他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

失敗

 これまで数え切れないほどの失敗を積み重ねて来た私の生涯は、しくじりが多いというよりもそれその物であったと言っても過言ではない。人生における全ての場面で私は取り返しのつかない過ちを犯してきた感がある。

 失敗続きの人生を振り返りながら、あり得たかもしれない成功についても思いを馳せるのはありきたりな思考の形態だろう。進路をああしておけば、就職をこうしておけば……。人間関係においてもあの時にあんな受け答えをしておけば、などといったありえないはずの成功したケースについて妄想を膨らませる。そんなときにふと思うのだ。「失敗しなかった自分、成功した自分は自分といえるのだろうか」と。

 私がもし親の反対を押し切り普通科の高校に進学し、きちんと受験勉強をしてまともな大学に入り、真っ当に就活を行い、平均的な就職をし、人並みに恋愛や結婚をしていたならば、そんな自分はもう到底自分とは呼べない赤の他人ではないか? 成功した、あるいは失敗しなかった「ifの自分」について夢想しながらこんな疑問が平行して私の脳裏に浮かぶ。そして私は自分が自分たらしめる要素として失敗は不可分であったと悟るのだ。

 成せなかったことや達せられなかった何か、結べなかった関係や訪れられなかった場所……それらが私を構成する諸物として私の自意識の中で機能を果たしているというのはなんとも皮肉な話だ。

 失敗していなかったらなら、成功していたとしたなら、そんな私は私とは呼べない。私を私たらしめるのは他ならぬ過失や喪失、あるいは被害や毀損といったネガティブな代物ばかりだ。私は生涯において何一つ得られなかったどころか、機会や可能性といった類いのものを失うばかりであったが、そのような事実こそが己それ自体だった。

 つまり、私という存在は無価値で、私の人生は無意味だと結論付ける他はない。そしてそんな代物について深刻に煩悶や懊悩を重ねてきたこれまでの自身を顧みれば滑稽この上ない。ゴミ未満の値打ちしかないものを必死になって護持してきた自分のバカバカしさ! 鏡に写った自身の像を指差して哄笑してやりたい思いだ。

 自分自身の無価値さや無意味さを認める時が来た、今になってそう思う。気休めの慰めなどよりも、現在に私には己の馬鹿さ加減を一笑に付すことが却って救いになるだろう。失敗こそが自分の本質であると断じたその瞬間、生活におけるあらゆる好ましくない要因や結果が何の脅威にもならなくなる。根本が間違いならば、その上になにが来ようともそれは問題ではない。どうせ大した人生ではないし、私は無価値で無意味である。そういう視座を失わなければ、私はどんな憂き目に遭ってもそれを問題とは見なさないだろう。

 これはある意味ではペシミズムであるかもしれないが、そこから立脚してはじめて見えてくる境地もあるのではないか。安直で気休めにしかならない前向きな言葉や思考や、綺麗事で糊塗された詭弁やでっち上げの大嘘にすがるよりは、絶望する方を私は選びたい。私は自分自身に絶望し、望みを断つことで新しい視点を得ることを志向したい。要するに故意的に一度どん底まで落ち、そこから這い上がるのではなく、底が抜けるまで極めたい。絶望の底が抜けたときに見いだせる何かこそがほんとうの意味の希望なのではないか。漠然とではあるがそんな風に思っている。

 自身の本質や自己同一性の根本が失敗や喪失ならば、損なうことや失うことを恐れる意味や必要はあるだろうか。それらを恐怖するのは「価値ある自分」や「意義ある人生」といった幻想を捨てられずに固執するからだ。何故己に値打ちがあるという前提で物事を捉えるのだろうか。そんな根拠や必然性が一体何処にあるというのだろうか。私に価値など無く、人生に意味などない。それで何の問題があるだろうか。

 失敗を恐れるのは自分に無条件に価値を見出しているからだ。人生は本来有意義であり、そうでなければならないという前提で生きるから、人は「人生に失敗」しうる。それらがはじめらから無価値、無意味なのだとしたら、一体何がどうやってそれらを台無しにできるだろうか。

 ないものは失いようがなく、損ないようがない。人生即失敗ならば、そんな人生ははじめから失敗のしようがない。何かに失敗したと思うとき、自分の中の前提を明確に意識するべきだ。そしてその前提が狂っている、間違っていると知ったとき、人は犯した過ちを悔やんだりしくじった自分を責めることもなくなる。

 本当は何事も失敗しようがない。首尾よくいけば、しくじることがなかったならば、こうなるだろうとかこうならねばならないという仮定は何であれ私たちを苦しめる。私はそれによって無駄に生涯を浪費してきた。私はずっとそれが嫌だったし、それによって苦しむことから救われたかった。

 私は成功を望み失敗を忌避し恐れた。だがしかし、それは迷妄に他ならなかった。自分は何かを得うる、成しうる存在であるのに、そうならないことを悔やんできた。前提としての考え方が根本から間違っていたとも知らずに! 私は価値があり、人生には意味があるのに、それが諸般の事情によって損なわれたという誤謬こそが私にとっての心労の根源であった。

 失敗、被害、喪失など被りようがない。もともと人間には失うものなど何一つありはせず、本質的にはどんなものも得ることはない。この世に何かを携えて生まれてくる人間がいるだろうか。また、何かを携えたまま死んでいく人間がいるだろうか。一人の例外もなく人間は空手で生まれ死んでいく。その過程で何を浴し何を被ろうとも、それは一時的なものでしかない。成功や栄達、獲得も所有もなんであれ皮相の、上辺だけの代物でしかない。そこに「ホント」はない。

 そんな私たちが一体何に失敗するというのか。何かを有ると見なした瞬間からそれを失いかねないと人は憂い始める。それは絶え間なく人を苦しめ、我々の生を困難なものにする。現に私は常に失敗や喪失を懸念し、恐怖し、煩悶し呻吟してきた。損なわれる可能性がある自分というセルフイメージがその原因であった。そのことに気づき、それが間違いだと思い至るまで、私はかなり長い歳月を要した。

 「失敗した」という文句は傲慢さを孕んでいる。本当は首尾よく恙無くいくはずだったという無根拠な前提がそこにはある。そんな奢りが結局のところ自分自身を痛めつける。尊く掛け替えのない「私」が毀損され台無しになった! そんなことを大っぴらに言う人間がいたら、思い上がるなと一喝されるだろう。害されうる、損ないかねない私を念頭に置き、それを掲げることは本来恥ずべきことだと言える。

 過去犯した失敗への後悔や、将来それを犯しうることへの不安や心配はとどのつまりは鼻持ちならない自惚れなのだ。そんなものが自家中毒のように人間を苦しめる。言うまでもなくナンセンスである。私は失敗できる人間だなどと公言することは重ねていうが恥ずかしい。

 私は過去現在未来において失敗のしようがないと断言する。元来人は徒手空拳で生涯を貫徹するしかなく、また何かを得たとしても何であれそれは暫定的なものでしかない。それが手にできなくても、不意に失っても、私はもうそれを問題だとは思わない。私という存在がしくじる可能性はどんな局面でもゼロであり、私は何も失わず損なわれず、害されることもない。だいいちそれは天地がひっくり返っても不可能なのだ。

人生

 人生失敗した。この文句を生まれてきてから何度吐いたか分からない。口に出さずに頭でこのフレーズを思ったことも回数に含めれば、何千何万という回数になるかもしれない。しかし、そもそも人生とは一体何なのだろうか。そんな大本の疑問を抱くこともなくただ闇雲に人生人生と愚痴り念じてきたような感があり、よくよく改めて考えてみれば甚だ奇妙な話である。

 人生とは生まれてから死ぬまでの間のことだ。それに対してやれ失敗しただのしくじっただのと寸評するのは滑稽である。それがどのような内容であったとしても、それが成功したか充実したかなどと考えること自体がナンセンスだ。そもそも成功した人生とは一体どんなものなのか。生きてから死ぬまでに何を得て、何を経験すればそれが満ち足りたものであるといえるのだろうか。

 第一満ち足りる必要などあるのだろうか。それが果たされないから心が満ちず、私は不本意な人生を送っているとずっと自分でそう思ってきたが、それが今日になってバカバカしく思える。自分が経験したことを過去現在未来という時系列において並べ、あれが良かっただのこれが悪かっただのと言って、それの総体を人生と呼び、それが成否を自問自答するというのはなんという不毛な営みだろうか。

 人生とはシリアルな出来事の羅列に過ぎない。それがいいか悪いかではなく、それはただ単にそれでしかない。それのクオリティがどうであれ、それは自分自身とどこまで関連があるだろうか。自分が歩んだ人生を自分それ自体だと見なすから人生の質や内容について煩悶することにある。私が送ってきた人生と「己自身」は完全に同一であるという前提は一体どこから来るのか。それにどれだけの正当性があるというのか。

 そんなものはない、今となって私はそう断言できる。「私という個人の人生」と私が何者であるかは実は何の関連もない。私の生涯がどんなものであろうとも、それは「私それ自体」を指し示すものではない。仮にもし私が自分の人生を始めから終わりまで全て望み通りに完遂でき、望んだ経験を全て願望のままに体験し尽くしたとしたならば、その人生と私は等号で結び付けられるかもしれない。しかし、現にそうではないし、そういう意味で「満ち足りた人生」を送った人間など恐らく有史以来誰一人存在していないのではないだろうか。少なくとも自分がそうでないというのは絶対的な事実としてはあるので、私にとってはそれで十分である。

 生まれ落ちる町を自分の意志で選べる人間がこの世にいるだろうか。両親を誰にし、どのような教育を施されるか、完全に望みのままに誂えることなど言うまでもなく不可能だ。生まれや育ちといった人生における背景となる要素は、誰にとっても本意でないものだろう。私がどんな町に生まれ、どんな家庭で育ったかについて事細かく述べる気はないが、それらはどれも私にとって望ましくも好ましくもなかった。土台が不本意なものにどうして満足や納得できるだろうか。

 無論この世には幸福な人生を送る人間もいるだろう。多くの愉悦に浴し快楽を貪るような満ち足りた生涯を満喫する人種もいるのかもしれないが、自分自身がそれでなく、将来的にも絶対にそうはならないと確信を持って断言できるならば、それの実在性やそれについての詳細など何の意味も持たないだろう。私は私の人生になんの意味も値打ちも見いだせない。ただその事実が厳然としてあるだけだ。他人の幸せなど全く無関係である。

 しかし、それが何だというのだ。自分の人生に愉悦や楽しみがなく、他人のそれにおいてはそれらが満ち満ちていようと、それが何だというのだろうか。だからどうしたの一語でそれは終わる話だ。そもそも先に述べたように、人生と自分を同一視することが問題の根本であると断じた時点で、一個の人間としてどのような人生を送ってきたか、また送るべきだったかなどは瑣末事だ。それの詳細について一喜一憂する段階はもうとうの昔に過ぎ去ったのだ、私の場合。

 人生という枠組みから脱することだ。それが成されればそれから人は解放され、自由になる。私の本当の願いは良い人生を送ることではなく、時系列に則った出来事の陳列に過ぎない「人生」と自分自身を切り離すことにあった。今はそれがはっきりと腑に落ちている。

 私たちは人生という枠の中に閉じ込められている。これは言うなれば生まれながらの幽閉状態であり、私たちは自分が虜囚であるということにも気づかずにぼんやりとした意識で生きている。私たちは人生と名付けられた枠組みに囚われた私たちはその中でどう過ごすか、牢獄の中をどう飾るかといったことに頭を悩ませ、他の房の囚人と比較して自分の独房の良し悪しを判断し落ち込んだり思い煩うのである。

 なんという滑稽なことだろうか。しかし、多くの人は自分が囚われた存在であるとは夢にも思わず、監獄の中で生き続け、死んでもそれに思い至ることはない。たとえどれだけ快適な環境であったとしても牢屋は牢屋である。宮殿のような造りだったとしても、刑務所は刑務所であることに変わりはないのに。

 囚人として満足して生きる道もあるのだろう。模範囚として充実した生もありかもしれない。しかし私自身はそれを望まない。それは私が身を置く「牢獄」が好ましくないから他人のそれを羨み負け惜しみで言っているのではなく……、いやそういう思いももしかしたらないではないかもしれないが、ともかく私は「出る」ことを望んでいるのは確かであり、これだけは確信を持って言える。

 私たちは自分が歩いてできた足跡や運転した車が作った轍を自身の片割れや己の一部だと見なすだろうか。人生にも同じことが言える。何度も述べるが生きてきた軌跡は単に軌跡に過ぎず、それ以上の意味合いなど本来は持たせようがない代物だ。そんなものに自分自身を投影して託すから人生のクオリティの是非について懊悩するハメになる。足あとは足の延長ではなく、車の通り道にできた溝は車のタイヤと同じにはならない。それと同じことが「私と人生」にも言える。

 よって、これまでのこともこれからのことも私には無関係だ。もちろん余人はそういう姿勢にあれこれ物言いをつけるだろうがそれもまた私にはどうでもいい。これは開き直りではなく、自身にとって不必要なものをただ手放し、別れを告げるだけのことだ。不要なゴミやガラクタでしかないものを後生大事に掴んで離さないどころか、それが自分の一部だと見なすようになった愚かな異常者、それこそがこれまでの私だった。私は単にもうそれをやめる。

 自分自身について語らなければならないとき、私は自身の人生について言い及ばなければならいこともあるだろうが、その時はその時に応じ適宜その時だけそれについて語るだけでよい。頑なに人生というパラダイムを拒絶する必要もまたない。己について語る上でそれが便宜の上で有益であるならば私は依然それに頼るだろう。しかし、もうそれは私と同一でもなく、私の本質を表すものにはなりえないのだ。

 私において人生は終わった。他人にとってはどうであるかは知る由もないが、重ねて言うがそれはどうでもよい。私は私の人生にただ「さらば」と言うだけであり、それだけで十分なのだ。この段になり私は、人生や生涯と称される重荷を下ろすときがようやく訪れたのだ。これは大変喜ばしいことだと言える。何よりこれで楽になる。少なくとも苦しみは減るだろう。

問題

 私はこれまでずっと自分が問題を抱えて生きていると思ってきた。自分は数え切れないほどの問題を解決あるいは克服しなければならず、それが果たされないから自分は不本意な人生を送っているのだと考えていた。しかし本当にそうだろうか。私は「問題を持って」いるのだろうか。

 これは私と問題が別々に存在しているという前提に基づいた認識である。しかし、これらを分けて考えていることがそもそも間違っているのではないかと今日脈絡もなく思い至った。自分自身と問題の2つは実は不可分なのではないか、と。

 自己のアイデンティティとは即ち問題それ自体であり、自分が自分であることと問題を見出しそれと奮闘することは同じなのかもしれない。労働中にふと、問題を抱えている状態が己が己であることの証明となっているような気がしてならなくなった。強制的に苦役に従事している最中で、仕事上の問題と格闘している只中にあって前触れ無くそんな仮説が思い浮かんだ。

 私の人生には目下数多くの問題がある。それは貧困であり、以前自身の胸中で消化しきれてないな過去への後悔と解消できない未来への不安、将来性が全くない下層階級の賤業に従事し続けなければならない絶望的な状況に対する不満など、数え上げればきりがない。しかし、それらの問題の全てが考えようによっては自分を自分たらしめている要素の一つ一つではないかと。私は貧乏で孤独で不遇を託ち、低賃金で割に合わない仕事をして限りあるかけがえのない人生を消耗している。しかし、そんな問題が仮にもしある日突然雲散霧消してしまったら、私は何を持って自分が自分だと確信を持って自他に誇示できるのだろうか。労働の最中、そんな疑問が脳裏にかすめた。

 自分にとって好ましくないから問題は問題であるにもかかわらず、それが自分自身の本質かもしれないとは! それは受け入れがたいことのように思われたが、そう解釈すればいろいろな事柄が腑に落ちるような感じがした。私は問題を解決したいと本心では実は思っていないのではないか? 生きている間にあれやこれやと問題を見出し、それらをあげつらいああでもないこうでもないと悪戦苦闘しているような風を装い、実のところそれが自分が自分であることの証としてはいないか。自己のアイデンティティとして抱えている問題を実は利用しているというか、自分を自分たらしめる「問題」を常に躍起になって血眼で探しているのが実際の所ではないか? 自分が頭を悩ませている種種雑多な問題は実は自分自身について言及するための道具にすぎないのではないか?

 もしそうだとしたら滑稽である。自分が自分であることの証明として本心では問題を求めていたのだから。常に人生は問題ばかりであると思ってこれまで生きてきたが当然だ。私は腹の底では問題を携えて生きることを常に欲していたのだから。問題の本質は問題を望む心それ自体であった。そう思えば私の生涯は、自分を自分たらしめるために直面すべき問題を常に追い求めた、実に不毛なものであったと思う。

 これは自分自身をどう定義するかといっ自己へのアイデンティティにも関わる。何故なら、深層心理で問題を抱えることを渇望しているならば、問題とは人間にとって己の本質であり、問題即自分という図式が成り立つからだ。何によって私は私であると言えるのか、そんな月並みでありながらもシリアスで重大な疑問への答えの一つとして、問題こそが自分そのものだ、というものが挙げられる。

 問題とは自分に本来なら良くないものであるはずだ。しかし、本稿に於いては「汝それなり」という結論が出つつあるのだから、書きながらも我ながら奇妙に思われる。自己の本質が自分にとって好ましくない状況や事物、事象に他ならないという大きな矛盾をどのように捉えればいいのだろうか。

 辛く苦しく、嫌だから問題は問題であるはずなのに、それが自分自身の根源であるとしたならば、それは私が私であることがそもそも好ましくなく、自分自身とは手放してもよい、いやだきして然るべき代物なのではないか? そんな思いすら湧いてきてしまう。自分でないもの、己を取り巻く何かが悪いのであって、それをなんとかしなければならないという観点が転換され、自分自身それ自体こそが問題の核心であったと私は今まさに知りつつあると言えるのかもしれない。

 この視座を保った生き方は、何が問題でありそれをどのように解決するかといった古式ゆかしい取り組みとは全く異なるものとなるだろう。どんな困難に直面しても目を向けるべきなのは自身の内面ということになる。原因は常に己自身の中にあり、自分に拠らないものは全て皮相に過ぎない。目を向けるべきなのはどんな局面においても私なのである。一見理不尽で自分には何の非もなく感じられたとしても、それは上辺や見かけに於いてそう思えるだけのことなのだ。この視点は厳しいが革新的である。

 問題が問題でなくなるとき、私自身もまたなくなってしまう。それを喪失であると見なす限り、私たちは無限に問題を生み出しそれを抱え続け、そしてそれゆえに苦しみ続ける。それから逃れる一つの道は己を捨て去ることだけである。自分即問題で、それが嫌ならばそういう結論に至るしかなくなる。

 私は掛け替えのない存在であり、それを害する何らかの問題ががあるという前提を放擲しそれを単なる誤謬として切り捨てる。その先にあるのは無我、忘我の境地であろう。我を忘れたところに本当の愉悦や至福がある。一切の問題から解き放たれ、「我あり」という軛から抜け出したい。それが今の私にとっての望みである。

 抱えている問題の質や量がその人が何者であるかを表す。しかしだからこそ、何者かであることをやめるとき、どんな問題であれ消え失せる。それによって何かが変わるわけではない。自分自身の内面ですら何ら変化がないかもしれない。しかしそこには気づきがある。問題と自分が不可分であり、それらが何故生じるか、それへの気づきが私たちに冷静さをもたらす。煩悶や呻吟ではなく、自身やそれを取り巻く全てに対する冷徹に洞察するとき、私たちはそれが必須でも不可欠でないということを知る。そして、それだけで十分なのだ。特別なことをする必要など全く無い。

 自我は問題なくしては存在できず、私とは問題そのものである。究極のソリューションは自分自身から自由になることであり、自己を手放すことによってのみそれは可能となる。問題は苦しみでありそれの源は私たち自身の本質であった。よって苦しみの源を立つには私たちは私たちであることに拘泥してはならない。

 それに躊躇いがあるなら、それは即ち苦しみや煩いに実は辟易していないのだ。それへの躊躇は辛苦や煩悶を実は拒んではいないことの現れである。我が強い者は内心問題を抱え込みそれにより苦しむことを望んでいる。表向きでは自身を悩ませる諸事に嘆き悲しみ、嫌そうにしていてもそれは自己憐憫であり、それは彼にとって実は理想なのだ。

 しかし私はそうではない。巷の他人が自己とそれを悩ませる問題についてどう見なしていたとしても無関係だ。私個人はもう問題に取り組むことも「我あり」という思いに囚われることもたくさんだ。苦悩や煩悶からはもういい加減に別れを告げたい。そのために必要なのは何かに対しての行為ではなく、ただ「さらば」と一言言うか思うかするだけで十分なのである。

魂という牢獄

 スピリチュアルな分野においてよく唱えられる世界観の一つとして、人間は霊格を向上させるためにこの世に生まれてくるのであり、この世界は人間が冷静を成長させるための修業の場として創造された、といったものがある。これはその世界で名高い様々な人間が提唱する説で、この世や人間が存在する意味や私たちが生きている間に経験する辛苦に対する理由付けなどの観点から見て矛盾のない言説であるように思える。この思想により生き死ににまつわる一切に対して腑に落ちた状態で生きることができるだろう。

 しかし、霊的ステージを上げ、魂を成長させるとして、その最終的な帰結はどのようなものになるのだろうか。肉体を超えたところにある自己同一性や主体性といったものが霊魂だとするならば、それを無限に向上させ、進歩させていったその最終的に何がどうなるというのだろうか。スピ系ではより高次元の世界に行くとか、人間以上の髪に近い存在に転生するだとか色々な説が唱えられているが。結局のところどれも放言の域を出ないだろう。それらを鵜呑みにできるほど私は純粋ではなく、またそうなるべきだとも思わない。

 この世は修行の場であるという仮定や想定(設定と言っても良い)を前提として生きることに対しては特に反対する気はない。とどのつまり、自分やこの世界の存在意義や被る苦しみに対してどのように理解し、納得するかと言う話である。そのためにスピリチュアルな世界観を持って生きることは悪いことではない。むしろ虚無主義に堕するよりは信心深く生きたほうが建設的で人畜無害な生き方ができるだろうし、それは社会的に善ですらあるだろう。しかし、私個人はどうにもその世界観には首肯しかねるのである。

 霊魂という概念は、肉体を超越しても何らかの形で「自分」が保たれるという前提があって成り立つ。しかし、自分が自分であり続けるというのは私にとって必ずしも好ましいとは言えない。何故人は一個の人間であろうとするのか。過去現在未来において揺るがない自己と言うものを携えて生きていくことに、なぜ余人は窮屈さを感じないのだろうか。

 日常的な感覚や理屈の中に限って言うならば、それはかくいう私も「自己同一性」というものを否定することはない、というより不可能である。「昨日の俺はこう言ったが、今日の俺は昨日の俺とは別の人間だからそれは無効だ」などといったセリフを吐く人間には真っ当な社会生活は営めないし、最悪正気を疑われかねない。生きる上では「私は私」という前提を世俗的な領域や次元においては無視することはできないし、またするべきではない。

 一個の人間としての己であるという認識や時間の流れの中でも自分自身は損なわれずに同一であるという前提が私にはもう嫌なのだ。何故私は私なのか、何故そうでなければならないのか、そんな疑問が近頃頻繁に脳裏をよぎる。前述のとおり、実利や世俗的な必然性から言って、自己同一性は保たれなければならない。それは「正気」であることと同義であるし、それができない者は遅かれ早かれ社会から隔離されてしまうだろう。言うまでもなくそれは私にとって本意ではない。

 しかし、必要に迫られない状況においては、それを手放してもいいのではないか。俗世においてうまく立ち回り、生活を維持しなければならない場面においては私が私であることは避けられないとしても、この世界をどう見なすかや自分自身の存在意義を何とするか等と言った「戯言」と言っても過言ではないようなトピックを取り扱うような局面において、自己同一性という必要悪からは開放されたいと私は望む。

 余人はどうもそうは思わないようだ。ことに精神世界の類いに傾倒するような人種においては尚のことそうであるらしい。確固たる自分が肉体を離れても頑として実在し、それを向上・進歩・発展させていくというモデルがまるでこの世の真理であるかのごとくスピリチュアル系の界隈では盛んに喧伝されている。永劫に盤石な自分自身というものを携え、この世でもあの世でも、どんな世界においても己が己であり続けるのが当然だという認識が蔓延している。それがどうにも私には性に合わない。

 霊とは肉体に拠らない自己だ。肉体はいずれ年老い滅びるがそれとは無関係な不滅の自分が存在して欲しいという願望が人間にはある。そんな望みを叶えるために生み出されたアイディアが霊魂の正体である。それが実在するかどうか、仮に実在するとしてそれは一体どのようなものであるかどうかは生者には知りようがなく、当然私自身もそんなことは知らない。要するに魂とは不可知である。

 不可知のものをどう捉えるかは各人の勝手だ。各々の主観の中で、その実在性やそれが具体的にどのようなものであるかは如何様にもなりうる。それは畢竟、当人にとって最も都合の良い形で解釈されるというだけだ。不滅の霊魂がどんな次元のどんな世界でも確固たる実存を保ち、それが極楽のような環境で至福に浴すだとか、地獄のような所で辛苦を被るとか、あるいはこの世に何度も生まれ変わり、様々な事柄を経験して成長するだとか、説の違いはあれどそれらは唱え信奉する人間にとって都合のいい前提に依って定められると言う一点において共通している。

 仮に霊魂が存在していないと見なすとしても、それもまた見なす人間にとってそれが都合がいいと言うだけのことでしかない。肉体を離れた形で自己が存続するかどうかなどということを考えるの事自体がそもそも馬鹿らしいという思いもあるかもしれない。魂が不在であると考えるのはその方が自身に益するところが大きいという実利的な視座が根底にあり、それが存在するとした方が利が大きいとなればそのような人種もまた自身の霊魂の存在を容易に信じ込むだろう。

 つまり、人間は己に都合の良いことを信じ、それを事実や現実であると認識する。人間は万人がご都合主義で森羅万象を捉えているに過ぎず、それは己自身に対しても例外ではない。霊魂の有無やその詳細についても、それを語る当人にとっての願望の投影にしかならない。そこで問題になるのは、私個人は霊魂、ひいては自分自身のアイデンティティがどのようなものであれが好ましいのかということである。

 人間は見たいようにしか見れず、知りたいようにしか知れない。知覚や認識の前には願望というフィルターがあり、それのほうが物自体よりも人間にとっては重要となる。しかし人間はそれを自覚することができない。言うなれば人間は無自覚な欲望に振り回されて物事を見聞きし、頭の中だけの絵空事をこの世の実相だと信じて疑わない迷妄状態で生きているとも言える。

 何かを知り、解釈し論じる前に、自分が腹の底でどんな望みを抱いているかをはっきりと自覚しなければならない。それが明らかになれば自身にかかっている認知の偏りがどのようなものでその程度がどれくらいのものであるかをはじめて知ることができる。形而上形而下の別なく、一切について知り考えることは自己への探求に繋がる。それこそが知的活動の本懐であり最終的な到達点である。

 霊魂の実在や時間や肉体を超越した自己同一性への捉え方や見なし方は、とどのつまりは自分自身がどうありたいかという単純な簡単な問いに帰結する。私はそれらについては単なるしがらみと感じず、それからただ自由になることのみを欲している。霊格の向上や霊的ステージの向上、死後の救済などといった霊魂がどのような処遇を受けるかなどはどうでもよい。むしろ私はそれからの解放を望む。肉体が滅んでも私が私であり続けるという世界観は私にとって自分が永遠の虜囚であるかのように感じられる。私が何者であったとしても、私は私から逃れ解き放たれることを望んでいる。それだけははっきりと分かる。

人類皆無価値

 誰しも皆等しくに価値がない、これこそが真の平等である。自分自身含め、この世に尊い存在など誰一人としていないのではないか、最近ふとそう思うようになった。この世界になにがしかの価値のある人種が何処かに存在しているという仮定や前提は人間を単に不幸にするだけなのかもしれない。尊く貴い、値打ちのある「なにものか」という幻影のような存在に、これまで私は知らぬ間に苦しめられてきたような気がする。これは大変馬鹿げたことだ。

 思うに、対人恐怖症という奇妙な精神的な疾患の原因もこのような迷妄によるものなのではないだろうか。無闇矢鱈に他人に価値があると見なし、その「価値ある他者」からどのような評定がくだされるか戦々恐々としている人間が患う病がそれであるように思えてならない。私自身もまた他人を過剰に恐れながら生きてきたが、何故他人を恐れるのかという根本的な部分を考えもせず、闇雲に関わる全ての他社に対して怯えすくみ、恐れるばかりであった。他人の目や評価を気にするのは他者という存在が無条件でなんらかの価値を有していると思い込むからに他ならない。

 この世にいる全ての人間に価値がないとするなら、どんな理由があって私たちは他者を恐れるだろうか。男も女も目上も目下も、親も子も、一切の生きとし生けるものは皆平等に価値がないとするなら、何物も恐れるいわれなどないということになる。会社のなかで上役の評価を恐れるのはその人物が自分よりも価値があるという前提があるからだし、女に対して恐怖心を抱くのは女から嫌われることを懸念してのことであり、その大本にあるのは異性に対して無条件に価値を見出しているからに他ならない。

 これらは根本的に間違っている。自分も含めてこの世に生きてうごめいている万人には無条件に確保された価値などない。誰しも何らかの値打ちが生まれつきあるという誤謬こそが単に恐怖心を抱く原因である。それを克服するには、万人が無価値な存在であると断ずるのが最も効果的である。無論それは自分自身にも当てはまるが。

 価値のない人間に嫌われたり見下されたりしたところで何のダメージもないだろう。自分と比較して同等以上の相手にこれらのことをされれば私たちは精神に打撃を受けるが、何故そうなるかという理由は先に述べたとおりだ。これを避けるには人間という存在は皆例外なく価値がなく、尊い者など地球上に誰一人存しないという前提を崩さずにこの世を渡るより他はないのだ。これ以外の解決策を少なカウとも現状私は知らない。

 これは他人を蔑むとか侮るという話ではない。価値がないと見なすのは存在価値の否定等といったものとは全く異なると断言した。ただ単に万人は価値が「ない」だけであって、嘲りや貶しをする根拠があるというわけではない。この違いは決定的ではあるが、言葉で説明するのはもしかしたら難しいかもしれない。単に無価値であるということは軽蔑や嘲笑の念を抱く理由にはならない。

 価値が「ない」というのは事物に対するニュートラルな見方でありそれ以上でも以下でもない。ただ必要以上に他人に対して畏まる必要がないというだけの話である。他人を恐るるに足る存在であると無闇に買いかぶるせいで対人関係の無用な苦しみンを我々は被っているように思える。私はこの手の心労にはもういい加減辟易しているし、世間一般の社会通念がどうであろうともうこの前提を手放して少しでも生きることを容易にしたい。

 万人が無価値であるならば、自分自身もまた然りであろう。自分自身を高く見積もることでも精神は苦痛を被る。「価値ある私」と言う前提を持ってしまえば、それがいずれどんな理由にしろそれが損なわれる可能性が付いて回るだろう。己が損なわれるという不安や懸念がまた内心に恐怖を生み、それが我々を常日頃苦しめることになる。自分が価値ある存在だと思うこともまた辛苦の源となる。

 自分自身と言う存在が無価値であるならば、我々は己を損なう懸念から解放されるだろう。ないものをどうやって失えるだろうか。価値という尺度から解き放たれてはじめて人間は捨て身にも空手にもなれる。外的な要因でどれだけの憂き目に遭ったとしても自己が損なわれることなど絶対に有り得ないという確信。これこそが私を救済する境地だと言えるが、どのようにしてこれに達すればよいか。

 簡単だ。価値という概念それ自体が単なる妄想にすぎないと見向きさえすればよい。価値の有無や多寡などというのは人間の頭の中だけで便宜的に存在するものでしかない。それは実存のない妄想に過ぎず、我々は実体を持たない幻影のような代物を後生大事に抱え込んで生きていると言っても過言ではない。

 それがまるで無意味だとまでは言わない。私達が生きていく上で、要不要の峻別を持つことは絶対に不可欠であり、それを行う上で価値という尺度で万物を断ずることは生きている限り避けることはできない。しかしそれは飽くまでやむを得ずしなければならないことであって、しなくてよい場合でも常にそれに固執しなければならない義務など我々は背負っていない。例えるならば、定規は必要な時にのみ手に持つべき道具であり、そうでない場合は手放して何処かにしまっておけばいいだけのことだ。

 長さを測らなければならない時には定規が必要であり、重さを量るなら秤が必要だろう。しかし、重さや長さが問題でないとき、それらの道具も長短や軽重の概念も無用となる。それらはただ有効に活用するためだけに存在するのであって、それ以上の何かにはならない。価値という代物も物事の重要さを見極め判断を下す場合にしか有用でないのだから、それが必要なときにだけ用いられるべきだ。逆に言えば、それが必須でない局面においては捨て置いてよい。

 他人を値踏みし、どのように対応するべきか考えなければならない局面というのは大して多くはないはずだ。他者をどのような基準で評価し、優劣や美醜、貧富などといった観点から自身と比較して相対的にどうであるか分析して判断を下すことが「絶対に避けられない」状況とはどのような場合だろうか。それは仮にあるとしても相当稀ではないか。稀であるならば、基本的にはそれはしなくて良いと言ってしまった方が妥当ではないだろうか。

 ましてや自分自身対して価値があるかどうかなどと、それについて考えなければならない状況など本当にあるのだろうか。少なくとも他者に対しては人間関係を円滑にする必要性などを加味して、ある基準により誰がどれだけ価値があるかどうかといったようなことを考慮しなければならないこともあるだろうが、こと己に対しては価値などあろうがなかろうがそんなことはどうでも良いではないか。

 と言っても他人に対しても相手の貴賎などどうでもいいことがほとんどであろう。他者を見誤ることが致命傷となることは通常生きていてまずありえない。他人がどれだけ価値が高く優れ、美しかったとしても、それが私自身にとってどれだけの意味があるだろうか。どれだけ尊い存在に対しても、私自身が自分の中で価値がないと思えば、少なくとも私にとってその相手は取るに足らない。

 誰しも皆平等に価値がない。それを見失わないようにした。よって何者からのどんな評価や評定も恐れる必要など全く無いと断言できる。また、己もまたハナから価値がないから、貶めることも損なうことも傷つくことも絶対に有り得ないのだと今この段になって私は確信できる。

自己責任

 自己責任という言葉は大抵否定的な意味で使われる。苦境に陥っている人間に対して、その艱難の原因をその者自身に拠るものであると見なすとき、「お前のせいだ」というニュアンスで自己責任という言葉が盛んに用いられる。それは様々な場面で見られるだろうし、その言葉は大抵攻撃的な意味で相手に投げつけられる。

 私の人生もまた自己責任の一言で片付けられるのだろうか。生まれも育ちも悪く、経済的な事由により普通科の高校に通う機会すら無く、卑しい職業にしか就くことができずに社会の底辺を這うだけの人生を送ってきた私の生涯は自己責任という一言で表されるのだろうか。だとしたらそれは私にとって残酷な事実の突きつけとなるだろうか。

 しかし、一切が自分によるというのはある意味で望みがあると言えなくもない。問題の原因が自身によるものだとするならば、己の決断や行動によって状況が好転しうるということになるからだ。自力でなんとかなる余地があるならばそれは喜ばしいことであるといえるかもしれない。

 逆に、自分に一切の責任がないとするならば、それは絶望的である。責任の所在が己にないということはつまり、自力ではどうにもならないと認めることに他ならない。責任とは可能性と言い換えてもよいだろう。もし仮に私が誰かに「これはお前のせいではない」と言われたとき、それは即ち「お前の力ではどうにもならない」と宣告されていると言えるだろう。

 自己責任という言葉や概念は他人を攻撃するためのものではなく自戒として事故に向けて使われるべきだ。苦境に陥っているとき、自分以外の何かに原因を求めるならばその時点で自力で解決することは不可能になる。どんな状況にしろ、己による何かによってそれが引き起こされ、抜け出すことができないとするならば、己の力によってそこから脱せられると考えられる。自己責任は厳しくも希望が伴うと言えるかもしれない。飽くまで自分に向けてその言葉を使うなら。

 問題は何か、誰が悪いのか、その最終的な帰結が自分自身であるとするとき、人は自分の力で己が身を置く状況を変えようとする。そういう気持ちを持つことが結果的に個人を救済する。自分を救えるのは自分自身であり、自己責任とは克己心を鼓舞するための言葉としては有効である。

 しかし、客観的な因果関係から見て苦難の原因が明らかに自分のせいでない場合はどうすればいいか。その解決はただ一つ、客観を捨て去るのみだ。事実を冷静に見て明らかに自分には非がないとしても、その苦境から脱却できないのは己自身の力不足であり、紛れもない「自己責任」であると自身を戒めることで具体的に行動する上での原動力や動機づけが得られる。自己責任とは自分自身を戒めるための思想として有効に活用できる。

 自分を不当に扱い、虐げ騙し、搾取し使役する人間がどのような思惑で動いているかなど問題ではない。加害者としての他者がどんな人間であれそれもまた問題にするべきでない。全ては自分自身によるという確信を持ってこの世界を認識するべきである。これは皮相的に見れば理不尽で歯科な状況下にあっても、自身を鼓舞するためには大いに有益である。己に責任があるからこそ、現状を変え悪状況から脱する可能性も自分自身が孕んでいると考えることが可能となる。

 加害者としての他人、不条理な環境などといった外界に原因を求めてはいけない。それをした時点で我々は外界に対して敗北する。これにより我々は歯医者であることが確定し、その認識を改めるまでその苦境は決して覆ることはない。己自身を救うには、艱難辛苦から逃れられない根本的な原因が自分にあると断言するしかない。全ては私自身によると明確に宣言することで、能動的な意志を持って具体的に何をするべきかが見えてくる。それによって何をするべきかが確定し、最終的には不遇から脱することができる。

 天は自ら助くるものを助く。どのような不幸や不運であれ、究極的には自分自身が立つことでしか人間は救われることはない。希望とは常に厳しさの中にある。仮に先天的な要因や偶然による何かによって辛苦に喘いでいるとしても、それの全ての責任を自分が取るという気概を持つことが救済の端緒となる。これは意地や見栄という言葉に言い換えても良い。虚勢を張ることで苦渋や辛酸の中で呻吟する日々から抜け出すことができるのだと私は考える。

 私は悪くないのだと考えたり言ったりするのは容易いがそこには救いはない。責任がないということはそれを克服する可能性もないということだ。自分以外の何某かに責任の所在を求める限り、その人は絶対に救済されない。責任転嫁を行う人間は結局のところ救われることを望んでいるのではなく、自己憐憫に浸ること自体が人生の目的にしていると言っても過言ではない。生涯農地で被る一切に事故の責任を認めない者は永遠に被害者であり負け犬である。

 この世は被害者という立場に安住するかどうかを常に人間に問いている。この世が我々に課したり味わわせる一切に対して、我々はどのように振る舞いどのような姿勢で臨むかが肝心だと言える。外界が何を私達にもたらすかなど上辺だけの瑣末事に過ぎず、それに対して我々がどう見なし、何を為すかが本質であり、それが人間としてこの世で生きる意義となる。

 自分がどんな経験をし、どんな降伏や快楽を浴するか。またどんな辛苦を味わい、悲惨や屈辱を被るか。それらはもう度外視してもよい。自分の外側から何が与えられるかではなく、自分の内側がどのような様相であり、それに基づく己の言動がどのようなものであるかを常に人は意識しなければならない。

 外界ではなく、内側が全てだ。ましてや社会や他人が自分にどんな仕打ちをしたかなどは現在の私にはもう何の意味も価値もない。肝心なのはそれを受けた自分が胸中でどんな思考や感情に囚われ、どんな言動を実際に行ったかだけだ。生きるということは自己完結的な行為であり、内省こそが人生の目的、本質である。そのような意味合いを持って私は「自己責任」という言葉を肯定的に解釈し、実際に肝に銘じて生きていきたいと考えている。

 社会的な現象であれ、他人が自分にもたらす被害であれ、それは所詮自分自身を顧みるためのきっかけや材料にすぎない。己の内側にこそ全てがあり、あらゆる改善や向上の可能性がある。物事の原因は外側ではなく常に内にある。内面を意識的に観照する修練を積むことが人生においては重要である。霊的な意味を持って人間がこの世に生を受けるとするならば、己自身を深く知ることこそがそれであろう。

 人生とは徹頭徹尾個人的かつ主観的なものだ。客観的な視点や事実関係などは表層的なものであり、本質とは無関係だ。一切は己に拠り、自分自身は全ての起点となる。そのようなニュアンスで人間はあらゆる場面において自己に責任がある。この大いなる責任に目を向けか、背けて生きるかでこの世や人生に対するスタンスは正反対になるだろう。

 自己責任が持つ霊的かつ本質的な意味合いを知るためにこの世にはあらゆる理不尽や不条理が用意されているのかもしれない。これまで私を苦しめてきた他者や社会的な要因というのは全て、このような気づきを得るために必要なものだったのかもしれず、自己責任というのは一見新自由主義などの政治的な単語のように見えて、実はスピリチュアルな言葉なのかもしれない。

カルマ

 カルマという概念はこれまでずっと私を悩ませてきた。人生において自身が被っているあらゆる厄災や屈辱、悲惨や不遇の全ての原因が「自分のせい」などというのはあまりに理不尽に思えたからだ。昔2chで「前世で悪事を働いた者はその報いとして青森県に生まれてくる」などという書き込みがあり、これを目の当たりにした当時は大変不愉快に思ったものである。東洋思想におけるこのカルマというものは私にとってはそれ自体が極めて理不尽で不可解な到底許容できない代物であった。

 しかし、今になって私は業というものに対してある程度理解しつつある。カルマというのは単なる迷信ではないかもしれない、それを世迷い言だと断じるのは正しくないかもしれないという思いがある。それは単に己の不遇を前世の報いであるとして諦念するのではなく、今自分が被っている一切を理解するための鍵としてカルマという概念を利用できるのではないかと考えている。

 業とかカルマというのは人間に与えられた課題のようなものだと思う。これは生涯を通して解消、解決しなければならないもので、生前死後も引き継がれていくものなのだろう。誰しも前世の業を背負ってこの世に生まれてくるという世界観は、人間がこの世に生まれてくる意味や意義といったものを設定する上で有効だと思う。どのような境遇で生を受けるにしろ、それは今生で克服すべき何かをクリアするために必須なのだとしたら、人生の意味を納得することが容易になる。なぜ産まれ、生き、そして死ぬのか。そのことに対する一応の説明をつける為に有効な概念がカルマであると言えるだろう。

 自分自身の存在意義を考える上でカルマという考え方は有用である。カルマとは前世現世来世に跨る己が抱える問題であり、それを乗り越えるために人間が生まれてくるのだと考えれば、人生はなんとシンプルだろう。この世や己の意味を知る上でカルマという概念は使い勝手が良い。カルマにより、何故人間がこの世に生まれてくるのかという月並みだが万人を悩ませる問いへの筋の通った答えが一応は出るのだ。それが正しいかどうかは置いておくとしても、少なくとも個人的には腑に落ちる。

 この世や自分をどのように理解するか、どのような世界観を持って生きればよいか。この手の問題を解決するためのツールとしてのカルマは使える。他人を攻撃する時に前世の報いだ、などというのは言語道断で、カルマという概念は飽くまで内省のために用いられるべきものであり、その用途に限ればこれは有益である。ずっと忌避してきたこのカルマというものは自分を知る上で重要となるということは私にとっては一つの発見であった。

 カルマに限らず、どのような考えであってもそれは道具にすぎない。何であれ無闇に否定するのは益のないことだ。生きる上で使いようがあるものならば宗教用語でも学術用語でも何でも活用するのが賢明だろう。カルマは人生を理解する為に有効な概念であり、それにより何故生まれ生きるか、という類いの疑問で殊更煩悶することもなくなる。

 私はどのようなカルマを背負って生まれてきたか。それは私自身が個人的に把握すべきことだ。そのことについて一々文章にして述べる必要はない。しかし、人生における様々な辛苦に対して、これが私のカルマだと常に念頭に置き、そのことを忘れないようにすることは大切である。

 カルマがなければ、人生は理不尽で不可解なものとなる。それにまつわる視点がなくなれば人は、自身が被る不都合や不運に対してどう認識すればいいか分からなくなってしまうだろう。被る不幸であれ浴する幸福であれ、それが無意味だとしたら何であれ人間にとっては耐えがたいものだ。人間が最も恐れるもの、それは無意味である。人は心身が辛いから苦しむのではなく、自分の無意味さや無価値さに苦しむのだ。カルマに基づく自分や世界への見地はそういう意味で人を救いうる。カルマによって私は悩み事を抱え込み、諸々の事柄に煩わされるのだとしたら、それがどんなものであれ少なくとも無意味ではない。

 意味付けによって人は救済される。カルマは煩雑な人生における諸事に対する意味付けに有効である。自分がとある問題を抱えているとき、それが自分のカルマであり、それを乗り越えることこそが己が生まれてきた意味であると考える時、人は虚無感を覚えること無くそれに立ち向かっていくことができる。

 人生とはどこまでも個人的なものである。自分の中であらゆる事柄に意味が付与されれば、客観的にそれがどうであれ考慮する必要はない。自己完結という言葉はどのような文脈の中でも悪い意味で用いられるが個人的には首肯しかねる風潮である。生きる意味や生まれてきた理由などという類いの疑問は自己完結していればそれで十分であり、他人からの客観的な見地は不要である。カルマにより人生の意味を自分の中で腑に落とさせる。それだけでよい。

 しかし、カルマは自分自身の人生を理解する道具となるもので、他人に対して使うのは間違いである。誰かを指して前世の業だなどと言うのは以ての外であり、それは霊的な差別に繋がるだろう。自分以外の人間に業だのカルマだのと言って貶める人間を私は軽蔑する。カルマは自分に対してだけ使うべき概念である。

 本稿の冒頭においてカルマという言葉や考えを忌み嫌ってきたと述べたが、それは他人に向けられてその手のワードが使われることに対する嫌悪だ。私は己の生涯における一切をカルマであると断じはするが、他人の不幸や不運に対してはカルマや業という言葉を使って蔑んだり貶したりはしない。

 自身と己が被るものに納得するためにそれは活用されるべきだ。その用途に限定すれば業という概念は人間にとって有益だ。それには輪廻という世界観も抱き合わせとなり、それを前提にした認識を持つことになるが、前世や来世という概念もまた生きる上では有効であると個人的には思う。

 前世現世来世を通して向き合わなければならない問題が業であり、それを解決するために人間はこの世に生まれてくる。そういう視座から人生を認識すれば、かえって人生に悲観的になったり虚無感に苛まれることもなくなる。この視点から見れば人生は単純にして明快なものとなり、有意義なものとなるだろう。無意味な苦しみというのはこの世界観では存在し得ない。

 避けがたい苦しみを理解し、納得するためのツールとしてカルマという概念はある。生きる上でどうやっても逃れられない辛苦に意味が与えられたとき、人はそれに耐えられるようになる。カルマという観点は人間を強靭にし、絶望から私達を遠ざける一助となるはずだ。

 カルマは飽くまで問題であって罪ではない。カルマという言葉や思想にネガティブがイメージが付きまというのはそれを罪業と結びつける宗教観によるものだろう。悪事の報いとしての業ではなく、各々の魂が抱えている解決すべき問題が業であり、それ自体が人がこの世に生まれる理由なのだ。人生の意味はカルマの解消であり、生涯において直面する諸問題も突き詰めればこの一事である。そう捉えさえすれば私達が生きる世界の様相はだいぶ変わって見えるのではないだろうか。

 現世における問題を解決しなければそのカルマは来世に持ち越しとなるだろう。だから人生の諸問題から目を背けるべきでない。現世で抱えた問題から自殺などの手段で逃げれば、結局また来世で同じ問題に直面する、この世はもしかしたらそういう風にできているのかもしれない。

得と徳

 私は徹底的に利己的でありたい。己に利する事を極限まで追求し、逆に自身に益のないことは徹底的に忌避していきたい。実利とは生きていく上で絶対に欠かしてはならない指針であると私は確信する。何が自分にとって長期的かつ最終的に得であるか、という視点を失うことがないようにしなければならないと私は自身に常に言い聞かせながら生活を営んでいる。

 ただし、安直かつ短絡的に得をしようとするのは悪手である。一時的な目先の得のために多くを犠牲にするのは間違いである。そうではなく、長い目で自分がどれだけ特をするかどうかという視座であらゆる事柄について判断し、考え実行に移さなければならない。自分が浴する恩恵を最大にするために必要な振る舞いを明確に想定し、これを実践しなくてはならない。

 このようなアプローチで以て得を突き詰めた先にあるのが徳である。自分に利する手段を用い、それに浴する状態に身を置くために万策を講じ、ただただ自身に有益なものを追い求めることに終始し、貫徹するとき、人の振る舞いは道徳的にならざるをえない。利に聡くなってはじめて人は善性を発揮する。逆に悪徳とは利害得失の計算ができない浅薄さや軽薄さによってもたらされる。悪人というものは得てして損得勘定ができないものである。

 自分の半生を振り返ってみても、損得勘定を正しく行えなかったときには大抵、不義理や悪徳に染まった言動を行っていたような感がある。長期的な視野児で自身や周囲を分析することが出来なくなったとき、いつも私の良心は鈍麻し、愚行に及ぶことすらままあった。それを思い起こせば大変恥ずかしくもあり、また損をしたものだとも思う。

 連連された利己主義こそが人間を善に導く。己の言動を省み、自分や身の回りに利益をもたらす行いこそが徳であり、功利主義と善行は深く結びついている。逆に言えば自他共に損害を被る未来を見通すことができないとき人は悪に染まるのだとも言える。

 利害関係を踏まえ、損得勘定ができるかどうかによって人間は善人と悪人に大別される。その能力を備えたものは必然的に善を為し、それができないものは愚行により自他を損なう。このような視座によって世間の事件や事象を見てみれば、世の中は案外シンプルに成り立っているといえるのかもしれない。

 情けは人のためならず、という諺がある。これは他人に施すことで巡り巡って自分自身も何らかの恩恵にあずかれるようになるという意味の言葉であるが、これを実践するには長期的な視野を持って、物事を捉える必要がある。最終的に自分が何を被り、何を浴すかを冷静に見通し、見極める知性が求められる。その能力を涵養すること道徳であり、それを修め実践できる人間こそ紳士である。洗練された人物は自分に利をもたらすものを決して見失わず、自分に害をなすものを遠ざけることが自然にできるものなのだろう。

 世間ではエゴイストは良くないという風潮があるが、それは次元の低いエゴイズムにのみ当てはまる言説であろう。自分にとって何がプラスになるかを適切に分析できる人間がどのような理由で悪い振る舞いをするだろうか。利己主義が悪と結びつくのは、当人が己の振る舞いが最終的に損になるか得になるかきちんと分析できていない場合だろう。本当の意味で己に利する行為というのは自然と人道に則ったものになるはずだ。利益や幸福を最大化するには聡明であるべきだし、そのための土台にあるのは目ざとい損得勘定である。得が最終的に徳に結びつくのだから、エゴイズムは本来ならば推奨されてしかるべきだ。

 しかし世の中の潮流がそのようにならないのは、結局それが世の相当数の人間には難しいからなのだろう。私がそれを実践できるほどの知性を備えているかどうかは取り敢えず置いておくとしても、自分自身に長い目で見てプラスに繋がるような生き方ができている人間などやはりほんの一握りなのだろう。だからこそこの社会は不平等であるし、幸福な人種とそうでないものにどうしても二極化してしまうは無理からぬ事なのかもしれない。

 他人や社会全般についてあれこれ考えたところで埒が明かないが、少なくとも私は己自身に福徳を引き寄せることは可能だと信じたい。天は自ら助くるものを助くという。「自ら助く」とはやはりどう考えても自身が浴する得の追求であり、本稿で何度も述べているように詰まるところ実利や損得を踏まえた振る舞いということになる。得を求めることを究めれば即ち徳となり、私はその徳によって人が幸福になるのだと思いたい。

 利己主義とは肯定され礼賛されるべき思想である。悪人とは損得勘定を正しく行えない人種であり、善人はその逆のタイプである。どちらを志向するかは人によるのだろうが、少なくとも私個人は後者を選択した。人が善を為すには第一に利己的である必要があり、これは本来ならば美徳とされるべきだろう。世間の風潮がどうあろうと私個人はエゴイスティックあろうとする人間の中にこそ善性が芽生えると信じている。

 利に聡ければ聡いほど人は悪から遠ざかる。悪感情に飲まれて他人と対立することは無益であり、自身に何ももたらさないと知る者は慎み深く振る舞うだろうし、最終的に時分の利益や幸福を最大化するために必要な行為が何かを知るものは勤勉かつ実直に日常生活に臨み、堅実な人生を歩むだろう。それこそがまさに模範的かつ善良な人間の姿ではないか。洗練された利己主義が人間をより高みへと導いていくと断言できる。

 自分にとって有益な道を歩むためには聡明でなければならない。それこそが人間が身に付けなければならない知性だと言える。常識や通念、倫理などではなく利己主義によって人間は善良に振る舞える。しかし、その意気に達するために人は、自分にとって何が得になるかを知り、見極めなければならない。そのような観点を培い、保ちながら生きる姿勢こそが私にとっての理想である。

 自分にとって得にならないことは基本的にしなくてよい。それを念頭に置いて生活してみれば、いかに自分が無駄なことに固執しているかが歴然とするだろう。無益な思考や感情、言動などは挙げるだけで両手の指で数えても足りないほどだろう。得になることをする、というよりもこのような逆からのアプローチも有効だろう。

 得を求めるのが高望みだとしても、損をしないように心がけることは容易である。自分を害さず、損なわないためには何を遠ざけ、何をするべきでないか。そのことを常に念頭に置きながら思考や情緒を観照する習慣が身に付けば生活の質は絶対に向上する。得は取り敢えず度外視するとしても、損を忌避するだけでも及第とすれば超えるべきハードルは決して高くはなく、またそれによって得られる恩恵は少なくはないはずだ。

 損害は悪徳である、と言う見地を得れば倫理という曖昧模糊な代物に対する理解が深まるというか腑に落ちる。自分や他人を損なう行いや考えこそ悪だと定義すれば、己に対して合理的な自戒が可能となるだろう。極端な話、犯罪行為をハゼ行なってはならないかという問いに対して明確な回答がこれによって得られる。

 善悪と利害は同義であり、道徳とは損得勘定である。得失を正確に認識し、何をすべきで何をすべきでないか判断し実行するのが人道である。このように考えながらこれまでの人生や目下の生活を振り返れば、どれほど自分が「悪徳」に染まっているか自覚できる。

「どのように」と「何故」の問い

 この世界は何故存在しているのか。日常の瑣末事に囚われ日々汲々として生きていると、この手の問いが頭に浮かぶ暇もない。しかし、忙中閑ありというように僅かに息つく暇があればふと、そのような問が不意に私の胸中に湧いてくる。この世界は何故、何のために生み出され、存続しているのだろうか。そんな遠大過ぎる疑問である。

 また、「どのようにして」この世が成り立っているかという疑問もあるが、これは冒頭の問いとは細かい点で異なる。Howから始まる疑問は理屈や因果関係によって難解ではあっても説明や理解が可能である。事物について知識を蓄え理解を深めれば「どのようにして」という問いの答えはいずれ明確な形で顕現し、我々はそれにより納得できるだろう。しかし、それは「何故」の説明にはならない。これはWhyから始まる疑問である。

 「どのように」の問いは論理による説明が付けば終わる。原因と結果、それらの一部始終の過程を解説するだけだ。しかし「何故」の問いにはそこから一歩踏み込んだ理由が必要となる。因果についての説明ではなく、そもそも「なんで」、何のためにそれが起こり、我々にもたらされるのかという疑問である。それはどのようにの問いと較べて大きく、また根深いものである。科学や理屈での説明はこの問いについての根本的な解決とはならない。

 我々はWhyの問いを抱いたとき、ある意味で欲深になる。どのようにそれが起こるかの説明だけでは満足できなくなるのだから。ある問題があり、それの原因が何で、それを解決するために必要な手段はこれこれこう、それが為されればどのような結果が得られるか……。これらの一連の流れだけではWhyの問いを持つ者は不満なのだ。それた単なる上辺だけの説明だとしか思えなくなってしまうのは強欲と言えなくもない。その疑問自体が極めて贅沢な悩みなのかもしれない。

 何故この世界がこのような形で存在しているのか、という問いを抱きその答えを探し求める者の人生は困難である。その問いに対する明確な答えは恐らく誰にも解き明かせはしないだろうし、解決できない問題の答えを追い求めて煩悶する人間が幸福であるはずがない。そんな苦悩が高尚であるとまでは言わない。しかし、ある種の人間はその疑問を無視して生きることはできず、例え他人が何らかの意図を持って用意した安直な答えであっても時にそれを渇望する。

 この問いを解消する最も安易な方法は宗教に傾倒することだ。宗教はこの手の問いに決して言い淀むこと無く明確な回答を用意する。宗教はこの世の成り立ちから人間が想像された理由、生きる目的と死んだ後はどうなるかまで懇切丁寧に答えを用意する。森羅万象にまつわるWhyの疑問に筋道の立った回答の体系が宗教であり、これは答のない問いを携えて生きることに疲れた人々にとっては極めて魅力的である。人生において体験する全ては宗教により意味付けされ、虚無感に苛まれること無く生涯を完遂することができるようになる。

 しかし、宗教に依存したとき人は、それによる世界観や体系的な教義という網や牢獄とでも呼べる代物に束縛されることになる。それによる弊害の実例は世の中を見回せば枚挙に暇がないだろう。答えのない、ある種不毛な疑問を解消するために伝統的なものであれ新興のものであれ宗教に頼ることの弊害は、現代社会を生きる人間の多くは既に知っているだろう。要するに宗教にのめり込めば人は、そのしがらみに縛られて生きるしかなくなるのである。大抵の人間にとってそれは苦痛だから宗教じみたことを現代人は十把一絡げにして忌避する傾向がある。

 しかし、Whyの問いに向き合う人間が必ずしも宗教に傾倒するわけではない。もしもくだんの問いに目を背けず、かつ宗教にもかぶれること無く生きるとするならば、その生き方は修羅の道だ。その人生は出口のない道を延々手探りで死ぬまで歩み続けるような苦行の人生となる。人間の精神は虚無や空虚に耐えられるようにはできていないため、不意にこの道に迷い込んだ者の相当数は精神を病んでしまうだろう。

 畢竟、この世が「なんで」「何のために」存在しているか、森羅万象一切合切は何故このような形で在らねばならないのか、という類いの疑問に対する宗教を廃したスッキリとした解決、解消の術などないのだろう。つまるところもしかしたら全ては無意味で無価値だと結論付けるしかないのだろうか。少なくとも、世俗的な観点において気を揉む事自体が時間の無駄の一言に尽きるのかもしれない。しかし、私はそれが気がかりで仕方ない。無駄だと分かっている疑問を捨てされないでいる。これは私一人ではなく、その手の途方もない悩みを抱えて生きてる人間には共通のことだと思われる。

 どんな生き方をしたところで、結局のところそれは不毛なのかもしれない。そんなニヒリズムに思い至り、迷妄の中で絶望する。建設的で希望的な答えなど用意されていない。そんな事実に直面して途方にくれているのが今現在の私の心境だ。

 自分が産まれ生きている意味やこの世が存在する理由について付け焼き刃でも何らかの答えを設定しようと試みたこともある。スピリチュアル関連の言説の受け売りを自身に言い聞かせこの世の全てに説明がつくような世界観を信奉しようとした。しかし、結局のところあまり気乗りがせず、目下虚無感を抱えながら生きるだけの状態に留まっている。

 浴すること、被ること、自分自身にまつわる全ての一切が完全に無意味で価値がないとしたならば、どうしてそれでも生きていかなければならないのだろうか。私は何故生きるのか。なんのために死ぬのか。月並みな疑問は日を追うごとに、歳を重ねる度に深刻さを増していき、人を苦しめることになる。自分は無価値で意味がない存在ではないか、そんな疑念が頭をよぎると私は堪らなくなる。

 私は鄙びた町の貧しい家の長男としてこの世に生まれ落ちた。そんな私は物心ついたときから親をはじめとした周囲の人間たちに、人並み程度に金を稼ぎ適齢期で結婚し、標準的な家庭を築き模範的に歳を重ね、円満に生涯を閉じるよう義務付けられ無理強いされながら生きてきたような感がある。それは能力や資質の面で果たされなかったが、仮にそれが実現できたとしても私は、そんな人生にWhyの問いを抱かずにはいられなかっただろう。考えないほうが良いような、目を背けるべき疑問を無視することができない人種にはそんな業がどんな生き方をしてもつきまとうのかもしれない。

 もうこの世に居た堪れないといった気持ちになる。しかしそれは、短絡的な自殺願望ともまた違った感情だ。仮に死ぬとしても、その行為にも付いて回るのだ、なんで? という問いが。産まれた謂れ、生きる目的、死ぬ理由。何故? 何のために? 私は未だそれを知らず、また分かるはずもない。その絶望を目の当たりにしながら日常の瑣末事や日々の諸事に身をやつし、糊口を凌ぎほうほうの体で生きている自分自身の下らなさを時折自覚して愕然とする。

 スピ系や宗教に依らずに根源的な無意味さや無価値感と対峙する。今、これが私の生涯における大きな主題となっている。気休めや目眩ましで糊塗された世界観に依存することなく、絶望を携えながらも己やこの世界の全てと真摯に向き合い、人生を完遂しなければならない。この段に至っては一個の人間としてどう生きるかなど些細な事だといえる。私の生は当面、社会通念や信仰、思想信条などを取り払った荒涼たる境地で孤軍奮闘が続くだろう。

逃れられない

 仕事をしている最中に何の脈絡もなく小学生だった頃のことを思い出した。小学5,6年の頃の私は人生で最も苦しい日々を送っていた。その頃は家庭内で大きな問題があったとか経済的に困窮していたという話ではなく、学校で教師から酷い目に遭っていたのであった。当時私のクラスで担任だったNという教諭は私を標的に定めて徹底的にいびり倒した。その頃のことは未だにトラウマとして脳裏に焼き付いており、今日のように何の前触れもなく当時の嫌な記憶が思い起こされ、私を大変不愉快にさせるのである。

 Nにどのような腹積もりがあったのか、未だに私には到底理解できない。当時から私は根暗で鈍くさく、典型的な駄目な子供であったから、そんな私の根性や性根などを「叩き直す」つもりで私に過剰に厳しく接したのかもしれない。しかし、それは今にして振り返っても単なる言葉の暴力や理不尽な仕打ちの数々に過ぎなかった。Nがどう考えて私にそれらの苦しみを与えたにしろ、そんなことは私が生きていく上で一つもプラスにはならなかったし、全く感謝の念も起こらない。ただただ無用で有害なことをしてくれたな、という思いがあるだけだ。

 私は親や親戚、同級生などに対しても数多の嫌な思い出がある、いや好ましい記憶など何一つないといってもよい。しかし、それらよりも私の人格形成に悪影響を及ぼしたのはN絡みのエピソードであると断言しても良い。小学5,6年の頃のクラスの担任がもしNでなかったら、と今になって思う。Nと接触しなければ私はここまで陰気な性格にはならなかったかもしれない。11歳か12歳そこらで理不尽な目に遭いすぎたことにより、私の人格は歪曲してしまったと確信している。それほどNは私に酷いことを言い、またやった。

 それらを一つ一つあげつらうことは可能だがそれは無意味であろう。それよりも、その当時の私が被った苦しみについて根源的な洞察を試みた方が建設的であるといえる。単に怒鳴り散らされ、暴力を背景にいつも脅され、他の児童たちよりも明らかに不当な扱いをされたというのは表層的な事実の羅列にすぎない。そうではなく、物事の皮相ではなくもっと深いところにある「苦しみの根」のようなものを本稿を機に探っていきたいと試みてこの記事を書いている。

 だが、生涯において辛かったのは小学時代だけではない。中学も高校も、大学も社会に出てからも私の人生は常に困難を窮めていた。というよりも言うまでもなく、単純な苦痛の多寡だけで言えば子供の頃よりも大人になってからのほうが圧倒的に多い。しかし、過去を振り返ったときに、自身の人生において印象が強い記憶は子供の頃、とりわけ小学生だった時分の出来事であり、そのうちの相当な割合が親とNがもたらしたものであった。

 これまで生きてきて被ってきた怨憎会苦と被ってきた無数の嫌な思い出の数々。しかし、それらの過半数は時間の経過とともに忘却の彼方に押しやられていく。しかし、Nに遭わされた酷い目や憎むべき所業の殆どは歳月を経ても色褪せることなく今でも鮮明に追憶できる。これは私の中でそれらが記憶として根深く定着しているから二歩から鳴らず、私の脳はNに関する出来事とそれに付随する当時味わった嫌な情緒などに重きをおいているということになるのだろうか。

 子供の頃の私がNから受けた仕打ちは当時は筆舌に尽くしがたく思われたが、事象それ自体はありふれたものであり、大人になった現在の私にとってはそこまで特筆すべきほどの惨事と言う程でもない。Nよりも糾弾されるべき悪人はこの世にいくらでもいるし、Nが私に行ったり言ったりしたことよりも手酷い所業を私にもたらした人間もまた数多いる。しかし、記憶の中ではNが両親と並んで嫌な人物として色濃く強烈に記憶されているのである。

 大人が苦渋や辛酸を舐めたとしても、そこから逃げ出すのは容易である。有害な人間関係は断てばよく、劣悪な就労環境での仕事なら転職すればいい。大人は自身が身を置く環境をある程度選ぶことができるし、自身が不利益や不都合を被らないように有効な対策を講じる能力が備わっている。大人が被る不幸や苦痛の相当数は自力で避けることが可能である場合が決して少なくない。

 しかし、それが子供ならばどうだろうか。子供は生まれる家も育つ環境も自分では選べない。関わる人間を選ぶこともできず、無益な辛苦から逃れる術も能力も持っていない。子供にとってあらゆる理不尽や不条理を伴う苦痛や悲哀は全てが不可抗力だ。自力ではどうすることもできず、子供にはそれから逃れる道など基本的には用意されていない。

 単に嫌な思いをし、酷い目に遭うことが問題なのではなく、それから逃れられないというのが苦しみの根源、本質である。逃げ道がある苦しみなど苦しみの内に入るだろうか。避けうる凶事は凶事たりうるだろうか。人は逃れられず避けがたい何かを被ったときに苦しみを味わうのだ。肉体や精神に負担がかかることが即苦しみとなるのではない。かつて被った苦しみに思いを馳せるときには、自分にとって避けがたかった、逃れられなかった物は何だったかという観点を意識的に持ってそれに臨めば、自身の精神に悪影響を与えている記憶を深く分析できるようになるかもしれない。

 逃げ場がないことそれ自体が人間を苦しめる。好ましくない何かから遠ざかる力がある人間はそれができない者よりも幸いである。逃げられる能力、避ける機転、遠ざかり、手放すための資質……それらを身につけることで何を被ったとしても人は逃げ道を見いだせる。逃れられないという絶望から解き放たれることが大切だ。

 逃げられるという可能性が希望となり、苦しみを減らすが、逃げるための力もまた必要となる。逃避のための術を一つも持たなかった子供の頃を回想しながらも私は、目下被っている苦役や苦境についても全く同じことが言えるのだと気づくに至った。ストレスフルな状況に身を置き、物質的かつ金銭的に窮乏しているというのは上辺だけしか見ていない現状認識だ。それがなぜ私にとって苦しみかと言えば、それから逃避したくてもできないという救いの無さが根底にある。そのような視点を持たなければ、ただ単に不遇を託つだけになってしまう。

 苦しい、辛いと嘆くだけではなく、その思いが何によって自らにもたらされているのかを深く内省するべきだ。何によって苦しむかではなく、何故苦しむかが重要なのだ。Nに限らず、私に辛苦をもたらした全ての人物や現象その他もろもろは、とどの詰まりその一事を私に教えてくれたということなのかもしれない。逃れられない苦しみと、それから逃れるためには力を蓄えなければならないということ。それらを私はNのような強悪の徒から学んだ。

 そういう意味で考えればNは恩師であったと言えなくもない。いや、私を不快にさせ、苦しめ責め苛んだ全ての人間は、私にとって菩薩であったといえるのかもしれない。それは無論感謝の念などではなく、私がそれを知る上でのきっかけ作りにお膳立てとして彼らの存在が不可欠であったということだ。

 まず苦しみから始まり、それから脱する足掻きを経てそれから解き放たれる。人生を極限まで簡略にすれば、このように言い表すことができる。悪人との邂逅や不運、不遇、不幸……。あらゆる憂き目の全ては人生の出発点となる。そこに留まるか、そこから踏み出して前に進むかは各人の手に委ねられている。現状、私はその起点から少なくとも発つ心づもりだけはしているつもりである。

不信

 これまで私は幾人かの他人から何度か「なぜお前は俺を信じないのか」といった趣旨の事を言われたことがある。そのような発言を私に向かってする人種は大抵、私にとっては信じるに値しない類いの人間で、私はその局面においては適当にはぐらかし事なきを得てきた。しかし、改めて考えてみると、その手の人間はなぜ私ごときの盲信を渇望していたのだろうか。

 思うに彼らは私を相当低く見積もり、見下していたのだろう。だからこそ連中は私が無批判に自分を盲信することが当然だと考え、実際にはそうでないことを憤ったに違いない。これは極めて傲慢な精神の発露であり、私が何を或いは誰を信じるか信じないかは無論私自身の手に委ねられているはずである。そんな取捨選択の自由すら何の権限もなく身勝手に侵害する人間を私は心底嫌悪する。

 この手の輩は頭の中で不信と敵対が等号で結びついているのだろう。疑いを挟まずに盲信することを立場の弱い人間に無理強いする様は正しく異常者である。信じるに足るなにかを相手に提示していない状況がまずあり、そのために自分が信頼されていないという事実を認識しているのかしていないのか定かではないが、「お前ごときがこの俺を信じないなど言語道断」などという趣旨の発言を他人に向かって臆面もなくいい花てる神経はある意味で見上げたものだ。

 私は基本的に何も信じない。不可知論者を自称してもいいほどだ。たとえ親族であったとしても、言うことを鵜呑みにするようなことはない。それが他人に対してならば猶のことである。他者とは私にとって信じるべきでない対象であり、それは人に限らずあらゆる事物にも敷衍して当てはまると思っている。

 体の免疫系は外界から入ってくる異物を容易に受け入れずに肉体を保護し、健常な状態を維持する。不信という姿勢は心や精神、霊魂といった領域において免疫の役割を果たす。何を受け入れるか、何を正しいと思うか、その指針を失わないことで人は道を誤らずに生を全うできる。体に免疫力をつけるように心に不信の芽を蒔き、それを育て維持していかなければならないのだ。

 先に述べたように不信即敵対では絶対にない。信じられない相手を闇雲に敵とみなすのは短絡的だ。過剰な免疫反応がアレルギー症状を引き起こすように、不信の念を以て誰かれ構わず敵意を剥き出しにしたり軽侮の念を露わにすることは考えるまでもなくマイナスに作用するだろう。

 また、多少信じるに足るような根拠が提示されたからといって、その対象への信頼を全幅のものとしてしまうのもまた危うい。何かを無批判に受容するなら、それによって被る一切に責任と覚悟を持って臨むべきだ。それができないならばやはり人は何かを盲目的に信用したり信頼したりするべきでない。

 何かを信じていいのはそれが自分を裏切った場合に心の準備ができているときのみだ。更に言うならば、信じることと裏切られるということは不可分であるとも言える。信じた何かが自分に意に沿わない結果を招いたとき、それが自身を裏切ったとき、恨み節を言うような人間はそれを信じる資格を持っていなかったというだけの話である。逆に言えば、裏切られる事を前提にしない信用や信頼は無責任であり、偽物なのだ。

 しかし、信じないことと疑うことは似て非なるものだ。「信じない」は安易に信じないというだけのことであり、盲信しないだけでそれ以上の邪推を挟まない状態である。対して「疑う」というのはある種の誇大な被害妄想に端を発する情動だ。物事の裏を読もうとし、下衆の勘繰りをしている状態であるとも言える。信疑ははっきりと分けて認識すべき感情であり、人を疑うことは好ましくないが信じないことは悪いことではないのだ。

 信じないというのは事物に対する中庸な見方である。ある対象を信じるとき、人はそれにあまりにも深く傾倒すぎているし、疑うならば邪推が過ぎる。不信はそれらのどちらにも属していない状況だ。何かに過剰に肩入れすることもなく、被害者ぶり過敏に警戒することもないニュートラルな状態と言い換えてもいい。

 「信じない」ことは悪いことではない。冒頭で述べたような人間たちは私が彼らに心酔し、全幅の信頼を置くことを無理強いし、私がその意に沿わないと見るやまるで私が大罪を犯した極悪人であるかのように責め罵り、激しい怒りを露わにした。しかし言うまでもなく彼らを安易に信頼することは浅はかで愚かなことである。人を騙したり酷使し操作しようとする悪人に限らず、不信を貫くことは基本的に正しい。すくなくとも間違いや悪事のたぐいではないことだけは確かだ。

 考えてみれば、「俺を信じろ」という言葉はなんと尊大だろう。そのようなセリフを相手に投げかけるような人間は他人を自分の傀儡として利用する腹づもりなのだろう。そのような人種が抱えている一番の問題は、その身勝手さではなく自分の恐るべき本音を自身が全く自覚していないという一点である。他人を道具として扱いながら自身の悪逆に終生その人は気づくこと無く、死ぬまでその振る舞いを改めはしないだろう。

 信認や崇敬を要求または強要する人間はそれだけで危険な存在だ。その傾向を見せた時点でその人物はたとえ親であっても距離を置かなければならない。その手の人種はどのような形であれいつの日か他人を必ず食い物にしようとする。そのような手合いと関わり合いになるなら、私たちはその悪漢の為に犠牲にならなければならなくなることは必定である、断言してもよい。

 不信は悪でないどころか人が生きる上で大切な能力だ。それはこの稿で何度も挙げたような悪人から遠ざかり自分の身を守るために必須なものであるだけでなく、もっと根源に関わる資質だ。無垢であることは盲滅法に信じない姿勢でもって達成される。偏りのない純粋な視点でこの世を捉えようとすれば、不信というアプローチは不可欠なものとなってくる。

 信疑はそのどちらも人の判断を狂わせ、認識を歪ませる。バイアスがかかった観点から物事を判断し、歪な欲望や疑心暗鬼の念などといったフィルターを通してそれを見ることになるという点で、信疑は同列だと言える。信じることにも疑うことにも偏ること無くありのまま物事に触れることを臨むならば人は、信じないという見地によって立たなければならない。その立場や姿勢を何によっても崩してはならない。

 信じない人は何物にも囚われない。逆に言えば、信じることで人はその対象に依存する。それは人間に不自由をもたらす。信じる姿勢はそれ自体が牢獄であり、他人に自分を信じさせようという試みは、その人を降りに閉じ込めようとする所業であるといえる。それを自分にしようとする人間が現れたならば、重ねて言うように私たちはその人物から離れなければならない。他人からの束縛や不自由を厭うならば。

 敵意や猜疑の念を持たずに不信を貫くべきだ。欲や願望を仮託せずに人や物を捉える姿勢こそが不信なのである。他者を信じるな。組織を信じるな。共同体を信じるな。通説を信じるな。己自身を信じるな。私は不信の誓いを立て、そのことを常に念頭に置きながらこれからは生きていくつもりでいる。

 唯々諾々と無批判に何かを信じることは愚の骨頂である。まして他人への盲信など以ての外だ。それは重ね重ね述べる通り、他人と敵対するということではなく、他者から自由になるために必要な姿勢であるというだけのことだ。

無念無想

 私は考えることに重きを置きすぎていた。これまでの人生を顧みてそう思う。私は己のうちに起こる情動にはある程度の距離を置いて捉え、それを観察してそれに振り回されないように意識的に自らを御することができていたと自負するものの、その一方で思弁や思索、思惟という精神活動については殆ど野放図に、自身の内面において繰り広げられる我儘にしていた。

 それどころか私は思考と自分を不可分な一如の存在として定義し、それをこれまでずっと自明なものだと見なしてきた。私は自身の内的な世界において、思考を感情よりも一段高い位置に置き、それを自分の本質だと思い込んできた。なぜ思考即自分なのかと、疑問を挟む余地はないと断じてきた感がある。それは何の根拠もない大変な誤りであると、私はつい最近になって気づいてきた次第だ。

 巷では「感情に流されるな」という戒めがよく言われる。感情的になることは間違いのもとであり、自分にとって有益ない感情に振り回され、身を滅ぼすようなことがないようにと私たちは常に心の何処かで自身の情動には気を配る習慣があるだろう。感情的にならないということは美徳とみなされることが多いだろう。

 しかし、理性について現代人の大半はあまりにも無批判である。理性的になるな、という警句を私はこれまで終ぞ聞いたことが無い。世間一般の言においては理知的であることは望ましいとされ、頭の中で考えている内容を自分自身であると断ずることに疑問を挟む余地はない、ということになっている。

 私は「考える」という行為はあまりにも不当に高く評価されていると思う。また、「思い」を自分の本地と見なすことに反対である。自身の内面において惹起する情動の全てが問答無用で即自分である、とならないのならば、それは理知的な精神活動においてもまた同様ではないだろうか。感情と同様に、思考即自分という図式もまた成り立たないのではないだろうか。

 私は思うことや考える事を完全に自分の意志のみで為していると確信できない。むしろ逆で、他人やメディアによる刷り込みやマインドコントロールなどにより、感情は無論のこと思考もまた相当な部分で操られていると感じる。そう考えれば、思考が自分のアイデンティティの根幹を成すという見方は根拠に乏しいと言える。感情に対して距離を置き、批判的に臨むならば、理性に対してもそうするべきだと私は思う。

 私は思考、感情ともにそれ即ち私であるとは言えない。更に言えば、自分の内的な精神活動全般に対して距離感というか、「己ならざるもの」であるかのように感じる。悪感情が内面で惹起するときも、取り留めもなく何かを思うときも、自分とはまるで無関係な現象が自身の内部で作動しているかのような感覚を、最近になって抱き始めている。

 己自身がままならないとき、その己が己であるとなぜ断じることができるのか。自分の意図しない方向へ向かおうとする思考、止めようと心がけても留まらない思索、思弁などがなぜ私自身だと言えるのか。己の内面で惹起する様々な悪感情と自分を切り離す芸当ができるならば、理性的な領域においてもそれを適用すべきだ。つまり、人間が生きる上で有害な悪感情があるのならば、有害な「悪い思考」もまた定義されるべきで、これとも最終的には決別するように私たちは努めなければならないのではないか。

 この思考は私にとって何をもたらすか、常に自問する習慣を身に着けなければならない。冷静に判断を下し、正しく己を導く思考もあれば、我が身を自滅に追いやるそれもまた少なからずあるはずだ。私はこれから先、自分の思いや考えにも手綱を取るように心がけなければならない。自分にとって不要のない思考を己の内面から削ぎ落とし、手放すことを始めなければならない必要性を感じる。

 思慮深さとは単に愚鈍さの現れだ。私は幼い頃から色々と考え込む性質の人間だった。私はそれが自分の賢さゆえの気質だとずっと思って生きてきたのだが、それは大きな間違いであった。人生において肝心なのは具体的に何を為すかであり、何を思い感じたかではなかった。そのことに私は色々と手遅れになってから愚かにも気付いたのだ。多くの現代人は考えることに重きを置くだろうし、私もまたそうであったが、自身の生涯を顧みて、そういうタチが自分にとって如何に有害であったか近頃思い知ることも多々ある。

 考えと自分を完全に同化させることはことによっては危険ですらある。人間は一時の激情によって破滅することもあるし、また生存に適わない思考によっても身を滅ぼすこともあるのではないか。情緒に関する警句は世の中に数多くあるが、思考についての戒めの言葉というのはあまりないように思う。せいぜい、悲観するよりも前向きに考えろ、などと言うような類のものがある程度だ。

 ただ覚めた視点で思いや考えを観照することだ。私は物心がついてからというもの、思考を自身の一部と見なして今日まで生きてきた。これを改めるということは、自己の認識を根底から覆す試みとなる。胸中の思考がどのようなものであれ、それを自分のアイデンティティと切り離して観察する時間を設けなければならない。情動に対しては勿論のこと、理知的な領域に属す精神活動にも人は批判的になるべきだ。

 ただ何も考えなくなるのではない。沈思黙考から皮相浅薄に転ずることもまた正しくない。理性に基づいた精神活動が有益である場合もあり、それを欠いてはならない状況もまた多々あるだろう。そのような自体にも盲滅法に考えることに批判的であればいいという話でもない。重要なのは自己と思考との距離感である。考えることやそのないというと自分自身を同一視しないことだ。

 情緒も理性も私そのものではないという視点を会得すべきだ。それらのどちらにしろ生きるために有益なら道具として活用すべき代物に過ぎず、自己のアイデンティティの根幹と見なす観点を捨て去らなければならない時が、少なくとも私個人においては訪れていると言っていい。

 思考は単に形而上の道具にすぎない。それが有効である場合には大いに使えば良く、それが不要であればそれを手放せばよい。心の中で絶えず起こる思いをそのまま自分の本質だと見なせば、それをそのまま抱え込むことになる。これは例えて言うならば要不要の別無く雑多な道具を闇雲に携えている状態である。これでは不必要な道具は単に重荷となり、逆に使うべきものを使うこともできなくなろうだろう。

 思いや考えはそれがどのようなものであれ、私の本質にはあたらない。どれだけ効果で便利な道具であっても、それが体の一部には絶対にならないのと同じだ。物は物に過ぎず、それと肉体は決して同化することはない。このような形而下においては自明なことが、形而上の世界においても当てはまる。先に述べたように、気分や情動、理性や思考という人間の内面で起こる様々な諸事もまた形のない道具である。それらがどんなものであろうと、それは道具以上の何かになりはしないのだ。

 人間の本性や本地とは何か、それはあまりに難しい問いであるがそれが短絡的な情緒や思考ではないということは言える。「少なくともそれではない」と明らかにすることで問いの答えに僅かならでも近づける。

 感情や思考を指して「これは私ではない」と宣言したとき、人は必須でないものを手放し少しだけ身軽になる。それにより私たちは多少は楽に生きられるようになるのではないか。少なくとも必要でない思いを抱え込み、あれも私これも私として深刻に思い煩うよりはマシな生き方ができるはずである。

他人の価値

 私は他人が恐ろしく、また嫌いだ。誰も彼も不可解で得体の知れない怪物にしか思えない。血縁のない赤の他人は言うまでもなく、親戚縁者や両親ですらも私にとっては全く理解不能な他者であった。私は星の数ほどの他人から数え切れないほどの酷い仕打ちに遭わされてきた。直接対面して心身に危害を加える者もいたし、ネットなどを媒介して間接的に私を攻撃する者もいた。その誰もが私には理不尽かつ不条理な災厄そのものであった。

 しかし、なぜ私は他人に対して恐怖し嫌悪し、憎悪するのだろうか。取るに足らない愚物でしかないような連中にさえ私は分け隔てなく恐れてきた。これが自身の生涯を振り返ってみれば良く分からない。なぜ私は他人やそれが私に対して行う言動を恐れるのだろう。自分ではない個体の全てを私は嫌い、恐れ、憎んでいるがその情動の源にはどんなものがあるのだろうか。

 私は他人に見下されるのが恐ろしい。他人から軽侮や嘲笑の念を向けられることを耐え難く感じる。私は他人から自分の価値を値踏みされ、低劣であると思われることを心底恐れているし、他人が言葉や態度でもって落胆や失望を露わにするととても傷心する。言うなれば他人の一挙手一投足に一喜一憂し、常に他人の目を気にし、自分の価値の多寡を他社に委ねているのだ。

 しかしなぜだろうか、私自身疑問に思う。自分の値打ちを低く見積もられたり否定されたりすることでなぜ私は精神に打撃を受けるのだろうか。それは自分と相対する他人を無条件に価値があると見なしているからだろう。もし私が対面している相手に取るに足らない存在であると思えば、その対象が私にどんな判断を下し、それを露骨に言動で表明したとしても私は何も思わないはずである。そうでないならば、私は万人に対して自分と同等以上の価値を認めており、かつ他人が私を値踏むという行為に何らかの権威付けを私自身が自分の中で行っているからである。私は無批判に他者の判断に価値を認め、それらが為す評定によって自分の価値が確定すると愚かにも盲信しているのだと言ってよい。

 全く馬鹿げた話だ。たしかに私は他人から見たら取るに足らない人間だし、社会的かつ客観的に見ても価値の低い人間だと言わざるをえないだろう。しかし、だからと言って自分と接触したり何らかの関わりを持つ他人に値打ちがあると断言する根拠は何処にもないのだ。仮にある他者が私と比べてどのような観点で見ても圧倒的に優等で地位が高く、人間として価値があったとしても、その対象に対して私が引け目を感じなければならない道理など何一つないのだ。

 他人が自分と比較してどれだけ優秀で価値が高いとしても、それに対して私がへりくだる義務などない。私にとって最も大切で優先すべき人間はほかならぬ自分自身であるはずだ。客観という観点で自分と他人を比較し、その視点でもって自分には価値がなく、価値ある存在に罵られ蔑まれ嘲られたときに一々律儀に心に傷を負うことの何と愚かなことだろうか。一言で言えばそれは単なる馬鹿正直な情動に過ぎない。

 たしかに余人の大半は私よりも豊かだし学もあれば容姿も優れているだろう。私は標準的な日本人と比べて生まれも育ちも卑しく、経済的にも困窮しており、誰からも愛されずに知人他人の別なく見下され嘲笑の的にはなっている。しかし、自分以外の個体がどのような存在で、その値打ちはいくらで、それが私に対してどんな感情を持ち、どんな評価を下し、それをどのような形で表明したとしても私には一顧だにする義務がないのは自明だ。にもかかわらず私はこれまで、人から貶されたり見限られたり蔑まれることにあまりに鋭敏であり過ぎたように思える。

 人の評価を気にするのは他人というもののオーソリティを盲信しているからだ。自分以外の人間など取るに足らないと考えれば、他人にどう思われようと全く気にならなくなるはずだ。客観的にどうかなどと主観的な「私の生涯」においては無意味であり無価値だ。それは私に何ももたらさない。

 客観という視点を完全に捨て去れば、他人の意見や評価は無効化できる。人生とはどこまでも主観的なものであり、他人から見た自分がどのような存在であるかなど考慮に値しない。他人がどれだけ尊い存在で、どれだけ正しかったとしても、それは私とは何の関係もない。他人が下す評価にはどこまでも無関心であるべきだ。

 他人からの物理的および精神的な攻撃から如何に自分を守るべきか。それは他人の価値を認めない姿勢によって達成される。相手が自分よりも優れていてもその対象の所業の正当性を決して認めなければ、私は少なくとも精神に限っては完全に無傷でいられるはずである。他人を恐れるのは他人を無批判に価値があると見なす愚昧さがもたらす幻想である。尊くないものを恐れる必要はない。

 他人を貶めよという話ではない。自分に対して危害を加えない他者は尊重しなければならない。何故ならそうした方が自分自身に益があるからである。利害得失を度外視して他人を見下したり軽率に相手の価値を低く値踏みすることは愚かだ。そうではなく、誰から構わず他者というものに値打ちや価値があると無批判に思い込むのをやめればいいと言うだけの話だ。

 森羅万象の一切合切は皆等しく価値がない。自分に価値がないだとか他人には価値があるとか、または逆に考えたりすることの全ては迷妄である。全員が等価なのではなく、無価値である。だから必要以上に己を誰かに誇示する必要もなく、他者に対しても闇雲に畏怖する必要もない。価値ある他者から低い評価をされ、「お前は価値がない」と言われることを私はずっとこれまで恐れてきたのだ。それは他人には価値があるという誤謬がその全ての根源的な原因であった。

 そして自分自身もまた無価値であると肝に銘じるべきだ。他人の価値を認めないということは、それ即ち相対的に自分の価値を高く見なすということではない。それとは逆に、他人を不当に高く見積もらない代わりに自身に対してもどこまでも謙虚であるべきだ。自他共に根拠もなく価値を高く見積もらなければ問題は起こらないだろう。

 私は他人は勿論のこと、両親に失望されることも大変恐れていた。それは無条件に親という存在が自分にとって大切で価値があると内心思ってきたからだ。しかしそれは間違いである。無条件かつ無批判に何者かに価値があるだとか権威を持っているという誤った観念が、その対象が下す判断や評価を過剰に恐れる原因を生む。それは重ねて言うように私にとっては単に有害な代物だ。たとえその対象が親であっても、自分に有害であると判断したならば、それに対する考えを改めなければならない。

 無批判に何かに価値があると思うべきでない。それは自分自身も例外ではない。他人を無意味かつ不当に高く見積もれば、それの評価に過敏になり、己を買い被ればそれは単に傲慢さを生み、それもまた私に害をなすだろう。

 皆平等に価値がない。これを念頭に置けば私はもう正当な理由無く何者かを恐れはしないだろう。それは相手への不遜ではなく、正当な見識である。他者への恐れの源は他人への買い被りだ。世俗的な意味において成功している人間や客観的に自分よりも優れている人間に対してもそれは例外ではない。他人を無批判に高く見積もらないことだ。それによって他人からの評価を恐れる理由がなくなる。

悔やみ

 生きる上で悔やむことがなくなれば、どれだけ心の重荷が減るだろうか。目下直面している面倒事や将来に対する漠然とした不安を抱くことは避けられないかもしれないが、とうの昔過ごさってしまった事柄に対して後悔の念を抱くことを完全に抱きしてしまえれば、人が被る苦しみがだいぶ減ぜられるのではないだろうか。しかしそれができるという人間は余人においてはそう多くはないだろうし、私もまたそのご多分に漏れず過ぎ去った日々に悔みながら生きているクチである。なぜ私は後悔するのだろうか。

 あの時ああすれば良かった、という無意味な空想をなぜ私は捨て去ることができないのだろうか。人生はやり直しがきかないなど百も承知で子供でもわかるようなことであるにもかかわらず、私はもしやり直せたら……などと夢想する。そしてあり得たかもしれない現実よりも良い状況、望ましい生涯を頭の中に思い浮かべ、かつ実人生とそれを比較して落ち込むなどという何の益もない「想像遊び」に興じる。

 それでいい気分に浸れるならばそれもいいだろうが、逆であるから問題である。後悔は必ず精神的な苦痛を伴う。無益な精神活動によって精神を害するのは自分にとって何の得にもならないのに、それを延々と続けるのはよくよく考えてみれば甚だ理解に苦しむ所業である。なぜ私はそんなことをするのだろうか。なぜそれをやめることができないのだろうか。

 そもそも「悔やむ私」は本来の私だと言えるだろうか。絶えず後悔の念を呼び起こしているのは本当に自分なのかという疑問が浮かぶ。望んでもいない感情が惹起するとき、その情動に自分があるのか、それとも「それを望んでいない思い」が私なのだろうか? 自身の内面で2つの自分が分裂してあってそのどちらかが自分なのか。またはそれらのどちらとも自分ではないのか。どれが自分かと思案している別の自分があって、それこそが己の本地だとするべきか。

 とにかく、心のなかに望まないものが厳然とあるということだけは確かだ。その望まない精神活動を自分自身を形作る要素として見なすかどうかであろう。後悔するなと念じてすぐにそれができるなら、はじめから問題など生じないし、人間の世界の悩みの大半は解消してしまうだろうが、通常それは容易ではない。悔やみは滅却できない心の働きだ。と言うよりも憎悪や嫌悪などといったネガティブな情緒は人間の心から一掃できないとある意味諦めるべきではないか。それができないから人の世に苦しみが絶えないのだし、それは誰の手によっても克服できないものだろうから。

 私達ができることはその内面の好ましくないものを我が物としない決意だ。それが起こることを人間は止めることができない。しかしそれをもってこれが私の本音、本性である、としないことは可能である。私の心のなかで後悔の念が起こっても、「私が後悔」しているのではなく「後悔という念」が私の内面に芽生えたと私と情念を分けて認識するのだ。これは悔いだけでなく、他の好ましくないあらゆる情緒に対しても有効な対策ではないだろうか。

 悔いが問題なのではなく、「私が悔やむ」という認識にこそ問題がある。人間は自分の心の中を完全に制御する術を持たない。もし100%自分の内面を思い通りにできる人間がいるならば、それは最早覚者や超人の類いだろう。そのような人種ももしかしたらいるかもしれないが、それは極めて稀な部類であり、無論私はそれではなく、将来そのようになる資質があるとも思えない。しかし、感情を抑制するのではなくそれを自分と同一視しないという対処ならば可能であろう。

 これは現実的かつ有効であると思われる。心の中の全てが即自分というのは誤謬である。自分の内面において自力でコントロールできる部分が果たしてどれだけあるだろうか。情動の大半を人間は制御できない。それならば、最早感情はそのまま全て自分を形作る要素であると断ずるのはそもそも無理がある話ではないか。

 人間の精神や内面の相当部分は自分ではない。後悔を唾棄したいと思うならばそれ自体を自分に由来するものだと思わないことである。たとえ何をどれだけ後悔したとしても、その念が自分自身とは無関係な事象にすぎないと断ずれは悔やみと自分を完全に分離できる。それがもう私を成すものでないならば、それに対して何かをする必要もない。何かに対して後悔してもしなくても、それは既に問題ではなくなる。

 悔やみというネガティブな感情について考えてみて、自分というものを捉え治す必要があると改めて感じた。それは人間の内面というのは100%全て自分なのではないということだ。自分の内心で起こる一切合切を自分そのものであると認識することがそもそもの問題であった。現在身をおいている状況に対して抱く悪感情にしても、過去に被った嫌な思い出や、かつての己の選択や判断への後悔の念の惹起……これらの全ては私そのものではない。

 私でないものをどうしようというのか。私でないなら、それはただ起こるままにしておけばいい。それらと事故を同一化して自分の中に含めるから人は苦しむのである。人の内面は100%即自分ではない。悪感情や好ましくない過去への執着や後悔の念などはそれを無理に抑圧したところで人間にはどうにもならないのだ。それならばそれらをただ起こるまま観察するだけでよい。この見地を得ることで人は「後悔する者」から「後悔を見る者」となるこの両者は似て非なるものだ。

 後悔する人は悔やむ思いを自分の一部、己を成す不可欠な要素であると見なしている。あの時ああすれば、という思いに浸りきるにしろ後悔の念を滅却しようと足掻くにしろそのどちらも徒労であり、その人は結局のところ苦しみから逃れられない。

 後悔を見る人は悔みを我が物とせず、それを自身の内面で起こるままにして注意深く観察する。悔やまずに生きるのではなく、悔みという感情から距離を置いてそれをただ見つめるのである。その人は人間の内面の御しがたい部分を認め、それは己に依らない現象にすぎないと喝破した見地を持つ。後悔という情動を滅却しようとはせず、その念が湧くまま任せるのである。

 感情に振り回されない視点を得れば内的な問題は解消する。いや、問題は既に問題でなくなると言ったほうが正しいかもしれない。私は悔やみ以外にも様々な否定的な感情に囚われ、それを滅することに躍起になっていた。しかし、それと格闘しようとすることは単に徒労でしかなかった。「自分の中」に良くないものがあり、ソレをいかに滅却するかという試み。それは根底から間違っていたのだと今になって思う。

 自分の肉体を完全に思い通りに操れる人間がいるだろうか。身長や体重、または生理現象の一切を自分の意のままにできる人間がこの世の何処にいるだろうか。また、それができないと問題にして嘆くものが何処にいるだろう。肉体に対してままならないと私たちは重々知っている。にもかかわらずなぜ心に対しては完全に制御しようと、またはできると思うのだろう。それは不可能であり、またする必要がないのだ。肉体、精神ともに思い通りにならない事柄についてはただ観照するしかない。

 悔やむという情動一つとってもそれを完全に減じ、滅すことなどそもそもしなくていいことだった。それは私には含まれない。私でないのならそれはそのままにするしかない。そしてそれは、燃える炎が遅かれ早かれやがて勢いを失い消えてしまうように、いつかは心から立ち退いていくだろう。

 私はずっと悔やみ続け、そのことを問題視し続けた。しかし、それはもう終わりにするべきだ。というよりも、それははじめから問題ではなかった。悔恨の念が自分の本質の一部や自身の根源と関わりがあると誤解するからこそそれは問題だと感じられるのであって、その根本的な誤謬を解くことを疎かにしてはならない。

恐れ

 人は常に不安にかられて生きている。自分の生活が何かによって脅かされ、崩壊させられはしないか、自分の肉体が突発的な事故などによって損なわれはしないか、などといった懸念が常に深層心理にはあるのではないだろうか。それらの不安とは更に言えば恐怖であり、それは人間の精神の根底に常にあり続けるものだ。

 恐れという感情はどのようなことをしても完全には払拭できない。仮にそれができるとしたらそんな人間は単なる腑抜けや廃人の類いだろう。常に不安であり続けることは生きていく上で必須であり、それの欠落は最悪命にかかわるだろう。危険から遠ざかり、自分にとって脅威となるものを取り除こうとすることは正常である。余人の大半はそれによって日々の暮らしを恙なく営んでいるのは疑う余地のないところだろう。

 しかし、この恐れという感情について深く考えることは日常においてあまりないのではないか。何かを心配したり不安をいだいたりすることはままあれど、「私はなぜこれに対して恐れるのだろうか?」と思いを巡らせることは稀である。私はこれまで生きてきて、自分を駆り立てる恐れという情動に対して無自覚であったことを我ながら不思議に思う。自分を突き動かす情緒に何の疑いも挟まずに生きてきたことを恥だとすら思う。そのようなわけで、本稿では恐れを主題として掘り下げて考察していきたい。

 恐れとは喪失への懸念である。自分が何かを失う、あるいは損ないはしないかと案じて抱く情緒が恐れである。それは金銭や時間に関するものかもしれないし、自分の肉体についての感情かもしれない。老いることや死ぬことに対する根源的な恐怖も失うこと、損なうことへの懸念によって惹起される。誰しも自分の若さや健康が時間の経過とともにどうしても保つことができなくなっていく。それにより頑健で若々しい肉体や精力や性機能などが衰えていく。そのことに思いを馳せれば、たとえどれだけ若くてもそのことを恐れるだろうし、あまり若くない人間には具体的な現象として老化や死を意識するだろうからそれに対する恐怖はひとしお強いものとなる。

 職を失ったり他人から嫌われたりすることにも恐れは常に付きまとうが、それらのシチュエーションにおける恐怖の根源も喪失への懸念である。失業は衣食住が充足した生活を脅かし、誰かに嫌われたり憎まれれば人間関係において様々な機会を失うだろう。私達はそれらの将来起こるかもしれない喪失を常に案じているし、それが情どうなって恐れという感情が起こるのである。私たちは自分が何かを怖いと思ったときに、自分が何を失うことを案じているのかと自問してみれば冷静な判断を下せるようになるかもしれない。その懸念が荒唐無稽なものであったり、失ったところで何の損も害もないものにすぎないと思い至ったとしたら、その不安や恐れは雲散霧消してしまうだろう。

 しかし、恐れにはもう一つの面がある。それは無知に対する反射的な情動という側面だ。私たちは知らないこと、知らないものを恐れる。赤の他人を警戒するのはそれ人物に対して何の情報も持っていないからであり、原理の分からない不可思議な現象を目の当たりにするようなことが仮に遭ったとしたら、その不可解さを我々はきっと恐れるだろう。対象を知らないという状況には好奇心よりも恐怖感を抱くことのほうが多いのではないだろうか。

 このように、恐れという感情には2つの面がある。しかし、もしかしたら後者は前者に内包されるかもしれない。なぜならば、知らない対象は自分にとって危害を加えたり損害をもたらすかもしれない何かかもしれないとも言えるからだ。未知に不安や恐怖を覚える感情もまた損失への懸念であるといえるなら、恐れの源泉はただその一点のみであると断じてしまうかもしれない。未知なる対象に抱くネガティブな情動もまた自分及び自分に関わりのあるものを害されたくないという防衛本能に基づくものである。

 恐れは肯定的な感情よりも大きなエネルギーである。ポジティブな情動は人を安心させるが、ネガティブなそれは人を具体的な行動に駆り立てる。その行動は具象的な何かを生み出すだろうし、目に見える状況を作り出す。恐れは人を動かす上で大いに効果的なものであり、自他共にそれによって突き動かされていると自覚を持つことは冷静に物事を判断する上では有効であるといえるだろう。

 私は常に何かを恐れているが、それは言い換えれば常に何かを失いはしないかと案じているのだ。それは私に自活出来るだけの生活能力をもたらし、良い影響をもたらしているかもしれない。しかし、言うまでもなく常日頃恐怖に駆られながら毎日を生きることは精神的に辛く、また私は恐れるがゆえに尻込みをして貴重な機会を失ってしまい、かえってその情緒が有害になっている場面も多々あるかもしれない。

 自身の内面で起こる情動は正しく使われなければならない。何にも恐れず動じないというのは一見良いことのように思えるが、それは能天気で浅はかな昧者でしかない。命を繋ぎ生活を営むためには恐怖は不可欠なものだ。何も恐れない人間はただの腑抜けであり生きる能力を持たない者に過ぎない。忌み疎むべき何かはこの世に数多存在しているのだから、それに対して全てを受容するのは当然間違っている。それらを避け、遠ざかるためにはそれらを恐れなければならず、生存上有益な恐怖は礼賛されるべきである。情緒というのは人間が生きていく上で使いこなすべき道具であるとも言えるだろう。

 恐怖を我がものとし、それを有効に活用しなければならない。それを成すために必要なのはそれを知ることだ。自分が何を恐れているかというところから始まり、その恐れが具体的にどんな状況に対する不安なのかと掘り下げていく。最終的に恐れという感情の源にある本質を照らし出すことによって恐れについて理解し、恐怖を腑に落とすのだ。何を恐れ、なぜ恐れるか、その恐れとは何か? そこまで思い至れば恐怖を適切な形で使いこなせるようになるだろう。

 私はこれまで無自覚かつ無批判に恐怖を感じてきた。それは免疫機構が過剰に反応してアレルギーを引き起こすように、私の人生に多大な悪影響を及ぼしてきた。恐れるあまり私は踏み出すべきときに踏み出さず、機を逸し時間を無駄に空費してきた。そんな自身の半生を振り返れば後悔の念に駆られる。怯えすくみ、無意味に消耗してきた歳月を私は今になってとても惜しく思う。

 しかし、これからはそうではない。恐れの本質を知悉し、それを有益に運用するすべを今の私は会得しつつある。適切な恐れを抱くことで人生における不利益や不都合を取り除き、遠ざけ避けていければ私はこれまでよりもマシな生き方ができるようになるだろう。それは無論、無思慮無作為無遠慮無鉄砲ではなく恐れるべきところでは恐れ、案ずるべきときに案ずる分別を身に付けるという話だ。

 人は恐れが適切でないときには勇猛かつ大胆であるべきだし、注意深くなければならない場面では慎重に臨むべきだ。重要なのはそれの見極めであり、それらのどちらか片方に偏ればいいというものではない。言うなれば中庸なのだが、これを達成するには、重ねて述べるように恐怖の念に対する深い理解が不可欠となる。

 「何を恐れるか」は即「何を失いたくない」である。人が恐怖するときには必ず失いたくない何かがある。それが具体的に何なのか知ることでどのように振る舞うべきかは自ずと見えてくるだろうし、それが実は必須でないと気づいたときにはそれに対する恐怖は消えてなくなるだろう。逆説的に「恐れない」とは「なくていい」ということであるとも言えるのだ。