書き捨て山

雑記、雑感その他

失敗

 これまで数え切れないほどの失敗を積み重ねて来た私の生涯は、しくじりが多いというよりもそれその物であったと言っても過言ではない。人生における全ての場面で私は取り返しのつかない過ちを犯してきた感がある。

 失敗続きの人生を振り返りながら、あり得たかもしれない成功についても思いを馳せるのはありきたりな思考の形態だろう。進路をああしておけば、就職をこうしておけば……。人間関係においてもあの時にあんな受け答えをしておけば、などといったありえないはずの成功したケースについて妄想を膨らませる。そんなときにふと思うのだ。「失敗しなかった自分、成功した自分は自分といえるのだろうか」と。

 私がもし親の反対を押し切り普通科の高校に進学し、きちんと受験勉強をしてまともな大学に入り、真っ当に就活を行い、平均的な就職をし、人並みに恋愛や結婚をしていたならば、そんな自分はもう到底自分とは呼べない赤の他人ではないか? 成功した、あるいは失敗しなかった「ifの自分」について夢想しながらこんな疑問が平行して私の脳裏に浮かぶ。そして私は自分が自分たらしめる要素として失敗は不可分であったと悟るのだ。

 成せなかったことや達せられなかった何か、結べなかった関係や訪れられなかった場所……それらが私を構成する諸物として私の自意識の中で機能を果たしているというのはなんとも皮肉な話だ。

 失敗していなかったらなら、成功していたとしたなら、そんな私は私とは呼べない。私を私たらしめるのは他ならぬ過失や喪失、あるいは被害や毀損といったネガティブな代物ばかりだ。私は生涯において何一つ得られなかったどころか、機会や可能性といった類いのものを失うばかりであったが、そのような事実こそが己それ自体だった。

 つまり、私という存在は無価値で、私の人生は無意味だと結論付ける他はない。そしてそんな代物について深刻に煩悶や懊悩を重ねてきたこれまでの自身を顧みれば滑稽この上ない。ゴミ未満の値打ちしかないものを必死になって護持してきた自分のバカバカしさ! 鏡に写った自身の像を指差して哄笑してやりたい思いだ。

 自分自身の無価値さや無意味さを認める時が来た、今になってそう思う。気休めの慰めなどよりも、現在に私には己の馬鹿さ加減を一笑に付すことが却って救いになるだろう。失敗こそが自分の本質であると断じたその瞬間、生活におけるあらゆる好ましくない要因や結果が何の脅威にもならなくなる。根本が間違いならば、その上になにが来ようともそれは問題ではない。どうせ大した人生ではないし、私は無価値で無意味である。そういう視座を失わなければ、私はどんな憂き目に遭ってもそれを問題とは見なさないだろう。

 これはある意味ではペシミズムであるかもしれないが、そこから立脚してはじめて見えてくる境地もあるのではないか。安直で気休めにしかならない前向きな言葉や思考や、綺麗事で糊塗された詭弁やでっち上げの大嘘にすがるよりは、絶望する方を私は選びたい。私は自分自身に絶望し、望みを断つことで新しい視点を得ることを志向したい。要するに故意的に一度どん底まで落ち、そこから這い上がるのではなく、底が抜けるまで極めたい。絶望の底が抜けたときに見いだせる何かこそがほんとうの意味の希望なのではないか。漠然とではあるがそんな風に思っている。

 自身の本質や自己同一性の根本が失敗や喪失ならば、損なうことや失うことを恐れる意味や必要はあるだろうか。それらを恐怖するのは「価値ある自分」や「意義ある人生」といった幻想を捨てられずに固執するからだ。何故己に値打ちがあるという前提で物事を捉えるのだろうか。そんな根拠や必然性が一体何処にあるというのだろうか。私に価値など無く、人生に意味などない。それで何の問題があるだろうか。

 失敗を恐れるのは自分に無条件に価値を見出しているからだ。人生は本来有意義であり、そうでなければならないという前提で生きるから、人は「人生に失敗」しうる。それらがはじめらから無価値、無意味なのだとしたら、一体何がどうやってそれらを台無しにできるだろうか。

 ないものは失いようがなく、損ないようがない。人生即失敗ならば、そんな人生ははじめから失敗のしようがない。何かに失敗したと思うとき、自分の中の前提を明確に意識するべきだ。そしてその前提が狂っている、間違っていると知ったとき、人は犯した過ちを悔やんだりしくじった自分を責めることもなくなる。

 本当は何事も失敗しようがない。首尾よくいけば、しくじることがなかったならば、こうなるだろうとかこうならねばならないという仮定は何であれ私たちを苦しめる。私はそれによって無駄に生涯を浪費してきた。私はずっとそれが嫌だったし、それによって苦しむことから救われたかった。

 私は成功を望み失敗を忌避し恐れた。だがしかし、それは迷妄に他ならなかった。自分は何かを得うる、成しうる存在であるのに、そうならないことを悔やんできた。前提としての考え方が根本から間違っていたとも知らずに! 私は価値があり、人生には意味があるのに、それが諸般の事情によって損なわれたという誤謬こそが私にとっての心労の根源であった。

 失敗、被害、喪失など被りようがない。もともと人間には失うものなど何一つありはせず、本質的にはどんなものも得ることはない。この世に何かを携えて生まれてくる人間がいるだろうか。また、何かを携えたまま死んでいく人間がいるだろうか。一人の例外もなく人間は空手で生まれ死んでいく。その過程で何を浴し何を被ろうとも、それは一時的なものでしかない。成功や栄達、獲得も所有もなんであれ皮相の、上辺だけの代物でしかない。そこに「ホント」はない。

 そんな私たちが一体何に失敗するというのか。何かを有ると見なした瞬間からそれを失いかねないと人は憂い始める。それは絶え間なく人を苦しめ、我々の生を困難なものにする。現に私は常に失敗や喪失を懸念し、恐怖し、煩悶し呻吟してきた。損なわれる可能性がある自分というセルフイメージがその原因であった。そのことに気づき、それが間違いだと思い至るまで、私はかなり長い歳月を要した。

 「失敗した」という文句は傲慢さを孕んでいる。本当は首尾よく恙無くいくはずだったという無根拠な前提がそこにはある。そんな奢りが結局のところ自分自身を痛めつける。尊く掛け替えのない「私」が毀損され台無しになった! そんなことを大っぴらに言う人間がいたら、思い上がるなと一喝されるだろう。害されうる、損ないかねない私を念頭に置き、それを掲げることは本来恥ずべきことだと言える。

 過去犯した失敗への後悔や、将来それを犯しうることへの不安や心配はとどのつまりは鼻持ちならない自惚れなのだ。そんなものが自家中毒のように人間を苦しめる。言うまでもなくナンセンスである。私は失敗できる人間だなどと公言することは重ねていうが恥ずかしい。

 私は過去現在未来において失敗のしようがないと断言する。元来人は徒手空拳で生涯を貫徹するしかなく、また何かを得たとしても何であれそれは暫定的なものでしかない。それが手にできなくても、不意に失っても、私はもうそれを問題だとは思わない。私という存在がしくじる可能性はどんな局面でもゼロであり、私は何も失わず損なわれず、害されることもない。だいいちそれは天地がひっくり返っても不可能なのだ。

人生

 人生失敗した。この文句を生まれてきてから何度吐いたか分からない。口に出さずに頭でこのフレーズを思ったことも回数に含めれば、何千何万という回数になるかもしれない。しかし、そもそも人生とは一体何なのだろうか。そんな大本の疑問を抱くこともなくただ闇雲に人生人生と愚痴り念じてきたような感があり、よくよく改めて考えてみれば甚だ奇妙な話である。

 人生とは生まれてから死ぬまでの間のことだ。それに対してやれ失敗しただのしくじっただのと寸評するのは滑稽である。それがどのような内容であったとしても、それが成功したか充実したかなどと考えること自体がナンセンスだ。そもそも成功した人生とは一体どんなものなのか。生きてから死ぬまでに何を得て、何を経験すればそれが満ち足りたものであるといえるのだろうか。

 第一満ち足りる必要などあるのだろうか。それが果たされないから心が満ちず、私は不本意な人生を送っているとずっと自分でそう思ってきたが、それが今日になってバカバカしく思える。自分が経験したことを過去現在未来という時系列において並べ、あれが良かっただのこれが悪かっただのと言って、それの総体を人生と呼び、それが成否を自問自答するというのはなんという不毛な営みだろうか。

 人生とはシリアルな出来事の羅列に過ぎない。それがいいか悪いかではなく、それはただ単にそれでしかない。それのクオリティがどうであれ、それは自分自身とどこまで関連があるだろうか。自分が歩んだ人生を自分それ自体だと見なすから人生の質や内容について煩悶することにある。私が送ってきた人生と「己自身」は完全に同一であるという前提は一体どこから来るのか。それにどれだけの正当性があるというのか。

 そんなものはない、今となって私はそう断言できる。「私という個人の人生」と私が何者であるかは実は何の関連もない。私の生涯がどんなものであろうとも、それは「私それ自体」を指し示すものではない。仮にもし私が自分の人生を始めから終わりまで全て望み通りに完遂でき、望んだ経験を全て願望のままに体験し尽くしたとしたならば、その人生と私は等号で結び付けられるかもしれない。しかし、現にそうではないし、そういう意味で「満ち足りた人生」を送った人間など恐らく有史以来誰一人存在していないのではないだろうか。少なくとも自分がそうでないというのは絶対的な事実としてはあるので、私にとってはそれで十分である。

 生まれ落ちる町を自分の意志で選べる人間がこの世にいるだろうか。両親を誰にし、どのような教育を施されるか、完全に望みのままに誂えることなど言うまでもなく不可能だ。生まれや育ちといった人生における背景となる要素は、誰にとっても本意でないものだろう。私がどんな町に生まれ、どんな家庭で育ったかについて事細かく述べる気はないが、それらはどれも私にとって望ましくも好ましくもなかった。土台が不本意なものにどうして満足や納得できるだろうか。

 無論この世には幸福な人生を送る人間もいるだろう。多くの愉悦に浴し快楽を貪るような満ち足りた生涯を満喫する人種もいるのかもしれないが、自分自身がそれでなく、将来的にも絶対にそうはならないと確信を持って断言できるならば、それの実在性やそれについての詳細など何の意味も持たないだろう。私は私の人生になんの意味も値打ちも見いだせない。ただその事実が厳然としてあるだけだ。他人の幸せなど全く無関係である。

 しかし、それが何だというのだ。自分の人生に愉悦や楽しみがなく、他人のそれにおいてはそれらが満ち満ちていようと、それが何だというのだろうか。だからどうしたの一語でそれは終わる話だ。そもそも先に述べたように、人生と自分を同一視することが問題の根本であると断じた時点で、一個の人間としてどのような人生を送ってきたか、また送るべきだったかなどは瑣末事だ。それの詳細について一喜一憂する段階はもうとうの昔に過ぎ去ったのだ、私の場合。

 人生という枠組みから脱することだ。それが成されればそれから人は解放され、自由になる。私の本当の願いは良い人生を送ることではなく、時系列に則った出来事の陳列に過ぎない「人生」と自分自身を切り離すことにあった。今はそれがはっきりと腑に落ちている。

 私たちは人生という枠の中に閉じ込められている。これは言うなれば生まれながらの幽閉状態であり、私たちは自分が虜囚であるということにも気づかずにぼんやりとした意識で生きている。私たちは人生と名付けられた枠組みに囚われた私たちはその中でどう過ごすか、牢獄の中をどう飾るかといったことに頭を悩ませ、他の房の囚人と比較して自分の独房の良し悪しを判断し落ち込んだり思い煩うのである。

 なんという滑稽なことだろうか。しかし、多くの人は自分が囚われた存在であるとは夢にも思わず、監獄の中で生き続け、死んでもそれに思い至ることはない。たとえどれだけ快適な環境であったとしても牢屋は牢屋である。宮殿のような造りだったとしても、刑務所は刑務所であることに変わりはないのに。

 囚人として満足して生きる道もあるのだろう。模範囚として充実した生もありかもしれない。しかし私自身はそれを望まない。それは私が身を置く「牢獄」が好ましくないから他人のそれを羨み負け惜しみで言っているのではなく……、いやそういう思いももしかしたらないではないかもしれないが、ともかく私は「出る」ことを望んでいるのは確かであり、これだけは確信を持って言える。

 私たちは自分が歩いてできた足跡や運転した車が作った轍を自身の片割れや己の一部だと見なすだろうか。人生にも同じことが言える。何度も述べるが生きてきた軌跡は単に軌跡に過ぎず、それ以上の意味合いなど本来は持たせようがない代物だ。そんなものに自分自身を投影して託すから人生のクオリティの是非について懊悩するハメになる。足あとは足の延長ではなく、車の通り道にできた溝は車のタイヤと同じにはならない。それと同じことが「私と人生」にも言える。

 よって、これまでのこともこれからのことも私には無関係だ。もちろん余人はそういう姿勢にあれこれ物言いをつけるだろうがそれもまた私にはどうでもいい。これは開き直りではなく、自身にとって不必要なものをただ手放し、別れを告げるだけのことだ。不要なゴミやガラクタでしかないものを後生大事に掴んで離さないどころか、それが自分の一部だと見なすようになった愚かな異常者、それこそがこれまでの私だった。私は単にもうそれをやめる。

 自分自身について語らなければならないとき、私は自身の人生について言い及ばなければならいこともあるだろうが、その時はその時に応じ適宜その時だけそれについて語るだけでよい。頑なに人生というパラダイムを拒絶する必要もまたない。己について語る上でそれが便宜の上で有益であるならば私は依然それに頼るだろう。しかし、もうそれは私と同一でもなく、私の本質を表すものにはなりえないのだ。

 私において人生は終わった。他人にとってはどうであるかは知る由もないが、重ねて言うがそれはどうでもよい。私は私の人生にただ「さらば」と言うだけであり、それだけで十分なのだ。この段になり私は、人生や生涯と称される重荷を下ろすときがようやく訪れたのだ。これは大変喜ばしいことだと言える。何よりこれで楽になる。少なくとも苦しみは減るだろう。

問題

 私はこれまでずっと自分が問題を抱えて生きていると思ってきた。自分は数え切れないほどの問題を解決あるいは克服しなければならず、それが果たされないから自分は不本意な人生を送っているのだと考えていた。しかし本当にそうだろうか。私は「問題を持って」いるのだろうか。

 これは私と問題が別々に存在しているという前提に基づいた認識である。しかし、これらを分けて考えていることがそもそも間違っているのではないかと今日脈絡もなく思い至った。自分自身と問題の2つは実は不可分なのではないか、と。

 自己のアイデンティティとは即ち問題それ自体であり、自分が自分であることと問題を見出しそれと奮闘することは同じなのかもしれない。労働中にふと、問題を抱えている状態が己が己であることの証明となっているような気がしてならなくなった。強制的に苦役に従事している最中で、仕事上の問題と格闘している只中にあって前触れ無くそんな仮説が思い浮かんだ。

 私の人生には目下数多くの問題がある。それは貧困であり、以前自身の胸中で消化しきれてないな過去への後悔と解消できない未来への不安、将来性が全くない下層階級の賤業に従事し続けなければならない絶望的な状況に対する不満など、数え上げればきりがない。しかし、それらの問題の全てが考えようによっては自分を自分たらしめている要素の一つ一つではないかと。私は貧乏で孤独で不遇を託ち、低賃金で割に合わない仕事をして限りあるかけがえのない人生を消耗している。しかし、そんな問題が仮にもしある日突然雲散霧消してしまったら、私は何を持って自分が自分だと確信を持って自他に誇示できるのだろうか。労働の最中、そんな疑問が脳裏にかすめた。

 自分にとって好ましくないから問題は問題であるにもかかわらず、それが自分自身の本質かもしれないとは! それは受け入れがたいことのように思われたが、そう解釈すればいろいろな事柄が腑に落ちるような感じがした。私は問題を解決したいと本心では実は思っていないのではないか? 生きている間にあれやこれやと問題を見出し、それらをあげつらいああでもないこうでもないと悪戦苦闘しているような風を装い、実のところそれが自分が自分であることの証としてはいないか。自己のアイデンティティとして抱えている問題を実は利用しているというか、自分を自分たらしめる「問題」を常に躍起になって血眼で探しているのが実際の所ではないか? 自分が頭を悩ませている種種雑多な問題は実は自分自身について言及するための道具にすぎないのではないか?

 もしそうだとしたら滑稽である。自分が自分であることの証明として本心では問題を求めていたのだから。常に人生は問題ばかりであると思ってこれまで生きてきたが当然だ。私は腹の底では問題を携えて生きることを常に欲していたのだから。問題の本質は問題を望む心それ自体であった。そう思えば私の生涯は、自分を自分たらしめるために直面すべき問題を常に追い求めた、実に不毛なものであったと思う。

 これは自分自身をどう定義するかといっ自己へのアイデンティティにも関わる。何故なら、深層心理で問題を抱えることを渇望しているならば、問題とは人間にとって己の本質であり、問題即自分という図式が成り立つからだ。何によって私は私であると言えるのか、そんな月並みでありながらもシリアスで重大な疑問への答えの一つとして、問題こそが自分そのものだ、というものが挙げられる。

 問題とは自分に本来なら良くないものであるはずだ。しかし、本稿に於いては「汝それなり」という結論が出つつあるのだから、書きながらも我ながら奇妙に思われる。自己の本質が自分にとって好ましくない状況や事物、事象に他ならないという大きな矛盾をどのように捉えればいいのだろうか。

 辛く苦しく、嫌だから問題は問題であるはずなのに、それが自分自身の根源であるとしたならば、それは私が私であることがそもそも好ましくなく、自分自身とは手放してもよい、いやだきして然るべき代物なのではないか? そんな思いすら湧いてきてしまう。自分でないもの、己を取り巻く何かが悪いのであって、それをなんとかしなければならないという観点が転換され、自分自身それ自体こそが問題の核心であったと私は今まさに知りつつあると言えるのかもしれない。

 この視座を保った生き方は、何が問題でありそれをどのように解決するかといった古式ゆかしい取り組みとは全く異なるものとなるだろう。どんな困難に直面しても目を向けるべきなのは自身の内面ということになる。原因は常に己自身の中にあり、自分に拠らないものは全て皮相に過ぎない。目を向けるべきなのはどんな局面においても私なのである。一見理不尽で自分には何の非もなく感じられたとしても、それは上辺や見かけに於いてそう思えるだけのことなのだ。この視点は厳しいが革新的である。

 問題が問題でなくなるとき、私自身もまたなくなってしまう。それを喪失であると見なす限り、私たちは無限に問題を生み出しそれを抱え続け、そしてそれゆえに苦しみ続ける。それから逃れる一つの道は己を捨て去ることだけである。自分即問題で、それが嫌ならばそういう結論に至るしかなくなる。

 私は掛け替えのない存在であり、それを害する何らかの問題ががあるという前提を放擲しそれを単なる誤謬として切り捨てる。その先にあるのは無我、忘我の境地であろう。我を忘れたところに本当の愉悦や至福がある。一切の問題から解き放たれ、「我あり」という軛から抜け出したい。それが今の私にとっての望みである。

 抱えている問題の質や量がその人が何者であるかを表す。しかしだからこそ、何者かであることをやめるとき、どんな問題であれ消え失せる。それによって何かが変わるわけではない。自分自身の内面ですら何ら変化がないかもしれない。しかしそこには気づきがある。問題と自分が不可分であり、それらが何故生じるか、それへの気づきが私たちに冷静さをもたらす。煩悶や呻吟ではなく、自身やそれを取り巻く全てに対する冷徹に洞察するとき、私たちはそれが必須でも不可欠でないということを知る。そして、それだけで十分なのだ。特別なことをする必要など全く無い。

 自我は問題なくしては存在できず、私とは問題そのものである。究極のソリューションは自分自身から自由になることであり、自己を手放すことによってのみそれは可能となる。問題は苦しみでありそれの源は私たち自身の本質であった。よって苦しみの源を立つには私たちは私たちであることに拘泥してはならない。

 それに躊躇いがあるなら、それは即ち苦しみや煩いに実は辟易していないのだ。それへの躊躇は辛苦や煩悶を実は拒んではいないことの現れである。我が強い者は内心問題を抱え込みそれにより苦しむことを望んでいる。表向きでは自身を悩ませる諸事に嘆き悲しみ、嫌そうにしていてもそれは自己憐憫であり、それは彼にとって実は理想なのだ。

 しかし私はそうではない。巷の他人が自己とそれを悩ませる問題についてどう見なしていたとしても無関係だ。私個人はもう問題に取り組むことも「我あり」という思いに囚われることもたくさんだ。苦悩や煩悶からはもういい加減に別れを告げたい。そのために必要なのは何かに対しての行為ではなく、ただ「さらば」と一言言うか思うかするだけで十分なのである。

魂という牢獄

 スピリチュアルな分野においてよく唱えられる世界観の一つとして、人間は霊格を向上させるためにこの世に生まれてくるのであり、この世界は人間が冷静を成長させるための修業の場として創造された、といったものがある。これはその世界で名高い様々な人間が提唱する説で、この世や人間が存在する意味や私たちが生きている間に経験する辛苦に対する理由付けなどの観点から見て矛盾のない言説であるように思える。この思想により生き死ににまつわる一切に対して腑に落ちた状態で生きることができるだろう。

 しかし、霊的ステージを上げ、魂を成長させるとして、その最終的な帰結はどのようなものになるのだろうか。肉体を超えたところにある自己同一性や主体性といったものが霊魂だとするならば、それを無限に向上させ、進歩させていったその最終的に何がどうなるというのだろうか。スピ系ではより高次元の世界に行くとか、人間以上の髪に近い存在に転生するだとか色々な説が唱えられているが。結局のところどれも放言の域を出ないだろう。それらを鵜呑みにできるほど私は純粋ではなく、またそうなるべきだとも思わない。

 この世は修行の場であるという仮定や想定(設定と言っても良い)を前提として生きることに対しては特に反対する気はない。とどのつまり、自分やこの世界の存在意義や被る苦しみに対してどのように理解し、納得するかと言う話である。そのためにスピリチュアルな世界観を持って生きることは悪いことではない。むしろ虚無主義に堕するよりは信心深く生きたほうが建設的で人畜無害な生き方ができるだろうし、それは社会的に善ですらあるだろう。しかし、私個人はどうにもその世界観には首肯しかねるのである。

 霊魂という概念は、肉体を超越しても何らかの形で「自分」が保たれるという前提があって成り立つ。しかし、自分が自分であり続けるというのは私にとって必ずしも好ましいとは言えない。何故人は一個の人間であろうとするのか。過去現在未来において揺るがない自己と言うものを携えて生きていくことに、なぜ余人は窮屈さを感じないのだろうか。

 日常的な感覚や理屈の中に限って言うならば、それはかくいう私も「自己同一性」というものを否定することはない、というより不可能である。「昨日の俺はこう言ったが、今日の俺は昨日の俺とは別の人間だからそれは無効だ」などといったセリフを吐く人間には真っ当な社会生活は営めないし、最悪正気を疑われかねない。生きる上では「私は私」という前提を世俗的な領域や次元においては無視することはできないし、またするべきではない。

 一個の人間としての己であるという認識や時間の流れの中でも自分自身は損なわれずに同一であるという前提が私にはもう嫌なのだ。何故私は私なのか、何故そうでなければならないのか、そんな疑問が近頃頻繁に脳裏をよぎる。前述のとおり、実利や世俗的な必然性から言って、自己同一性は保たれなければならない。それは「正気」であることと同義であるし、それができない者は遅かれ早かれ社会から隔離されてしまうだろう。言うまでもなくそれは私にとって本意ではない。

 しかし、必要に迫られない状況においては、それを手放してもいいのではないか。俗世においてうまく立ち回り、生活を維持しなければならない場面においては私が私であることは避けられないとしても、この世界をどう見なすかや自分自身の存在意義を何とするか等と言った「戯言」と言っても過言ではないようなトピックを取り扱うような局面において、自己同一性という必要悪からは開放されたいと私は望む。

 余人はどうもそうは思わないようだ。ことに精神世界の類いに傾倒するような人種においては尚のことそうであるらしい。確固たる自分が肉体を離れても頑として実在し、それを向上・進歩・発展させていくというモデルがまるでこの世の真理であるかのごとくスピリチュアル系の界隈では盛んに喧伝されている。永劫に盤石な自分自身というものを携え、この世でもあの世でも、どんな世界においても己が己であり続けるのが当然だという認識が蔓延している。それがどうにも私には性に合わない。

 霊とは肉体に拠らない自己だ。肉体はいずれ年老い滅びるがそれとは無関係な不滅の自分が存在して欲しいという願望が人間にはある。そんな望みを叶えるために生み出されたアイディアが霊魂の正体である。それが実在するかどうか、仮に実在するとしてそれは一体どのようなものであるかどうかは生者には知りようがなく、当然私自身もそんなことは知らない。要するに魂とは不可知である。

 不可知のものをどう捉えるかは各人の勝手だ。各々の主観の中で、その実在性やそれが具体的にどのようなものであるかは如何様にもなりうる。それは畢竟、当人にとって最も都合の良い形で解釈されるというだけだ。不滅の霊魂がどんな次元のどんな世界でも確固たる実存を保ち、それが極楽のような環境で至福に浴すだとか、地獄のような所で辛苦を被るとか、あるいはこの世に何度も生まれ変わり、様々な事柄を経験して成長するだとか、説の違いはあれどそれらは唱え信奉する人間にとって都合のいい前提に依って定められると言う一点において共通している。

 仮に霊魂が存在していないと見なすとしても、それもまた見なす人間にとってそれが都合がいいと言うだけのことでしかない。肉体を離れた形で自己が存続するかどうかなどということを考えるの事自体がそもそも馬鹿らしいという思いもあるかもしれない。魂が不在であると考えるのはその方が自身に益するところが大きいという実利的な視座が根底にあり、それが存在するとした方が利が大きいとなればそのような人種もまた自身の霊魂の存在を容易に信じ込むだろう。

 つまり、人間は己に都合の良いことを信じ、それを事実や現実であると認識する。人間は万人がご都合主義で森羅万象を捉えているに過ぎず、それは己自身に対しても例外ではない。霊魂の有無やその詳細についても、それを語る当人にとっての願望の投影にしかならない。そこで問題になるのは、私個人は霊魂、ひいては自分自身のアイデンティティがどのようなものであれが好ましいのかということである。

 人間は見たいようにしか見れず、知りたいようにしか知れない。知覚や認識の前には願望というフィルターがあり、それのほうが物自体よりも人間にとっては重要となる。しかし人間はそれを自覚することができない。言うなれば人間は無自覚な欲望に振り回されて物事を見聞きし、頭の中だけの絵空事をこの世の実相だと信じて疑わない迷妄状態で生きているとも言える。

 何かを知り、解釈し論じる前に、自分が腹の底でどんな望みを抱いているかをはっきりと自覚しなければならない。それが明らかになれば自身にかかっている認知の偏りがどのようなものでその程度がどれくらいのものであるかをはじめて知ることができる。形而上形而下の別なく、一切について知り考えることは自己への探求に繋がる。それこそが知的活動の本懐であり最終的な到達点である。

 霊魂の実在や時間や肉体を超越した自己同一性への捉え方や見なし方は、とどのつまりは自分自身がどうありたいかという単純な簡単な問いに帰結する。私はそれらについては単なるしがらみと感じず、それからただ自由になることのみを欲している。霊格の向上や霊的ステージの向上、死後の救済などといった霊魂がどのような処遇を受けるかなどはどうでもよい。むしろ私はそれからの解放を望む。肉体が滅んでも私が私であり続けるという世界観は私にとって自分が永遠の虜囚であるかのように感じられる。私が何者であったとしても、私は私から逃れ解き放たれることを望んでいる。それだけははっきりと分かる。

人類皆無価値

 誰しも皆等しくに価値がない、これこそが真の平等である。自分自身含め、この世に尊い存在など誰一人としていないのではないか、最近ふとそう思うようになった。この世界になにがしかの価値のある人種が何処かに存在しているという仮定や前提は人間を単に不幸にするだけなのかもしれない。尊く貴い、値打ちのある「なにものか」という幻影のような存在に、これまで私は知らぬ間に苦しめられてきたような気がする。これは大変馬鹿げたことだ。

 思うに、対人恐怖症という奇妙な精神的な疾患の原因もこのような迷妄によるものなのではないだろうか。無闇矢鱈に他人に価値があると見なし、その「価値ある他者」からどのような評定がくだされるか戦々恐々としている人間が患う病がそれであるように思えてならない。私自身もまた他人を過剰に恐れながら生きてきたが、何故他人を恐れるのかという根本的な部分を考えもせず、闇雲に関わる全ての他社に対して怯えすくみ、恐れるばかりであった。他人の目や評価を気にするのは他者という存在が無条件でなんらかの価値を有していると思い込むからに他ならない。

 この世にいる全ての人間に価値がないとするなら、どんな理由があって私たちは他者を恐れるだろうか。男も女も目上も目下も、親も子も、一切の生きとし生けるものは皆平等に価値がないとするなら、何物も恐れるいわれなどないということになる。会社のなかで上役の評価を恐れるのはその人物が自分よりも価値があるという前提があるからだし、女に対して恐怖心を抱くのは女から嫌われることを懸念してのことであり、その大本にあるのは異性に対して無条件に価値を見出しているからに他ならない。

 これらは根本的に間違っている。自分も含めてこの世に生きてうごめいている万人には無条件に確保された価値などない。誰しも何らかの値打ちが生まれつきあるという誤謬こそが単に恐怖心を抱く原因である。それを克服するには、万人が無価値な存在であると断ずるのが最も効果的である。無論それは自分自身にも当てはまるが。

 価値のない人間に嫌われたり見下されたりしたところで何のダメージもないだろう。自分と比較して同等以上の相手にこれらのことをされれば私たちは精神に打撃を受けるが、何故そうなるかという理由は先に述べたとおりだ。これを避けるには人間という存在は皆例外なく価値がなく、尊い者など地球上に誰一人存しないという前提を崩さずにこの世を渡るより他はないのだ。これ以外の解決策を少なカウとも現状私は知らない。

 これは他人を蔑むとか侮るという話ではない。価値がないと見なすのは存在価値の否定等といったものとは全く異なると断言した。ただ単に万人は価値が「ない」だけであって、嘲りや貶しをする根拠があるというわけではない。この違いは決定的ではあるが、言葉で説明するのはもしかしたら難しいかもしれない。単に無価値であるということは軽蔑や嘲笑の念を抱く理由にはならない。

 価値が「ない」というのは事物に対するニュートラルな見方でありそれ以上でも以下でもない。ただ必要以上に他人に対して畏まる必要がないというだけの話である。他人を恐るるに足る存在であると無闇に買いかぶるせいで対人関係の無用な苦しみンを我々は被っているように思える。私はこの手の心労にはもういい加減辟易しているし、世間一般の社会通念がどうであろうともうこの前提を手放して少しでも生きることを容易にしたい。

 万人が無価値であるならば、自分自身もまた然りであろう。自分自身を高く見積もることでも精神は苦痛を被る。「価値ある私」と言う前提を持ってしまえば、それがいずれどんな理由にしろそれが損なわれる可能性が付いて回るだろう。己が損なわれるという不安や懸念がまた内心に恐怖を生み、それが我々を常日頃苦しめることになる。自分が価値ある存在だと思うこともまた辛苦の源となる。

 自分自身と言う存在が無価値であるならば、我々は己を損なう懸念から解放されるだろう。ないものをどうやって失えるだろうか。価値という尺度から解き放たれてはじめて人間は捨て身にも空手にもなれる。外的な要因でどれだけの憂き目に遭ったとしても自己が損なわれることなど絶対に有り得ないという確信。これこそが私を救済する境地だと言えるが、どのようにしてこれに達すればよいか。

 簡単だ。価値という概念それ自体が単なる妄想にすぎないと見向きさえすればよい。価値の有無や多寡などというのは人間の頭の中だけで便宜的に存在するものでしかない。それは実存のない妄想に過ぎず、我々は実体を持たない幻影のような代物を後生大事に抱え込んで生きていると言っても過言ではない。

 それがまるで無意味だとまでは言わない。私達が生きていく上で、要不要の峻別を持つことは絶対に不可欠であり、それを行う上で価値という尺度で万物を断ずることは生きている限り避けることはできない。しかしそれは飽くまでやむを得ずしなければならないことであって、しなくてよい場合でも常にそれに固執しなければならない義務など我々は背負っていない。例えるならば、定規は必要な時にのみ手に持つべき道具であり、そうでない場合は手放して何処かにしまっておけばいいだけのことだ。

 長さを測らなければならない時には定規が必要であり、重さを量るなら秤が必要だろう。しかし、重さや長さが問題でないとき、それらの道具も長短や軽重の概念も無用となる。それらはただ有効に活用するためだけに存在するのであって、それ以上の何かにはならない。価値という代物も物事の重要さを見極め判断を下す場合にしか有用でないのだから、それが必要なときにだけ用いられるべきだ。逆に言えば、それが必須でない局面においては捨て置いてよい。

 他人を値踏みし、どのように対応するべきか考えなければならない局面というのは大して多くはないはずだ。他者をどのような基準で評価し、優劣や美醜、貧富などといった観点から自身と比較して相対的にどうであるか分析して判断を下すことが「絶対に避けられない」状況とはどのような場合だろうか。それは仮にあるとしても相当稀ではないか。稀であるならば、基本的にはそれはしなくて良いと言ってしまった方が妥当ではないだろうか。

 ましてや自分自身対して価値があるかどうかなどと、それについて考えなければならない状況など本当にあるのだろうか。少なくとも他者に対しては人間関係を円滑にする必要性などを加味して、ある基準により誰がどれだけ価値があるかどうかといったようなことを考慮しなければならないこともあるだろうが、こと己に対しては価値などあろうがなかろうがそんなことはどうでも良いではないか。

 と言っても他人に対しても相手の貴賎などどうでもいいことがほとんどであろう。他者を見誤ることが致命傷となることは通常生きていてまずありえない。他人がどれだけ価値が高く優れ、美しかったとしても、それが私自身にとってどれだけの意味があるだろうか。どれだけ尊い存在に対しても、私自身が自分の中で価値がないと思えば、少なくとも私にとってその相手は取るに足らない。

 誰しも皆平等に価値がない。それを見失わないようにした。よって何者からのどんな評価や評定も恐れる必要など全く無いと断言できる。また、己もまたハナから価値がないから、貶めることも損なうことも傷つくことも絶対に有り得ないのだと今この段になって私は確信できる。

自己責任

 自己責任という言葉は大抵否定的な意味で使われる。苦境に陥っている人間に対して、その艱難の原因をその者自身に拠るものであると見なすとき、「お前のせいだ」というニュアンスで自己責任という言葉が盛んに用いられる。それは様々な場面で見られるだろうし、その言葉は大抵攻撃的な意味で相手に投げつけられる。

 私の人生もまた自己責任の一言で片付けられるのだろうか。生まれも育ちも悪く、経済的な事由により普通科の高校に通う機会すら無く、卑しい職業にしか就くことができずに社会の底辺を這うだけの人生を送ってきた私の生涯は自己責任という一言で表されるのだろうか。だとしたらそれは私にとって残酷な事実の突きつけとなるだろうか。

 しかし、一切が自分によるというのはある意味で望みがあると言えなくもない。問題の原因が自身によるものだとするならば、己の決断や行動によって状況が好転しうるということになるからだ。自力でなんとかなる余地があるならばそれは喜ばしいことであるといえるかもしれない。

 逆に、自分に一切の責任がないとするならば、それは絶望的である。責任の所在が己にないということはつまり、自力ではどうにもならないと認めることに他ならない。責任とは可能性と言い換えてもよいだろう。もし仮に私が誰かに「これはお前のせいではない」と言われたとき、それは即ち「お前の力ではどうにもならない」と宣告されていると言えるだろう。

 自己責任という言葉や概念は他人を攻撃するためのものではなく自戒として事故に向けて使われるべきだ。苦境に陥っているとき、自分以外の何かに原因を求めるならばその時点で自力で解決することは不可能になる。どんな状況にしろ、己による何かによってそれが引き起こされ、抜け出すことができないとするならば、己の力によってそこから脱せられると考えられる。自己責任は厳しくも希望が伴うと言えるかもしれない。飽くまで自分に向けてその言葉を使うなら。

 問題は何か、誰が悪いのか、その最終的な帰結が自分自身であるとするとき、人は自分の力で己が身を置く状況を変えようとする。そういう気持ちを持つことが結果的に個人を救済する。自分を救えるのは自分自身であり、自己責任とは克己心を鼓舞するための言葉としては有効である。

 しかし、客観的な因果関係から見て苦難の原因が明らかに自分のせいでない場合はどうすればいいか。その解決はただ一つ、客観を捨て去るのみだ。事実を冷静に見て明らかに自分には非がないとしても、その苦境から脱却できないのは己自身の力不足であり、紛れもない「自己責任」であると自身を戒めることで具体的に行動する上での原動力や動機づけが得られる。自己責任とは自分自身を戒めるための思想として有効に活用できる。

 自分を不当に扱い、虐げ騙し、搾取し使役する人間がどのような思惑で動いているかなど問題ではない。加害者としての他者がどんな人間であれそれもまた問題にするべきでない。全ては自分自身によるという確信を持ってこの世界を認識するべきである。これは皮相的に見れば理不尽で歯科な状況下にあっても、自身を鼓舞するためには大いに有益である。己に責任があるからこそ、現状を変え悪状況から脱する可能性も自分自身が孕んでいると考えることが可能となる。

 加害者としての他人、不条理な環境などといった外界に原因を求めてはいけない。それをした時点で我々は外界に対して敗北する。これにより我々は歯医者であることが確定し、その認識を改めるまでその苦境は決して覆ることはない。己自身を救うには、艱難辛苦から逃れられない根本的な原因が自分にあると断言するしかない。全ては私自身によると明確に宣言することで、能動的な意志を持って具体的に何をするべきかが見えてくる。それによって何をするべきかが確定し、最終的には不遇から脱することができる。

 天は自ら助くるものを助く。どのような不幸や不運であれ、究極的には自分自身が立つことでしか人間は救われることはない。希望とは常に厳しさの中にある。仮に先天的な要因や偶然による何かによって辛苦に喘いでいるとしても、それの全ての責任を自分が取るという気概を持つことが救済の端緒となる。これは意地や見栄という言葉に言い換えても良い。虚勢を張ることで苦渋や辛酸の中で呻吟する日々から抜け出すことができるのだと私は考える。

 私は悪くないのだと考えたり言ったりするのは容易いがそこには救いはない。責任がないということはそれを克服する可能性もないということだ。自分以外の何某かに責任の所在を求める限り、その人は絶対に救済されない。責任転嫁を行う人間は結局のところ救われることを望んでいるのではなく、自己憐憫に浸ること自体が人生の目的にしていると言っても過言ではない。生涯農地で被る一切に事故の責任を認めない者は永遠に被害者であり負け犬である。

 この世は被害者という立場に安住するかどうかを常に人間に問いている。この世が我々に課したり味わわせる一切に対して、我々はどのように振る舞いどのような姿勢で臨むかが肝心だと言える。外界が何を私達にもたらすかなど上辺だけの瑣末事に過ぎず、それに対して我々がどう見なし、何を為すかが本質であり、それが人間としてこの世で生きる意義となる。

 自分がどんな経験をし、どんな降伏や快楽を浴するか。またどんな辛苦を味わい、悲惨や屈辱を被るか。それらはもう度外視してもよい。自分の外側から何が与えられるかではなく、自分の内側がどのような様相であり、それに基づく己の言動がどのようなものであるかを常に人は意識しなければならない。

 外界ではなく、内側が全てだ。ましてや社会や他人が自分にどんな仕打ちをしたかなどは現在の私にはもう何の意味も価値もない。肝心なのはそれを受けた自分が胸中でどんな思考や感情に囚われ、どんな言動を実際に行ったかだけだ。生きるということは自己完結的な行為であり、内省こそが人生の目的、本質である。そのような意味合いを持って私は「自己責任」という言葉を肯定的に解釈し、実際に肝に銘じて生きていきたいと考えている。

 社会的な現象であれ、他人が自分にもたらす被害であれ、それは所詮自分自身を顧みるためのきっかけや材料にすぎない。己の内側にこそ全てがあり、あらゆる改善や向上の可能性がある。物事の原因は外側ではなく常に内にある。内面を意識的に観照する修練を積むことが人生においては重要である。霊的な意味を持って人間がこの世に生を受けるとするならば、己自身を深く知ることこそがそれであろう。

 人生とは徹頭徹尾個人的かつ主観的なものだ。客観的な視点や事実関係などは表層的なものであり、本質とは無関係だ。一切は己に拠り、自分自身は全ての起点となる。そのようなニュアンスで人間はあらゆる場面において自己に責任がある。この大いなる責任に目を向けか、背けて生きるかでこの世や人生に対するスタンスは正反対になるだろう。

 自己責任が持つ霊的かつ本質的な意味合いを知るためにこの世にはあらゆる理不尽や不条理が用意されているのかもしれない。これまで私を苦しめてきた他者や社会的な要因というのは全て、このような気づきを得るために必要なものだったのかもしれず、自己責任というのは一見新自由主義などの政治的な単語のように見えて、実はスピリチュアルな言葉なのかもしれない。

カルマ

 カルマという概念はこれまでずっと私を悩ませてきた。人生において自身が被っているあらゆる厄災や屈辱、悲惨や不遇の全ての原因が「自分のせい」などというのはあまりに理不尽に思えたからだ。昔2chで「前世で悪事を働いた者はその報いとして青森県に生まれてくる」などという書き込みがあり、これを目の当たりにした当時は大変不愉快に思ったものである。東洋思想におけるこのカルマというものは私にとってはそれ自体が極めて理不尽で不可解な到底許容できない代物であった。

 しかし、今になって私は業というものに対してある程度理解しつつある。カルマというのは単なる迷信ではないかもしれない、それを世迷い言だと断じるのは正しくないかもしれないという思いがある。それは単に己の不遇を前世の報いであるとして諦念するのではなく、今自分が被っている一切を理解するための鍵としてカルマという概念を利用できるのではないかと考えている。

 業とかカルマというのは人間に与えられた課題のようなものだと思う。これは生涯を通して解消、解決しなければならないもので、生前死後も引き継がれていくものなのだろう。誰しも前世の業を背負ってこの世に生まれてくるという世界観は、人間がこの世に生まれてくる意味や意義といったものを設定する上で有効だと思う。どのような境遇で生を受けるにしろ、それは今生で克服すべき何かをクリアするために必須なのだとしたら、人生の意味を納得することが容易になる。なぜ産まれ、生き、そして死ぬのか。そのことに対する一応の説明をつける為に有効な概念がカルマであると言えるだろう。

 自分自身の存在意義を考える上でカルマという考え方は有用である。カルマとは前世現世来世に跨る己が抱える問題であり、それを乗り越えるために人間が生まれてくるのだと考えれば、人生はなんとシンプルだろう。この世や己の意味を知る上でカルマという概念は使い勝手が良い。カルマにより、何故人間がこの世に生まれてくるのかという月並みだが万人を悩ませる問いへの筋の通った答えが一応は出るのだ。それが正しいかどうかは置いておくとしても、少なくとも個人的には腑に落ちる。

 この世や自分をどのように理解するか、どのような世界観を持って生きればよいか。この手の問題を解決するためのツールとしてのカルマは使える。他人を攻撃する時に前世の報いだ、などというのは言語道断で、カルマという概念は飽くまで内省のために用いられるべきものであり、その用途に限ればこれは有益である。ずっと忌避してきたこのカルマというものは自分を知る上で重要となるということは私にとっては一つの発見であった。

 カルマに限らず、どのような考えであってもそれは道具にすぎない。何であれ無闇に否定するのは益のないことだ。生きる上で使いようがあるものならば宗教用語でも学術用語でも何でも活用するのが賢明だろう。カルマは人生を理解する為に有効な概念であり、それにより何故生まれ生きるか、という類いの疑問で殊更煩悶することもなくなる。

 私はどのようなカルマを背負って生まれてきたか。それは私自身が個人的に把握すべきことだ。そのことについて一々文章にして述べる必要はない。しかし、人生における様々な辛苦に対して、これが私のカルマだと常に念頭に置き、そのことを忘れないようにすることは大切である。

 カルマがなければ、人生は理不尽で不可解なものとなる。それにまつわる視点がなくなれば人は、自身が被る不都合や不運に対してどう認識すればいいか分からなくなってしまうだろう。被る不幸であれ浴する幸福であれ、それが無意味だとしたら何であれ人間にとっては耐えがたいものだ。人間が最も恐れるもの、それは無意味である。人は心身が辛いから苦しむのではなく、自分の無意味さや無価値さに苦しむのだ。カルマに基づく自分や世界への見地はそういう意味で人を救いうる。カルマによって私は悩み事を抱え込み、諸々の事柄に煩わされるのだとしたら、それがどんなものであれ少なくとも無意味ではない。

 意味付けによって人は救済される。カルマは煩雑な人生における諸事に対する意味付けに有効である。自分がとある問題を抱えているとき、それが自分のカルマであり、それを乗り越えることこそが己が生まれてきた意味であると考える時、人は虚無感を覚えること無くそれに立ち向かっていくことができる。

 人生とはどこまでも個人的なものである。自分の中であらゆる事柄に意味が付与されれば、客観的にそれがどうであれ考慮する必要はない。自己完結という言葉はどのような文脈の中でも悪い意味で用いられるが個人的には首肯しかねる風潮である。生きる意味や生まれてきた理由などという類いの疑問は自己完結していればそれで十分であり、他人からの客観的な見地は不要である。カルマにより人生の意味を自分の中で腑に落とさせる。それだけでよい。

 しかし、カルマは自分自身の人生を理解する道具となるもので、他人に対して使うのは間違いである。誰かを指して前世の業だなどと言うのは以ての外であり、それは霊的な差別に繋がるだろう。自分以外の人間に業だのカルマだのと言って貶める人間を私は軽蔑する。カルマは自分に対してだけ使うべき概念である。

 本稿の冒頭においてカルマという言葉や考えを忌み嫌ってきたと述べたが、それは他人に向けられてその手のワードが使われることに対する嫌悪だ。私は己の生涯における一切をカルマであると断じはするが、他人の不幸や不運に対してはカルマや業という言葉を使って蔑んだり貶したりはしない。

 自身と己が被るものに納得するためにそれは活用されるべきだ。その用途に限定すれば業という概念は人間にとって有益だ。それには輪廻という世界観も抱き合わせとなり、それを前提にした認識を持つことになるが、前世や来世という概念もまた生きる上では有効であると個人的には思う。

 前世現世来世を通して向き合わなければならない問題が業であり、それを解決するために人間はこの世に生まれてくる。そういう視座から人生を認識すれば、かえって人生に悲観的になったり虚無感に苛まれることもなくなる。この視点から見れば人生は単純にして明快なものとなり、有意義なものとなるだろう。無意味な苦しみというのはこの世界観では存在し得ない。

 避けがたい苦しみを理解し、納得するためのツールとしてカルマという概念はある。生きる上でどうやっても逃れられない辛苦に意味が与えられたとき、人はそれに耐えられるようになる。カルマという観点は人間を強靭にし、絶望から私達を遠ざける一助となるはずだ。

 カルマは飽くまで問題であって罪ではない。カルマという言葉や思想にネガティブがイメージが付きまというのはそれを罪業と結びつける宗教観によるものだろう。悪事の報いとしての業ではなく、各々の魂が抱えている解決すべき問題が業であり、それ自体が人がこの世に生まれる理由なのだ。人生の意味はカルマの解消であり、生涯において直面する諸問題も突き詰めればこの一事である。そう捉えさえすれば私達が生きる世界の様相はだいぶ変わって見えるのではないだろうか。

 現世における問題を解決しなければそのカルマは来世に持ち越しとなるだろう。だから人生の諸問題から目を背けるべきでない。現世で抱えた問題から自殺などの手段で逃げれば、結局また来世で同じ問題に直面する、この世はもしかしたらそういう風にできているのかもしれない。