書き捨て山

雑記、雑感その他

操作したがり

 他人を操作したがる人間が多すぎる。家でも学校でも会社でも、どこもかしこも一体何様のつもりなのだろうか。自分の意に沿わないという理由で他人を攻撃したり否定したりする悪漢どもの、なんと多いことか。俺としては、そのような手合いは社会から排斥され、刑務所可病院にでも隔離されて然るべきだと思う。だが現実においてはその手の人種が世の中を我が物顔で渡り歩き、肩で風を切って威風堂々と我が世の春を謳歌しているのは、誠に嘆かわしいばかりだ。

 自分以外の個体が思い通りにならないことの、一体何が不服なのだろうか。俺には皆目見当もつかない。他人を自分の意のままに操ることの快感が、そもそも俺には理解できないから、俺を操作できないと憤る者どもの気持ちというものを、推し量ることすら不可能なのだ。それをしたがる人間の欲求というものが、得体の知れない恐ろしい感情のようにしか思えない。それは正体不明にして奇々怪々の茫漠とした妖怪のようだ。

 金が目当てで、そのために他人を操ろうと企んでいるならまだ分かるが、そうではない。いわゆる「操作したがり」は操ること自体が目的だから、却ってタチが悪い。実利の為に他人を利用する類いなら、まだ理がある。ところが、操作したがりには理屈も論理も存在しない。ただ他者を己の延長として見做し、その「思い」が無下にされれば気に入らず、不服だと宣うのだから単なる我利我利亡者とは一味違うのだ。

 金や利益を目的にしている人間は、ある意味気持ちがいい。自分の感情や気分よりも、金銭を優先するような人間には尊敬すべき点があると俺は思う。その原理原則に従って行動しているのだから、対処・対応も簡単にして明快だから付き合いやすい人種であるといえる。だが、そのようなタイプは現実にはなかなか存在しない、稀有な人間だ。

 現実の社会で跋扈しているのはそのようなリアリストとは似て非なる者どもだ。銭ゲバは金という普遍的な価値がある事物のために他人を操ろうとするのに対して、操作することを目的にする者はそれによって得られる自分の満足感を動機にしている。金銭は誰にとっても価値があるものだが、その人間の個人的な感情などは当人以外には無価値なものでしかないことは言うまでもない。どちらが悪質で不条理な存在であるかは言うまでもない。

 

 

 個人の気持ちというものは一体どこまで慮られるべきものだろうか。それも他人を自分の意のままにしようなどと考える者の気持ちというものを、配慮しなければならないのだろうか。そのような人々を不愉快にさせることは果たして罪悪なのだろうか。俺はその手の人間の下でよくこき使われたものだが、連中は自分の気分が俺によって害されたと言って怒りを露わにしたが、それは正当なものなのだろうか。

 彼らに屈する俺の気持ちは無価値で、顧みられる必要はないというのだろうか。操作したがり曰く、ないと言う。お前の気持ちや都合など知るものか、と平然というのだ、このような者どもは。俺はなおのこと不思議で仕方がない。そのような言動や態度を取られて、俺は感銘を受けたり屈したりして連中の言いなりにならなければならないというのか。彼らの頭の中においては、どうやらそうなのだろう。

 自分の気持ちは大切だが、目下や格下だと自らが見做した存在のそれなどは知らない、というよりも踏みにじり蔑ろにしても一向に構わないどころか、そうして当然だというのが、操作したがりの思考だ。俺はそのような手合いは本当に死んで欲しいと思う。一日も早く自殺でもして、この世から消えてくれればどれだけ世間はましになるだろうか。

 自分を尊重しない人間に献身し奉仕する義務が、俺にあるというのか。それも嫌々、涙をのんで屈辱に顔を歪めながら従うだけでは駄目で、俺は敬服し崇敬の念を抱きながら例の操作したがりに平身低頭、滅私奉公で命が続く限り尽くさなければなならない。腹の底からその感情が正当だと思える人間の精神構造が俺には理解でない。まるで俺とそいつらが、一心同体の運命共同体であるかのようではないか。それも主従関係ありきの。

 実際その手の者どもにとって、同輩以下の人間など自身の心身の拡張なのだ。肥大化した自意識を、人間関係のある別の個体に拡大して認識しているからこそ、前述のような傲慢不遜の考えが当たり前のようにできるのだ。そしてそれは、金銭などの利益のためによるものではなく、自らを拡張すること自体が目的であり個人的な欲望の充足のために行われる行為なのだ。

 

 重ねて述べるがそれは金のためではない。会社などの組織においては操作したがりの言動は一見、仕事上の成果や利潤の追求のためのものであるかのように見せかけて行われる。しかしそれは本当はどうでもよく、自分の個人的な欲望を満たすという本当の目的を隠蔽する目眩ましでしかないのだ。

 俺は社会に出てからずっと、それに気が付かずにただ単に会社や職場に不利益を与える行為を自分がしているから、上役などの怒りを買っているのだとばかり思っていた。だが、実際はそうではなく、もっと裏に隠された本当の動機というものが厳然と操作したがりの腹の底にはあったのだ。

 家庭でも会社でも、他人を操作したいなどという欲は邪悪でしかない。自分以外の個体を我がままに操りたいという願望は、健全とは対極にあるものであり、操られる側にとっては100%有害なものでしかない。それを正当化できる根拠などどこにも、一つもありはしない。そのことが操作したがりには絶対に理解できない。自分の意を汲んで他人が動かないことは、連中にとっては決して許すべきでない悪事なのだ。

 人間でなくても、特定の何かが思い通りにならないことで激憤に駆られるのは、単に幼稚なだけだ。それは全くもって正しくない。本来なら、そんな願いを聞き入れてやる筋合いなどないのだが、その手の人種は上下関係を振りかざして我意を通そうとしてくるから厄介だ。立場上彼らに従わない訳にはいかないから、結局は連中に屈服していいようにされてしまうのが実に悔しい。

 しかし、抗うことが出来なくても自分が他人の身勝手で個人的な願望のためだけに、不当な操作を被っているということを念頭に置いていくことは可能だ。すぐに操作したがりの魔手から逃れることは能わずとも、それから離れる機会を虎視眈々と伺いながら雌伏の時を送ることは十分できる。操作したがりは身も心も他人を自分の物にしなければ気が済まないが、くだんの人々の魂胆や腹づもりを常に忘れずにいれば精神の所有権だけは彼らに握られることはない。

 

 

 誰それの手となり足となりと言う表現は、決して単なる例えではない。他者を操作したがる者どもにとって、目下や格下は文字通り自身の心身の延長でなければならない存在なのだ。これは極めて危険な思想であり、餌食にされ利用される者にとっては奴らの存在は害悪以外の何物でもないのだが、そのような人間は社会において排斥されるどころか、様々な場所に居座り一定の地位を築き上げ、猛威を振るっているのがこの世の現状だ。

 我々はそれからどのようにして身を守るべきだろうか。その答えを残念ながら俺は持ち合わせていない。というよりもその手の人間を完全に社会から隔離する制作の一つでも無ければこの問題は解決しないだろうし、現実的にそのようなことは絶対に起こり得ない。せいぜいそのような人間が権勢を振るう場所に近付かないようにしたり本性を表したら可能な限り距離を置くくらいしか手がない。

 少なくとも、そういう御仁の気持ちに沿う必要など一切ないということだけは心に刻んでおくべきだろう。操作したがりはさも自分のために他人が尽くすのは当然で、自身を敬われるべき存在だと自負している。それに気圧されて靡いてしまわないように気をつけることで、連中の毒牙にかからないように気を確かに持つことで精神だけは防衛できるだろう。

 単に言いなりにするだけでは奴らは決して満足しない。彼らの最終的な目標は格下の精神を完全に自らの支配下に置くことだ。それが達成されなければ、連中の目的は頓挫されたも同然だ。物理的に奴らに報復したり反抗したり出来ないとしても、一矢報いることくらいは可能である。面従腹背の姿勢を貫くことで、操作したがりの邪悪な願望を打ち砕くことはできる。

 正当性のない身勝手で個人的な欲望を満たす手助けをする義理などない。結局のところ、従わせ操作しようと企んでいる者どもは、俺のことを心底見下し侮り見縊っているにすぎない。そんな連中の気持ちを思いやる義務も必要もなく、むしろ悪人の願いや欲望など踏みにじって然るべきだと思う。

道具人間

 俺は利用される道具でしかない。被雇用者として生きていると、様々な場面でそのことを実感させられる。他人の私利私欲のためにタダ働きを強制的にやらされることなど日常茶飯事で、そのことを不服に思うことさえできない。いわゆる社会人というものはそれを常日頃こなすのが当然であり、それが嫌だとかやりたくないなどと言うと人間失格の烙印を押されかねない。

 他人に使役されなければ生きていけないのは単に恥ずべきことだ。生まれてきてからずっと、俺は自分以外の誰かに雇われ使われることを前提にして生きてきた。無産者として死ぬまで働くことを義務付けられて、俺は家の中や学校などで躾や教育を施された。そうでない生き方を志向することなどあり得ず、それが嫌だと思うことも許されないような環境で育ってきた。

 その結果として今の暮らしや人生がある。言うなれば俺は生まれついての底辺労働者であり、現在置かれている状況は宿命以外の何物でもない。俺の意思や選択など、全くまるで無関係にこの人生が仕立て上げられたと思うと、それを指して「我が生涯」などと呼ぶことすら抵抗がある。利用され、使役されるだけの存在が人格を尊重され、個人としての人生を歩むだなどと、土台おかしな話だ。

 社畜などという言葉があるが、思い上がりも甚だしい。それ以外にもよくなされる物言いの一つとして、下層の労働者を家畜や奴隷に例えるものがあるが、それらは全くもって不適切な表現だと言える。なぜなら先に挙げたような存在は、一般的にきちんと価値がある高価なものであり、容易に失えるような代物ではないからだ。家畜にしろ奴隷にしろそれは、使い捨ての道具ではなく、大枚をはたいてようやく手に入れられる財産だ。果たして、労働者というものははそれらに該当すると言えるだろうか?

 我々の価値は自身が思っているよりもずっと低いのだと底辺労働者は自覚しなければならない。中流以上の人間だとまた事情は異なってくるだろうが、下層の労働者など100円ショップで売られているような消耗品の道具程度の価値しかないのが実際のところではないだろうか。そのような現実を認めなければ我々の生活は一向に変わらないように思える。屈辱を受け入れ、現状を正しく認識するのは辛いことではあるが不可欠だと思う。

 

 

 使われるということは他人に所有される道具として振る舞うということに他ならない。そのことをかなりボカして我々は日々を生きている。意思や意見を尊重されることがなく、時給いくら月給いくらといった端た金で酷使される存在以上の何かでは有り得ない。その現実をはっきりと認識する機会は、そう多くはないだろう。それは被雇用者側の尊厳を傷つけることでもあるが、それよりも雇っている側にとっても都合が悪い事実であるから、それについては曖昧にされているのではないだろうか。

 お前は俺の私物だから不満も文句も言わず思わず、死ぬまで全身全霊、全ての時間を捧げてこの俺に尽くせ、などと会社の上役や雇用者は口が裂けても通常言わない。どんな人間であっても、自分が悪者になることは極力避けようとする。また、それを自覚していたとしても、それであることを状況が浮き彫りにならないようにあらゆる言動によりその事実は隠匿されるだろう。

 俺は他人を我欲のために酷使する人間のその欺瞞が何より気に入らない。仮に俺が使う側だったなら、この世の他の誰よりも横暴で悪逆を極める人使いでもって、使われる者を思う存分虐げるかもしれない。しかし、そのことを隠したり誤魔化したりなど絶対にしないと神に誓って言える。他者を使役することは言い逃れようがない悪行であり、それに手を染めるなら悪びれずにただやるだろう。

 他人の時間を自らの欲得や都合のために掠め取ることは他者の人生を搾取することでしかない。それの意味について、世間では深く考えることも論じることも推奨されていない。それは飽くまであやふやにされ、使う側も使われる側も明確にそれを意識しないようにして、どうにか丸く収まっているような感がある。ナアナアなままにしておくことで、無用な軋轢が生じないようになっているのだ。

 俺はそれが嫌だ。単に赤の他人にこき使われ、自分の人生が無駄に消耗するのが惜しいだけではない。無論それも重要だが、他人の時間を明確に掠奪する大悪行を公然とやっておきながら、自分がまるで悪人でないかのように振る舞う神経が嫌いだし、それが当然のようにまかり通る世間の風潮が嫌で嫌で仕方がない。私利私欲のために他人を犠牲にするならするで、もっと堂々と潔く悪人として徹するべきだ。

 

 お前は俺の道具だから大人しく使い潰されろ、と面と向かって言ってきた人間など終ぞいない。しかし、実質そのような扱いや態度で俺に接してきた者は両手で数えても足りないほどいた。連中は使われるが分からしてみれば単に加害者以外の何者でもないが、自分がそれであると見なされることを一人の例外もなく避けようとしたし、そう見なされれば憤るのが常であった。

 他人を道具のように使役しながら、その悪行が被害者に意識されると怒り出す身勝手さは、極めて醜悪だ。使うことが問題なのではなく、それを美辞麗句や詭弁によって隠蔽しようとする浅ましい精神が全くもっていけ好かない。俺も事を荒らげるのは避けたいから実際には言わないが、可能なら言ってみたいものだ。お前からしてみればこの俺など使い捨ての道具にすぎないだろうに、恩着せがましい口を利くな、と。

 敵対することを何故人は恐れるのだろうか。利害関係や主従関係により、一方が一報を搾取されたり酷使したりしているという動かし難い現実があるにもかかわらず、会社などではそれがまるでないかのように巧妙な形で偽装される。使役される人間が自分の意志で進んで、好んで、望んで、目上や雇い主に献身したり奉仕したりしているという体でことが運んでいることにしたがる人間には、心底辟易させられる。

 しかし、その欺瞞も使う側が使われる側を「使えない」と判断されれば用いられなくなり、剥き出しの本音が露わになる。その瞬間を俺は何度も経験した。その時に露呈する使う側から放たれる本心からの言葉は、俺には却って心地よく思える。仲間だの何だと言っていた人間が、結局のところ都合のいい存在でないとなれば態度を急変させてあらゆる侮辱や罵倒を食らわせてくる。初めからそう言えばいいのにと思う。

 

 

  利用する側とされる側の間には、親愛や和睦の情など芽生える可能性などない。使役される側の能力の如何にかかわらず、その前提は覆らないだろうし、それをはっきりと自覚するべきだろう。俺は使役される存在として、他人に屈して道具として徹するのだと明確に意識しなければならない。思えば、そのような認識が欠けていたから色々な問題を抱える羽目になっていたような気がする。

 低賃金労働をする無産者として生きる限り、他人にとって都合のいい道具以外の何かであることなど有り得ない。それは人間にとって本来なら屈辱的なことであり、好ましくない。それをどのような瞬間においても明確に意識しつつも、それから脱するために自分がどのような行動をすべきかを考えていかなければならないだろう。

 他人に利用される道具として産まれ、今日まで生きてきた。そのことを疑問に思い、不服に感じ、どうにか変わりたいと願う気持ちが、どうにも欠けていたように思う。また、そのような気持ちを抱かないように周りの人間に精神や思考を操作されていたようにも思う。嫌そうな顔をするな、と親や上司、雇い主などの多種多様な人間によく言われたものだ。俺に足りなかったのは、正しくそれだったのだ。

 使えない人間を目指したい。他人に利用されるのを肯定するような精神は持つべきでない。そのような気持ちを忘れて生きているから、毎日がハッキリとしない霞がかかったような感じになってしまっていたのだ。不平不満こそが人生を切り開く為の端緒となるのだ。どのような局面においても、満たされない不本意な心を失わずにいたいと俺は思っている。

 他方、使役され続けて時間や労力を延々と提供する存在を常に必要とし求めている者は当然、その気持ちや精神を挫き、削ごうとするだろう。改めて考えれば極めて単純にして明快だ。これは奪い合いのゲームである。他人を使う側は如何にして従順な人間を確保するかが肝心であり、逆に使われる側はそれにどのようにして抗うかという話になる。処世とは結局のところその両者の戦いであり、社会の実相はシンプルな理屈で動いている。現実とはいつも無味乾燥で身も蓋もないが、それから目を背けることはあってはならない。

この身は誰のものなのか

 健康ファシズムという言葉がある。これは、社会全体が負担する医療費用などをできるだけ削減するために、個々人が心身ともに頑健であり続けることを要求と言うか無理強いするような傾向や風潮のことだ。病気になるような不養生や嗜好を忌避あるいは否定し、めいめいに可能な限り健康を維持させようとする思想は、想像するだけ大変窮屈な感じがするし、個人的には嫌いな考えだ。

 これに基づくならば酒も煙草も出来ないし、日常的に運動をしなければならないだろう。俺は前者はともかく、後者が子供の頃から苦手というよりもやりたくなかった。用事もないのに動き回ったり、一円にもならないのに玉を蹴ったり投げたりするようなことは昔から大嫌いなタチで、親をはじめとした周りの大人達がそれを強要する度に俺は反感を覚えたものだ。

 俺は田舎の遅れた場所に生まれ落ちてしまったため、冒頭で述べたような思想とは厳密は異なるが、いわゆる体育会系の思想が蔓延した環境に置かれて育てられた。健康ファシズムであれ体育会系であれ言い方や細かい理屈が異なるだけで、大元にあるものは同じだろう。それは即ち、頑健な肉体を持った個人であれという前提だ。これらは健全な肉体を肯定し、それでない肉体を問答無用かつ無条件で否定するという点で、完全に同一だと見なすべきだ。

 健全さは公私の利益に最終的には結びつくだろうし、健康への追求の本当の目的はそれにあるだろう。ただ単にスローガンのように健康第一と言うなら、何故そうであらなければならないのかという話になる。そしてその問いに対しては、健康であれば実利的な面でプラスになるから、という答えが自然と用意されるだろう。我々が丈夫な体を持つことを礼賛するのは、要するにそれが個人や社会にとって得になるからだ。少なくとも頑健であることで損を被る局面はなかなかないだろう。

 社会全体が負担する医療費を削減するために一人一人が健康に気を遣えという要求もまた、プラクティカルな観点から出てくる発想だと言える。それはさらに言えば、個人の肉体というものは当人だけの占有物ではないという考えも内包している。「みんな」が医療費を余計に負担するのは悪だからお前は健康でいろ、などといった意見の背景にあるのは、肉体の所有権が個人ではなく社会全体にあるのだという主張に他ならない。

 

 

 もし仮に完全に肉体が俺のものであるならば、これをどうしようが他人にどうこう言われる筋合いなど一切ない。どれだけ酒や煙草でそれを汚そうが、出不精の肥満体になろうが、覚醒剤などで脳を破壊しようが、まったくもって個人の勝手だ。法律も老婆心も無関係で、やりたい放題できるはずだ。先に述べたような風潮などどこ吹く風で、自分の体をどのように損なおうが害そうが好きにできて然るべきだ。

 だが、実際にはそうではない。健康ファシズムに同調するかどうか、体育会系の思想に染まるかどうかは別としても、肉体というものが様々な意味合いや側面において、単なる私物ではないというのは不都合であるが事実だと認めるしかない。自分の体であっても、勤務時間中に酒を呷ったりは出来ないし、風呂にも入らず不潔な状態のままにもしておけない。違法薬物や大麻などを摂取して正気を失えば警察に捕まるし、TPOを弁えない格好をしていると誰かから咎められる。

 俺は成人してからずっとアルコール依存症だったが、そのことに周囲の人間は決まって文句を言ってきたものだ。肉体が自分だけのものであれば、他人共の言うことなど聞き入れる必要など本来はない。しかし結局、俺は連中の言うことを完全に無視するというわけにはいかなかった。始業前までには酒を抜けだの、場合によっては翌日仕事がある日は飲むなだのと言ってくる者どもは、何人いたか分からない。

 彼らは俺の身を案じたり心配してそのような忠告や助言をしたのでは断じてない。それは単に仕事に差し支え、俺の体臭がキツくなって不快だから、などといった理由による。連中は自分の都合のためだけに俺の生活習慣に口を出していたに過ぎない。俺の体内にアルコールが入っているかどうかについて、他人が物言いを付けることができるのは、職場や他の従業員の迷惑にならないように、俺が我意を曲げてでも自らの肉体を他人の要望や要求に合わせなければならない義務を負っているということを意味している。

 つまり、自分の願いや思いだけを肉体に反映させることは、現実には許されていないのだ。それを否定する者がいるとしたら、公共の場で全裸になってみるがいい。その行為はわいせつ物陳列罪という歴とした違法行為であり、警察などをはじめとした他人によってすぐに阻止されるだろう。自分の意思だけで肉体を自在にできないから、そのような事態に陥るのだ。

 

 人生は気の持ちようだ、などといった言説が世間では流布されているが、そうは問屋が卸さない。あらゆる事柄が心の如何によって上手くいくなど幻想でしかない。また、それは身体的な面でも言えることだ。精神により自分の肉体を完全に制し御することができると考えるのは、実は大変な思い上がりである。我が身が思い通りにならない理不尽さや絶望と言ったものを曲りなりにでも味わったことがあるなら、そのような楽観的な考え方など到底出来ないものだ。

 あるとき俺は、自律神経失調症により肉体に様々な異常が現れたのだが、それに対して気の持ちようだなどとはとても言えなかった。そんな場合、根性論や精神論などは噴飯物としか思えなくなる。不安感や焦燥感に駆られ、脂汗や動悸が収まらず、神経が高ぶるせいで眠ることはおろか横になって目を閉じていることすらままならない。そんなとき、俺は自らの肉体に他者性を感じずにはいられなかった。

 落ち着け、リラックスしろなどと、いくら念じても念じても、一向に俺の体は言うことを聞かなかった。俺はその時心身を静めるために入浴したが、そのとき心臓発作を起こして危うく風呂場で死にかけた。舌の先が痺れ、手足が痙攣し、俺は全く身動き一つ取ることが出来ず、俺は絶望に打ちひしがれた。体の自由が全く利かないという経験をしたのは、この時が生まれて初めてでった。

 体が意思や精神の意に沿わない時、それは愚図の他人であるようにしか思えないものだ。肉体即自分という認識は、単なる思い込みでしかなったと俺は思い知るに至った。その経験は、自分の範疇というよりも、己の中核だと見做していた肉体というものへの信頼を揺らがせるものであった。

 他人や社会などの外部の何かを引き合いに出すまでもなく、肉体は完全に自分の占有物でも所有物でないのは明らかだ。仮に目下体が意のままに動いているとしても、それはその瞬間においてそうであるだけで、それを根拠にして我が身を我が物だと言い切るのは単なる浅薄な考えでしかないのだ。

 

 

 思い返せば、肉体とはあらゆる辛苦や悩みの根源だった。アルコール依存症であれ自律神経失調症であれ、肉体があればこそのものだった。さらに言えば、時間がないとか、自由がないといったことも極端な話肉体的な苦しみであると見做せる。体がなければ腹も減らないし、眠くもならなず、痛みや苦しみも欠乏も束縛もない。

 また、容姿の悩みも同様に肉体が原因のものだ。身長や願望のことで俺は常日頃劣等感に苛まれているが、それも体を自分だと認識しているがゆえのものだ。この身が自分の物でなかったなら、肉体即自分という図式から完全に解かれたなら、肉体に由来するあらゆる苦悩は、そもそも自分には縁のないものとなるだろう。

 何故体を自分ないし自分の物だなどと思うのだろうか。それは単なる思い込みでしかなく、何の根拠もない。自分の肉体を構成する遺伝子もまた、自分の物ではない。それは親から与えられたものでしかなく、それについて俺の意向や選択などは全く無関係であることは自明である。卵子精子を選んで肉体をコーディネートしてこの世に生まれてきたわけでもないのに、何故肉体を自分だと主張できるのか?

 肉体の起源は親のセックスである。そしてそれが起きった時と場所について、俺の意志などは全く無関係であった。偶然か必然かは明言しないが、とにかく俺の全くあずかり知らぬところで俺の肉体の起源は結ばれたということだけははっきりと断言できる。

 日々年老いて若さを失っていく肉体に不自由さや理不尽さを覚えるが、そもそもそれは自分とは本来無縁の肉塊にすぎないのではないか? そのような疑問が近頃ふと湧いてくる。それが健康であろうがなかろうが、我意に沿う形で保たれようが、何かに強要されてある状態にさせられようが、実のところどうでもいいのではないか? それについて真剣になる必要はなく、申告になる理由など本当は全くないのではないか?

 肉体を我がものとするからこそ、人生というものは悩み深く苦しいものとなるのかもしれない。その前提が覆った時、思い通りにいかないことも、誰かや何かに無理強いされることもにも、シリアスになることはなくなる。その境地に、俺は達するべきなのだろうか。

仲間

 俺に「仲間」は一人もいない。職場において明確に敵対している人間が存在しているし、そうでない人間であっても仲間だの何だのと呼ぶに値する存在など日常生活においては皆無だ。前に勤めていた会社でもそうであったし、前の前の職場でも変わらない。というよりも、学生時代にまで遡っても、仲間同士でつるんでいたような記憶があるのはせいぜい中学生くらいまでだ。

 世間では仲間は多いほうが良いとされている。テレビや漫画などではそのような人間関係は無条件に礼賛されているし、それに異を唱えるような言説など終ぞ聞いたことがないほどだ。仲間がいない者をぼっちなどと呼び、そのような人間は精神性や人格、はては能力などに欠陥があるかのような物言いがされる。ともすれば、劣等や異常などといった言葉をあてがわれることすら珍しくはない。

 孤立や孤独とは、要するにそれ自体が罪悪や問題だという見方が社会においては大勢だ。仲間とは素晴らしい間柄であり、それを築ける人間は素晴らしく、それはどのような場面においても礼賛されるべきものなのだと、世間においては盛んに喧伝されている。それについては疑問を挟む余地などなく、それに異を唱えるものは最悪社会から排斥されかねないほどだ。

 しかし、それは本当に正しいのだろうか。仮にこの国の9割9分の人間が仲間は多ければ多い方がいいとか、そのような関係性が持てないものは人として健全でも健常でもないと思っていたとしても、それが即ち真理や真実であるということにはならないだろう。いや、仮にそれが疑う余地もなく正しいとしても、それに与しない選択をしてはならないという道理はないだろう。我意を通すのは飽くまで個人の勝手だ。

 自分の意見により誰かに迷惑をかけたり気概が及んだりでもしない限り、どのような思想や意見を持とうが他人にとやかく言われる筋合いなどない。人は正しいものを拒絶する自由を持ちうるし、それが心からの望みだというのならば、それを貫徹すべきだ。俺は個人的に仲間など少なくとも大人の男には不要だと考えているし、その概念そのものが人間にとって害悪を及ぼしかねないとさえ思っている。

 

 

 そもそも仲間とは一体なんだろうか。余りにも自明なこととしてその言葉や概念が取り扱われ、世の中で流通しているせいで、それが具体的に何を指すのかが曖昧なままになっている感がある。仲間だ。仲間だろ? 仲間なのに……。人がそのように口に出したり思ったりする時、どのような人間関係を個々人は思い浮かべているのだろうか。それは想像するしかないことではあるが、自分自身の内においては別だ。

 我々は普段、どのような意味で仲間と言う言葉を用いているだろうか。それは普遍的な常識や慣習、通年といったものではなく、飽くまで私的で個人的な範疇において、仲間という間柄をどのようなものだと想定しているだろうか。彼は仲間だ、と思う場合でも奴は仲間じゃない、と思う時でも、厳密で明確な前提としての仲間という言葉の意味を定めもしていないのが実情だろう。

 ただ何となく、仲間かどうかを判断して我々は他者を認識し、また分類している。冒頭で俺は、自身の身の回りに仲間など存在しないと述べたが、それですらもあまり深く考えずに書いたことだということは白状しておきたい。この、何となくというのが実に厄介で、ほとんど完全に意識することなくそれは内的な現象として心のなかで起こり、思考に結びつき、結果態度や行動として表される。よく考えれば恐ろしいことだ。

 これが仲間ではなく、味方という言葉であったならば、多少話は簡単になるだろう。味方かどうかは極端な話損得勘定や利害関係で明らかに決まってしまうからだ。そこには曖昧さや不確かさといったものが入り込む余地が無い。何となく仲間ということはあり得ても、何となく味方というのは無思慮でない限り有り得ない。味方かどうかは他人を判断する上で、有効な指標や尺度足り得るだろう。

 翻って仲間という言葉に再び目を向ければ、それが味方という言葉と比べ何故杳としたニュアンスを含んでいるかが分かるようになってくる。仲間は味方とは異なり、実利や実益と言った側面を敢えてぼかした関係性だと考えて良いだろう。自分にとって必ずしも得をしない関係性においても、たまたま身近にいたり同じグループに属していたりする時に、損か得かは脇に置いておき、少なくとも敵でないという意味合いを持って使われるのが「仲間」なのだろう。

 

 だが、人間関係における利害得失というものは、本当に取り敢えず脇に置いて置くべきなのだろうか。打算なく付き合いができることを、さも美徳のように言うような風潮があるが、これには辟易させられる。それはもっとも重要なことを度外視する単におろかなことでしかないのではないか? 俺にはそう思えてならない。それは美しくもなければ尊くもない。

 仲間という関係性やそれによる繋がりや連帯は、重ね重ね述べるが曖昧すぎる。何故、何のために相手に利することをやらなければならないのか。相手に尽くし、取り計らい、献身しなければならない理由や動機などを、本当にあやふやにしたままで良いのだろうか。判然としないままの人間関係が、何となくただ延々と続いていくことは、本当に素晴らしいといえるのだろうか。

 良いように使われているだけなんじゃないか? 仲間であることを前提とした、なにがしかの人間関係におけるやり取りを見ていて、俺はそのような疑問が頻繁に湧いてしまうのだ。それは自分が誰かと関わっている最中においてはもちろん、フィクションなどの他者同士の間柄を客観的に傍観している時にも、感じるのだ。具体的な例を挙げるなら、主人公にその仲間が全身全霊で力になっているシーンなどだ。

 仲間同士の助け合いと言うと大変美しく感じられはする。だが、そこにギブアンドテイクという価値観をほんの少しでも挟み込めば、それは単にどちらかがどちらかに一方的に尽くしているだけでしかないこともままあるのではないだろうか。俺が問題にしているのは、誰かと誰かの間におけるギブとテイクの比率についてだ。それは本当に釣り合っているのか、ということだ。

 完全に1に1報いるなら何も問題はないが、それは幻想もいいところだろう。結局のところ、どちらかが持ち出しになるような場合が大半だと思う。つまり、どちらかが結果的に損をし、片方に時間や労力、金銭などを毟られたり集られたりしているだけだ。にもかかわらず、得をしている側がその実態を隠蔽するために、その関係性を仲間という美名を冠することで正当化しているにすぎないのだ。

 

 

 仲間という言葉や概念が大っぴらに出てきた時、少なくとも現実の人間関係においては重々警戒するべきだ。仲間だから何かして欲しい、するべきだと宣うような輩は、内心では他人を自らが得をしたいがために利用しようという魂胆でいるのだと、決めつけてかかったほうが良い。実際、俺自身の人生を振り返ってみれば、俺に仲間面して近づいてきた者どもは、基本的にはそのような算段があったと断言できる。

 人が人を使役することは避けられないだろうし、それ自体を悪だと断ずるつもりなどない。ただし、それは主従関係や上下関係、損得勘定や利害関係などに基づいた取引でなければならない。利用者と被利用者は、客観的な事実を明確に理解した上で、結びつくのが自然だと俺は考える。お互いが完全に納得した上で一方が一方に利したり、使われたりするべきだろう。

 さらに言えば、誰が誰に対して何のために尽くし、献身・奉仕するのかについて、曖昧なままにしておこうなどという魂胆は、はっきりと悪だと断言して良いのではないか。それは使う側が使われる側を言いように乗せ、騙しているだけなのだから。思い返せば、俺は幾度となく他人に利用されたし、こき使われたし、騙され奪われてきた。そしてそれは、明白な搾取や収奪といった形ではなく、ある程度巧妙に偽装された関係性のもとで行われていた。

 何故俺がお前のためにそんなことをしなければならないのか、俺がお前のために動かなければならない理由を言えよ。そう面と向かって言えるのが望ましい。それを明らかにしたくないと言うなら、俺はその相手の為に何かをする義務などはじめから無いのだから、取り合う必要は本来ない。畢竟、「仲間」という関係を結ぼうとするような奴は、大抵ナアナアで済まして他人を利用しようとしているだけだと見ていい。

 やはり、大の男には仲間という概念自体が不要だということだ。赤の他人にいいように使われることを本心から願うというなら話は別だが。殆ど無償で人生のリソースを割き、危険を冒して俺が何かをしなければならないような、尊い人間などこの世には存在しない。仲間だろ? などと言って近づいてきたり何かを俺にさせようとする人間は、結局「俺はお前にとって尊ぶべき存在なんだから、俺のために尽くせよ」と暗に言っているにすぎない。要するに、ナメてかかっているわけだ。俺に対して、そんなことも察する能力がないと高を括って、尚且つまるで道具のように「活用」しようと企んでいるのだ。

未定義

 俺は未だに何者でもない。年齢的にはもういい大人でありながらも、俺は父親でもなければ仕事の上では役職付きの存在でもない。今、住んでいる地域において、社会の一員として認知されているわけでもなければ、趣味を通した何らかの繋がりに属しているのでもない。言うまでもないが、結婚はおろか恋愛に発展しうる可能性がある対象にすら事欠いている。おそらく俺は、親族連中の間においても、半ばはじめから存在していないかのような扱いを受けていることだろう。

 仮に俺が今日、忽然と姿を消したところで誰一人困らないどころか、それに気づくものすらいないだろう。会社の人間は俺が単に無断欠勤したと考えるだろうし、それが長く続いたところで解雇するだけだ。実家と現住所の間には相当な距離があるから、相当な期間音信不通でもなければ、俺が消滅したかどうか取り沙汰されることすらないだろう。

 つまり、俺は居ても居なくても同じだ。俺の存在など極めて矮小であり、人間的価値は低いと言わざるをえない。俺は孤独であり、それが変わる気配すら目下の生活においては見られない。自分とは一体何なのだろうか、などといった青臭い自問が暮らしの中で頭をよぎる。これまで生きてきて、幾度となく浮かんだ疑問だ。それについての自答もまた、とうの昔に出たものでしかない。

 俺は単なる田舎出の底辺労働者でしかない。それ以外のどのような属性も要素も、結局のところ持ち合わせてなどいない。そして、それを否定する材料など一つもなかった。それ以外の何かだと見なされる瞬間など全くないし、自らもまたそれではない自己をいくらでっち上げてみたところで、圧倒的な現実に打ちのめされそれ以外の自分はたやすく雲散霧消してしまう。

 ありのままの自分を直視することは、俺にとって耐え難いことだ。誰かにとって大切な存在でもなければ重宝されることもない。明日突然失踪しても、誰も気にも留めない男でしかない。単にそれだけのことに然りと言うことは、俺にはあまりにも辛すぎる。本心ではそれを否定したく、全く別種の何かなのだと言い張りたいにもかかわらず、その嘘臭さに自分でも辟易してしまい、結局その試みは頓挫する。

 

 

 醜く劣った存在でしかない己をどのように扱うか、思えば生まれてからそのことばかり考えてきた。自分が自分であると言う事実から逃避するために、俺は実に様々な遊びに興じたし、精神世界やスピリチュアル関連の情報を漁りもした。中学生くらいの頃は、脳開発や自己啓発などにのめり込んだことすらあった、それらの全ては畢竟、自分自身の無価値さから目を背けたいがための、虚しい行為にすぎなかった。

 学校でも会社でも、人並みにも満たない評価しか受けた試しがない。せめて、鶏口牛後の存在として劣等な集まりの中でも秀でるべきだったと思うが、それも最早あとの祭りだ。容姿にせよ能力にせよ、経歴にせよ態度にせよ、どんな点や面においても俺は他人から一目置かれたことなど、終ぞありはしなかった。俺は数合わせや道具にように使役される以外では、存在しないも同然であった。

 自分の境遇がもし他人事だったなら、そんなことをたまに夢想する。俺はきっと心の底からあざ笑うだろう。雑居ビルに住んでいる貧乏な津軽人など、嘲弄の対象でなければ、一体何だというのか。自分が自分であることは、俺にとってはまるで呪いや悪い冗談のようにしか感じられない。自身を指し示すあらゆる事実の羅列が、とてつもなく苦々しく思える。

 客観的な観点から見た俺を形作る諸要素の、一つ一つを俺は心底嫌っている。「これ」が何故、俺でなければならないのかとずっと不満と疑問を絶えず抱いていた。そして、それにまつわる殆どが先天的な要素であることも気に入らなかった。俺の選択や意思とは全く無関係に、俺は俺であった。自分で決めたのならまだ諦めがつくが、結局のところ俺は自分が自分であることを自ら決めたのではない。

 俺は社会的には最下層に属する個人だが、それは後天的に自分の選択でそうしたのではない。俺は鄙びた寒村で生まれ、底辺労働者として人生を全うするためにしつけや教育を受けた。さらに言えば、身体的なあらゆる特徴は両親の遺伝によるものだ。俺が俺であることを示す一切は、生まれつきのものだ。生まれた時点、いや生まれる前から、俺がこのような人間になる宿命は最初から定まっており、それは逃れられないものだと言える。

 

 自らをどのように定義するかは、先天的に予め決定づけられている。にもかかわらず、世間では自分の人生に責任を取らなければならないとされている。自身の経歴を振り返れば、俺は社会的な存在としての自己を認識しなければならなくなる。また、肉体的には鏡に写った像を見れば己を自認せざるを得なくなる。その度に、それらが自分だと定義しなければならないことへの窮屈さを覚える。

 定義された自己とはさながら牢獄のようである。思えばお前はこういう人間なのだ、そうならなければならないのだと親や教師を始めとした周りの他人たちから生まれてからずっと無理強いさせられてきた。現在、俺はとある会社の従業員として働かされているが、その職場においても社長や上役から社の一員というより彼らの隷属する存在として見なされ、それであることを常日頃求められる。

 自分自身を定義したり、他人から自分を定義されること自体が、俺にとってはもう不本意に思えてならない。お前には仲間としての意識や自覚が足りないと、いつかとある者に言われたことがある。俺はそれにもまた違和感を覚えた。一体いつ、どのような理由により、俺は彼の仲間になったというのか。仲間としての頭数に入られる喜びよりも、そんな疑問が俺の中に湧いた。それは彼の仲間として数えられる利点が俺に全く無かったからだ。

 何らかの定義をされ、何かだと見なされることは、それが肯定的であれ否定的であれ、俺には嫌なものだ。スタティックな存在として何かであることが、束縛にしか思えないのだ。それは、日本国民だとか人間などの広すぎるカテゴリーに含まれることですら同様だ。何かであることはそのまま形而上の牢獄にぶち込まれたような、そんな感覚に陥ってしまう。汝それなり、と言われた時、俺は囚人にさせられたような感じがする。

 俺は何者でもありたくない。どれほど社会において価値のある存在や客観的に見ても優れた何かであっても、何かであることそれ自体が俺にとっては最早本意ではないと確信できる。何者でもない、未定義の状態。それこそが俺が腹の底から志向できる境地であり、それは具体的に何が必要で何を達成しなければならないかという話ではない。むしろそれらの全く逆方向に、俺が目指すものがあると言えるだろう。

 

 

 己を未定義のままにしておくことは、実はかなりの難行だ。なぜなら、人間とは元来定義されることを望む生き物だからだ、特に自分自身については。そのような生得的な本能に逆らって、未定義の状態を志向し維持し続けることは、並大抵のことではない。何者でないよりは、たとえ低所得者だとか田舎者だとか、ネガティブな意味であっても何かである自分にアイデンティティを見出したほうが、本当はずっと楽だ。

 それでも俺は、やはり何者でもありたくない。それが俺の夢であり、生涯を通して完遂すべき目標だ。そしてそれを阻むのは世間の全てというよりもこの社会そのものだと言える。俺はハタから見れば単なるワーキングプア以外の何かではありえないし、そのような自己認識を社会全体が俺に強要するだろう。それに対してどのように対処するかが今後の鍵となるだろう。

 加えて、前述のような人としての本能としての性向とも対峙しなければならないだろう。自分に何らかの定義付けをするという行為は、あまりに自然に行われるため、人間はそれを自分がやっているということに自覚することすら難しい。何者でもない無為自然のままであり続けることは、最早覚者や仙人の域に達していると言っても決して過言ではない。その妙境に至り、それを継続し続けることは今生で俺が為さなければならない一種の修行となるだろう。

 それは世俗的な努力とは対極に位置する。何も成さず、作為的でない状態であり続けるなど、普通の感覚で言えば単なる無能になるということに他ならない。そのような生き方は結局、世間においてはボンクラとかウスノロと呼ばれるようなものでしかない。それでもそれをやり通すなど、正気の沙汰ではないだろう。仕方なくそうなるのではなく、明確な意志のもとにそうであろうとするのだから、狂気的だとも言える。

 定義不能な存在となることは狂気の世界の住人になることだ。父親でも地域社会の異一員でもなく、金持ちでもなければ誰かの恋人でも友人でもない。そんな存在としての己を完全に肯定し、未定義な「なにものか」であり続けること。あらゆる外圧や自己の中の欲求をはねのけて、それであり続けること。それは言うなれば完全なる自由であり、定義を始めとした一切からの解放を意味する。

理解と無遠慮

 「お前のことは全てお見通しだ」と誰かに言われたらどう思うだろうか。お前について知らないことなど、この俺には何一つないのだと、面と向かって言われた時、どんな気持ちになるだろうか。それらのような言葉を受けて、嬉しがったりありがたがったりするような人間が存在するなど、俺にはとても思えない。逆にそれはとても傲慢で、許しがない不遜な発言だと俺は捉える。

 実際、社会においてその手の発言を堂々としてくる人間は少なからずおり、俺自身もまたそのような人種と関わりを持ったことはある。そのような局面でさも、お前のことを理解しているとでも言いたげな態度をとるような連中は大抵、ろくでもない人間であった。その手の人々は、単に自分よりも弱そうで格下の存在を、自らの手足の延長として思うままに操作したいという恐るべき欲動に駆られているだけだと断言していい。

 第一、他人を完全な意味で理解可能な人間など存在しないのは言うまでもない。出来もしないことを出来ているかのように言い、あまつさえ出来ていると思い込む厚顔無恥さには心底呆れ返る。他人を洞察したり分析する能力が自身に備わっており、それを発揮することでお前の魂胆や資質を見透かしているのだと言える神経は、最早羨ましいとさえ思える。

 また、それは発言者の能力の誇示だけでなく、知られている側に底の浅さを指摘していると見なすこともできる。内心や腹の底を全て知悉でき、また内外問わず一切を把握できるほどの、高が知れた存在でしかないのだと、面と向かって言っているに等しいと俺は感じる。なんでも知っているだとか、知らないことなどないなどと言うのは、相手を軽んじていなければ出来ない物言いなのだ。

 たとえどれだけ親しく、親しい間柄であっても、誰であれうかがい知ることが出来ない側面や知ることが出来ない領域というものがあるはずだ。そして、その人物における未知・不可捉な要素こそが他者性の本質なのだと俺は思う。相手を尊重するということは、己が捉えられない何かをその人が有しており、それは絶対に踏み込めないものなのだと認めることだ。

 

 

 他人を理解することは正しく、また不可欠なのだと世間ではよく言われる。相互理解が大切であり、その努力を怠るべきではないのだと盛んに言われている。同国人同士の間柄はもちろんのこと、他国や異民族の人間相手であっても、そのような言説はまるで真理であるかのように喧伝されている。相手を知ること、理解することは可能であり、また望ましい態度や姿勢であると信じられている。

 だが、俺は全くそうは思わない。先に述べたように、人間は他人を理解したような気にはなれても、完全に知り尽くすことは不可能だ。そのような出来もしないことを目標に掲げたりそれを礼賛したりすることにまず反対である。加えて、誰であれ他者を分かりうる、知ることが可能な存在だという前提で接触することの尊大さが、俺は何よりも気に入らない。

 一体何様のつもりなのだろうかと思う。当の本人は懐が深いようなつもりではいるがその実、他者の不可知な部分について、存在すら許容しないのだから。当て推量で遠慮もなく、他人についてあれこれと聞き出したり邪推したりするだけでは飽き足らず、お前はこういう人間だから、などと結論づけて相手を値踏みする人間が、不躾でなかったら一体何だというのだろうか。

 分かり合えないままにしておくのが、本来あるべき状態だとさえ俺は思う。理解し合えないから問題だと見なすのは、それ自体が不寛容なのだ。相手のうかがい知れない領域、知り得ない何か、それらこそが個々人の本質的な要素であり、それを白日のもとに晒そうとしたり、執拗に秘密を暴き握ろうとすることは尊厳の蹂躙でなければ、何だというのだろうか。

 開陳されない何かが相手にあるというただそれだけで、許せないと思うような人種は現実に居るし、俺はそのような人間によってかなり不快な思いをさせられてきた。不可解な未踏の領域を守ろうとするのは、その手の人間にとって不信の表明でありいわゆる「心を開いていない」と見なされるのだろう。それもまた甚だ気色の悪い精神構造だ。

 

 人間間の関わりの中で、理解という概念そのものがともすれば大変な害毒となっているのではないかとさえ、俺は思う。彼我ともに相互が理解し合える可能性があり、それを目指して対話を行い、行動をしていく。それは一見すれば良いことであるかに見える。しかし、その前提が却って偏見や誤解といった負の結果を生み出すケースの方が、実は多いのではないだろうか。

 人間が本当の意味で肝に銘じなければならないのは、不可能性の方なのだ。自分は他人を理解することが出来ず、他人という存在自体は永遠に未踏のフロンティアであり続ける。自分の理解力や洞察力の限界を肯定することが、実のところ人間に求められている望ましい態度であるように思えてならないのだ。

 それは果たして問題であり、改められないければならないことなのだろうか。俺は全くそうは思わない。逆に他者を完全に理解し把握できると考える方が前述の通り余程害悪をもたらすと思う。誰それのことが分からないといって嘆くものが世の中には多々いる。しかし、それの一体何が悪く、問題だというのか俺には皆目見当もつかない。それは極めて自然なことであるはずなのに。

 他者を知ろうとすることは、相手の私的な領域に土足で踏み込むようなものであると言っても決して過言ではない。かつて、俺について色々と根掘り葉掘り聞き出そうとする者がいた。俺の近況だけでは飽き足らず、俺が育った背景なども含めて、俺の心身にまつわる一切を、くまなく知ろうとしてきたのだ。それは俺の気分を著しく害する所業でった。

 もしかしたら、親愛の情からのことだったのかもしれないが、いい迷惑だ。無遠慮に自分の都合で相手から個人的な情報を引き出そうとする罪について、余りにも世間は無頓着でありすぎる。それが咎められたり否定されたりしているような場面など、俺はあまり見たことがない。相互理解を尊ぶ悪しき風潮が社会に蔓延しているような感がある。

 

 

 どのような人間であっても、教えたいことよりもそうでないことの方が圧倒的に多いものだろう。秘密が個人を個人たらしめるし、それを暴かずにそのままにすることだけが人間性への尊重となるのだと俺は考える。逆に、何でもかんでも詮索し、探りを入れるような輩は俺の尊厳を踏みにじり、蔑ろにしているのだと見なす。

 他者を尊重するということは畢竟、自分は相手を理解できないのだと認めることだ。逆に、それが出来ないということは相手を慮る気持ちなど端からないと見てよい。過剰に相手を理解しようとする不遜な行為は、悪行と断ぜられるべきなのにどうも世間においてはそのような風潮が醸成される気配すらないのは嘆かわしいことだ。

 決めつけるよりは、分からないとか理解できないとする方がずっと健全だ。無遠慮に邪推し、知ったような口を利くのは単なる傲慢に過ぎない。奴は俺が思っている通りの人間だろう、などと言いのける無神経さときたら! 不可知不可速な他者を想定できない者は、結局のところただただ傲慢なのだ。

 俺はずっと他人というものが理解できず、そのことでかなり苦しんできた。しかし、今にして思えばそれは無用な悩みだった。これまで述べてきた通り、他者性の本質は理解不能であることそのものであると考えるべきなのであり、相手のことが分からないなどというのは偏に正常なのだ。さらに言えば、それを問題にすることが却って問題であったと言える。

 分かり合えないと言う前提で、全ての他者と対峙すべきだ。それを踏まえた方が、色々と楽に他人と関わっていけるように思えてならない。万人と理解し合えるだとか、理解し合える誰かと巡り会えるなどといった偽りの希望に縋るよりむしろ、人間は他者という存在を知ることが不可能な存在であり、それは当然かつ自然で、人間存在への正しい認識なのだと考えるべきだ。

好きという呪縛

 子供の頃はテレビゲームが好きで仕方がなかった。小学校に入学する前ぐらいの頃は、スーパーのおもちゃ売り場で売っている1000円ほどのゲームウォッチの劣化版のような小さな機械でやるようなゲームに熱中していたような記憶がある。それは一つの機械につき一種類のゲームしか遊べない代物であったが、俺はそれを親に数種類買ってもらい、それぞれを狂ったようにただやり続けていた。

 あるとき、ゲームボーイを親に買ってもらって以降、俺はより一層ゲームにのめり込んでいくようになった。ゲームボーイは冒頭で述べたものとは違い、カセットを交換すれば様々なゲームをプレイできた。俺はスーパーファミコンなどの家庭用ゲーム機も買ってもらい、少年期は殆どゲーム漬けの日々を送っていた。ゲームのコントローラーに触れなかった日は、小学生の頃においては一日もないと言っても過言ではなかっただろう。

 子供の頃に俺にとって、テレビゲームはこの世の全てだった。どんな日でも俺はコントローラーを握りしめ、ただひたらすらモニターの向こうの世界に没入していた。そんな俺の姿を両親は当然好ましくは思わず、俺をゲームから引き離そうと躍起になったが、俺はそれには目もくれず、少年時代の貴重な時代をテレビゲームに費やし続け、膨大な時間をドブに捨てたのだった。

 俺はゲームを生涯通してやり続けるのだと心に決めていた。実家の近くには工業団地があったため、将来はそこにある何処かの職場にでも潜り込み、適当に働いてそれ以外の時間は死ぬまでゲームだけやり、人生を完遂させようと子供の頃は本気で考えていたものだ。子供だった俺はゲームをすることを天命でありライフワークだと信じ込み、それをしなくなるようなことがもしあるとしたら、それは自分の命が尽き果てる時に他ならないと冗談でも誇張でもなく思っていたのだ。

 そんな毎日も今は昔、俺はもう10年以上ゲームなど触れることすらしていない。ゲームというカルチャーそのものに、現在においては全くもって興味がない。かつてあれほど執着し、好きだと思っていたはずのものへの関心は、最早毛ほどもないのだ。自分でも改めて思えば、不思議というより驚くべきことだ。自分がかつて持っていた感情や熱意などは、冷めてしまえばバカバカしいとしか思えない。それについて、無常な悲しみの念さえ覚える。

 

 

 過ぎ去った心の熱は、無益に空費した時間に対する後悔へ変容していく。あんな遊びに興じていた自分自身が、たまらなく恥ずかしく思えるのだ。ゲームなどに費やした時間を読書か勉強にでも充てていたら現在とは全く異なる人間になり、まるで違う人生を歩んでいただろう。今にして思えば、ゲームに割いた時間をやり直したいとさえ思う。自分で好きこのんでやっていたはずのことが。

 ゲーム熱は小学生頃で冷め、俺の「好き遍歴」は別のものに移っていく。中学生の頃は漫才やコントなどのコメディに傾倒していった。テレビ番組はもちろん、VHSやDVDなどでお笑いのジャンルに属する映像をよく見ていた記憶がある。自己流で笑いについて研究して大学ノートにその成果を書き記すなどの中二病的な痛々しい愚考に及んだりもした。

 中学時代の終わりから高校時代にかけてはラジオに齧りつくようになっていった。テレビゲームにハマった頃と同様に、一度のめり込めばとことんやらなければ気が済まないタチで、ラジオについても一日も欠かさず何かを常に聴いていた。専らFMよりAM派で、ラジオ番組の投稿コーナーに文章を投稿するハガキ職人になるほど、俺はラジオ放送に傾倒し、これについても自分にとって一生涯の趣味なのだとばかり思っていた、当時は。

 しかし、高校を卒業して上京すると同時にラジオ熱も冷めてしまった。人並み以上にできることもやりたいこともなかった俺は、結局酒に行き着いた。成人してからはただひたすら飲酒に耽り、学生だった期間においては殆ど泥酔していた記憶しかない。酩酊に全てを委ね、過去を忘れ未来から目を背けたいがために俺は酒に溺れる以外のことは一切やらなかった。そして俺の大学時代は就活に失敗したまま卒業証書一枚のみを与えられ幕を下ろした。俺は酒浸りのまま社会に放り出され、無為無策のまま底辺を這いずり回り、貴重な20代を棒に振ることとなった。

 家に引きこもり安酒を呷りながらインターネットをやる以外は、労働をするか眠るかのどちらかしか無かった。俺は将来への明るい展望もなく、振り返って懐かしむ思い出の一つも見当たらない自らの人生を倦み、世間や他人と行ったものをひたすら疎んじた。俺は馬齢を重ね、ただ延々と酒に酔い、まどろみの中にあり続けた。俺は自他ともに認めるアルコール依存症になってしまっており、飲酒以外には何の楽しみも見つけられなかった。

 

 そんな生活も肝機能に支障をきたし唐突に終わった。かれこれ7,8年はシラフで過ごすこともなかった俺は、それを機に断酒による不眠などの離脱症状に苦しめられ、辛い毎日を送る羽目になった。体から完全に酒が抜け、全快するまでおよそ2週間から1ヶ月ほどかかったような覚えがある。快癒して以降は、年末年始などのまとまった休みがある時を除いて、俺はもう一切飲酒をすることもない。今はもう、酒を飲みたい衝動に駆られることは全く無く、酒浸りの日々も遠い昔となっている。その日々はまるで、他人の人生の一コマであるかのようにさえ思える。

 これまで述べてきたように、俺は今生において色々なものを好きになってきた。しかしそれは単に何かに執着し、依存し続けてきただけだった。俺は表面上、自分の意思により何かにハマっているようであっても、実際はそれに囚われ束縛され、自由を失っていただけのように思えてならない。何かを好きだと思う度に俺はそれに固執し、それ以外の大半のことを疎かにしていたような感がある。

 しかもそれは大抵、長続きしていない。何に対しても一時の激情でしか無かった。さらに言えば、目を向けなければならない嫌な問題から逃避するための道具として、俺は何かを好きなのだと思い込み、それを利用し続けていただけであったのかもしれない。俺には心底何かに没頭した経験など、本当は一度もないのではないのかとすら思う。

 何であれ、終わってしまえば下らない執心でしかなった。そんな気持ちに、一体何の価値があったのだろうか。俺の人生は思うまま好き勝手に生きてきたように見せかけて、実際は何かに雁字搦めになっていただけという、極めて愚かしいものであった。一時の感情に振り回され、少年期や青年期を無駄に浪費してしまったという後悔の念以外には、全く何も見出すことが出来ず、ただただ自分を情けなく思う。

 好意など暫定的な感情でしかない。人であれ物であれ、どんな対象への好きという気持ちは、いつか必ず冷めてしまう。好悪の情を基準にして何かをやり続けることは虚しいものだ。人間はいつか必ず心変わりをするし、一旦それが起こればそれを境にして、それまで拘っていたものが、ゴミにしか思えなくなる。ゲームもテレビもラジオも酒も、結局のところ俺には一瞬の慰めでしかなった。

 

 

 己の人生の惨めさを紛らわすために、俺は何かを必死で好きになろうとしたが、それは徒労以外の何物でもなかった。俺にとってのやりたいことや好きなことなど、対峙しなければならない現実からの逃避の域を出なかった。少なくとも、この俺の愚劣な生においてはそうであった。俺が今までしてきたことは、その場その場の感情に流されて、精神の自由を自ら放擲し、無意味で無価値な時間の無駄だった。

 あんなもの好きにならなければ良かった、という後悔だけしか残らない人生とは、一体何だったのだろうか。そんな悔恨に駆られれば、モンスターファーム2のタイトル画面やTBSラジオの深夜放送、ストロングゼロの後味などといったものにまつわる追憶が、虚しく俺の脳裏を駆け巡る。そんな下らないもののために、俺はどれだけの金や機会を無駄にしてきたことか。

 好きという感情は儚く、しかも人間を束縛する。何を好きになっても、それにより心は必ず不自由になり、行動や思考はそれに囚われることになる。何に固執しても、熱意や激情はやがて消え失せ、費やした歳月は結局は無駄になってしまうのだ。俺は自らの反省を振り返り、何も得るものなどなかったという感想以外には、本当に一つも思うところもなく、虚無感だけが募る有様である。

 俺は自分の気持ちや気分といったものを余りにも重く見すぎていたのかもしれない。いや、現在においてもなお、俺はやりたいことだけやっていたいし、気が向かないことは極力避けようとしている。虚しいだの何だのと口先では言ったり思ったりしていても、俺は実のところ全く学習していないのかもしれない。それに、好きなことが出来なければ出来ないでまた不満や文句を言うのだから、我ながら度し難い性分だ。

 どうすればよかったのだろうかと思う反面、どうのしようもないのだろうとも思う。何をしても満足できず、納得もいかず、後悔ばかりなのは端から避け難いことなのかもしれない。逆に言えば、やりたくてもどうしてもできなかったことや、できそうにないことも山のようにあるが、それについてもあまり深刻に思う必要などないと言えるのかもしれない。人はどう転んでも満たされず、それはどんなことにせよ、大したことではない。やってもやらなくても、できてもできなくても、究極的には同じことなのかもしれない。