

 それができないから、俺は社会というものに適応することが能わなかったのだ。感じなくてもいいことを感じ、考えなくてもいいことを考え、見なくてもいいものを見てしまう。そのような己の気質というものを、俺はつくづく因果なものだと思う。それで何か得をするというならまだ救いはあったかもしれないが。それは単に生きる上での足枷にしかなっていない。少なくとも現状においては。

自分自身に

 他人も自分も、人間もそれ以外の生き物も、俺はどうしても好きになれず、嫌うしかなかった。それらの全てから逃れるためには、とどのつまり死ぬしかない。死が全てを解決する、人間がいなければ問題は起こらない。逆に言えば、生きている限り、あらゆる問題が常に惹起し続ける。それらの全てから解放されるには、生き物であることをやめるしかないのだ。

 死ぬことで全てを終わらせられ、煩わしく呪わしい忌むべき全てから遠ざかることが可能となる。そのように考えれば、まさしく死こそが俺にとって救済であり解放であるということができるだろう。そして何より嬉しいことに、俺が永遠に死なない可能性は皆無である。遅いか早いかだけの話で、俺の救済、俺の解放は既に確定しているのだから、何に対しても気が楽になる。

 ただ、綺麗に死にたいと、最近はそう思うようになった。人間がこの世に産まれ落ちてきて、成さなければならないことはただ一つ、「よく死ぬ」ことだけだ。そのことに思い至るためだけに、俺の人生はあったのだと、今となっては確信をもって宣言することができる。何を為し誰と会い、何を感じ何を思うかなど、枝葉末節のどうでもいいことでしかなかったのだ。

 しかし、よく死ぬなどと簡単に言っても、それを実践し、完遂することは決して容易くはないだろう。それは苦しみ、惨めな気持ちで野垂れ死にするような、そんな死に方では断じてない。今わの際を人並みに、穏やか且つ安らかな心持ちでもって死に臨むには、生きている間に多くを為さなければならないだろう。畳の上で死ぬとまではいかないまでも、悲惨な死に方をしないためには、それなりの身の処し方をすべきで、それが何かは普通に考えれば分かることだ。

 人生とは死ぬためにある。人間は死ぬために生きているのであり、死んだ人間だけが完全なのだと言える。誰の何が気に入らないだのなんだのと、くだらない戯言を言っ足り書いたりしている暇があるならば、死に臨むために備えを行うべきだろう。どのように生きるべきかなどと、青臭く的外れなことで悩んだり苦しんだりしていた時期など、当の昔に過ぎ去って、今の俺にあるのは己の死にざまを飾ることだけ。

 人間とは醜く身勝手きわまりなく、そして不完全すぎる存在である。しかし、そんな度し難い存在にも、死はもれなく訪れる。人間にとって重要なのはそれに対して一生を費やして向き合うことだけだ。そう考えれば、人としての生とはなんと、単純なものだろうか。それに対して余計な言葉や考えを差し挟む余地などまるでない。ましてや個人的に接してきた人間の心根など、全く問題にもなりはしない。

 死というものが持つ、この崇高さと絶対性に、惹かれない者は単に物事の良し悪しが分からない無粋の徒である。死が忌まわしいだとか、恐ろしいだなどというのは、全くもって見当違いも甚だしい。俺はもし自分が死ななかったら、と考えることがある。それは夢想するだけで救いがなく、恐ろしいと感じる。どんな人間も産まれてきたら、ただ死ぬだけ、これほどまでに希望に満ち溢れたことが、果たして此の世にあるだろうか。

歳寒くして

 最近めっきり寒くなった。雨が降っており日が差さないこともあり、顔をしかめなければならないほど気候がよろしくない。普通の人間ならエアコンで家の中を暖かくして快適に過ごすところだが、俺にはそれさえ容易ではない。東京の気候が厳しくなればなるほど、俺は自らが置かれている状況の苦しさや惨めさを自覚せずには居られない。これで怠けもせずに汲々と生きているのだから、猶のこと度し難い我が身。

 

素寒貧

 10月も折り返しになり、めっきり寒くなってしまった。俺には季節というものがよく分からず、夏服から冬服に衣替えするタイミングが判然としない。今週のはじめに長袖で出勤したら、職場の従業員に暑くないのかなどと聞かれたくらいだ。その日は確かに暑かったが、10月だから長袖でも問題ないだろうと踏んで会社に行ったら、その判断が世間一般の通年とズレていたのだから釈然としない。

 同じ週にこれほどまでに気温が変わるものだろうか。天気が悪いせいでこの週末は週明けと比べ打って変わって寒々しい。文章学校に行く時に俺は裸足にサンダルといった出で立ちなのだが、他の受講生にそれが季節外れだと指摘された。会社では暑くないのかと問われ、学校では寒くないのかと言われる。言われていることに納得がいかないというわけではないが、どうにも適応できない。

 俺だって、暑さ寒さが分からない特異体質というわけではない。週明けは暑く感じ、週末は身震いするほど寒く感じる。感じるが、それに則った格好をすることが、俺にはどうしてもできない。不器用というか場違いというか、そのような醜態を晒さざるをえないのが自分でももどかしく思える。もっとも、土曜の学校は別に、気合を入れた格好をする必要がないから多少寒くてもサンダルでもいいと思ったまでなのだが。

 それでも日中はまだ我慢できたが、夜になるとより気温が下がり、俺は遂にエアコンの電源を入れた。俺にとって、冷暖房は相当な贅沢であるため、可能な限りそれには頼らずに生活している。今年の夏は一切エアコンの電源を入れずに乗り切ったほどだ。暖房は流石に使わないわけにはいかないが、それでも真冬になるまでは耐えるつもりでいた。それが早々にこの10月で頓挫してしまった。

 エアコンの設定温度は22℃にしてある。最大なら30℃まで設定できるのだが、電気代のことを考えるとそんな暴挙には出られない。暖房で22℃にしたところで、申し訳程度の効果にしかならない。人間という生き物は、暑さは我慢できても寒さには耐えられないようにできている。俺にとって冬は電気代のことが気になって気になって仕方がない季節で、実際それは相当痛い出費となる。

 住んでいるマンションからしても、どうも立て付けが悪いように思えてならない。エアコンを付けていても、なかなか部屋が温まらない。そのため、家にいる間中エアコンを付けなければとても生活できないような有り様なのだが、そうしているうちにも電気代がどんどん嵩んでいき、俺は気が気でない。冬場の電気代は相当な額となり、俺は毎年毎年それに悩まされずにはいられない。

 暖房くらい、目一杯使いたいものだ。だが経済的な事情がどうしてもそれを許さないのだ。食費もそうだが、電気代やガス代についても日々俺は神経を尖らせなければならない。要するに俺は金銭的にかなり困窮しており、そのために不便を被るハメになっている。生活に余裕があれば、電気代やガス代のことで悩むこともないだろうし、毎日好きなだけ飲み食いできるだろうに。

夏暑く冬寒い家

 既に書いたが、そもそも住んでいる物件からして悪い。明らかに壁が薄く、エアコンを付け続けても全く暖かくならない。温風をどれだけ流し続けても、手がかじかむほどに室内が寒いままなのだからたまらない。加えて、エアコンの送風がどういう理由なのかは知らないが、頻繁に止まってしまう。業者を呼んで調べてもらったが原因は分からなかった。

 わからなかったというよりも、もともとそういう製品だと言われた。省エネ設定になっているのだか何だか知らないが、気前よく送風するようにはできていないらしい。フィルターの掃除などをしても、一向に改善されない。そのため俺は毎年毎年、冬になると大変不便で、辛い思いをさせられることになる。引っ越しをしようと思っても、それもまた金銭的な問題が絡んでくる。

 寒いと何もする気にならない。勉強する気にもならないし、文章を書く気にもなれない。ただ布団にくるまって惰眠を貪る以外のことは、できなくなってしまう。やらなければならないことは山ほどあるにもかかわらず、俺にはこのクソ寒い部屋では何も手につかない。貴重な余暇の時間も、冬場においてはただただ寒々しい空気に耐え忍ぶだけの時間でしかない。

 俺は雪国で生まれ育ったがそれでも、いやだからこそ寒いところが嫌で嫌で仕方がない。東京も俺にとっては寒すぎるのかもしれない。可能なら、冬でも寒くならないような所に移住したいとさえ思うほどだ。子供の頃に父親が、テレビで「人生の楽園」という番組を見ていて、それに出ていた沖縄かどこかに移住した老夫婦を羨ましがっていたのを俺は、唐突に思い出す。

 寒さと縁を切ることは雪国の人間にとっては夢と言っていい。東京も寒いが、俺の地元における気候は筆舌に尽くし難いほど酷いものだった。それに比べれば、東京の寒さなど俺にからしてみれば全然ヌルいと言えなくもない。と言ってもやはり俺も、通常の人間と同じ感覚機関の持ち主であるため、寒いものは寒い。まだ10月の中旬でしかなく、これからが本番だと思うと気が遠くなる思いだ。

 先にも触れたが、寒いと何もする気にならないのが最も問題である。貴重な時間を寝て過ごすだけになってしまうのだから、俺としてはそれの方が暖房費よりも耐え難いのだ。寒さに限ったことではないが、人間というものは精神よりも肉体のほうが先行するのだと、俺はつくづく実感させられる。心がけや気合、精神論ではどうにもならないことはいくらでもある。人間は寒さには耐えられない。

 一々書くまでもないことだが、改めてそのことを思い知らされる。気持ちだけで乗り切れるほど、人間は簡単ではない。飢えや寒さを前にして、人生の厳しさが身に沁みる。だがそれは、長い歴史の中で幾度となく語られてきたことでもある。俺の脳裏に、様々な言葉が浮かんでは消えていく。恒産なくして恒心なし。貧すれば鈍する。衣食足りて礼節を知る。エトセトラエトセトラ……。

 しかしそれらは結局、貧しさがもたらす弊害を言い換えているに過ぎない。人生における問題の9割は金銭が解決してくれるだろう。少なくとも経済的に俺が恵まれていれば、冬が寒いから嫌だのなんだのと言い立てることもなく、こんなブログを書くこともなかったろう。エアコンが効いた壁の分厚いマンションでぬくぬくと暮らしながら、休日を快適に過ごせたに違いない。

 

 金さえあれば、もっといいマンションに住めただろう。俺がこれを書いているマンションは家賃が街における相場の約半分ほどの建物である。そんな物件ならば、ありとあらゆる不都合が生じるが、それらのすべてに対して俺は我慢しなければならない。冬の寒さはその最たるもので、これから俺は春がくるまでそれに忍耐を強いられることになるのである。

 俺が住んでいる街は都心でもかなり高級な部類にはいる。本来ならオレのような身分の人間が立ち入ることもないようなエリアだ。そんな街に居つく以上は、それ相応のコストを支払わなければならない、本来は。しかし俺は貧しく、相場並みの賃貸に住めはしない。目下、俺が被っている寒さはとどのつまり貧しさによるものであり、手っ取り早くそれを打開するには金を手に入れればいいだけだ。

 そんなことは言うは易し行うは難しだ。社会生活において、金をどのようにして増やすか、恥ずかしいことに俺は知らない。机上の空論レベルのことなら幾らかは知ってはいるが、それを実践するための手など、俺には何一つとしてありはしなかった。少なくとも、普通に働いて給料を得るという形では、とてもではないが現在の実入りを増やすことは能わない。

 飢えや寒さから遠ざかる術など現状、俺には何一つとして存在しない。最底辺の社会生活をギリギリ維持する程度の収入しかない。これでも一応、精一杯生きているであって、決して怠けているわけではない。月曜日からはフルタイムで働かなければならないのだ。正規雇用者として真っ当な会社に属し、朝から晩まで職場に拘束され、労働力を他人に提供しているのだ。

 その対価としてこの暮らしがあるのだから、我ながら情けないやら悲しいやらだ。人生の大半の時間、それも老後の死にかけで暮らすような時間ではなく、若く鋭敏な肉体でもって過ごすそれを、何の恩も繋がりもない他人のためにハシタ金と引き換えにしてくれてやっているのだから、なんというカモだろう。時間というのは金と交換できるほど安くはない、本当ならば。

 それが分からない、理解できない人間など此の世にはいまい。それでも下層階級の底辺に属している人間は、その理解や認識を誤魔化しつつ、生活のために仕方なくそれを暮らしを維持するための金欲しさに他人に明け渡しているのだ。改めて考えてみると、それだけで涙なくして語れない話ではないか。それについてあれこれ考えだしたら、とてもではないが労働などできはしないだろう。

 惨めで悔しくて、何よりも自分自身が情けない。若い内の赤貧は絵になるし笑い話にも、ともすれば美談にさえなり得る。しかし、歳をとってからの貧乏はただただ見苦しく、また醜悪だ。どのような言葉をもってしても、それを正当化することはできない、少なくとも俺の場合は。それを正しいだとか間違っていないだとか、仕方がないなどと言って憚らないのだとしたら心底、恥ずかしいと思う。

30℃の夢

 せめてエアコンを30℃に設定できれば、冬は寒くて何もできないなどと泣き言をこぼすこともなくなる。それができるようにどうにかしてならなければならない。寒いだとか貧しいだとかいうのも問題だが、それ以上に深刻なのは俺の肉体的な年齢である。仮にもし今の俺が18歳くらいだったら、貧乏暮しも前述した通りまだ笑い話にもなるだろう。まだ若いのだからと。

 俺の現在の年齢で言うと、金が無いなどとボヤくことそれ自体が既に救いようもないほどの、赤っ恥以外の何物でもない。俺にとって一日一日を生きていくのは、それだけで恥の上塗りそのものだ。食いたいものも食えず、飲みたいものも飲めず、また家の中で暖房にも事欠くような有り様なのだから。加えて、一日中働いているにもかかわらず、そんな苦境に陥っているのだから尚更だ。

 俺はどんな存在なのだろうか。僅かばかりの金で惨めな暮らしを営むために、人生の貴重な時間を他人に差し出している俺は。使役されることそれ自体が悪いだとか気に入らないだとかと言いたいのではない。提供した労働力に見合った正当な賃金が支払われ、人並み程度の生活を営めているなら、俺は他人に使われることに過剰な敏感さを表しはしないだろう。

 現実においてはそうではない。俺が正当な条件で労働に従事したことなど、これまで生きてきて一度もなかった。15歳で働きに出されてから俺は、いろいろな職を転々としてきた。それはアルバイトから派遣、契約社員、正社員など様々な雇用形態であったが、そのどれもが俺には屈辱だった。働かなければならないこと、他人に利用されること、労働力つまり時間を赤の他人に毟り取られることが。

 掛け替えのない時間を引き換えにして辛うじて寒さを堪える生活だけが与えられているという現状。この惨めさをどう言い表せば良いのだろうか。それに甘んじ、耐えなければならない自分自身をどのように考えるべきか。それを避けがたいこととして折り合いをつける術を、俺はついぞ持たなかった。持たなかったからこそ俺は酒に溺れて現実から目を背けるしかなかった。

 貧しくても寒くても、酒に酔い潰れて眠ってしまえば何も感じない。そう考えれば酩酊とは下層階級にとって救いだと言える。マトモな頭で普通に考えれば、どうやって自分自身が置かれている状況に納得できるだろうか。卑しい労働に身をやつしながら、シラフで生活ができるような者が、もしいるとしたらそれは、単に何も考えられない類いの人間でしかないだろう。

 図太い神経を持つことが良いことだとは思わない。正常であり、かつ貧しく救いも望みもないならば、酒を飲まなければならない。そして酒を飲めないならば、気が狂うしかないだろう。俺は故あって酒を呑むことができないから毎日、シラフで惨めさに耐えながら、雌伏の人生を送らなければならない。せめて、エアコンの暖房の温度設定を限界まで高くできれば、大分マシになるのだが。

登校拒否の

 働きながら学校に行く面倒臭さを俺は身をもって知るハメになっている。それは肉体的にも精神的にも、何より時間的に相当に厳しいと実感させられる毎日だ。通っている学校それ自体は別段、それほど大したことはやっていないのだが、それでもフルタイムで働きながらとなると、生活全体が余裕がなくなり、窮屈に思えてならない。もっと早く始めていたら、こんな思いはしなくて済んだかもしれない。

 

この歳になって

 明日は文章教室に行かなければならないが、全く気が進まない。別に正規の大学などではないから、通おうが出ようが、経歴に箔が付くわけではない。入学するのに金を払った以外で別段、努力なりなんなりをしたわけでもない。ただ、払ってしまった金が惜しいがために俺は、惰性でその学校に通い続けている。別に誰かに無理強いされたのではないのだから、これは完全に自己責任だ。

 そんなところに通おうとしたのは他でもない、労働者としての自分の行く末に絶望していたからだ。俺はとある零細企業に雇われ、雀の涙ほどの薄給のために働かされている。それが嫌だからと、転職活動をしていた時期もあったが、結局それも上手くいかなかった。一生涯、不本意な仕事をして日銭を稼ぐ以外に最早、俺には選択肢などなくそれに「然り」と言えない俺はある日、ネットで例の学校の広告を見つけてしまった。

 もっと若かったなら、そんなものに興味は持たなかったろう。その学校に入ってどうにか、と考えなければならない俺は、我ながらつくづく行き詰っている。作家が目指せるだのエッセイや小説が書けるようになる、シナリオさえ云々かんぬん。その手の荒唐無稽な夢物語に縋りでもしなければ、俺の人生はとてもではないがやりおおせはしない、バカげていても。

 通っていて幾度となく死に金だと思わされる。カルチャースクールに毛が生えた程度の講義や課題の添削のために、ほんのただそのためだけに俺は、30万弱も学校を運営している組織にくれてやったのだ。仕事や将来のことで悩んでいた時に、血迷ってしまったがためにそんな愚行に及んでしまったのだ。それと諌めたり止めたりしてくれる人間が、俺の身近には誰一人としていなかったのが悔やまれる。

 しかし払ってしまった以上、どうにか元を取らなければならない。別に作家だのシナリオライターだのになれるだの何だのといった文句を本気で信じていたわけではない。悪辣な世間の連中に虐使されるだけの人生に、わずかでも変化なり進展なりがあればいいと思っていた。そのために俺は30万円も投じたわけだが、今にして思えばナント愚かなことだったろうか。

 学校は土曜日だが正直、行くのさえ気が乗らない。なんと、今頃になって、この歳になって俺は、登校拒否になってしまったのだ。学校に行きたくないなどと、年甲斐もなく思っている自分の心が信じられない。一体いくつになったと思っているのかと、家の中で自問自答してしまう。そうしているうちに、どんどん時間は流れていき、学校へ向かう仕度をしなければならなくなっていく。

 本来なら、土日は丸々休みなのだから金曜の夜など樽酒を飲んで伸び伸び過ごしたい。だが、そんな願いも文章学校のせいで叶わない。深酒をしたせいで体調が悪くなれば講義などに差し支える。言うまでもなく一回一回の講義は有料であり、それも1000円や2000円では済まない。そのことを思えば、二日酔いの状態で土曜日を迎えるわけにはいかず、せっかくの金曜の夜を俺は、シラフで過ごさなければならない。

学成りがたし

 単に学校に通うだけではなく、課題の提出や公募への投稿などを行うために、結構な分量の文章を拵えなければならない。それをこなしていくためにも、俺は猶のこと酒を呷るわけにはいかない。学校だけではなく、平日はフルタイムで会社勤めをしている身でもあるため、学校と仕事を両立するには、酒浸りになっている暇などない。そんな生活が延々と続くものだから、酒への恋しさが日ごと募っていくばかり。

 学校に行く前は、職場に拘束されていない時間中いくら呑んでも差し支えなかった。仕事には差し支えたかもしれないが、それにより何かが無駄になっているとは思わなかったし感じなかった。学校に払った金をドブに捨てたことにしないためにと、今はかつてとは正反対の生活をしなければならなくなった。日曜日は月曜の仕事に臨まなければならないが、土曜や金曜も飲めないとなると、かなりの不満が募る。

 学校に通わなければ、俺は昔と同じように酒に溺れるだろう。もしかしたらその方が俺にはあっているのではないかと、最近は思うようになった。学校に通ったり文章を作ったりするのは単なる惰性に過ぎず、そもそも俺は書くことそれ自体が別に好きでもなければ興味もないのではないかという気が、近ごろするようになった。要するに学校が面白くも、楽しくもない。

 30万ドブに捨てた結果に終わるなら、それならそれでもいいではないか。胸中にそのような念が生じるようになってきた。無駄だったなら、そう認めてしまえば色々と楽になるだろうと。学校に通うのと平行して、図書館に通ったり無理やり読書をする時間を設けたりもするが、それもまた心身への負担となっている感は否めない。なにより、先に触れたようにそれを楽しんでいない自分がいる。

 俺が今小学生か何かだったら、そこまでではなくとも、もう少し若かったなら、まだ見込みはあったかもしれない。成人してからこっち酒浸りで何年も暮らしてきた人間が突然、発起して何かを始めたところで、人生が一変するようなことは有り得ない。生き直すには、立ち直るにはもう俺はあまりにも歳をとりすぎた。大学時代でさえ、教鞭を執っていた講師に手遅れだと嘲られたことさえあるのだ。

 そんな俺が、今更なにをしようというのか、何ができるというのか。俺はただ、下層階級の底辺に属する労働から逃れたい一心で、小説だのエッセイだの、シナリオだの何だのといったことを習おうとしただけだ。今にして思えば、やはりそれは悪手以外の何物でもなかった。それらについて学ばなければならず、そのために何かをしたり何処かへ行かなければならない段になると、俺には気が重いだけ。

 学校に学費を払ったことを正当化するために、俺はブログをやる習慣さえ自らに課した。それもまたかなりの負担になっている。生活の中の、相当な時間や労力を現在の俺はブログの更新に割いている始末だ。それもまた楽しくなく、それにより目覚ましい何らかの効用が見られたということもない。これももっと若い内に始めていれば、何かの足しにはなったかもしれない。

 

 自分にも若く幼い時分があったなど、今の俺には信じがたい。光陰矢のごとしと言う言葉が、昔は理解できなかったが、今となっていは身に沁みる。時分よりも若い人間を見るだけで、この頃は気が滅入るようになってしまった。この俺よりも未来があり、まだまだ人生これからの、仮にしくじったとしても申告になる必要もなく、巻き返しも取り返しも、いくらでも利くような、そんな連中。

 かつては俺もそうだった。そうだったはずであったが、そんな時期を完全に無駄にしてしまった。在りし日、俺は地球上で最も若い世代だった。なんでもでき、なんにでもなれた、気がした。実のところそんなことはなかったのだが、そんな幻想に浸れた時代がこんな俺にも僅かな間ではあるが、あった。未来だの将来だのといった単語が、肯定的で明るいニュアンスを持ち得た時期が。

 中学高校大学と、歳を重ねれば重ねるほど、俺にとって未来という言葉は暗く残酷な感を帯びてくるようになっていった。思い返せば年を追うごとに、将来の選択肢が音を立てずに狭まっていった。新しいことを学ぶ機会が年々なくなっていき、俺は取るに足らない、物を知らず先のない人間になっていくばかりであった。今頃になって俺は、日ごと悔み焦るようになってきたが、やはり人生の機を逸してしまっている。

 文章教室など学校のような何かでしかないが、そんなものに縋ろうとしたのは前述のような感情からくる焦りからだったのかもしれない。小学生くらいの頃は、仮病を使ってよく学校を休んだものだ。今風に言えば登校拒否児だったのだが、そんな俺が大人になってから自らの意志で金を払って学校に通っているのだから不思議なものだ。そしてその学校にも行くのが億劫だということも。

 柄にもなく学校に通おうと思ったことがそもそもの間違いだった。勉強を始めるなら、もう20年ほど早く取り組むべきだった。それを今頃になって、年寄りの手習いとばかりに、たかが文章と言えども始めようなどと考えたのは、単に血迷っただけの愚劣きわまりない選択だったと言えるだろう。課題をやったり自力で書籍を繙くのはおろか、講義に出席することさえ、やる気がしない。

 俺のような人間には本来、学校だの本だのなどといったものとは縁がないのだ。せいぜい卑しい仕事に身をやつし、稼いだ金は生活費と酒代にすべて費やし、無意味に馬齢を重ねて老け込んで、誰にも看取られずに惨めに死んでいくのがせいぜいなのだろう。そんな未来が仄見えてきて、それに恐れをなしたから、分不相応の何かを求め、わけの分からない連中に金を毟られるなど。

 楽しくないのが全てだ。講義に出席し、課題や公募のために文章を作るといった一切が、俺にとっては面白くはなかった。何をしても気が乗らず、楽しいと思えない。ただひたすら、金と時間がある限り、安酒を呷り続けるのが、お似合いなのかもしれない、俺には。一人きりで身を立て、酒に溺れるために必要な金を稼ぐための、キツくて割に合わないだけの仕事だけやっていれば、俺にはそれで十分なのかもしれない。

犬に論語

 物書きの心得だの、シナリオの書式だのといったことを学校で習うが、それが何になるのか。そんなものは所詮、俺には何の意味も価値もない。俺にとって必要なのは、理不尽な労働環境に耐えるための頑健な肉体と実直というか愚鈍な精神だけだった。俺が躾だの教育だので、子供の頃から施され続けたのは、ひとえにただそれだけだったと言っていい。

 そしてそれは、俺にとって必要なことだった。俺の人生には、俺に与えられた人生には、身に付けなければならなかったのは、せいぜい読み書き算盤ぐらいのものだった。両親は俺の教育に決して無関心ではなかった。今挙げたものすべてを俺は父と母から与えられた。社会は俺に教育さえ与えた。労働者として他人に使役されるために必要な精神性と能力を、俺に授けた。

 俺の人生は他人利用されるためだけにあった。現に俺は、其のようにして生きてきたし、これから先もそうするしかない。酒というのは俺にとって、そんな苦しく、また惨めなだけの人生を耐えきるために必要な、薬のようなものであったと言えるのかも知れない。俺は学がなかった。マトモな学校に通うこともできなかった。そんな俺が、文章教室だなど、我ながらお笑い草だ。

 俺に必要なのは一杯の安酒がもたらす酩酊だけだった。文化や芸術、学問めいた代物など、俺に与えられた生においては、それら全てが無用の長物でしかなかった。それを俺は、例の学校で改めて思い知ることになった。文章教室で俺の前に提示される一切が、俺には全く無縁の、どうでもいいものに思われてならない。第一、今から勉強して何かの賞に応募して、ものになったとして俺は一体いくつになる?

 何も考えずに死ぬまで酒を飲み続けている方が、俺にはお似合いなのだ。俺にとってはもう何もかもが遅すぎる。目の前の仕事、いま雇われている会社だけを見て、それだけを此の世の全てだと思って暮らす方が賢明だといえるだろう。それとはまるで異なる世界を夢見たのは、我ながらバカだったのだ。犬に論語という言葉が、そのまま己に当てはまるように思えてならない。

 新しく何かをすること、ひたむきに何かを学び続けるのは、歳を取れば取るほど難しく、辛く、苦しく感じられる。今からでも学校を辞められて、払った金が全て戻ってくるなら、と夢想する。実際に辞めるとなれば、残りの講義の分の授業料を返還はしてもらえる。しかし、今年の春から受けた講義の分は、言うまでもなく戻ってこない。退学して金を返してもらったとして、大した額にはならない。

 通っていても最早なんにもならないと、分かっていても俺は、意地を張るしかない。次の日の学校にも、這ってでも出席しなければならない。それが無駄で何の足しにもならないと理屈では分かっていても、俺はそれを投げ出す訳にはいかない。何の望みも可能性もなかったとしても、それを逃げる理由にはしたくない。それをしたら俺は酒と労働以外に何もない人生を送ることになるだけなのだから。つまらない講義であったとしても、どうしても出席し続けなければならない。

いずくんぞ知らんや

 傲慢で身勝手な恥知らずどもが此の世には夥しく存在している。そんな者どもが世の中を我が物顔で肩で風を切って渡り歩いているから、俺はこの国をどうしても好きになれない。どんな場所にもそのようなタイプの輩は居り、それが隣人であった場合の不幸というのは筆舌に尽くし難い者がある。しかし、ソレが抱いている魂胆や、それの被害を受ける俺の心の動きといったものに、果たしてどれほどの値打ちがあると言えるのか。

 

推し量れるが

 毎朝、同じマンションに住んでいる隣人がケタタマシク音を立てる、ドアノブで。その男が引っ越してきてから、もう半年以上、一日も欠かさずそれをやるのだから堪らない。ついでに言えば夜の9時から10時ごろあたりにも同じようにガチャガチャやり、これもまた非常に神経に障る。俺は可能な限り大家や隣人などと接触を避けたいため、文句を言うことは能わない。しかしとにかく、うるさい。

 もしかしたら、神経症などの病気なのかもしれない。少なくとも20回は毎日のように、ドアに鍵が閉まっているのを確かめるようにしてノブを回しつつド施錠されたドアを幾度となく前後に激しく動かす。言うまでもなく、その最中に出る音は極めて大きい。単に隣人が精神を病み、強迫観念か何かに駆られてそれをやっているのだと数年来、俺は見なしていたのだが今日、ともすれば違うかもしれないと思い至った。

 隣人は隣に住んでいる俺に対して、嫌がらせで音を立てているのではないか。自分が外出する前に、家のドアが締まっているか、鍵がかかっているか不安だから、奴は例の挙動をしているのではない。そうではなく、隣室の男は俺の精神に何らかの打撃を与えたいという悪意に基づいて、言わば攻撃の意図を込めて鍵を閉めたドアをガチャガチャやっているのではないだろうか。

 そう考えると、無性に腹が立ってくる。今日、それがあった折、俺は入浴中だった。湯船に身を沈め、くつろいでいる間に例の音を隣人が立ててきたのだ。俺はその時またか、と思った瞬間、前述の考えに辿り着いたのだが、その瞬間に俺が抱いた憤怒の情は我ながらとてつもなく大きく、そして激しいものだった。第一、明らかに向こうが加害者であるにもかかわらず、音でもって俺の聴覚に危害を加えているのだから。

 一体、俺の何が気に入らないというのだろうか。俺の生活音が癪に障ると言うのなら、俺はすかさず反駁できる。なぜなら、日常の所作において出している騒音は、ドアの件を除いても圧倒的に敵側の方が大きいからだ。奴は知人だか友人だかを夜中に招いては大騒ぎをする。客人は男であったり女であったりするが、そんなことはどうでもいい。日によっては4、5人で夜通し騒ぎ続けることさえある。

 普段の自らの暴挙を棚に上げて、何が気に入らないのか知らないが、悪意や害意に基づいて俺に嫌がらせをするなど、一体どういう了見なのか。別の話になるがある時、俺が帰宅して通路を通行している際、隣人が在宅中であり俺の足音に反応するかのように舌打ちをしたのを思い出す。それだけ見ても、隣人は明らかにこの俺を嫌っているのは疑う余地がない。そしてドアのガチャガチャ攻撃も改めて思えば、また然り。

 隣人の邪悪で腐り果てた心根は最早、火を見るより明らかだ。大体、思い起こせばソレが越してきた日から、嫌な感じがしたのだ。親の車に荷物を載せて、その男は俺の隣室にやってきたので、学生か何かなのだろう(その車は袖ヶ浦ナンバーだった)。夜中に友達か何かと騒いで談笑している最中の話も丸聞こえで、どうも大学生ではないらしい。専門学校か何かに通っているクソガキが、幼稚な悪意を俺に向けているということになる。しかし、そんなことが一体なんだというのだろうか。

他人の気持ちなど

 腹を立てつつも俺は、バカバカしく下らなくて仕方がなかった。自分がそんなことで心を動かされているのがまず、気に食わない。そしてそれより一層、いけ好かないのは他でもない、隣人の害意だの悪意だのといった、いわゆる気持ちというやつだ。どんな腹づもりや魂胆があり、何を考えて何を感じ、どんな思いを抱いていようが、それの仔細の全てが俺にとってはどうでも良く、取るに足らなかった。

 それについて俺がどれだけ察し、見透かしたとしても、それもまた詰まらない。袖ヶ浦だか何処だかから出てきた、親の金で一人暮らしをしている頭の悪い小僧の考えなど、たかが知れている。また、実際に被っている被害が、せいぜい騒音程度だからまだ大目に見られるということもある。大勢連れ立って夜通しドンチャン騒ぎを繰り広げる隣人について、マンションの管理会社に苦情でも言ってやろうかと思ったが、それもやめた。

 それは問題を余計にややこしく、大きくするだけだ。管理会社に苦情を言い、それにより隣人に俺が文句をつけていることが当人に知れたら、騒音だけで済んでいる嫌がらせがエスカレートする可能性がある。因みに俺のマンションは洗濯機を屋外に取り付けなければならず、また自転車も通路に置いてある。隣人の悪意や怨恨を増幅すれば、何が起こるかなど想像に難くない。

 何を考えソレが夜中に大騒ぎし、何が気に食わずに俺に嫌がらせをしているのか、考えたり察したり、思い煩うのも容易い。容易いがそんなことにかかずらうだけ時間の無駄だ。それについて何らかの対策を講じたり、それについて腹を立てたり気分を害したりすることが、心底バカバカしく思えてならない。どんな人間に対しても、俺は相手の気持など汲まないが、隣人については腹の底から軽蔑しているから、尚のこと考えたくない。

 ある時、夜中に隣人が、男の友達と女一人、合計三人で大声で「恋バナ」をしていた。その時に俺はその者どもの会話の内容について、嫌でも耳に入れざるを得なかった。それを聞いた限りでは、若いということを差し引いても何というか、救いようがない典型的なDQNと言うか愚劣きわまりない精神の持ち主であると窺い知れた。普段から迷惑を被っている俺の認知バイアスがそう思わせただけかもしれないが。

 こんな野卑な輩について考えたり感じたりするのは単なる屈辱だ。もしかしたら、俺の方に途轍もない、言い逃れようがない過失なり非なりが、ともすればあるかもしれない。だが、そんな可能性について気にかけることさえ俺はしたくない。なにせ、普段が普段だからだ。ドアで音を立てるという幼稚で下らない報復のやり口もそうだし、俺が通路を歩いている時に自室の中からこれ見よがしに聞こえるようにして舌打ちをしてくる卑怯さもそうだ。

 この手の類いの加害行動に及ぶ人間の気持ちなど、慮る義務が俺にあろうか。なにも隣人に限った話ではない。俺は、他者の思惑や都合などに対しては、基本的に重く見はしない。ある個人の情緒というのは、当人の中だけで完結するものであり、待たさせるべきだ。俺自身の気持ちや感情といったものに対しても、誰かが察したり汲んだりしたことは稀である。そしてそれについて俺は、オカシイだの間違っているだのと、微塵も思わないし感じない。

 

 俺からして見れば「自分の気持ちを損なうな」といった主張なり命令なりは、噴飯物だ。一体何様のつもりなのだろうか。自分の心の中における状態や動きとったものが、自分以外の人間にとって、価値なり意味なりを持ちうると考えられる精神構造が、俺には全く理解に苦しむ。改めて考えてみれば、それは全くもって身勝手極まりない、さらに言えば自惚れも甚だしい理屈である。

 どんなことにも言えるが、何かが大切で重要で、掛け替えがないのはある個人がそう見なしているからだ。その大切さや重要性、掛け替えのなさといったものは、飽くまでそう見なしている当人の中においてだけ有効な代物でしかない。何をどれだけ重く見るかについて、万人が等しく共有するということは、極めて稀である。そんなことは夢物語でしかないと言い切ってしまっていいかもしれない。

 いわんやそれが、たくさんの人名や国家百年の大計などならともかく、ある者の気持ち若しくは気分といったものだとしたら。そんなものを本人以外が取り計らい、右往左往するようなことが仮にあったとして、それは至極当然だと言えるだろうか。もし、そんなことが有り得るとしたら、その人間はどれほど偉く尊ぶべき存在なのだろうか。貴く、ヤンゴトナキお方なのだろうか。

 余程の大人物でもなければ、それには該当しないと俺は考えるのだが。世間一般の有象無象どもがそれだと見なして生活するなど、俺には到底不可能だ。ましてやそれが同じマンションに住んでいる隣人、親の金で下らない学校に通うために千代田区で一人暮らししている低能DQNの下等生物であったなら。そんな代物の気持ちといったものを一々考える義務を、俺がわずかでも負っているなど、そんなことあるものか。

 鍵がかかったドアをガチャガチャと幾度となく鳴らされ、通路を歩くだけで聞こえるようにして舌打ちされ、仲間と酒を酌み交わしては動物のように夜通し大騒ぎをするような、そんなに衣冠禽獣の人非人が何を考えて生きているか、そんなものはこの俺の知ったことではない。そんな輩の意を逐一、汲んでやらなければならないのだとしたら、俺はどれほど惨めな存在なのだろう。

 俺には知る由もないが、それは俺よりも将来有望なのかもしれない。そういう可能性は、万が一ではあるが有り得る。そうであったなら、人間としての存在価値は敵の方が俺よりも上だということになってしまうだろう。だが、そうだったとしても、そのために俺があらゆる理不尽や横暴について涙を飲み、堪え難きを堪え、忍び難きを忍ばなければならない方などない、はずだ。第一、そんな可能性など現実には絶対に有り得ない。親の力により都心で一人暮らしをして、好き勝手に暮らしているだけの低能だ。若かろうが何であろうが学校が終わり次第、ソイツの将来は閉ざされるのは必定で、専門学校ならせいぜい1年か2年といったところだろう。

われ関せず

 要するに、人間の感情や気持ちなどの類いについて、どこまで重く見るべきかという話に尽きる。それは同じマンションの隣に居座っている人間に限らず、職場でもどこでも、全く同じことが言える。そして極めつけは、己自身の感情や情動といったモノについても、一体どこまで重要だと見なすべきかということにもなってくる。彼我の別なく、思いというもの全般について。

 感情をはじめとした精神活動や反応がその持ち主の中だけで完結するということは既に書いた。ある一念が当人の精神を超越し、物質的な外界に干渉したり作用したりなどは決してありえない。そう考えれば、人間の感情などというものについて、それが善意であれ悪意であれ、功利を求めれるものであれ私利私欲のためのものであれ、一顧だにするほどの価値もないということになりはしないだろうか。

 人間の思いなど大して重要ではない。他人のものであれ己自身のそれであろうとも。そのような意味で言うなら、人間は感情に囚われてはならないのだとも言うことができるだろう。四年や情動などといったものを重視すればするほど、人間は感情的にならざるを得なくなる。そしてさらに、冷静さを失い、自分の感情に振り回され、他人の身勝手な振る舞いが我慢ならなくなっていく。

 嫌がらせや侮蔑、嘲弄などといったものを他人から食らわされた場合、俺は律儀にそれらに反応してきた。隣人が出す騒音による被害を受け、それに対しても俺は、紋切り型の反応をし、憤り恨めしく思ったのがその、いい一例だと言える。結局のところ、他人の意見や精神を変えようとしたり、相手に一矢報いようなどとしようとしたりすることは、見当違いの徒労にすぎないということになるだろう。

 前述したようなマンションの管理会社を挟んでの応酬になった場合、俺の方が多く被害を被るだろう。何しろ相手は単細胞のDQNだ。外で野ざらしになっている俺の洗濯機や自転車、あるいは干している洗濯物などに、どんなことをしようとしてくるか、大体の予想は立てられる。それを恐れて泣き寝入りするしかないというのではなく、敵が立てる騒音を始めとした迷惑な加害行為について、律儀に俺が反応しなければ全て、それで話は終わり手打ちになるということだ。

 反応したら負け、くらいに思っていい。重ねて書くが、これは隣人に限った話ではない。他人の感情を察し、意を汲んでしまえば、そのままその相手に飲まれてしまうだろう。そしてそれに振り回されて胸中を掻き乱され、穏やかに振り回されるような有り様になるのは俺にとって全く本意ではない。

 他人の気分や機嫌、都合だの事情だのについて、俺にはまるで関係ない。自身のそれらによって、俺を意のままに操作しようと企む悪漢どもに、思えば俺は散々悩まされてきたものだ。隣人の件はその一例でしかない。他人が自分の思い通りに動かなければ、それを不服でオカシイなどと考え、臆面もなくそれを表明する傲慢な、世間によくいる連中の一人でしかない。我関せず焉。

卑しい血筋

 これまで生きてきて、ただただ散々な目に遭ってきた。そしてそれは元を辿れば全て、自分自身のできの悪さに起因し、それだけに原因を求めるべきだった。そのことから目を逸らそうとして躍起になっていた時期もあったが、それは愚劣で醜悪な悪あがきでしかなかった。結局のところ、個人とは環境の産物であり、血統や土地柄の影響から死ぬまで逃れることはできない。それらに欠陥があるなら、何を思い、何をしたところで、なんにもならない。

 

半分が

 人は生まれが9割9分、歳を取れば取るほど身に沁みる。俺としては10割としたいところだが、そういうわけにもいかないだろう。どれだけ生まれがよくても、事故や病気により早死にする人間も居るだろう。たとえホームレスか、それに近い人間であっても、宝くじか何かに当たれば億万長者になれるだろう。そのような事例を想定すれば、生まれた瞬間で人生の全てが決まるとするのは、極論である。

 だが、逆に言えば人生における不確定要素など、所詮そんな程度だ。普通に生まれ、定石どおり生き、平々凡々に死んでいくとしたら、ある個人の生は生まれた時点で大体、殆どは決まってしまっていると言っていい。どんな教育を受け、どんな街で育ち、どんな職業に就き、どんな生活を送り、どんな人間と関わるか、それらの全ては聖徳的な条件によるのである。

 俺は時折、自らの半生を振り返り、「あの時ああしていれば」などと愚にもつかないことを考える。現実の人生よりも良い生き方をしている、空想の自分の生活を思い描き、それと似ても似つかない実際のそれと比べ、人知れず落ち込むこともしばしば。しかし、あの時とはいつかだろうか。遡ろうと思えば際限なく遡れ、そして行き着く果てにあるのは、生まれが悪いからこんな人生なのだ、というお定まりのありきたりな結論だ。

 生まれてくる時代や境遇を自在に選べる人間など存在しない。しかし、それらにより定められる条件や環境で万人は生きていかなければならない。そしてその結果の移管については、自己責任ということで世間では片付けられ、一笑に付される。考えてみれば、理不尽きわまりない。先天的な諸要素を選び生まれ、その上で満足も納得もいかない生き方しかできないなら、確かに個人の責任になるだろうが。

 俺の身体に流れる血は、父方も母方も大したものではない。しかし、父方は一先ず置いておくとしても、母方の方は大変、この上なく問題である。身体的に言っても、俺は父方よりも母方の方を色濃く受け継いでしまっている。顔だちも慎重も、俺は不幸なことに母方譲りだ。それらは俺にとって非常に都合が悪く、コンプレックスの源となっており、現在進行形でこの俺を苦しめ続けている。

 しかし、肉体よりもむしろ精神、知的な面で俺には難があり、その原因は母方後だろうと踏んでいる。父方の方は、それなりに優秀な人間を多く排出している。学歴的にも経済的にも、恥ずかしくない血だと言っても決して、恥ずかしくないだろう。しかし、母方の方はからっきしで、ハッキリ言って接するだけで反吐が出るレベルだ。社会的な地位や経歴などは無論のこと、人格や精神性の面でも下の下であり、俺は大変恥ずかしい。

 そんな血を俺は、他ならぬ俺が、半分も継いでいる事実。これほどの屈辱と不幸がこの世にあろうか。蔑むべき卑しい血統に、自分自身が属している。仮にその血を身体から、一滴残らず取り除くなら、半分まるごと捨てなければならない。そんなことをしたら、俺は失血死してしまう。俺はこの俺を死ぬまで引っさげて、恥の上塗りのような人生を死ぬまで送らなければならないのだ。

呪いのような

 そもそも、俺は母方の親族どもにかなり、酷い目に合わされた。単に優秀な人間が一人も居ないだとか、僻地で固まって暮らしていて、頑迷で野卑で褒める点が一つもないというだけなら、俺も一々あれやこれや書き立てはしない。それらは取り敢えず不問にするとしても、そもそも個人的な思い出として、母方の親戚連中に俺は嫌な思い出しかない。忌まわしい思い出しか。

 盆と正月の時期に子供だった俺は、母方の祖父母が暮らす家に3日間も滞在しなければならなかった。1泊で済むような年はなく、高校生になるまで決まって3日であった、盆も正月も。いわゆる親戚の集まりというものに、かつての俺はかなりガッツリ参加させられており、それに加わらない選択をする自由は全く与えられなかった。親に命じられる度に俺は仕度をし、津軽地方の僻地に在る例の家に連れられて行った。

 母方の親族どもは、津軽平野の農村部に住んでいるものばかりだった。津軽の外はおろか、弘前青森市などの街なかにさえ、住んでいる者は皆無だった。底辺の仕事に従事するものしか居らず、学も何もあったものではない。有り体に言えば、そのような感じで、祖父母や叔父、伯母などの母方に属する人々は、まさしくこの国の最下層に位置づけられる存在であったと言えるだろう。

 単に生活水準が低いだけなら、重ねて言うが問題ではない。彼らは一人の例外もなく大酒飲みで、親戚の集まりにかこつけて、誰も彼も正気を失うまで安酒を呷ったものだった。それだけなら、やはり俺は特に取り立ててあれこれ言うつもりなどない。ココからが本題で、彼らは酒に酔い子供だった俺に絡み、罵り、嘲り、貶しに貶したのだ、津軽弁で。これについて俺は終生、絶対に許しはしない。

 叔父だの伯母だのと言っても、所詮は他所の家の人間であり、そんな者どもに何を言われても大して堪えないが、問題は母だった。母方の連中が口々に俺を口撃するのに合わせ、他ならぬ母もまた、それに反駁するどころか、彼らに乗じたのだ。母は酒を飲んで酔うと、よく俺を口汚く罵倒したが、実家にいる間においては特に、より一層その語気を荒くしたものだった。

 母は俺の肉体や精神に関わる、全てを全否定した。生まれてから、その日に至るまでの数々のエピソードを挙げ、母は如何に俺が出来損ないで、産むべきでなかったを、思いつくあらゆる言葉を用いて直接、実子である俺に浴びせかけた。そして加えて言うなら、それを目の前で見聞きしていた父もまた、母や母方の親戚どもに便乗した。俺はその「親戚の集まりで」死ぬよりも辛い思いをさせられた。

 たった一度のことなら俺も我慢し水に流したかもしれないが、例の集まりは決まって毎年、盆と正月に開かれた。そしてそのたびに俺は前述のような惨禍に見舞われたのだ。自分で言うのは少々、憚られるのだが、俺の精神はそれにより相当、痛めつけられた。俺の人格形成に、母方の親族や、両親などと言った存在は、甚だしく大きな悪影響を及ぼし、それは現在においても俺の人生に暗い影を落としているというわけである。

 

 こんな屑どもと同じようにはなりたくない、そう思った。小学生のうちから話し方などを改め、俺は津軽から一歩も出たことがないにも関わらず、津軽弁を喋らない子供になった。ある時の親戚の集まりにおいて、それを母たちに取り沙汰され、

「おめぇ、わぁ(津軽弁における一人称)のことバカにしちゅんだべぇ!」

 など問い詰められたのを俺は、今でも鮮明に思い出せる。何かにつけて母をはじめとしたら母方の連中は、俺に対してバカにするなバカにするなと喚き散らしていたような感があった。社会生活でよほど辛酸を嘗めさせられていたのだろうか。

 もちろん、方言や訛りを直したところで、何がどうなるわけではない。俺は所詮、津軽の寒村にある貧家の長男でしかない。それはどんなことをしても絶対に覆らず、否定も克服も能わないのだ。そのことを俺は、上京してからこっち、様々な局面において思い知ることになった。自分が、他ならぬこの俺が、山出しの田吾作でしかないという厳然たる、揺るぎない、動かし難い現実。

 改めて書くまでもなく、蛙の子は蛙だ。都鄙の別なく、井蛙は世間という大海を眼前に突きつけられ、面食らうより他はない。もしかしたら母方の連中は、生まれ育った土地から生まれてから死ぬまで出ることがないから、自分たちがどんな存在か知る由もないのかもしれない。そしてそれは、ともすれば非常に幸福なことであると言えるのかもしれないのだ。

 郷里の外に出てから俺の人生は一層、苦しいものになった。その苦しみの源は、とどのつまりは己自身にあった。力不足で、能力が至らないから、俺はどんな場所でも、どんな局面においても辛酸を嘗めさせられ、煮え湯を飲まされ、憂き目を見させられてきた。その根本的な原因は、世の中が厳しいからでも他人が悪辣だからでもなく、それらに打ち勝つことができない己の非才さにあった。

 そしてその根源となっていたのは他でもない、母方の血であった。あんな一族の卑しい血統を受け継いでいるから、俺はこのような顔貌、このような背丈、このような能力しか持ち得ない。生得的な要素の殆ど全ては、後天的な努力や心がけなどでは、到底どうにかなるような代物ではない。母は俺の資質や容姿などについて、さんざん批評や批判をしたが、それらの大本の咎は彼女がもたらした遺伝的な要素、即ち血であることは明らかだ。

 子供の頃に心底バカにしていた母方の者どもと、俺は同じだった。それは宿命として呪いのように、俺の人生に常につきまとった。祖父母の家があるとある津軽の僻村から、少しでも遠い所に俺は身を置くべく必死だった。そのために勉強をし、故郷を捨て、自らを律しながら懸命に働いてきた。しかし、そんな努力も例の源を前にしては、ないも同然で児戯に等しかった。

 血は争えない。それは大きく、また絶対的だ。個人の思惑など無に帰せられる。人間は生まれが9割9分だと、やはりこの歳になって頻繁に思い知らされる。その定説を覆す手など、俺には到底なく、また今後それを得られる兆しもない。これから先、顔だちも身長も変わらないだろうし、頭が良くなるわけでない。だから被るあらゆる災厄から俺が免れる道も、用意されてはいないのだ。

己から遠く離れて

 自分自身という呪わしいものから、俺は解かれたいと望んだ。生まれ育った故地を捨て去り、嫌いで悪くて仕方ない、母方の親族や家族と無縁の生活を営んでも足りない。俺は何を差し置いても、自分自身から自由にならなければならなかった。そしてそれは、世俗的な意味合いで何かが足りないだの、どの地点に至っていないだのといったこととはまるで無関係のものだ。

 それは努力でも心構えでもなく、態度でも精神でもなく、どんな知力や能力などを身に付けたとしても達せられない。己自身の身をどのように処するかを、俺は子供の頃からずっと考えてきた。だが、そんなものは結局のところ見当違いな徒労でしかなかった。俺が本当に滅尽しなければならず、遠ざかり縁を切らなければならないものは、他ならぬ己自身の肉体と精神であったのだから。

 自己研鑽にどれだけ努めようと無意味だ。石炭をどれだけ磨いたとしても、ダイヤモンドには決してならない。それと同じように、俺のこの肉体、この精神をどのように磨いたとしても、それは全て見当違いな苦労でしかなかった。遺伝子のレベルで俺は問題を抱えていることは明らかで、それはどんなことをしても生きている限りは解決も解消も、克服もありえないと断言できる。

 仮にこの先どれだけいい目を見たとしても、それを享受するのがこの俺である限り、それには何の意味もない。俺がどうするか、どうなるかなど、最早どうでもいいのだ。自分自身を唾棄し、それから解放されなければならない。俺の本街はまさしくそれであり、それを成し、また達するためには何が必要だとか何をしなければならないとかいったことは、重ねて言うように全てナンセンスなのだ。

 自分自身を良いものにすべく、自分自身を不幸で不遇な状態にしないためにと、俺は幼いうちから色々と万策を講じてきた。しかしそれは根本を取り違えた無駄骨に過ぎなかった。今の俺には自分自身が何よりも、どんなことよりも恨めしく、疎ましく感じられる。母方の血統に属し、両親から遺伝子を受け継いで形作られた肉体と、それを依り代にして成り立っている精神など、まったくもって重要でない。

 俺のから如何にして離れるか、これには作為的な努力など意味を成さない。滅却スべき対象をどのようにして改善するか四苦八苦するなど、愚の骨頂と言える。俺はこれまで、嫌な目に遭いたくないと願ってきた。また、自身を苦しめる物事を忌まわしいと感じてきた。しかし、それらの思いをさせられる己自身から離れたいと欲するなら、それがどのような目に見舞われようが、頓着すべきではないだろう。

 自分がどんな思いをするかについて、重大で深刻だと捉えるのは根っこから間違っている。人生をどのようにするかが問題なのではなく、一個の人間として被り、体験する生そのものから距離を置き、遠ざかることを目標にしなければならなかったのだ、俺は。人生とは経験であり、経験とは精神がするものだ。そしてその精神の土台となるのは肉体であり、それを形作るのは遺伝子、もとい血統である。血に問題があるとするならば、それから端を発するあらゆる全ては間違っていると見なすしかない。そして、己の存在の根本としての「それ」を正すことが能わないなら、どう生きるべきかなどと煩うなど噴飯物と言うしかないのだ。

自分の身を自分で守る

 この記事はだいたい半分ほど家の外で書いている。家の外とは即ち勤め先の職場であり、俺は勤務時間中にブログの文章を作っていたということになる。家でやるはずの作業を前倒しして会社で少しでも進められれば、その分時間を稼ぐことができる。時間というものの価値について、俺は最近になって、ようやく身に沁みるようになった。そして、人生というか自身の存在とは即ち時間であり、それを会社や他人などのために浪費されている現実を思えば、惜しくて惜しくて堪らなくなる。

 

時間という資源

 ブログは通常、自宅で書くようにしているが、今日は会社で書いている。目下勤務時間中であり、要するにサボっているわけだ。多少の良心の呵責はあるが、そもそも会社側が不当に俺を虐使しているという現状が先にある。俺はそれに一矢報いるくらいの気持ちでいるべきなのだ。サボれるならサボれるだけサボってやるくらいの気概は、もっと持って言いだろう。

 会社に拘束されている時間は、まるごと人生の浪費でしかない。他人が興した会社に、俺は思い入れなどは一切ない。俺は生活を営むために他人と労使契約を結び、それに基づいて出勤し労働に従事しているだけだ。そして会社側は契約通り、俺が提供した労働力に見合った分の賃金を支払う。俺は会社という場や仕事という行為に対して、それ以上の何かなど、決して求めたりはしない。

 生活の手段として赤の他人に労働力を安く売り渡すのは屈辱だが仕方がないと諦め、これについては割り切り納得ずくだ。働きたくない気持ちは決して滅却することはできないが、それでも生きるためには家の外で労働しなければならないということは理解できる。そして仮に1の労働を提供して、1の対価が得られるとしたら、俺はその取引に何の不平や不満を抱きはしないだろう。

 しかし世の中というものは甚だ理不尽かつ不平等にできているものだ。どんなことについても言えるが、いわゆる等価交換のやり取りが成り立つケースというのは、残念なことに極めてまれである。とりわけ労働については顕著で、下層階級に属する被雇用者として生きていると、仕事をする上で、辛酸を舐めたり煮え湯を飲まされたり、ホトホト厭世の感を強めるような憂き目ばかり見させられる。

 サービス残業という名の強制労働はその典型だろう。これまで、数々の会社や職場において、俺は他人のためにタダ働きをさせられてきた。安い賃金で使役されるなら、まだ俺は我慢ができる。安いと言っても一応、取り決め通りの賃金が支払われている状況においては。不当だろうが違法だろうが、時給や月給でいくらと自分の意志で労使契約をしてしまったのだから、それは自己責任だと諦め、涙を呑む程度には俺も物分かりがいいのである。

 ところが、「お前は『正社員』なのだからナンノカンノ」と屁理屈を宣い、俺に一円も金を払わずに自分の職場に強制的に閉じ込め、営業時間外に私利私欲のために俺を扱き使った連中を、俺は絶対に許せない。正規雇用者だからタダ働きをしなければならない、もしくはさせてよい、などと法律で定められていると言うのか。単に自分を金で雇っているだけの他人に対して、なぜ、どうして俺は、滅私奉公しなければならないのだろう。

 残業が嫌なのではない、タダ働きが嫌なのだ。会社の仕事という名目だから、ボランティアですらない。収容所か何かの奴隷のような扱いを、俺はどんな咎によって受けなければならないのか。そう思うと俺は泣きたくなる。しかしこの理不尽極まりない仕打ちを、社長だの上司だの、先輩(?)だのといった存在は当然のことだと信じて疑わないのだ。その者どもに俺はひれ伏しながら、相手方の精神構造が奇怪で不思議で、とにかく不可解で仕方がなかった。

前倒し、前倒し

 ブログはパソコンさえあればどこでも更新できる。だから俺は会社で文章を作る暇があるなら、職場のパソコンでその日の分の文章をできるだけ作ってしまおうと考えている。ブログに載せる文章は1記事あたり最低5000字以上でなければならないと、俺は自らに課している。そのため、たかがブログと言えども、それなりの労力と時間を割かなければならない。

 働きながら毎日毎日、一日たりとも欠かさずに5000文字のまとまった文章を書くのは相当、骨が折れる。体力的な問題はもちろん、要する時間の方がより一層深刻である。働き、眠り、それ以外の諸々の用事を済ませるだけで、一日における大半の時間が費やされてしまう。それらと並行して、ブログの更新もやらなければならないとなると、心身にそれ相応の負担を強いることになるが、それにも限界がある。

 働きながら長い文章をコンスタントに作り続けるには、身も蓋もないがズルをするしかない。要するに勤務時間中に文章をわずかでも書き進めることにより、家の中で文章を作るのに掛かる時間を少しでも短縮しようという算段である。タイトルと見出しを決め、記事の全体像を固めるのにさえ、10分ないし15分ほどを要するため、それを職場で済ませるだけでも俺は家でだいぶ楽ができる。

 そもそもなぜブログを毎日5000文字も書かなければならないかについては、前日の記事で述べたため割愛する。省きはするが、とにかく俺は働きながら大量の文章を作れるようにならなければならず、またその作業を間断なく続けなければならない。正直、サービス残業だのフルタイム労働だのに時間を費やすのが、俺には惜しくて惜しくて仕方がない。働かずに済むなら、もっと色々読んだり書いたりできるのに。

 本を読んで勉強したり、ブログや何かにや応募や投稿するための文章を作る時間がとにかく必要だ。会社の連中の欲得や都合、あるいは期限や満足感のために、タダ同然でくれてやるような時間など、俺には1秒もない。にもかかわらず、会社側は俺に賃金も払おうともせず利用しようと試みる。それがまず、そもそも絶対に許せないのだが、安定した給料が毎月もらうために、その暴虐に俺は耐えるしかない。

 営業時間外に無賃で俺は会社に身を置きはするが、その時間に必ずしも労働をしなければならない義務はないはずだ。何せ一銭にもならないにもかかわらず、俺から労働力を毟り取ろうと企む連中がやっている会社だ。そんなものに馬鹿正直に全身全霊で尽くす理由など、何一つない。無法には無法、無礼には無礼だ。そもそも大家も払わずに他人を使役しようという腐りきった精神が、土台間違っているのだ。

 俺は他人に使われるために生きているのではない。被雇用者として振る舞うのは、単に生活を維持するために仕方なくそれに甘んじなければならないためだ。単刀直入に言えば、俺は金のために働きに出ているのであって、誰かに仕えたり崇高な理念のために殉じたりしたいなどとは断じて思っていない。金も払わずに都合よく利用しようとする人間は、単純にすべて敵として考えるべきだ。

 

 面従腹背を旨とし、他人の理不尽な仕打ちや要求の犠牲にならないように、どんな局面でも細心の注意を払う必要がある。結局のところ、仕事とは名ばかりで実質的にはある者がある者から時間という人生のリソースを一方的に奪っているだけの、ただそれだけでしかない。仕事をしていくにあたり、そういった目に遭わずに済む人間というのももしかしたらいるかもしれない。しかし、俺はそうではなく、そういうケースについて思いを馳せるのは単なる時間の無駄でしかない。

 たとえどんな事情や背景があったとしても、タダ働きを正当化してはならない。第一それは、厳密に言えば純然たる違法就労である。法定最低賃金どころか、全くの無償で労働すれば、労働市場全体に悪影響が及ぶだろう。労働力がダンピングされ、万人の労働者が被害を被るというのは、決して大仰な言説ではない。職場の人間関係や種種雑多の理由から妥協してタダで働く労働者が此の世にいるから、「お前もやれ」という話になるのだ。

 縁もゆかりもない、絆も繋がりも糞もないような赤の他人に無償で尽くしたい人間は、勝手にすればいい。俺はそうしたいとは全く思わないから、他人どもがそんな要求をしてきたら、当然拒絶するべきだ。するべきなのだが、それは現実的でないことは珍しくない。それならば、サボれる場合においては、思う存分サボり、働いているふりをしつつ時間を自分のために活用することで、雇い主や上司などに一矢報いるという手段もあるだろう。

 それにより、俺の人生は僅かでも防衛されるのだ。労働力や時間という人生におけるリソースの搾取を、どうにかして最小限に食い止めなければならない。会社側に労使契約で定められている以上の苦役を俺に強いる正当性などあるはずがないのだ。それは不当な仕打ち以外の何物でもない。連中は明確な悪意や害意を持って、俺に無理難題をふっかけ、本来ならやる筋合いもない作業などを無理強いしているのだから、そんな加害者から自分を守ろうと考えるのは人として当然のことだろう。

 会社や他人などといったものの、犠牲にならないようにしなければならない。そしてそれを達成するには、強かである必要がある。さらに言えば、愚鈍で実直、真面目で誠実なだけではダメだ。就業時間が過ぎても、会社側は俺に対して居残りして何かをやれと命令してくる。他人を無賃で職場に拘束するのは違法であり、そんなものは仕事でも労働でもない。よって俺は、社内のパソコンでブログの更新をすることにした。

 言われるがまま、されるがままでは無限に搾取され毟り取られる。そしてその先には、なにもない。使役している側には利益があるだろうし、また他人を操作することで精神が満足したり気分が良くなったりもするだろう。だが使われる側は、それによって何一つとして得るものはない。加えて、そんな職場での人間関係など、都合よく利用され、用済みになれば一方的に切り捨てられる、ただそれだけのものでしかない。

如何にして不当に使われないか

 雇われなければ生きて行けず、就労中の不当極まりない指図や命令を飲まなければならないなら、せめてそれらをこなしつつも他人にバレないように怠けるべきだ。不平等きわまりない序列や関係性を築き上げ、それを盤石のものとして一方的に相手を利用しようなどと考えるような人間どもは、こちら側を心の底から見下しているのだろう。それならば、俺がそんな連中を欺くのは完全に正しいと言える。

 できる限り人間は己の身を、人生を死守しなければならない。それが個人として生きるということであり、それを諦めたり投げうったりしてしまうなら、その時点で個人は個人たり得ず、他人に良いように使われるだけの道具となってしまう。それに徹してもいいと思えるほど、素晴らしく魅力的な人物が此の世にいれば、そうするのも悪くはないかもしれないが、そんな傑物には終ぞお目にかかったことなどない。

 露骨に見下し、蔑みながら都合よく利用しようとしてくるような人間のために、傅いたり尽くしたりするなどバカバカしいにも程がある。一体この世のどこに、そんなことをする人間が存在するというのか。自分が対峙している相手が、自分のことを崇敬し、心酔し、自分ために裏表も私心もなく、全身全霊で仕えるのが当然だと思えるのは、途轍もない自惚れであり、自己愛性パーソナリティ障害か何かだろう。

 存外、世間にはそんな人間が相当数いるのだから始末が悪い。相当数と言うより、もしかしたらこの国の大多数は、そんな思い上がった極悪人なのかもしれない。働きに出なければならなくなってから、俺は同国人なるものに幻滅せざるを得なかった。本当に、どいつもこいつも身勝手で驕り高ぶった糞のようなクズどもばかりで、事あるごとに反吐が出るような思いをさせられる。

 現在の俺が働いている会社は、色々な事情が積み重なり、サボろうと思えばサボれる類いの職場なのは、不幸中の幸いである。拘束時間の内の1分でも多く自分のために使うのだという気で仕事に臨まなければならない。一日の殆どの時間を俺は会社という収容所のような場所で過ごしているのだから、全ての時間を社のために捧げるということは自身の存在そのものを他人に献上することに他ならない。

 人生は短い。俺ももう、そう長くはない。子供の頃は時間など無限にあると思っていたし、若く健康なまま永遠に生きられるなどと、勘違いをしていたところがあった。言うまでもなく、現実は全然そうではない。自分の感覚が鋭敏で、五体満足で健康に生きられるのは、一体あとどれくらいだろうかと考えると、会社や他人にくれてやる時間など、本来なら1秒もないと言いたいところではある。

 重ねて言うように俺は無産者であり、働かなければ生活が破綻するから、結局は働くしかない。どれだけ不遇を嘆き、雇い主側の横暴について言い立てても、結局は雇われて使役される意外に選択肢はない。それならば、職場に拘束されている時間内に、少しでも自分の用事を済ませるくらいの気持ちでいるべきだ。ブログを書いてもいいし、家で巡回しているウェブサイトを社内に居る間に読んでしまうのもいいだろう。とにかく、時間という資源を他人に奪われないように守る気概が必要なのだ。

夜長の御託

 ブログを書くのに時間を掛けすぎている。今日は何も書くことがなく、書き始めたのが日付が変わりかけるほど夜中になってからだった。一晩中かけて、書き終わる頃には東の空が白んでいるという始末。ブログを書くことは俺にとって本業ではなく、そんなことを生活の中心にするべきでもない。これからは時短時短でやっていかなければならないと、夜を明かしながら実感している。

 

時間がない

 雨の日も風の日も、仕事があろうがなかろうが、俺は一日も欠かさず長い文章を作ることを自らに課している。働きながらそれを続けるのは言うまでもなく辛いが、休みの日もそれはそれで別の苦労がある。働きに出ていれば、否が応でも何かが起こり、誰かと関わらざるをえない。よって、それについて書けばその日の分の文章は難なく出来上がるが、仕事が無い日はそうはいかない。

 今日は祝日であり、俺は一切なにもしなかった。なにもしなかったせいで、文章にスべきような出来事も何一つありはしない。そのような理由から俺は、休日のほうが却ってブログを更新するのが億劫に感じる。ブログごとき、何をどれだけ書いても構わないのだが、制約がないと逆にどうしたら良いか分からなくなってしまう。一日中寝て過ごした日には特に。

 そもそもこのブログは、文章力を向上させるためのトレーニングとして始めた。別に気の利いたことを書き残したいわけでも、アクセス数を稼いで何かに繋げたいといった腹づもりがあるのでもない。とにかく多く書くということを目的としているため、ハッキリ言って内容などどうでも良い。最低限、日本語の散文になってさえいれば、それで及第なのだ、俺としては。

 だが、そのような低いハードルを超えるだけでも、実際はそれほど楽ではない。毎日1000文字の文章を書く、程度の目標であればそんなものは屁でもない。俺が自らの貸しているのは毎日最低5000字の文章なのだから、それを満たしつつ前述のハードルを超えるのは実のところナカナカに骨が折れる。短い文章を数記事、合計して5000文字というのではなく、ひとまとまりの文章として5000字を超えるとなると。

 毎日毎日、たとえ駄文であっても5000文字の文章を作れる人間はそう多くないだろう。いたとしてもそれは、学生かニートくらいのものだろう。俺は一応、労働者としてフルタイムで働いている。俺と同じ条件下の人間に限れば、毎日5000字書く作業は大きな負担となるだろう。それを実践し現在進行形でやり続けている人間は、手前味噌になるが相当、稀だと思われる。

 それだけに、俺は他人にはない余計な面倒を味わわされる。休日は一日中のんびり、気苦労なく過ごしたいものだが、俺は文章を作らなければならない。それなりの時間と労力を割かなければ、5000字の文章を作りおおせるのは不可能で、そのために休日でも結構、手間取らされる。例えば、次の日の仕事に備えて眠らなければならないのに、夜更かしをする羽目になる、今夜のような。

 いちいち書くまでもないが、時間は有限である、誰にとっても。ブログに手間取ればその分だけ他のことをする時間の余裕がなくなっていく。本音を言えば、一秒でも早く済ませてしまい、寝るなり何なりしなければならない。一円にもならないブログのために、翌朝の仕事に差し障りがあったら、コトだ。ブログに載せる文章のために生活が脅かされるような事態に見舞われるなど、あってはならない。

身を切られるような

 最近は特に、「時間がない」が口癖になってしまっている。要するにそれは、貧乏暇なしという一語で言い表せる。もしも俺が会社勤めなどせずに済むような身の上であったなら、こんな悩みもなかったに違いない。ブログだろうが何だろうが、何時間でも掛けられる、そんな人生が遅れたならと、俺は苦役に耐えながら夢想する。時間があれば、自由になれたらと。

 毎週末、俺は文章教室に通い、それが終わると国会図書館に行く。時間さえあれば俺は、何時間でもそこで勉強をしたいと思っているのだが、土曜日においてはそこは17時で閉館となってしまう。また、日曜日と祝祭日は休館であるため、平日働いている人間が国会図書館に行こうと思えば、それができるのは基本的に土曜日のみだ。それについても俺は、時間があれば、と思わされる。

 時間とは貴重なものだが、そのことについて切実に考えると精神を病む。働かされている間などは特にそうで、掛け替えのない時間を安く他人に売り渡しているという現実を思えば、どうしても穏やかではいられない。なぜこんな目に遭っているのだろうか、他にやりようがあったのではないか、そんな風なことを、とりとめもなく考えてしまう、それこそも一円にもならないのに。

 時間を有意義に使えていないと感じると、それだけで身を切られるような思いに囚われる。焦燥感や喪失感に駆られ、気が狂いそうになる。思えば、人生とは時間そのもので、それは有限であり、また個人という存在も限界がある。それを有効に使えないどころか、生活のために已むを得ないとは言え、他人のためにそれをドブに捨てるような愚行に甘んじるなど、バカバカしいにも程がある。

 時間がないと独りごちる度に、我が身の卑しさを思い知らされる。自分のために自分の時間を使えないのだから。ブログを書くための時間を惜しむのもまた然り。明日の時間を全て、自分自身のためだけに使えたなら、早く書き終えて眠らなければならないなどと、果たして俺は考えるだろうか。そうしなければならないのは、重ねて言うように次の日の仕事に備えなければならないためだ。

 ノンストップライティングで5000字、手を止めずに書けたらさぞ楽だろう。実際はそうもいかず、俺はキーボードを打つ手を頻繁に止める。言葉を書き連ねて文章にするのは、俺にとって決して楽な作業ではない。そしてそれは気楽にできないからこそ時間を要し、生活を逼迫させることになる。時間がない、時間がない。早く終わらせて他のことに取り掛からなければ、と。

 文章を作る手が止まる度、焦りで胸がひりつくようだ。ジリジリと、時間が無意味に空費されていくのを感じる。書き終えるのが遅くなればなるほど、俺の休日における時間が無意味に削られていく。睡眠時間も短くなり、労働に支障をきたすのではないかと気がかりになる。眠気を堪えながら休業日明けの仕事をするのは、さぞ辛くシンドイだろうなどと考える。

 眠るだけではなく、他にもココには書けない行為についても、俺はしなければならない。そのための時間もまた確保しなければならないのだから、書いても書かなくてもかまわないようなブログなど投げ出すなりサボるなりしてしまいたい。しかし、そんな選択肢は俺には与えられていない。自らを厳しく律することで、個人は他人からの支配を免れるのだと俺は信じている。

 

 俺は労働者として人生の殆どの時間を費やさざるをえない。単純に会社に拘束されている時間だけでなく、通勤時間も含めれば、相当長い時間を赤の他人のために俺は捧げているということになる。さらに言えば、自宅にいる間においても、仕事に備えて食事を摂ったり眠ったりする時間もまた働くためのものだと考えれば、一日の大半が「仕事のための時間」として割かれていると言えなくもない。

 万人が自分の人生を所有しているというのは、途轍もない幻想だろう。中流以上の人間にとっては、なるほどそうかもしれない。しかし、他人に使役されることにより生活を成り立たせているような下層階級の人間の人生というのは、当人のものだなどと、果たして言えるだろうか。俺は社会に出てから、職を転々とし誰かに雇われる賃金を得ることにより糊口を凌いできた。

 どんな仕事し、どんな職場に居たとしても、俺にとってそれは屈辱以外の何物でもなかった。時給換算で一時間600円だろうが3000円だろうが、俺にとっては同じことだった。一度しかない人生の、貴重で掛け替えのないはずの時間を、どうでもいい赤の他人にくれてやっているのだから、それにいくらの値がつこうが俺にとってそれは喜ぶべきことでも何でもない。

 俺にとって、生きることと他人に使われることは完全に同じことだった。雇用契約の内容や労働環境の仔細がどうであろうと、そんなことは瑣末なことだ。他人に使役、虐使されることの意味について、鋭敏な感覚を持ってよく考えてみれば、どうして会社勤めなどできようか。それは正常かつ真っ当なことだと俺は思う。漫然と他人に良いようにされることは、賢明であったとしても俺にとっては望ましくも好ましくもない。

 貧乏暇なしという言葉がそのまま当てはまるような人生など、生きるに値しない。思い返せば俺の人生は、まさしくそのような浅ましく卑しいものでしかなかった。誰かに雇われ、どこかに属し、苦役に耐え利用され搾取されることを前提とした躾けや教育を、俺は施された。誰かに雇われなければ生きていけないのだと、俺は刷り込まれて育てられた。働かざるもの食うべからずと。

 時間がないというのは、下劣な人間の言葉であり、それこそが俺の口癖だった。寸暇を惜しむことこそが、俺の人生そのものであった。そうしたくなかったが、そうするしかなかった。それを拒むなら、俺は社会生活を営むことが出来なくなる。薄給と引き換えに、自分の時間を他人に毟られることにより、俺の暮らしは辛うじて成り立っている。

 己の価値の無さを、恥じずに済む理由がない。本来なら、値千金であるはずの時間を、俺は僅かばかりの金のために惜しげもなく他人に捧げている。これが恥でなくてなんだろうか。これが屈辱でないなら、一体何だというのか。他人から時間を搾取されることを是としなければ、生きていけないというなら、端から生まれてこない方が良かったと、最近は思うようになった。

手早く済ませられるよう

 いくら愚痴をこぼしたところで、何も変わらないだろう。時間に余裕がある仕事に在りつけける可能性はなく、ある日突然有閑階級に成り上がるということも有り得ない。結局、俺は時間を他人にくれてやらなければならない。そのため、時間を有効に活用しなければならないという、月並みすぎるほどに月並みな結論に至る。そしてそれを実現するためには、ブログなどに時間を掛けている場合ではない。

 今後はブログの文章を作るために要する時間をできるだけ短くしていかなければならない。余暇の時間をブログだけに費やすわけにはいかない。他にも読んだり書いたりしなければならなず、たかがブログごときに手を煩わせるのは、根本的に間違っている。先に述べたように、ブログなど俺にとっては単なる練習でしかない。練習だけに全ての時間をかけるのは愚かなことだ。

 長い文章を難なく作れるようになるために、ブログをやっている。記事一つに何時間も要するのなら、その時点でその目標を満たしていないということになる。書くという行為に苦労が伴うのだとしたら、それ自体が問題なのだ。理想としては息をするように散文を量産できるようになりたい。それを達成するなら当然、所要時間を如何に短縮するかが重要になるだろう。

 具体的に、このブログの記事一つを作るのに、どれだけの時間を割いているだろうか。細かく測っていはいないが、少なくとも1時間や2時間では済まないだろう。今の俺の状況は例えるなら、アスリートが体力づくりのための走り込みに何時間もかけ、それをするだけで息も絶え絶えになっているような、そんな状態だと言えるだろう。かけている時間も惜しいが、かと言って走らないわけにもいかない。

 文章を作っていると、どうしてもイッパシの内容にしたいという下心が出てしまう。技巧を凝らそうとしたり、斬新な内容を表現したりしようと試み、それにより余計な時間がかかってしまう。その結果、ブログにより生活が圧迫され色々な不都合や問題が生じる。上手くやろうという気持ちを一旦、完全に取り払ってしまうべきだろう。呼吸する時、上手くやろうなどと思う人間がいるだろうか。

 仮にそうしたら、却って息が苦しくなるだろう。なにかが首尾よく行えるのは、そのような下心がない時だ。心を虚しくして書けるようになれば、時間を短縮するだけにとどまらず、却って文章のクオリティも、もしかしたら向上するかもしれない。後者については重要ではないが、とにかくブログに割く時間をどうにかして短くしなければならないということだけは言える。

 なにはともあれ、手早く済ませるようになることだ。書くということに限っても、ブログを書くだけで終わりではない。それ以外の文章も、これからはたくさん作っていかなければならない。それを可能にするには、ブログに一つに何時間も書けるのはナンセンスというものだろう。時間を如何に捻出するかは、何をするにしても重要であり、とにかくブログごときに煩わされるべきでない。

一杯一杯復一杯

 車の免許の更新には金と時間がかかる。そのためそれは、俺にとってそれはかなり大きな負担だ。それは5年に1度、どうしても避けられない困難として俺にもたらされる。更新が終われば、大仕事を一つやり遂げたような感じになり、久々に一献傾けたくなってしまう。3連休で次の日が休みともなれば、それをしない理由など何もなく、それらの理由により俺の足は酒屋へ向かう。

 

頑張った自分へのご褒美

 今日は自動車免許の更新をしなければならず、これがかなりの手間だった。近所の警察署では更新ができず、新宿にある更新センターは土日や祝日は開いていない。そのため、免許絡みの手続きをするには、江東区にある試験場まで赴かなければならない。免許の更新だけでも相当な手間ではあるが、俺の家から江東区の例の施設まで行くだけでもまた、かなり面倒なのだから、俺にとってはオオゴトである。

 朝8時前に家を出て、自転車で麹町の自宅から江東区の試験場まで行った。地図で見るだけなら大した距離ではないように思えたが、実際に自転車を漕いでみると時間や労力を大きく消耗した。半蔵門から内堀通りの坂道を下り、東京駅近辺から永代通りに入り、後はひたすら道なりに進む。俺が試験場に到着した時には、既に駐輪場にはおびただしい数の自転車が停められており、俺は自分が出遅れていたと思い知らされた。

 試験場は土曜日も祝祭日も開いていないため、免許の更新に来る人間は必然、日曜日に集中することになる。受付には長蛇の列ができており、自分の番が来て免許更新の申込用紙を渡されるだけで、数十分は待たされただろうか。その後に視力検査などを経て、講習を受けて新しい免許証が交付された時には、11時近くなっていた。更新が済んで、そのまま真っ直ぐ自転車でもと来た道を引き返し、俺の日曜日の午前はまるまる潰れてしまった。

 それからしばらく仮眠を取り、今度は図書館から借りてきた本を読まなければならなかった。漢文についての本で、読むのにかなり精神力を消耗した。もっと軽く読める本を借りればよかったと後悔しながら読み、遅々として進まなかった。それは今日中に返却しなければならない本であり、俺は図書館の閉館に間に合うギリギリまで粘ってクダンの本を読んだ。

 麹町から江東区の試験場まで往復した自転車に再び跨り、今度は本の返却のために図書館に行かなければならない。目的地は四谷にある新宿区立図書館である。試験場に行くのとは違い、その図書館までは通い慣れた道であった。家を出て新宿通りを真っ直ぐ進むだけなのだが、日曜においてその通りはかなりの人手で、自転車で走るとなるとストレスフル極まりない。

 今日はこのような次第であったが、幸い次の日は月曜にもかかわらず祝日である。肉体的にも精神的にも極めて疲れる一日であったため、俺は自らに晩酌をするのを許した。俺は半蔵門の酒屋に行き、酒とツマミを買ってきて、今晩においては飲みながら楽しくすごすつもりであった。しかし飲むぞという段になり、もう一つやらなければならない作業があることに気づいた、ブログだ。

 俺は自らにブログの記事を毎日書く作業を自らに課している。それは仕事の日でも、休みの日でも例外はない。仮に一日サボったり書けなかったりした場合には、書かなかった日の分を次の日の回すようにしている。一記事あたりに書く文字数は最低5000字としているため、一日書かなかったとしたら、翌日は10000字書かなければならないということになる。2日サボったらその次の日は……。

シラフで暮らすつまらなさ

 ブログの記事を書くことに、毎日かなりの時間を掛けている。別に名文の類いを加工などという意図はないため、適当な内容でも構わないのだが、それでも日本語として一応成り立った記事にしようとなると、それなりの手間と時間を要する。労力の方はともかく、時間は有限であるため問題である。時間というのはある種の資源と見なすべきで、それをどのように使うかは重要だ。

 労力の方も有限だと言いたいところではあるが、それは振り絞りさえすれば多少は融通がきく。気力や体力、精神力といったものについて言えば、それはある程度は無理をすればどうにか、なりはする。しかし、先に述べた通り、時間に関して言えば、無理が利くものではない。そんなわけで、これを書くにあたっても、時間という側面でかなり俺は頭を抱える事態に陥っているのだ、目下。

 この記事は日曜に書き終えるはずのものだが、厳密には月曜日に書いている。現在の時間は午前1時30分である。本来なら、もっと早い時間に書き終え、ゆうゆうと晩酌をしているはずなのだが、俺はいま酒を飲みつつこれを書いている。酒を味わうことを疎かにしてでも、文章を作っているのだが、なぜそんなことをしなければならないかと言えば、これもまた時間にかかわる問題なのだ。

 月曜は祝日で休みだが、仕事がなくてもやることはあるのだ、朝から。それを見越せば、晩酌とブログを別々にやるという訳にはいかない。加えて言うなら、火曜日から通常通りの労働が舞っているのだから、酒を飲むならこの晩に済ませるべきなのだ。飲み始めが遅くなればなるほど、酒が抜けるのもまた遅くなる。そのような理由から、酒を飲みながらこの文章を書かなければならないのである。

 酒を飲みながら書くなら、当然それは酔いながら書くということになる。これがもし仕事でのことならコトではあるが、別にこれは仕事でも何でもないのだから気楽なものだ。アルコールを抜くための時間などを考えれば、これを書きながら酒を飲まなければ用事に差し支える。酒精を帯びながら文章を書いたところで、どんな問題も生じないのだから、当然のように酒を呷りながらキーボードを打つ。

 面倒事が済めば、どうしても飲みたくなる。次の日に仕事が無いならなおのことそうだ。シラフで夜を明かすよりも、酒に酔っている方が俺としては楽しく過ごせる。と言うよりも、一生涯シラフで通そうなど思えない。生まれてから死ぬまで、酒を呷ることなく過ごせるような人間の精神が、俺には全く理解できないほどだ。酒の人生など、想像するだけで寒々しい。

 心が躍るような、愉快な気持ちで夜を過ごしたいものだ。残念ながら、酒が入らなければそれは達成できない、少なくとも俺は。子供の頃は、酒を飲む周りの大人達のことが全く理解できなかった。体に悪い物をわざわざ飲み、正気を失い、だらしなくなり、暴言を吐き、動物じみた振る舞いをするのが、馬鹿にしか思えなかった。自分がおとなになったら、絶対にこうはなるまいと誓ったものだ。

 

 そんな誓いは、大学に入ると破られることになった。ある人物からビール券をもらったのが、俺の飲酒生活の始まりであった。それを使いエビスビールをスーパーから買って来た俺は、その旨さに驚愕したのを昨日のことのように思い出せる。ビール券をすべて使い切った後は、自腹を切り食費を切り詰め、あらゆることよりも酒を呷ることを優先するようになっていった。

 エビスビールは言うまでもなく高かったため、次第に俺は安酒に手を出すようになった。一瓶300円の安ワインや缶チューハイを毎日、浴びるほど飲むようになった。大学時代が終わり、働かなければならなくなると、日々の酒量は年月を重ねるほどに増えていった。具体的にどんな酒をどれくらい飲んだかについて、詳しく書き連ねるような気には、とてもならない。粗悪な酒ばかり飲んできたから。

 身体にアルコールが入っている間だけ、俺は救われたような気分になれた。苦しい労働も、貧しく先が見えない暮らしも、何一ついい思い出のない人生にも、酒さえあれば乗り切れるような気がした。しかしそれは飽くまで気がしたというだけで、実際はそれによって何がどうなったということでもなかった。しかし、それでも俺は疲れや憂いから解かれるために、酒の力を必要とした。

 酒により俺の脳や内臓は深刻なダメージを負うハメになった。手の震えは止まらず、アルコールが切れれば不安や焦燥に駆られ、居ても立ってもいられなくなった。それを解消するためにも、俺はより一層の飲酒を必要とした。仕事があろうがなかろうが、家の中にいる間は暇さえあれば酒を呑むほどに、俺はアルコールに依存するようになっていった。

 それでも俺は自分の生活に問題はないと確信していた。自身の肝臓の能力を、俺は過信していたし、酒で何か問題が起こっても、後腐れなく死んでしまえばそれでいいと高をくくっていたのだ。酒を呑むことはいつしか、俺にとって生きることそのものとなっていた。酒は俺の生活や人生の中心であり、アルコールを身体に少しでも多く入れるために俺は働いて金を稼ぐといった有り様であった。

 そんな暮らしは、身体が酒を受け付けなくなり、唐突に幕を下ろした。アルコールが切れると精神が不安定になるが、酒を飲もうとすれば胸に何かが引っかかるような感覚がし、無理に飲酒すると動悸がして全身の血管が浮かび上がった。それらに加えて、最も耐え難かったのは、不眠であった。どれだけ疲れていても、眠ることができなくなった。睡眠が取れないだけでなく、横になり目を閉じることもできなかった。

 それを経て、連続飲酒の習慣はなくなった。アルコール依存症でもなくなり、酒絡みのことで身体や精神に支障をきたしもしなくなった。未だに酒を呑むことはあるが、それは誰かと食事をしたり次の日が休みであったりする場合だけだ。毎日欠かさず酒を呷らなければならないという「縛り」がなくなって、今となってはその方が良かったと思えるようになった。

酒に溺れる下らなさ

 アルコール依存症というのは言うなれば、酒に対してシリアスになるということだろう。どんなときでも酒が手放せないのは、酒について深刻になっているからであり、そこには楽しみや嗜みといった感情は一切ない。深刻な気持ちで、神妙になって酒を呑む時に人はアル中になってしまうのだ。俺は自分が酒に溺れていた時に、シリアスな気持ちになっていたのだと、今になって思う。

 楽しんで飲んでいるなら、何の問題もないが実のところ、アルコール依存症の人間は酒を嗜んでいるのではない。毎日浴びるように酒を飲む時、俺はアルコールにより自身の精神が救われるような「気がした」。救われたいと俺は常に欲していたが、それは非常にシリアスな願望であった。飲み食いを楽しむ気持ちなど全く無く、酩酊感に浸り気分良く過ごすという気持ちさえ、いつしか忘れてしまっていたのかもしれない。

 酒に対して俺は、いつも真剣であった。生活の苦しみや不条理から目を背ける手段として、俺は酒に縋るようになっていった。要するに俺は、酒の飲み方を知らなかった。いや、生きることそれ自体について、甚だ間違った考え方をしていたと言ってもいい。深刻に、真剣になることが絶対的に正しいと、根拠もなく思い続けてきたところがあるような気がする。

 どんなことも、マジになれば生きる上で有害になる。思えば俺は、趣味や楽しみという名目で、数多くのものに縋ったり耽溺したりしたものだ。そしてそれらのどれもが、俺の人生においてマイナスにしかならなかった。一旦のめり込めば、なんでも、どんなときでも、真剣かつ深刻、マジでシリアスに、一事が万事、俺はそんな感じであったし、重ねて言うようにそれは間違いであった。

 今の俺は酒は飲むがそれに全てを懸けるような飲み方はしない。たしなむ程度、という言葉の意味が、この歳になってようやく、俺にも捉えられるようになってきた、といったところかもしれない。三連休の中日だから飲むのであって、来週の土日は恐らく酒に触れることはないだろう。今の俺は、酒を飲んでもよく、また飲まなくても別段、特に構わない。

 やってもよく、またやらなくてもいい、これこそが自由なのだと近ごろようやく実感するようになった。どんなことにも言えるが、何が何でも絶対に、是が非でもやらなければならないなら、それは自由とは正反対、対極なのだ。何かに囚われ、縛られている限り、それが人間を幸福たらしめることはない。酒について言えば、俺はそれのために脳や内蔵を損ね、金と時間を失うハメになった。

 程々に楽しめないなら、どんなことでも毒になる。人生の全てを費やすに足る何かなど、此の世には存在しない。ましてや酒を呷り身体にアルコールを入れることに全身全霊を懸けるなど、愚の骨頂だと言うべきだろう。酒を飲んで忘れるというフレーズが、世間においては当然のようにまかり通っている感があるが、そういった飲み方は本来、肯定されるべきではない。

 また、特別な時だけに限って飲むから美味いと感じられる。エビスビールを飲むのを楽しみとしている俺だが、仮にそれを毎日飲むとなると、有り難みは薄れてしまうだろう。楽しめたものが楽しめなくなる時、なんとも言えない虚しさを感じるものだ。そんな事態に見舞われないようにするためにも、酒はやはり極々たまに飲むに限る。例えば、運転免許の更新を済ませた日などに。

見込みはないが

 平日は卑しく働いているが、週末だけは辛うじて学生然と振る舞える。とあるスクールに学費を払い、俺はそこに通っているのだが、それは決して楽しく愉快なものではない。むしろ、学校のことで気苦労が増え、思い煩う材料を余計に抱え込んでしまっている感さえある。そんなものに行く義務など端からないのだから、面倒なら辞めてしまえばいいのだが、これが様々な理由なり事情なりがあり、それを投げ出すことはどうしてもできないのだ。

 

労多くして功少なし

 文章教室などという馬鹿の極みと言うしかない所に毎週末通っている。学費に30万円近く既に支払ってしまっているため、なかなかどうして、途中で放り投げるわけにもいかない。我ながらかなり後悔しているのだが、今更辞めてしまえば払った金が全て無駄になってしまうから最早、引くに引けないという有り様である。一時の気の迷いでとんでもない間違いを犯したものだと、今頃になって反省している。

 作家になれるだの目指せるだのという甘言に惑わされたのは、かれこれ8ヶ月ほど前のことだ。その時に俺は会社から減給を食らっており、勤め先の職場にも嫌気が差していた。それで、働かされながらも転職活動をしてみたものの、これが全く振るわなかった。働きながら履歴書や職務経歴書を作り、求人を調べ応募し、面接に赴くのはかなりの手間で、身も蓋もないが無駄骨であった。

 なによりも、やっている最中に全くもってつまらなかった。理不尽を被る卑しい仕事を捨てて新しい会社に移ろうとしているのに、心が全く躍らないのだ。むしろ、やればやるほどウンザリしてくる。マトモな学歴もなく、資格もスキルも何もない人間が、第二新卒も逃した状態で職探しなどをしても、結果が芳しいはずがない。平日の日中働いているという時間的な制約も大変な足かせとなった。

 そんな最中にネットで、文章教室のサイトをうっかり覗いてしまったのが運の尽きだった。会社に属して社員として生きていくという形で身を立てるよりも、全く別の道があるなら、その方が俺にとっては好ましいなどと、年甲斐もなく浅ましい考えに取り憑かれてしまったのだ。俺の暴挙や気の迷いを止めたり諌めたりしてくれるような人物が、誰一人としていなかったこともまた、俺にとってこの上ない不幸であったと言うべきだろう。

 俺だって、学校に通えばライターだの作家だのになれるなどと脳天気に考えていたのではなかった。とにかく、人生に行き詰まっていて、これまでとは全く別なナニガシかをやってみたかったというのが本音であった。他人に雇われることなく、気楽に生きられるように、万に一つでもなれたなら、それはそれで喜ばしい。しかし、学校に通うだけでそうなれるなどと安易には思っていなかった。

 実際、通ってみれば肩透かしというか期待はずれというか。その学校はカルチャースクールに毛が生えたような代物でしかなかった。講師陣は現役の、文筆やメディア業界において第一線で活躍していると「謳われる」お歴々ではあったが。自身がプレイヤーとしてプロの水準になれるということと、その技能を他人に享受できるということは、言うまでもなく全く別の話だ。それは、どんな分野においても言えることだろう。

 毎度エッセイや小品などの課題が出、また募集に応募して作品を投稿するなどといったことをやらされる。学校に通うようになり、文章を書き、またそれを他人の目に晒して評価をもらう機会が生じたが、それは俺にとって決して良いことではなかった。会社勤めをする人間として憂き目を見たということは既に触れたが、文章を書く時においてもまた、俺はかなり辛酸を舐めさせられることとなったのだ。

それでも何もしないより

 書いても書いても、一向に文章力が向上しないのだ。例の学校に通うことを決めてから、意識的に文章を書く機会を設け、学校と関係ない場でも文章をできるだけ多く書くようにはしているが、それでも全く上手くならない。始める前と比べれば、少々マシにはなったという、ただそれだけの成果しか今のところ得られていない。講義を毎週末に受けているが、それを経ても大して効果は見られない。

 他人が書くものと己のそれを比べれば、下手さは明らかだ。公募に投稿して無視されても、ああそうかで済むが、学校の中における課題においてはそうはいかない。講義中に講評があり、受講生の内で優れたものは取り上げられ教室内で朗読するのだが、俺はそれに選ばれもしない。講義が終わってから赤を入れて書いたものを返されるだけなのだが、それもまた屈辱的なものだ。

 文章教室に通っている生徒の中でなら、鶏頭牛尾とばかりに先頭に立てると俺は自惚れていた。ところが現実はそうではなく、せいぜい書いた文章に赤ペンで直しを入れられて返されるだけ。講義があるたびに俺は惨めな思いをさせられる。自分が書いたものの何が悪く、また他の受講生が作ったそれの何が良いのかも理解できなかった。彼我の違いさえわからないのだから、改善の余地も何もあったものではない。

 講義を受けている他の連中が俺よりも才能があり、努力しているというのか。才能の多寡は別として、文章に費やしている労力に限って言えば、俺は恐らく受講生の誰よりも「頑張って」いるはずだ。それもまた自惚れかもしれないが、毎日欠かさずにブログに文章を5千文字も書き続けている人間が、学校において何人も居るなどとは思えない。毎週最低5冊以上は読書もし、インプットとアウトプットを絶え間なく行っていると言うのに。

 要するに、それらが完全に無駄なのだ。学校に入学してから半年以上も経つが、俺がこれまでやって来たことの全ては、今のところ全くもって結実していない。労働の合間の休憩時間に読書をしたり、休みの日は図書館に入り浸り、一日も欠かすことなく最低5000文字ものブログを更新しているのも、全て徒労である。それが学校という場において、疑う余地もなく実証されるのである。

 僅かばかり読書をしたり、たかがブログをどれだけ書こうが、何の意味もないということなのだろう。俺は少なくとも、教室の中に限れば一番になれると自惚れていた。高校時代からハガキ職人をやっていた。そのため、文章を書いて発表することについて、少々の自信があった。それが世間では全く通用しないばかりか、教室内の講評においても全然、見向きもされないのだから正直かなりショックである。

 己の教養の無さや知識不足を、この歳になって事あるごとに思い知るようになった。根本的に物を知らないから、良いものが欠けないのだと思っている。それについては重々承知で、どうにかしたいと感じ無理矢理にでも読書をする時間を設けたり長い文章を意識してコンスタントに作る習慣を身に付けたりしている。それでも到底、モノになるような水準には達しないのである。

 

 先天的に俺は知能が足りないのかもしれない。子供の頃は父や母から知恵遅れだと思われていたほどだ。今は経済的に余裕のない生活を強いられているが、それもまた俺の根本的な能力の低さを客観的に表していると言えるのかも知れない。あんな学校に通っている連中の中で頭角を現すどころか、他人の後塵を拝するということは、それは即ちそういうことのだろう。

 いま俺が10歳くらいであったなら、努力や教育などにより、ヒトカドの何かになれもしたかも知れない。俺は自分が何歳か、できるだけ考えないようにしているが、時折そういうわけにもいかなくなる。具体的にどういう時に年齢を実感させられるか、一々書くのは差し控えるが、日常のふとした拍子にそのような局面に見舞われるのは改めて思えばこの上なく不服だ。

 なぜ俺は歳を取るのだろうか。俺が例の学校に行こうと思ったのは、他人に使役されるだけで歳を重ねるだけの人生に焦りを感じたからなのだ。嫌いな会社に属し、にくい相手に雇われ使われるだけで、自分の人生が浪費されていく。それはいかにも未来がなく、嫌で嫌で仕方がない、絶望的な生き方のように思えた。だから、被雇用者としての労働とは全く異なる別の活動に従事することによって、何らかの活路なり光明なりを見出したいと俺は願った。

 それのために俺は、却って苦しい思いをさせられている。ただ単に、漫然と逆視され続けるだけの人生に満足なり納得なりすれば、こういう目に遭うことはなかっただろう。それはつまらなく、下らない生き方でしかないが、楽で、嫌な憂き目を見ることもなかったに違いない。さらに言えば、余計な恥をかくこともなかっただろうし、面倒で疲れることを日毎やることもなかっただろう。

 実際、これまで俺は人生の殆どの時間をそのようにして送ってきた。何かに全力で臨んだことなど、終ぞなかった。もしも全てを懸けて何かに取り組んだとしたら、俺の人生はもっと別の、全く違った様相を呈していたかもしれない。この歳になってから、もう若くもないのに、発奮したところで、もう手遅れで、単に赤っ恥をかくだけのことでしかない。

 それでも、俺は居てもたってもいられなかった。働かなければならない、生活を営むための糧を得なければならないと、あくせく仕事をするだけでは、俺は満足できなかった。手遅れだろうがなんだろうが、俺は何かをしていたかった。努力や苦労が実を結ばなかったとしても、そんなことは最早どうでも良いのかもしれない。日の目を見なくても、辛いだけの恥の上塗りであっても、それでもなにかをしていたかった。

 俺は目下、とある会社で働かされている。そこではなんのやりがいもなく、会社に拘束された時間分の、正当な対価さえ得られない。侮られ見下され、良いように利用されるだけの被雇用者として、俺は苦役に甘んじる日々を送るしかない。それはまさしく絶望的で、糞面白くもない。そして暮らしの殆どの時間を、そんな労働が占めていると言っても過言ではない。

報われなくても

 不本意な労働だけはしたくないと、子供の頃からずっと思ってきた。思ってきたが、大人になり馬齢を重ねて見れば、結局はそのような人間に成り下がっている始末だ。それが認められなく、耐えられないがために、俺は文章の学校に通うなどという馬鹿丸出しの愚行に及んだのだ。それが愚かしく、浅ましく軽はずみな行為だということなど、学費を払う前から頭では分かっていた。

 それでも俺はいま働かされている会社にも、転職活動にも望みを見出すことができなかった。それらを己にとっての全てだと見なして生きるよりは、雲を掴むような夢物語を追い続けた方が、まだマシであるように思えた。逆に言えば、そんな空想に縋らなければならないほどに、俺の人生には既に望みがないのだと言える。普通に働き続けたところで、俺にはもう先がない。

 真面目に働いたり、転職して別の会社に移ればどうにかなるなら、文章でどうのこうのなどと馬鹿なことは絶対に考えない。公務員になろうとしても、23区職員などになるにも、やはりもう機を逸してしまっている。また、職を転々とすればするほど、俺は自分で自分の首を締めるだけだ。もう道はなく、手もなく、後もない。そんな俺が作家になれるなど世迷い言を触れ回る怪しげな学校の広告に惹かれたとしても、それは無理からぬ事だろう。

 読んだり書いたりすることは面倒であり、他人が作ったものと自らのものを比べ、競り負ける屈辱は筆舌に尽くし難い。それでも俺は、日々の糧を得るための労働から離れた何かに活路を見出したいのだ。見込みや可能性がないとしても、そういう夢を見てはいけない、追ってはいけないという決まりはない。結果が出なく、報われないとしてもそれでも俺は文句は不平を言いながらも、例の学校には通い続けるだろう。

 自分よりも若く、優秀な者どもが絶え間なく出てくる。そしてそれらが世の中を我が物顔で渡り歩き、青春を謳歌するサマを俺は横目で見ながら割に合わない仕事を生きるために死ぬまでやらなければならない。そのことを改めて考えると、俺はたまらなくなる。どうすれば良いのだろうかと暗澹たる気持ちにさせられる。人生をやり直すには、もう遅すぎる歳で、底辺の労働から逃れる手段など、どこにもない。

 辛く苦しく、堪え難い労働から、解かれる術など一つもない。だからこそ、文章の腕前を上げることでどうこうという与太話に俺は飛びついた。それにより、たしかに得るものはありはした。酒浸りの日々から抜け出し、僅かでも遅ればせながら新しい知識を得ることもできた。しかし、それが仕事だの将来だのに結びつく可能性は、残念ながら限りなく低い。

 報われなくても、成功できなくても、何かを行うことこそが精神の自由の本質なのかもしれない。それは生産的でも建設的でもないが、好きに振る舞うということは、案外そんなものなのかもしれない。逆に、見返りや成果を是が非でも求める時、それが何であれ人間の精神は自由たり得ない。結果に頓着しない時、人は何者にも囚われることなく為し語り、在り続けられるのかもしれない。

厭離穢土

 欣求浄土とまではいかないまでも、とにかく世俗というものから精神的に距離を置きたいという思いが、日増しに強くなっていく。他人も、世の中も、そして自分自身に対しても、疎んずる気持ちが大きくなるばかりで、何もかもが鬱陶しく思えて仕方がない。厭世の情は極限に達し、その情動にさえも嫌気が差してくる。身も蓋もない言い方をすれば、何もかもが嫌で嫌で仕方ない。

 

好きじゃない

 厭世、この一語に尽きる。単純に俺は此の世を愛していないし、生きて動いているすべての生物が好きではない。これまであまり自覚することはなかったが、俺は人間というものそれ自体が嫌いなのだ、自分自身も。何もかも好きでないから、どうなろうとどうでもいいと思っている。そんな個体が世の中で人並み程度に上手くやっていくことなど到底無理というものだろう。

 何かにつけてうまくいかない時、俺は此の世の全てから拒まれているような気持ちにさせられる。また、己の肉体や精神を上手く御することができないとき、自分の内側に縁もゆかりもない他者が存在しているかのような感じを催す。どんな瞬間においても、自分があらゆる一切から疎外されている感覚に陥った経験は、一度や二度ではすまないほど多くある。

 俺は誰かに愛されたことなどない。息子として、男として、労働者として求められはしただろう。しかしそれは、果たされる役割が重んぜられたにすぎない。気を良くさせ、役に立ち、有益であると己を示せた場合にのみ、俺の存在は他者から許されはした。しかし、それは俺という一個の存在が肯定あるいは許容されたということを意味しない。それは単に使い道があると見なされたに過ぎないのだ。

 使えない人間に対する世間の風当たりはあまりにも厳しい、厳しすぎる。役立たずは人殺しよりも罪深い存在だと言えるだろう。俺は碌でもないちっぽけな会社の末席を汚し俗世にしがみつきながら、ほうほうの体でどうにかこうにか生きているといった身の上だ。頼られも一目置かれもしないが、さりとて職場からパージされもしない、ギリギリのラインを保つことで、目下の生活は成り立っている。

 死にたくはないものの、別に生きていたくもない。現在の気持ちを端的に表せば、このような感じだろうか。どうしても生きたい理由もなければ、死ななければならない謂われもない。激しく恋い焦がれるような誰かがいるわけでもなく、完膚無きまで叩きのめし、討ち滅ぼしてやりたいほど憎い相手もまたない。何のドラマもない、辛く苦しいだけの毎日が、のんべんだらりと続いているだけだ。

 俺は人生を愛していないし、この国や社会もまた然りだ。何一つとして、いいとは思わない。己のこの気持について、俺は延々とこれまで、誤魔化してきたように思う。自分が何者かを愛しているだとか、何か好きなものが此の世に何らかの形で存在する、ということにしたかった。そして、それを心の支えなり指針なりにして、生きていける、そうしたと思っていた。

 それが間違いだというのだ。俺には愛すべきものも、好きなものも何一つない。それはあまりにも非人間的で、寂しくまたつまらなく、人として欠けているような感じがして、いけないことのように思えた。それはどんなことをしてでも、伏せなければならず、また否定すべきことだと思ってきた。しかし、本心をどれだけ隠し、否定したとしても無理が生じて苦しいだけだ。本当は何も愛しておらず、好きなものなど此の世にはないのに。

怨憎会苦に

 誰と関わっても俺は嫌な思いをさせられる。しかし俺は、他人と接せずに生きていく術を知らない。物心ついた時からずっとそうだったし、いま働かされている職場でもクソ忌々しい連中に頭を下げたり言いなりになったりしている。そうしなければ俺の生活は成り立たず、それを避けながら生きていくのは不可能だ。対人関係で辛い思いをせずに済んだような時期など、思い返せば終ぞなかった。

 労働だけではない、休みの日にも同じだ。家でネットをやっていると、他人が放った言葉を見聞きしなければならなくなる。具体的にどのサイトのどのコミュニティに属する者どもの書き込みやら発言やらがどうのこうのと、書き立てたところで何の意味もない。眼の前に居る相手ならまだやりようもあるが、ネットの向こうに居る下衆どもの好き勝手な物言いについては、どうにもならない。

 直接かかわる人間よりも、最近はネット上で邂逅する他者の存在に対して、俺は頭を悩まされるようになってきた。無責任かつ身勝手極まりない言動に、俺の精神が打撃を被った時、それについて解決する策など何一つありはしない。加えて、それによって嫌な気分にさせられても、一円の得もない。会社でなら金や生活の為と考えれば大抵のことには耐えられるが、余暇の時間に被るとなると。

 とどのつまり、俺にとって何らかの形で他人と接触するということそれ自体が嫌なことであり、不幸のもとなのだ。人間というものが、俺にとっては好ましくなく、可能なら基本的に誰とも一緒にいたくはないというのが、偽らざる本音なのだろう。仕事以外の人間関係、家族などでさえも、俺にとっては気に病む大きな要因となる。そう考えれば、此の世には全くどこにも逃げ場などないということになる。

 他人が嫌いなのではない、国や社会が憎いのではない、この世界それ自体が、俺はどうしようもなく嫌いなのだ。そしてその嫌いな娑婆において、ダントツで嫌なのが怨憎会苦だと言える。それ以外のあらゆる苦しみもまた俺を悩ませはするものの、他人と関わることで被る被害や気苦労に比べれば、それ以外のことなど俺にとってはないに等しいと言っても、決して過言ではないのである。

 どんな場面でも、誰と一緒にいても、俺にとっては全く心穏やかではない。誰も彼もが、俺にとっては恐ろしく、また有害な存在であった。さらに言えば、俺にとって他人は9割9分、いけ好かない悪い奴に他ならなかった。何を考えているか、何を欲しているか俺には全く理解できず、俺は対人関係においてどんな局面においても悩まされ、苦しみ続けてきた。

 他人から見下されたり馬鹿にされたりすることが、年々我慢ならなくなっていく。子供の内や若い時分には耐えられたことでも、歳を重ねれば重ねるほど許しがたく思えて仕方がない。格下で、劣っていて、馬鹿にして然るべき存在だと確信を持たれたときの、他人どもの表情、目つき! 思い出すだけで身の毛がよだち、またハラワタが煮えくり返る思いだ。

 露骨に嘲り、蔑んでくる連中は、俺がその念を察したり汲んだりする能力さえないと高をくくっている。その腹の底を、俺は見透かせるがために、尚のこと一層その相手を憎いと感じるのであった。重ねて書くが、若い間ならまだ我慢できた。歳を取り、若くなくなれば、大して縁も繋がりもない者どもから低く見なされ貶されるくらいなら、いっそ殺された方が余程良いと思えるほどだ。

 

 誰と接していても、薄氷を踏むような思いがする。侮られないように、集団から除かれないように、どんな時においても俺は戦々恐々としなければならない。生きていて、気の休まる瞬間など、少なくとも他人を接触している間においては絶対ないと断言できる。俺にとって万人は常に恐ろしい。惨たらしく情け容赦のない衣冠禽獣の奇怪な存在以外の何物でもない。

 怯えながら、精神の均衡をギリギリのところで保ちながらどうにか世間を渡っている。そんな暮らしの最中に、俺はふと思うのだ、一体俺はなぜこれほどまでに心を荒ませなければならないのだろうかと。他人が強欲かつ身勝手で、邪悪で不可解な存在だというのは疑う余地などない。それはそれで一向に構わないが、問題はそれと俺の精神が不安定たらしめることの関係性である。

 他人が恐るべき存在であるとしても、それにより絶対に俺が精神に負担を被り、不安や焦燥などを抱きながら気に病み、憂わなければならないということにはならないはずだ。他者なる代物が基本的に嫌なものだということは揺るがない。しかし、それと対峙しどうにか対処しなければならない俺自身の心が、穏やかになれないとするのは、あまりにも短絡的すぎるのではないか。

 他人や世間などの様相について、どれほど悪しざまに書き連ねてもそれで何がどうなるというのでもない。言うまでもなく、そんなものは単なるぐちは不平不満でしかなく、どれだけ不遇をかこったところで、身の回りの者どもの精神が変わるわけでもなければ、社会が改善されるわけでもない。と言うよりも、具体的な働きかけをしたところで、それにより何かが良くなるなどありはしないだろう。

 娑婆は火宅であり、いかなる救いもないだろう。人間の営みなど詰まるところ一切皆苦でしかない。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦……。それらをまとめて四苦と言う。また、それに生老病死の苦しみも加えて四苦八苦となる。要するに、生きていても辛く苦しくままならず、いいことなど何一つない。それが偽らざる現実であり、此の世の実相なのだと言うしかない。

 夢も希望も、救いもない生を俺は生きなければならない。安住の地もなく、運命の人もいない、そのような人生を俺は寿命が尽きるまで全うしなければならない。どのようにして見を処し、どんな心持ちで日々を過ごしたところで、度し難い我が身を如何にすればいいのだろう。俺は途方に暮れるしかなく、たまらない気持ちになる。此の世で生きなければならない、しかし、なぜ、何のために?

 報われず、甲斐もないような生をどうすればいいのか。何をどれだけ頑張ったところで、何がどうなるわけでもない。誰に相談しようとも、何に縋ろうとも、気は晴れず、何も解決しない。そんな境遇、星のもとで、生きていくのはともすれば死ぬよりも、よほど悲惨で辛いことなのではないか。そんな泣き言を頭の中で反芻しながら、俺は右往左往しながら、おっかなびっくり生活している。

万物を思い切れば

 救われる可能性が皆無で、望みが絶たれているのなら、なぜ何かを恐れるというのか。何かが得られないのではないかと憂う余地さえないならば、どうして俺は恐れたり怯えたりしなければならないのだろうか。俺は時折、自らの情緒がどうしようもなく奇妙に思える。胸中は穏やかならず、ささくれ立ち、汲々として、悩み、いつも気がかりな己の精神の構造や動きといったものが、どうにもおかしく思われる。

 いつでもどこでも、森羅万象の一切合財が最低最悪だというのなら、打ちひしがれることがあろうか。一つもよくなく、また良くなる兆しもないならば、全てに対して思い切ってしまえば、それで話は終わってしまう。アレのココが悪い、それはコレコレの理由でケシカランなどと言葉にし、またそれに伴う種種雑多な感情を抱いたところで、俺が何かを得ることは決してありはしない。

 言葉に表すことにも、憤ることにも、恐れることにも、何一つとして重きをおくべきでない。思いきれば、何がどうなろうと最早、知ったことではない。所詮は苦しく、ただ恐ろしく、そして忌まわしい。それらに対して、余計な言及や考察を加えるのは、どこまでも愚劣極まりなく、今の俺には思える。ムキになったり、マジになったりすることに何の意味も価値もないと、身に沁みるようになった。

 何もかも、よくなりようがなく、また大概の憂いや苦しみ、悲しみからは逃れようもない。これらについてあるがままを認め、また諦めるべきだ。一切は苦であり、それを避ける術を持たないのだと。予め、どんな安楽への道も全て絶たれているということを、ゆめゆめ忘れないようにすべきなのだ。あらゆる望みが絶たれた状態を絶望という。そしてそれは、全てを諦めた思い切りの境地でもある。

 諦め、思い切ったならば思い煩う必要もなくなる。他人や世間に対して何を言い、また思ったとしてもそれは何であれすべて蛇足となる。何も言うまい、思うまいと自らに言い聞かせるだけで、それだけで全ては事足りる。また、自分に向けられるあらゆる言葉や思惑の一切についても、俺はどんな感情も感想も、抱く必要はなくなる。これもまた、全ては蛇足だと言える。

 何も望まず、願わなければそれらが叶わず、ままならなかったとしても何かを感じる必要はない。やむをえず、生理的な反応として自らの内に何かが惹起されたとしても、それを後生大事にして重大な何かとして取り扱う必要もない。重要なことなど、厳密には何一つありはしない。それは外界の諸物や諸現象についてはもちろん、内界においても同じだ。

 他人が悪意を持ち俺に何かを言ったりやったりしてきても、それについて推し量ったり洞察する必要もない。他人どもの心境も腹積もりも、事情も都合も何もかも、俺には知ったことではない。それらのどれもが大切ではなく、重要でもない。全ては取るに足りないことでしかなく、真面目くさったり深刻ぶったりしなければならならないような、ものではない。