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乱文手記置場

雑記、雑感その他

問題即自我

 問題とはそれ自体が人間にとってのアイデンティティだ。自分が自分であることと己自身がどのような存在であるかということは密接に関わり合っていると言っても過言ではない。人間にとって格闘している問題の内容が己が何者かを表す。このような視点で考えたとき、人は問題を解決したり解消したりすることなど内心全く望んでいないのではないか、という気さえしてくる。

 私は今こんな問題を抱えているのだと宣うとき、その時点でその人は自身について語っている。あるものを問題視し、それについて悩んでいると誰かに吐露するとき、それは当人が意識していないが広義の自分語りとなる。その問題それ自体は己について語る端緒に過ぎず、その人はそれに対面して何らかの反応や行動を起こしている自分自身を誇示している。

 このようにして人間は、問題によって自分自身を定義する。頭痛の種やや闇のタネを通して人は自分が何者かを知る。そしてそれがその個人にとってのアイデンティティを形成する。悩み事こそが概念上の自己を自己たらしめる要素となり、それによって人間は自己を意味づけする。

 目下直面している問題がその人の形而上の血肉となるのである。我々にとって問題とは取り除くべきもの、克服し解消するなり解決するなりすべき何かだと思われがちだが、人間の意識の深いところでは実はそうではないのである。我々の自我は問題それ自体の化身であって、それが解決あるいは解消されるということは私たちの自我が霧消することを意味しているのである。

 よって、抱える問題を増やすことは人間にとって自己の拡張となる。我々は問題を克服することに依ってではなく、問題それ自体によって自己を確立する。我が強い人間は多くの問題がある人物であり、逆に生きる上で問題がない者は無我、無私の状態に近いと言える。

 私たちは人生の中に問題を見出す度に自我を強くする。何かに悩み、苦しみ、怒り、憎み、倦み厭うことで私たちは自分が自分であることを確認している。それによって人間が得られるのは単に我の強さだけなのだが、これがどういうわけか我々にとっては強烈な快感となるのは不可思議なことである。私たちは自己や自我を強く意識することを望んでいる。そしてそのためには多くの問題を抱える必要がある。人間にとって多くの場合、何らかの問題によって苦悶し葛藤するほどアイデンティティを強めることになり、それが無意識下における我々の強烈な願望となっている。

 

 私は数々の問題を抱えてきた。私にとって生まれや育ちが悪いことがまず第一の問題であったし、自身の肉体的な特徴の一つ一つが常に私を悩ませてきた。履歴書に書かなればならない経歴なども問題だらけであるし、目下生活上の金銭面で抱えている問題は当然感化できるものではない。更に言えば私は将来というもの自体がたいへん大きな問題であると考えているので、私にとって自分自身というよりも生涯それ自体が巨大な大問題そのものであると言っても過言ではない。

 懊悩や煩悶に耽ることが人間として上等な振る舞いなのだと私は信じてきた感がある。葛藤を抱え込んだり苦しんだりすることで自分が高踏な人間に慣れると愚かにも考えていた。まるで私小説の主人公よろしく自意識過剰で自惚れが過ぎる人格が思春期以降形成され、私はそれによって根暗で陰気で悩み深い人間となっていった。

 問題に悩まされることこそが私の人生であった。私の生涯において、問題に直面していない瞬間など全く無かった。生きること即悩むことであり、また苦しむことであった。映画の主人公が葛藤を抱えながら問題に格闘するかのように、私もまた生きる上で対峙するありとあらゆる煩雑な事柄を問題視し、それに取り組んでいる自らに憐憫の情を抱き、それによって自分が何者かを知り、定義し設定てきた。

 私にとって人生の全ては悩みの種であった。何らかの問題について悩んだり苦しんだりすることで自己を確立するという手法で生きてきたのだから当然である。私は悩みが存しなければ己が存在し得ないという愚劣な考えに基づいて人生を棒に振った。私がそのことに気付いたのは、馬齢を重ね色々と手遅れになった後のことであった。

 私は問題に対処することが人生だと思って生きてきた。果敢にそれへ立ち向かい、それと格闘し、勝利することが人間として好ましい振る舞いだと本気で考えていたフシがある。今にして思えば、理不尽で不条理な諸問題に直面し、煩悶し葛藤に苛まれながらも生きている自分というヒロイックな自意識がそうさせたのかもしれない。

 だが、私はそういう姿勢にいつしか疲れ果てていた。生涯が問題で満ち満ちていて、寝ても覚めても常にそれらに頭を悩ませ、命ある限りそれと延々格闘し続けなければならないという姿勢を取り続けることに、私はうんざりし飽きてしまったのだ。

 また私はある時から、仮に一つの問題が解決しても自身が置かれている状況が好転していないことに気付いた。ある問題が解消されても全く異なる別の問題が噴出し、それについて今度は頭を抱えることになるのは世の習いだろう。私はそれにほとほと嫌気が差して、もういい加減終わりにしたいと望むようになっていった。

 

 自分が存在し、それに対して何らか問題があるという世界観を私は自明なものとして認識していた。まず、私が在り自身を悩ませ、苦しめ、妨害する問題が存在し、それに何らかのアクションを起こすことが人生であり生きることの本質であり真理だと思いこんで生きてきた。

 しかし、私があって問題があるという構造に私はある時ふと疑問を感じた。一体どこの誰がそれが真実だと保証したというのか。それは単に私個人がそう思って生きたというだけであって、そういう捉え方が真理でありこの世の実相であるなどという根拠は何一つない。

 私は思った、何かが私を悩ませるののではなく、その何かこそが己の本質となっているのではないか、と。私が悩んでいるのではない。私が苦しんでいるのではない。私が苦しんでいるのではない。その悩みや苦しみこそが私を私足らしめている要素であり、私が生じる出どころであり己の正体であった。

 問題を抱えれば抱えるほど、自我は強固かつ堅牢となる。自我の強化のために人は望んで問題があると思いたがる。自分が自分で在り続けるのは人間にとって何故か快感となる。それを追求するために私たちは常に諸事を問題にしたがり、問題視できるなにかを血眼になって探し回っているのが実際のところではないだろうか。

 逆に問題がない時、そこには私はない。確固たる私、一個の人間として確立された自我というものは対峙して取り組むべき問題があってはじめて存在する。問題なくして己を打ち立てることは不可能であり、問題を抱えたくないと真に望むなら、人間は己が己で在り続けたいという欲を手放し、その妄執から離れなければならないだろう。

 我在りという思いと問題があるという思いは不可分であった。問題即私という構図が見えており、なおかつそれでも問題に煩わされることを望まないならば、私は私であることをやめる必要がある。と言うよりも、ただそれをするだけで私は煩雑な問題から解放されると考えるべきだろうか。

 本当の意味で問題から開放される時、私の自我は消滅する。自分自身に固執したり執着したりすることが無くなれば、問題持つ必要性もなくなりそれこそが本当の意味でのソリューションとなる。自分が自分であるという状態に拘ることも囚われることが無くなれば問題は生じず、憂いも煩いも起こり得ずそもそも存在すらし得ない。

肉の人、霊の人、そして無

 人間の本質とはなんだろうか。我々は様々な瑣末事に翻弄され忙殺されながら日々を汲々と送っているせいで、自分を自分たらしめる要素が何かなどといった思いを馳せる余裕はあまりない。自分自身を守り維持するために暮らしを営んでいるのだから、それが何なのかを知ることは重要であるはずなのに、何故か我々はそれを怠り、蔑ろにしがちである。

 各人をそれぞれ個たらしめる核心となるものは千差万別だろう。何かが万人にとって画一的に自己の本質であるとは言えないだろう。何を自身の核とするかは人によりけりであり、どれを若しくはどんな状態をもって自分自身だと定義するかに貴賎や優劣などといったものはないだろう。

 しかしそれは大抵、己の心身のどちらに属するものである場合が多いだろう。別の観点で述べるならば物質的なものか精神的なものかのどちらかであるとも言えるだろう。それが何であるかが個々人の個性であり、独自性であると言える。

 心と体のどちらに重きを置くかによって人は肉体的な存在か霊的な存在かに分類される。しかし、それらのどちらかが優れているとか勝っているという話ではなく、ただ単に別の人種だと言うだけである。世の中の大部分の人間はこれらの2つのタイプのどちらかに属し、それぞれ異なった価値観や世界観を前提として生きている。

 

 肉体およびそれに付随するものに重きを置くのは肉の人だ。自身の頑健な肉体そのものやそれの働きをもって自己の本質とする人は多いだろう。母親の腹から生まれた日をもってその人は自身の人生の始まりと定め、心臓や脳が昨日を失った瞬間に自身の人生が終了するとこの手の人間は確信するだろう。

 体こそが自分自身だと確信を持って言える人は幸いである。肉体は極めて明々白々とこの世に存在し、生きている人間の耳目でありありと認識することができる。鏡に写っている自己の像を指して自分自身だと認識するのは正常かつ当然だ。肉体が己そのものであり、それだけが全てであると考えることは安直かつ短絡的ではあるが、同時に妥当な認識であると言える。

 精神およびそれに付随するものに重きをおくのは霊の人だ。自分の肉体だけでは満足できず、心や魂といった形而上の領域に本質的な自己があると考える人がこれに当たる。この手の人種は肉体が滅んでも自身は雲散霧消しないと考える。不滅の霊魂がその人にとっての本地であり、それはあの世に行くにしても生まれ変わるにしてもその人であり続けるのだ。

 心こそが己の本地だと胸を張って言える人も別の意味で幸いだ。自己同一性というものが肉体の有無に依存せずに厳然と保たれ続けると核心を抱けるなら、その人は死を恐れる必要がない。永遠に自身が不滅であると信じる人は迷いなく生き、そして死ぬことができるだろう。肉体の老化や死亡といった将来的に避けがたい問題に自らの内面的な解決を図る上で、霊即自分とするのは極めて有効であると思われる。

 しかし他方では、心身ともに自分自身だと思えない人種もいる。肉体は自分の思い通りにならず、精神も完全に意のままに制御できないという事実から、それらの両方とも自分自身だと見なすことができない人間である。私はまさにそういうタイプで、肉体も精神も自分だとは認めたくないという思いがある。私の本質、本性、本地といったものはそれらのどちらでもなく、全く別の何かであるような気がするというか、そうであって欲しいという願望のようなものが子供の頃から内心ではずっとあったように思う。

 こういった類いの人間は寄る辺のない不幸な存在だ。目に見える肉体や想像が届く概念としての霊魂が自分自身の本質だと見なすことができない

 この不幸な人種が救われる道はどこにあるのだろうか。この手の人間が抱えているのは本質的かつ究極的な自己への不安である。形而上においても形而下においても、自分だと思えるものが全く存在せず、何に重きを置けばいいか覚束ない。そんな状態で生きていかなければならないのは辛く苦しいものである。

 私は肉体も精神も自分自身だと見なせず、それが私を悩ませてきた。己にとって大切にしなければならないものが何か分からない。肉も霊も己の本質や本性だとするにはなにかが足りないのではないかという思いが払拭できない。自己のアイデンティティの問題を解決することができず、私はそれについて頭を悩ませてきた。私は肉の人でも霊の人でもない。それらのどちらにも帰属せず、どうすればいいのか途方にくれてこれまでずっと生きてきた。

 

 しかしその煩悶は、どこかに何らかの形で自分があるはずだという思いから端を発するものだ。それが物質的な形であれ観念的な形であれ、確固たる自己が何処かにあるはずであるという前提を根拠にした思想だ。私達は漠然とそれに対して疑う余地がないと思い込んでいるが果たしてそれは妥当だろうか。

 真の自己という代物が肉体にも霊にも依らない何かだとしたら? いや、それどころか真我というものがどんな形でもどんなところにも実在しないとしたら? そうだとしたならば、人間にとって心身に関わる諸々の事柄は本質的には問題ですらないと言っていいのではないか?

 人間の本地・本性が実のところ無だとしたら、心も体も本当の意味での私ではないということになり、本質的な次元で見たり考えたりしたときに何の問題も存在しなくなる。

 無とは「なにもない」ということではない。無とは定義や言明が不可能なものや状態を指す。人間の本質とは実際は人知を超えた完全なる不可知・未知そのものではないだろうか。我々は己自身の本性を決して知ることはない、少なくとも生きている間には。

 余人がどうであるかは置いておくとしても、私は己の本性が「無」であると断言してしまいたい。私は心身のどちらにも依らない存在であると、本質的には。世俗や日常を離れた究極的かつ本質的な意味における自分自身とは他ならぬ無そのものだ。だから私は滅ぶことも損なわれることも決してありえない。

 無から何かを取り除くとはできない。無から何かを奪い取ることはできない。自分自身が無であると確信したとき、人は完全無欠の最強な存在となる。それは仏教的な用語で言い表すならば悟りや成仏といった言葉が当てはまるかもしれない。

 無論、日常的な次元においては私は肉の人でありまた霊の人でもある。しかしそれは本質ではない。生きる上で人は世俗的な感覚を失ってはならない。しかし、人は本質にも目を向けるべきであり、己が本来は何者であるかを思い出し気付かなければならないと私は考える。

 生活とスピリチュアルのバランスを取る必要はあるが、私は自身の本地が無だと確信する。私は肉の人であり霊の人でもあり、究極本質には無でもある。他人がどうであれ少なくとも私は自分自身を何とするかという月並みかつシリアスで遠大な問に対しては一つの回答を持つに至った。私とは無であると。

 心身はともに仮初めの自分にすぎず、私と呼べるものは本質的かつ究極的には全くの無であると断言できる。無は何かに限定されず、始まりも終わりもない。決して生まれることも死ぬこともない本性を自覚することができれば、人間は死ぬことや失うことを恐れる必要など本当はないということを知るだろう。

 無という言葉はNothingではなくEverythingである。無限や無尽、無辺といったものを指し示すことはできないからそれを便宜上無と名付けるしかないが、それは本来ならどんな言葉でも言い表すことができない「何か」であるのかもしれない。

 ともあれ、自分自身というのは絶対的な未知であり永遠のフロンティアであるというのは私にとっては福音にほかならない。肉体や人格、または霊魂が即己自身だと見なす余人にはもしかしたら私の考えはいたんかもしれないが、個人が己をどう見なし捉えるかは自由の範疇だからこれについては誰の理解や許可も不要だろう。

喪失

 仔細は省くが、今日ブログで使用するはずだった文章の草稿が故あって無駄になってしまった。タイトルを決め全体的な構造を考え、各行ごとの冒頭に据える一文を綴るだけでも私にとっては大仕事であり、それを完遂するだけでも少なからぬ時間が掛かる。それが全て無に帰したということは時間的な損失だけでも決して無視できるものではないと言えるだろう。

 それを考えたり書いたりするのに要した時間や労力は全くの無駄となった。人生における時間はどんな局面においても有限であり、通常の一般的な感覚においては時間の無駄というのは忌避されて当然の代物だ。言うまでもなく私たちは有限なある期間の中でしか生きられず、健康でいられず、正気を保ちつづけることができない存在である。だからこそ時間というものは貴重でかけがえのないものだと見なされているし、私自身も全く同意する。

 時間や労力、金銭の喪失は人間を大いに苦しめるのは周知の通りだ。割いた時間や支払った代金に見合った何かが得られないとしたら私たちは大抵の場合ひどく落ち込むはずであり、それは世間的には正常な感覚だと言える。形而上形而下の別なく、私たちの心の奥深くには何かを所有したいあるいは所有しているという感覚と、それらが得られないかもしれない若しくは失いかねないという思いがある。

 人間にとって精神的にしろ肉体的にしろ失うことは苦痛や恐怖の源だ。自分の所有となっているはずの何か、自身の一部であるはずのものがふとした拍子から我々の手からこぼれ落ち、どこかに霧消してしまうとしたら、私たちは何も感じずにはいられないだろう。不感症にでも陥らない限り、それは私たちにとって苦痛の元となるのは当然勝つ自明なことだ。

 今日のことに限らず、私は数限りない数多のものを失ってきた。まずそれは若さであり、未来への夢や希望である。そして絶ってはならない人間関係や不意に紛失した財産や幾つもの私物、将来への切符となるはずだった数多の機会などなど数え上げればキリがない。

 また、喪失への後悔と懸念が私をずっと責め苛んできたように思う。ほんの些細なことから得難く掛け替えのないものをなくし、また目下当たり前のように手元にある事物や人との繋がりについて一体どんな弾みでそれが失うのではないかという思いが、たとえ杞憂だったとしてもどんな瞬間においても延々私を苦しめ続ける。

 

 だが、喪失を被る時、人はなぜ苦しむのか。私だけではなく、万人にとって失うこととその可能性は頭痛や悩みのタネとなるだろう。自分の体の一部でもなく、自身の神経と直接結びついているわけでもないのに人はなぜ失う度に苦しみを感じるのだろうか。それについて私は洞察や分析も怠ってきた感があり、それへの無理解がよりいっそう私を苦悩させてきたようにも思える。

 肉体的な損失は怪我や病気、そして死などが当てはまる。若さや健康、五体満足な体や正常に働く臓器などは私たちにとって基本的に失いたくないものであり、それらの存在はっきりと目に見えて認識したり自覚したりできるものだ。しかしそれらは老化や身体を負傷することで容易に失われるものでもある。四肢が欠損したり内蔵が機能不全に陥れば私たちは嫌でも喪失感を味わうことになる。それは言うまでもなく耐え難いものだ。

 対して、精神的な喪失は既に持っている何かを失うことで引き起こされる感情だ。所有物は本来先に挙げた肉体とは異なり私たちと直結するものではないが、それでも「我がもの」を失ったり手放すときに通常人は悲しみや苦しみを被るだろう。それは概念的に我が身の一部のように感じられるから、それが手元から無くなるとすれば人は、擬似的に手足を引きちぎられるような思いを味わうだろう。

 そんな多種多様、種種雑多な諸々の苦しみに悩まされずに済む道があるなら、私ならぜひそうしたいところだ。肉体が衰え滅び、身ぐるみを剥がされ全てを喪失してもそれを苦にも思わず、それについての可能性に思いを馳せても呻吟することのない境地に至ることができたら、もう私は憂い煩うことは今後一切なくなるはずだ。

 そもそも、「これは私のもの」という前提に基づいて生きてはじめて人は喪失することが可能となる。そんな考えや思いが自明で疑いようがないという体で人は自他や世界全体を知覚し、判断を下している。そういった価値観や世界観に支えられ満を持して私たちは何かを失うという経験ができる。言い方を変えるなら、そういう目に遭うことが可能となる。

 しかし、私たちは何かを失えるのだろうか? くだんの前提が盤石で疑う余地が全くないなどと一体どんな根拠や確証があって言えるというのだろうか。何かを指してこれは私の物だと宣言するのは単に当人が身勝手にそう認定しているに過ぎない。私たちは自身の肉体ですら代謝や生理現象を自在に制御できない。なぜ私たちはそんなままならない代物を我がものだなどと恥ずかしげもなく宣言できるのか。改めて考えてみれば極めて滑稽なことだ。ましてや体以外の事物や事象など言うに及ばずであろう。

 何かを自分の所有物だとか、己に帰属するものだと考えるのは間違いではないか。それは浅薄で狭量な了見でしかない。獲得や所有という概念はそれ自体が幻想にすぎないのかもしれない。私たちは本質的には何一つ手中に収めることはできず、一瞬たりとも何一つ「我が物」にすることは能わないのではないだろうか。

 

 そして、何も持たない者は何かを失うことはない。持たざる者とは私たちの本来の姿である。何かを得る、得うる、得ているといった誤謬から解かれたとき、人は何かをなくす可能性が一切なくなる。

 完全に徒手空拳の者が何かを喪失することはそもそも不可能だ。端から失うものがない人間は手放すことも捨てることもできない。そしてその人は喪失への懸念や不安とは全く無縁の存在となる。

 何かを獲得しようとする試みは全て不毛である。なぜならそれは単なる錯覚にすぎない。私たちは空手で産まれ空手のまま死んでいく。それは一人の例外もなく、どう足掻いても覆ることがない。仮に何かを手に入れたように思えてもそれは一時の思い過ごしにすぎない。そのことを遅かれ早かれいずれ必ず私たちは気付かされることになる。

 また、何かを失うまいとすることも徒労である。私たちは決して何かを失わない。先に述べたように、そもそも私たちは決して得ることはないのだから。得ることがないものは失うこともなく、それについて心配することは取り越し苦労にすぎない。

 肉体も精神も厳密には私の所有ではない。そして精力や時間も私に帰属しない。だがそれは厳然と存在し、私はそれらを有効に活用することはできる。人間にできるのは手に入れることではなく使うことであり、それは仮初めの獲得や所有に固執するよりも遥かに多くのものを我々自身にもたらすだろう。

 何かを活用する上で所有することは必須ではない。自身に有益なものの恩恵に浴するとき、それが自分の物である必要などない。何度も述べたように所有しているという感覚は錯覚や幻想にすぎないのだから、使うときにそれが自分の物かどうかについて拘泥する意味はない。

 喪失など問題ではなく、恐るるに足りない勘違いでしかない。それに気づければ私たちは無用な心配や恐怖からは縁を切ることができるようになるだろう。何事も自分の物だと思わないことだ。そういった姿勢を保つ習慣を身に付ける必要があると感じている。

 私は空手で産まれ、生き、そして死ぬ。そう思えば人生というのは何と気楽な旅路だろうか。何も得られないということは抱え込んだり背負い込んだりするものもないということだ。私たちはただ路端にあるものを使うだけで十分だ。そんな憂いなき生に喪失という概念自体が不似合いであると言えるだろう。

なんでもない

 人は自分自身について語る時、否定形でしか言及できないのかもしれない。まるで否定神学のように、己について厳密かつ矛盾のない命題を述べるならば、否定形の文言にならざるをえないのではないだろうか。つまり、私は肉体ではなく、一時の激情でも思考でもなく、組織や集団の一要素ではない……。

 私は◯◯であると言うよりも、◯◯でないと言う方が個人的にはしっくり来る。無論先に挙げたもののアンチテーゼも成り立ちはする。私は肉体としての側面もあるし、内面において惹起される感情や思考は紛れもなく私のものではある。私は独立した個人であることは揺るがないが、その一方で社会的な様々な集まりの一部でしかないという面もまた持っている。

 しかし肯定形で語られる自分への言及は何であれ不十分で不完全である。私は肉体以外の要素もあるし、移ろいやすい感情や思考の一切を自分自身だと見なすのは暴論であり、私は会社や自治体などといった組織の一構成員としての顔以外の側面も当然持っている。それらに相反することはいくらでも言えるのだから、「私は◯◯」であると取り立てて言うことに意味があるとは思えない。

 そして、自分自身の本質や本性というものは実際、「何者でもない」のかもしれない。私は肉体でも感情でも思考でもなく、肩書やステータス、または特定の個々人との関係性によって定義されるのではなく、それらの一切と無関係な何かなのかもしれない。名辞できない何か、指し示すことが不可能な定義不能な何かが自分の本性であり本質であって、言い表すことができる要素や側面は人間の本地とは全くかすりもしない皮相的な属性にすぎないのかもしれない。別の言い方をすればそれは無であり、未知であり神秘である。私たちは己自身を形容することも誇示することも確信することもできないのが実際のところなのかもしれない。

 

 人は何者かになろうとする。神秘主義や精神世界にかぶれでもしなければ、人は世俗的な価値観に従って生きることとなり、それはつまり何者かになろうと試みるのである。それは社会的地位や階級への志向かもしれないし、何かを所有したり誰かと関係を結ぶことによって得られる立場や身分であるかもしれない。仮に好ましい何者かに慣れたなら人は、それであり続けようとしそのために人はありとあらゆる手段を講じるだろう。

 また社会は私たちに何者かになることを勧め、求め、強いる。子供の頃、将来の夢について周囲の大人に尋ねられたことがない人間など存在しないだろう。人生の様々な局面において私たちは数多くの他者に質問される。お前は何になりたいのか、どうしたいのかと。その手の問いに対して、俺は何者にもなれないし、またなりたくないなどとと宣言するのは相当勇気がいるだろうし、仮にそう言った場合、その人は周囲から奇人変人か社会不適合者の烙印を押されるだけだろう。

 社会的な意味で人は生まれながらに何らかの存在として定義づけられる。まず我々はほぼ例外なく産まれたらすぐに親などから自身の出生届を役所に提出され、戸籍に登録されるだけでなく名前をつけられる。戸籍が与えられ名付けられた時点で私たちは社会的な存在となる。それらがどのようなものであれ、それらが公的な意味でのアイデンティティとなりそれは一生涯私たちに付いて回ることになる。

 名前にしろ戸籍にしろ、私たちは自分では選ぶことができない。続いて今度は社会的にどの階級に属するかが自動的に決定する。経済的に下層な階級に組み込まれ生育されることを望む人間は居ないが、不幸な者はそのように育てられるだろう。その次に半ば強制的に決まってしまうのは従事する仕事だろう。このようにして戸籍、名前、階級、職業は生得的に私たちに押し付けられる。これらがお前だと社会や他人、世間から宣告され、私たちは社会的なアイデンティティを強要されることになる。

 こんな外的要因による定義付けをある者は受容し、またある者は反発する。先に挙げた諸要素や諸々の属性が自分にとって好ましく思えるような幸福な人種は当然のごとくそれを享受しそれに基づいた生を謳歌し、その生涯を肯定しながら守り通そうとするだろう。しかし、先天的に不本意なものをあてがわれた者はそれを潔しとはせず、異を唱えるだろう。

 私個人を例に挙げるなら、私は本籍地や与えられた名前がとても嫌だし、生まれつき属している階級やそれによって決定づけられてきた半生を忌まわしく思う。自分を自分たらしめる戸籍や名前、社会的なあらゆる属性の一切が私にとっては好ましくも望ましくもなく、そのためそれらが私自身をズバリ現しているとは絶対に認めたくはないという思いがある。

 

 私は少なからぬ歳月を生きた結論としてやはり、自分は何者でもないと主張したい。人間全般に敷衍して言えるかどうかは定かではないが、少なくとも私は好ましくない自分を唾棄あるいは放擲したり、望み通りの自分に近づいたりするのではなく、本来的な意味での己の本地を追求していきたいという思いがある。自分をどのようにして定義づけるとしても、それは根本的な解決にはならない。

 己が何者であるかというのは表層的なことでしかない。たとえ私が皇帝であろうが乞食だろうか、それは自分そのものを指し示さない。冒頭で述べた通り、私は◯◯であるという命題は穴だらけで、いくらでも否定でき覆せる。それは一時的に一つの側面から見た表象に過ぎない。

 戸籍謄本や住民票を取り寄せて紙に載っている文字の羅列を指し、これが自分そのものだと胸を張って言う人間がいるだろうか。大げさ過ぎる例えかもしれないが、何かを引っさげたり指して「これこそ私」だと主張するのは概ねそういう所業であると言える。

 何者でもないということは自由そのものだと言える。人が自由な状態でいられるのは何かになろうとせず、何かであり続けようとせず、何かと自己を同一化させていない間だけだ。本当の意味で言うところの自由な人間はなんでもない、希少でも特別でもない取るに足らない存在だ。

 何かを目指し、何処かに達しようとする努力や作為はそれ自体が人間を不自由に陥れる。何かを定義づける試みはそれを限定付ける行為であり、それを己に施すということは自身を有限で局所的な、矮小な存在にしてしまう。私は◯◯だという命題は牢獄そのもので、その内容がどうであれそれは人間にとってのしがらみとなる。

 何かであろうとしたり、何かで居続けようとする姿勢はそのまま人間を心身ともに束縛する。自由を志向する人種はこれから逃れ、距離を置くことになる。それができない若しくはしたくないというのなら、その人は自由になることを本心では望んでいないのだ。

 なんでもない、特別でない人間だけが自由だ。そんなものは御免被るという人間は社会においては多数派だろうし、その思いは私にも理解はできる。しかし本質的な自由と世俗的な意味で言うところのそれとは全く異なるということだけは主張したい。

 個性的であることや特異であることを誇示するのは自由を希求する態度とは正反対だ。そして余人の大半は不自由を好み望んでいると言えるし、社会的に望ましい人物とされるのは自由人ではないのだろう。

 なんでもない状態が自分の本性であり、それは自由と不可分だ。なにものにも依らない境地に至る時、肉体からも精神からも私は解放されるだろう。そしてそれは極めて反社会的なことだとも言える。

人生終わり

 人生は物語そのものだ。私たちは過去現在未来というシリアルな出来事の羅列を自分自身という主人公を中心にして体験しつつ意味付けながら生きている。私たちは人生の当事者でありながらオーディエンスでもあり、自身の生涯を現実として体験しつつもそれをコンテンツとして享受している側面もあると言える。そういう観点で己の人生がどのようなものだったか振り返ってみると、私の人生とはなんと「悲劇的」だったことか。

 私は常に自分を不幸かつ不遇な人間であると見なし、人生というシリアスな悲劇を演じてきた感がある。生まれも育ちも悪く、色々なめぐり合わせにも恵まれず、現在進行形で平均以下の惨めな暮らしに甘んじ、将来の先行きも暗い。そんな生涯を映画やドラマのストーリーに見立てるならば、それは紛うことなき悲劇であり、それの主人公たる私はさしずめ悲劇の主人公といったところになるだろう。
 私は客観的に見て社会的弱者である。悲惨で卑賎な身の上で這い上がることも前に進むこともできず、貧苦に喘ぐ最低最悪の存在である。誰からも愛されず顧みられもせず、ただ毎日を他人に利用され浅ましくへりくだり、やりたいこともできずやりたくないことをやらされている。そういった境遇に置かれている社会的弱者が仮にドラマの登場人物にいるとしたらそれは悲劇的なキャラクターということになる。そしてその人物が中心に据えられた物語は当然悲劇であり、それが私の人生であるなら言うまでもなく遺憾である。

 そんな私は自他共に悲劇の主人公として努めて振る舞ってきた。それは自身を客観的に捉えて社会的な通念に照らし合わせて自己を分析した結果だろう。私は被害者として生き、そのように振る舞っていたように思える。己の生を端から悲劇と見なし、私は自分自身を必要以上に被害者として設定しすぎていたきらいはある。
 しかし、幼少期まで遡っても私には不遇なことがあまりにも多すぎたように思う。物心ついたときから私の主観的な記憶の中には楽しい思い出や良かったことなど何一つなかった。そんな自分の半生を振り返る度に私は自己憐憫に耽った。私は悲劇の主人公であると同時にそういうストーリーを享受する観客でもあった。そういう立ち位置に立って自分の人生をコンテンツとして楽しんでいたフシもある。
 他人の目や世間や社会的な常識などから照らし合わせて私は常に己を劣等と見なした。それに固執した理由もまた自分の人生を悲劇と定義し、自身を被害を被る哀れな主役としてキャスティングしていた。自分の人生を悲劇として演出するためのありとあらゆる作為や努力が無自覚に為されていたように思える。それも全て自分が悲劇の主人公であり続け、それを客観的に楽しむための苦労や努力であった。
 将来的な見通しも暗く、最早私には一抹の望みを抱く余地も残されてはいないだろう。己の生涯が悲劇的な結末を迎えるさまを私はこれまで何度夢想しただろうか。そんな空想は「こうならないようにしよう」と生産的かつ具体的な行為に結びつくことは殆どなく、我ながら不思議であったが、近頃それが何故だったのか腑に落ちた。私にとって自分の生涯は悲劇であるというよりも「そうでなければならない」ものであり、それは己自身の自分が悲劇の主役を務めるドラマを堪能したい、それを享受して憐憫の情に浸りたいというはっきりとした願望や欲動に起因するものであった。

 しかし、被害者としての悲劇的な人生というのは飽く迄そういう風に己の中でそう見なしている前提ありきの話だ。社会的な見てどうかとか、何かにおける平均と比較してそれを上回っているか、または標準的な条件を満たしているかどうかなどといった事柄はほんとうの意味における客観たり得ない。自身の人生を悲劇と見なし、己を被害者だとするのは単に自分で自分をそう定義しているからにすぎない。

 何故そうするかは前述の通りだ。不可抗力的によって全く望んでいないにもかかわらず不意にこうなってしまったなどとは口が裂けても言えない。自省し恥を知る能力があればそんなことはとてもではないが言えない。私は自分の意志で人生という悲劇を演出し、脚本を書き、主役を演じてきた。そしてそんなコンテンツとしての自分の生涯を観客としても楽しみ、自己憐憫を味わうためにより悲劇的な生き方を内心ではずっと望んできたのが実情である。

 私はずっと不幸に酔い痴れ、それを好み望んできたのだ。私を苦しめてきたのは他ならぬ自分自身であり、そしてそれは自覚のない本心からの大願であった。意識の皮相的な部分では不遇や不運、他人から受ける酷い仕打ちに憤ったり不満を抱いたりしていても、それは単にポーズに過ぎなかった。

 腹の底で私はずっと不幸になりたかった。現状が不幸せであるならそれを礼賛、称揚しつつ、自身が更に苦境に陥ることを願った。逆に自分の生活が上向きになったり、憂いや煩い、災厄などが目下なくなると却って不安になり、心の内奥では打ちひしがれ挫けることを希っていたのだ。これが私の本心であり、私がずっと願ってきたことであり自身のこれまでを振り返れば正しく「望み通り」の人生であったと言える。

 私は己の願望の正体を知るとともに、これと決別したい思いだ。結局渡しを苦しめていたのは私の願いや望みであり、それから距離を置くことでしか私は救われない。私は私の本性を唾棄しなければならない。私が私であることは根本的に私を悲劇の中に閉じ込め、自分が自分であることで私は束縛される。
 不遇や不幸、不運といった事象や悲哀や痛苦といった感情に劇的な意味を付与しているのは単に私の主観に過ぎない。私は私自身を見なす、お前は哀れな被害者だと。私は私自身に告げる、お前の人生は悲劇そのものだと。私はそんな自分を遠目から物見高く鑑賞し、悲惨さや悲壮さが足りない、もっと不幸になるべきだと言い続ける。

 だが、それらのどれでもない別の私が「もう御免被る」と叫ぶ。悲劇を創作し、演出し演じ鑑賞することにホトホトうんざりし飽きた自分の存在を私は無視することができない。不幸せの根源が自身の内側にあり、それはこれまでの私にとっての本願であったということは自覚できた。次の段階に進むべき時が来たと言えるだろう。

 悲劇から喜劇に転じることは安直ではあるがこれもまた私の望むところではない。そもそも何故人間は「人生」を生きなければならないのだろうか。過去現在未来という時系列に則り自分という主体を中心とした経験の集合体としてのコンテンツ、人生という代物は一体なぜそんなに大切でなければならないのだろうか。

 生きることと人生を送ることが完全に同義であるというのは絶対の真理だとは思えない。ある瞬間のみにフォーカスする時、そこに「人生」が入り込む余地はない。しかしその最中にも私は生きている。時系列順に出来事を並べ、主体的な中心人物としての自分が何かを体験したり経験したりする物語は人間にとって絶対不可欠ではないと私は思う。
 むしろ私個人としては、人生という劇にはもう幕を引くときであり、今私はシリアルかつシリアスな一続きの物語から脱すべきだと感じる。自分と人生を同化、同一視してどんな人生を送ってきたかを深刻に捉える必要などありはしない。私は悲劇的であれそうでないものであれ、人生から距離を置きたい。どんな演目であれ、役者としてはもう舞台を降りて少なくともそこからは解放されたい。

マユイズム

 私の曾祖母はマユという名前であり94歳まで生きた。マユは明治生まれの津軽人でとても頑固というか頑迷な人物であった。ひ孫の私とは同じ家で生活していたが精神的な交流と呼べるものは殆どなく、幼少の私にとってマユは得体の知れない何か恐ろしい存在のように感じられた。曾祖母はいつも何かに対して不満気だったし、厳しい表情をどんなときもしていたような記憶がある。

 マユは実利をとても重んじる性格であったという。ひ孫の私には知るよしもないことであったが、父や叔母たちから伝え聞いたところによれば、マユは自身の息子たち、つまり私から見たところの祖父や大叔父たちが実業に関係のない娯楽や芸術などについての書籍を開くことも許さなかったという。私の祖父は文学が好きだったが、マユの前では小説一つ読めなかったという逸話すらある。

 今にして思えば、マユの性向や気質はそのまま私の家の家風となっていたのだろう。津軽の寒村に根を下ろした我が一族の方針としては、マユの実利主義は至極当然のものだったように思える。大叔父たちは都会で企業人や実業家となり成功したが、私の祖父だけは家長として家を維持するために家業の農家を継ぎ、嫡子つまり私の父をもうけた。祖父はマユに倣って父を育て上げ、自身が受けた薫陶を父に受け継がせた。

 気候が厳しく、経済的弱者が多数を占める津軽においては、人間の精神もまた貧しいものになるのは無理からぬ話だ。曾祖母だけでなく、家中の者はみなどこか殺伐としていたし、金銭的に何にいくら掛かるかや収支の仔細についてはどうしてもシビアにならざるを得なかっし、そういう余裕のない心が意識無意識の別なくどんな瞬間や場合においても支配していたような感が思い返せばあるような気がする。

 私が父から受けた躾や教育などという名目の様々な仕打ちは、今にして思えば祖父や曾祖母に遡れる代物であった。父は自身が親からされた通りのことを私にもしたのであろう。そして父の父、つまり私の祖父は曾祖母の実理優先の思想を色濃く受け継いでいただろうし、父の思想は少なくともマユにまでは原因を求めることは可能だろう。

 家族という関係や家という環境は個人の心身にとって決定的な影響を与える。私は人間という存在は偏に環境の産物だと思っている。というよりも一個の人間は土地や階級、一族の諸要素を統合し代表する存在だと考えている。少なくとも生育環境は個人を語る上で絶対に無視できなものであることは自明である。私は己について省みる時、家についてまず思いを馳せる。自分の人格や精神、背丈や顔立ちですら私は「家」が作り出したと断ずる。私が抱え込んでいるトラウマをはじめとした精神的なネガティブな要素は実利のみを求める家風によって色々と強要されてきたからであり、その悪しき家風は私の主観の中ではマユが発端となっているように思えてならない。

 我が家の家風は私にとってとてつもなく大きな障害であった。田舎の貧しい家庭であり、子供はもとより大人の教育水準が都会人のそれと比べて明らかに低劣であった。そういう環境において生まれ育つ人間は平均以下の教育しか受ける機会を与えられない。私の将来は貧困と無知によって閉ざされたようなものであり、これは家庭環境を考慮すれば「そうなるべくしてなった」、避けられないことであったと言えるかもしれない。

 私は長男として、将来いくら稼げる人間になるかという一点のみを問題にされて育成され教育された。父も母も目先の損得しか頭になく、私がどんな人間になるかは単に月いくらの給料を貰う労働者になるかというだけのことでしかなかった。それだけが両親の目標であり、私が産まれて来て生きる目的であった。

 実利という唯一絶対の指標によって私は育てられたし、私のしつけや教育以外のあらゆる事柄についても金の問題は常について回った。生活はいつも苦しく、享受する娯楽もテレビ番組やコンピューターゲームなどが主で芸術や教養などとは全く無縁であった。かつて祖父が曾祖母から文学を取り上げられたように、父や母は文化的な文物に私を浴させることは全く無かったと言っていい。

 田舎の下層階級には教養など不要というよりも有害である。そういう環境で育つ子供に与えられ要求されるのは直接収入に結びつく習い事や実学であり、人生を豊かにするために芸術や文化などでは決してない。それは下層階級に属し、卑しい身分に産まれ生き死んでいく者たちにとっては揺るぎない真理だ。そのような意味において両親や祖父母、また曾祖母に至るまで貫徹された実理のみを希求して自他共それを要求する生き方や思想は当然のことであり、これに疑問や反意を抱くことは間違っていると言えるのかもしれない。

 大人になって親元を離れた現在も、形而上的な概念と化した「家」は常日頃私に付きまとう。私は都会で一人暮らしをしているが依然貧苦に喘いでいる。そういう身分である私にとってやはり経済上の問題は常に付いて回るし、労働者としても最底辺に位置づけられている。実利は現在においても私にとって懸案事項であり無視することはできず、金のことで頭を悩ませる度に私は貧しい故郷の家を思い出す。頑迷で無教養な人々の群像と自分自身の浅ましい身の上が重ね合わされる。彼らの影響下で育ち、全くそれを克服できていない己にもどかしさを覚えるのである。

 マユや私の家に限らず、貧しい家やそれに属する者にとって実利とは最も重視すべきものの一つだろう。我々は生きるだけで本当に精一杯で、眼前の損得から目を背ければ最悪命取りとなる。津軽人であるならば貧しさと不幸せからは絶対に逃れられず、またそれらは無知や無教養と無関係ではない。マユや私の身内の人々、ひいては津軽人全体が多かれ少なかれこのような気質を備えているだろうし、私もまた例外ではない。

 マユは私が知る最も遠い祖先であるが、マユもまた私が属する家系における一つの通過点に過ぎない。私はマユがとりわけ我利我利亡者だとか狭量で頑迷だなどとと言いたいわけではない。言うまでもなく曾祖母にも両親がいてそれにもまた親がいるのである。親から子、子から孫、孫からひ孫と下層階級の理屈や精神は延々と受け継がれるしまた、家系はどこまでも遡ることができる。そんな大きな流れの一部としてマユが存在し、また私も生きている。

 そして家系全体が受け継いだ実利を重んずる心は津軽という遅れた貧しい土地が生み出したものである。実利のみを求め、それ以外を軽んじたり気に留めたりもしない姿勢を私は浅ましく思う。しかし、このようなさもしい心を携えたまま私は異郷の地で今日も卑しい生活を営んでいるというのは無視できない事実である。

 マユに代表される一族の悪癖、津軽の地が生み出すゲニウス・ロキとしての貧乏性的な精神を私は乗り越えなければならないし、この問題は恐らく私にとって一生涯の主題となるだろう。目下の問題としては経済的に余裕のある生活を営める様になるべきだが、それ以上に思考しなければならないのは実利から離れたところにあるものにもっと興味や関心を持ち、労力や時間を避けるような暮らしを実践するべきだろう。単に金があれば解決する話ではなく、もっと精神的に豊かになれる道を模索することで、マユや家族、ひいては先祖や津軽的な物心両面における貧しさを超克できるかもしれない。

平等

 人間は皆等しく平等に価値がない。外見の美醜や知見の多寡、どんな社会的な地位を持っていようとも一切関係なく万人は無価値であり、そういう意味で等価である。顧みられるべき者など誰一人存在せず、敬うべき人間も恐れるべき人間もない。人間存在の根本が無価値であるならば、どのような関係性によって気づかれた間柄であってもやはりそれは無意味であり、大切ではない。肉親であれ赤の他人であれ、人間は他者という存在に対して敬意や崇敬などといった感情を抱く義務など一切なく、「大切な人間」と呼ぶべき存在はこの世に誰ひとりとしていないと喝破すべきである。私たち誰も大事ではないというスタンスに立ってはじめて公平に人間全般を知覚することができる。ただしそれは無価値であるというだけであって軽んじていいということではない。

 価値が無いということと価値が低いということは全く異なる。軽んずる、値打ちを低く見積もるという行為は、価値という基準や尺度でもって対象を値踏みしている。そのようなスタンスは「人間を無価値なものとして見なす」思想とは全くかすりもしない。本稿において述べられる「人間無価値論」は要するに価値という物差しを取り払って他者を認識すべきであるという主張である。軽蔑や見下しといった類いの感情は相手を自分よりも価値が低いと見なすが故に起こる。それに対して相手に価値がないと見る姿勢からはそれらのような情緒が引き起こされる余地は一切ない。無価値と見つつもそれに対して尊重する姿勢を崩さないということは別段おかしくもなく、難しいことでもないと私は考える。

 しかし、私たちは得てしてこの世に重んずるべき何者かが存在する、若しくは存在しうるという迷妄に陥る。それはお人好しさというよりもむしろ、愚劣な良心に起因するものであると言えるかもしれない。他者を尊重することは大切であり、人として望ましい振る舞いであるというようなことを我々は学校などで教え込まれるし、メディアを通してそのような思想を植え付けられながら私たちは育ち、生きているからそのような誤った見識を身に着けてしまうのは無理からぬことではある。しかし、他者を敬うべきだという感情はその対象に嫌われたくない、よく思われたいという思いを生み、結果そのような思考が私たちを縛り付け、それによって恐怖がもたらされ私たちは生きづらくなっていく。結局のところ、他人に重きを置く考えというのは我々にとって精神的な負荷を強いるし、それによって苦しみが増すから有害であると言える。

 この世に尊く大切な人間がいるという誤謬から対人関係の苦悩が始まる。他者から嫌われたくないという思いは、他人が無条件に価値がある存在でありまた自分に対して何かをもたらしうるという前提によって支えられている。しかしそれは想像上だけのものでしかなく、それを実証する根拠など実は全くない。にも関わらず私たちは他者の価値をどういうわけか盲信してしまうから他人というのは根拠もなく我々にとって価値ある存在だ。そんな対象に嫌われまいように、ひいては好かれようとする試みの不毛さは改めて考えれば馬鹿らしいことこの上ない。そしてこのバカバカしさが対人関係の苦しみの源である。

 このような誤謬、迷妄の只中にあっても人間には嫌われてもいい対象というものがある。そういう人間に対して、私たちは価値があるとは見なしていないはずだ。好かれなくても問題ない相手は大抵自分が見下せる存在である。そこから端を発し、侮蔑や嘲笑といった情緒が生み出されるのだが、それも価値という尺度においてマイナスに振れているから起こる現象であり、これは他者に価値があると考えることと対極であっても無関係ではない。

 蔑むにしろ敬うにしろそこには他者を値踏みする姿勢がある。そして他人の価値を推しはかる行為や魂胆の根底にあるのは傲慢さだ。仮に最大限に相手を尊重し、崇敬の念を抱き表明したとしても、それを行っている人間の腹の底にはとてつもない驕慢さが宿っている。自らの身勝手で無根拠な判断で相手をどの程度の存在であるか計測し、それに基づいて態度を決めたり変えたりすることは、その結果が何であれ醜悪である。恭しさの中にも思い上がりや自惚れがあるものだ。自分の中にある価値の物差しを絶対視してそれに従って他人に判断を下すのは相手を単にないがしろにしているだけだ。

 本当の意味での敬意や尊重というものは価値という尺度や基準を放擲してはじめて可能となる。他者を丁重に扱うということは人を値踏みする軽率さとは対極にあるということを私たちは知らなければならないが、世間での人間関係は往々にして他者の価値を計測して判断するという無粋な域を脱していない。私たちの社会が息苦しく、生きづらいものである大きな原因の一つとして、値踏みしたりされたりする関係性というものは厳然としてあり、その根源となるのは価値という概念そのものであると言える。人は一人の例外なく無価値であり、その上で平等である。さらにだからこそ私たちは人を分け隔てなく尊重しなければならない。

 そしてこの命題は自分自身にも当てはまる。他ならぬ自分自身もまた「無価値」である。他人や他者だけに価値がなく、自分だけは唯一無二で値千金と考えることもまた無明を彷徨う入口となる。自分が絶対的に価値がある存在であると考える時、その価値ある私を喪失したり値打ちが減じる可能性が生じる。そんな喪失への懸念は恐怖を生み出し、それによっても私たちは苦しむことになる。自惚れや自己愛は自身に価値を付与するが内心ではそれを失う可能性を常に孕むこととなり、不安の種となる。

 己の価値が塵芥に満たないのだと確信したとき、そういう憂いや煩いから人は無縁となる。自分自身は価値が低いのではなく、「ない」と気づけば、価値という尺度で自身を測定する必要がなくなり、それに付随するあらゆる煩悶から解放される。私に価値などないのだと断言したとき、その叫びが人をエンライトメントに導く。そこに至るにはなんの工夫も努力も無用であり、その先には一切の迷妄も苦悩も存在しない。

 何人たりとも貴重でもなく崇敬すべきではない。そういった姿勢を貫いてはじめて人は自分も他人も受容できる。値踏みから始まる判断は自他共に苦しみしか生み出さない。何かに価値を見出すとき、同時にそれ以外を低く見ると表明しているも同然である。価値あるものの裏には常に貶められる何かがあり、自分ないしそれに属する何かが後者に分類されかねないネガティブな可能性がある。そんな懸念が人間に与える精神的苦痛は計り知れず、それから逃れようとすることは必定である。そしてその解決としては価値という基準それ自体を「ない」と断ずること、無価値だと確信し断言することなのである。

 自他への幻滅や失望こそが人間にとっての福音である。万人にとって不朽の価値を保持する何かなどこの世には絶対に存在せず、自分自身もまたあらゆる意味で価値を持ち続けることは能わない。価値あるものはいつかその値を下げるし、尊ばれるものは遅かれ早かれ何かによって、あるいは何者かの手によって貶められる。それ自体やその可能性が人間を苦しめる原因となることは何度も述べたとおりである。そしてそれからの救済、解放を希求する人間は価値という物差しが絶対でないと知らなければならない。それに拠ってしか我々が救われる術などありはしない。