書き捨て山

雑記、雑感その他

捨身

 私は何かにつけていろいろな事柄を恐れてきた。私が恐れる対象は大抵、金銭や機会の喪失などといった事柄についてだった。そしてそれを婉曲的に暗示するものや間接的に自身をそれに近づける事象などにもまた恐怖を抱き続けてきた。そしてとりわけ死は究極的な喪失であり、落命に至らなくても様々な形で肉体や精神を害することやそれについての懸念もまた私を絶えず戦慄させてきた。そんな懸念や不安を抱く材料はこの世に満ち溢れているし、私の人生は常に恐れとともにあった。

 しかし、果たして私は死ぬのだろうか。それは自明であり疑いようもないことだとばかり思ってきたが、それについてこのごろ疑わしく思うようになった。死ぬということは生まれてこなければならない。生まれてきたという事実や前提があってはじめて人間は死ぬことができる。

 しかし、私は一体いつ生まれたというのか。肉体的に生まれ落ちた日をもって自分が「生じた」とするのは短絡的過ぎはしないだろうか。生まれた瞬間から自我や意識があるというならば話は別だが、人間は誕生してから物心がつくまでの間には数年はかかるし、その人格も芽生えてから永遠に不変であるというわけではない。とにかく肉体即自分という前提には個人的には首肯しかねる。肉体だけをもって自己であると見なすことには私は反対の立場を取りたい。

 では精神や心、霊魂といった代物が己の本地なのか。私はこれにも疑問を抱かざるをえない。心変わりという現象は誰にでもあるだろう。昨日まで好きだったものがある日突然好きでなくなったり、好ましかったはずの人物が一瞬で仇敵となったりすることは日常茶飯事だ。そんな自身の内面を顧みれば心や精神、人格といった代物が全く盤石でも確固たるものでもないと否が応でも気付かされる。肉体は儚く、精神は移ろう。そのどちらも私自身、私そのものと見なすにはどうしても足りない、十分でないという感がある。

 私は何故私なのか。私は何をもって私なのか。己の拠り所はどこにあるのか。これらは月並みな問いではあるが人間の精神を狂わせかねない一大事だ。そしてこれらについて誰にとっても明白で客観的に正しい答えなど存在しないということは更なる大きな問題である。にもかかわらず私たちは日常的な瑣末事や生活上の諸事に忙殺され、その手の答えのない、しかし本質的かつ根本的な疑問に向き合うことをせずに生きているのが実情である。

 私たちは己が何者かを知らぬまま生きている。自分が何なのか分からない癖にそれが死に、滅び、損なわれ失うということについては何故か確信している。これはよくよく考えてみれば甚だ滑稽だ。知りもしない、分かりもしないものが無くなることを一体なぜ恐れる必要があるのだろう。それをする前に失いうる「それ」についてはっきりと認識するなり定義するなりすべきだ。しかしそれは先に述べたとおり無理な相談だ。

 知り得ないものを自分だと思うのは単なる錯覚ではないのか? 近頃はそう思えてならない。得体の知れない、定義不能の「自分」をなぜ私たちは後生大事に守ろうとするのだろうか。「私は死ぬという」命題は、私は生まれて目下生きているという前提があって成り立つが、その私は何をもって私なのかという疑問には答えが存在しない。

 定義不能のものは確固たる存在だとはとても呼べない。そんなものが滅びたり失われたりすると考えるのは迷妄でなければ何なのだろう。肉体も精神も脆く儚い。それらのどちらも自分自身だと見なしたくはない。いずれ必ず衰弱して死滅する肉体や、状況に応じていくらでも変じる心の両方とも私でないとするならば、私は心身のどちらにも依拠していない存在だということになる。自己の究極的な本質は不在であり、端から「ない」ものが一体どうやって損なわれたり失われたり、ましてや死ぬというのだろうか。生まれていないものは殺すことができない。それこそが人間の本質だとするならば、私たちにとって本当は死など恐るるに足りない幻想にすぎないのかもしれない。

 無論私も老いるし怪我もするし病気にもなる。そして遠からず衰えてくたばる運命にあるがそれは「私の肉体」であって私の痛みや苦しみ、滅びを意味しない。肉体即自分であるという前提や定義が苦悩の源であり、それが覆ればそれは最早問題ではなくなる。精神もまた然りである。「形而下の私」としての肉体と、「形而上の私」としての精神のどちらも自分と等号で結ばれないとするならば、それの変遷についてはもう一喜一憂する必要など無くなる。

 このアプローチによって苦痛が消えてなくなるわけではない。しかしこれにより私たちは、苦痛を被る立場からそれをただ観察する立場に転じる。私にとって心身の消耗や老衰は最早私事ではなくなり、辛苦の当事者としての立場から身を引くこととなる。私はどんな形でもなく、どんなところにもいない。私は私であることから遠ざかり、己を手放して生老病死と縁を切る。私は自身が生まれる存在でも死ぬ存在でないと気づくに至った。

 既に己の心身はともに私とは無関係だ。肉体的な死は私の消滅を意味しない。いや私は初めから無いのだから滅することはできない。存在しないものは壊すことも痛めつけることも不可能だ。私は「ない」が故に不滅であり、永劫不朽の存在だ。

 私の骨よ、私の血よ、私の内臓よ、私の肉よ、私の皮よ、私の脳よ、私の感情よ、私の思念よ、私の思想信条よ、私の霊よ魂よ、私でありながらも私と呼ぶには値しない全てのものよ。それらの全てに別れを告げる。それらはもう私ではない。

 痛みよ、苦しみよ、飢えよ、渇きよ、憂いよ、煩いよ、悲しみよ、憎しみよ、妬み恨み嫉みよ、恐れよ、虚しさよ、心の中で生じる全てのものよ、私はそれらの全てと縁を切る。それらはもう私ではない。

 自分とは無関係なものを人は大切にはしない。自分と縁のないものに固執する人間など存在しない。自分でないものならば簡単に捨てられる。私は自身の肉体や精神の変移や消滅には頓着しない。よって私は私が死ぬことを恐れないし、それの遠因たりうる全ての喪失への懸念もまた放擲できる。

 私は己に対して他人として振る舞う。私は私でありながら私に対して他者でもある。この矛盾が成り立つとき、そこには深刻さがない。肉にも心にも執着がなく、拘泥せず、シリアスのない自由と気楽さだけの境涯に私は到達する。

 恐怖を克服するには失うことを厭わないようになるしかない。そして究極的な喪失は死であり、それを超越することで本当の意味で人は恐れから解放される。富を失い、心身の安全を脅かされ、体を損ない、死に至る。その過程を恐れない人種というのは結局のところ、捨て身になった人間だ。逆に一個の人間としての「私」に固執して固持しようとする者は永遠に恐怖や不安から逃れることはなく、その者は常に死にうるし、また遠からず死ぬ。

 私の肉体、私の精神、私の痛みや苦しみ、それらの全てに対して、もうどうでもいいという姿勢、要するに捨身の振る舞いによって人は死ぬことや恐れることから解放される。恐れおののき、懸念や不安に囚われて生きることに辟易した人間は、自分自身を捨て去るという決断に踏み切る必要に迫られる。そしてそれをすることでしか畢竟、私たちは救われはしない。

 自分自身から離れ遠ざかることで私たちは死を超越し、永久不滅にして完全無欠の「何か」となる。それは仏教的な言葉で形容するなら大悟や成仏といった状態なのだろうか。それについては未だはっきりとは言えないがとにかく捨てること、遠ざかること、また手放すことは重要だということだけは確信を持って言うことができる。

ダメージ

 人間は精神的に傷を負うとき、常に能動的である。というよりも自分の心が傷ついたという思いがあってはじめて人間は精神にダメージを負う。外的な要因や他者による何らかの働きかけが決定的な要因になることは絶対にない。人間が精神的な打撃や痛手を負うときには、一つの例外もなく自らが自らを傷つけている。

 無論、肉体的な損傷は別だ。体にできる物理的なダメージは心の問題ではないし、基本的には何かによってつけられるものだ。病は気からという言葉はあるが傷や打撲などといった代物は気の持ちようではどうにもならない。体の傷と心の傷は一緒くたにされることがままあるが、これらは全く別のものであると認識されなければならない。

 人間の精神に何らかの作用をもたらすことができるのは最終的には当人のみである。他人の手によって何かをされたとしても、それは何であれ間接的な影響を与えるのみだ。それはきっかけに過ぎず、根本的には自分の認識によって人間は心に傷を負うようにできている。

 環境に敗北したと思ったときに人間は挫ける。人は自分の精神が傷つけられたと感じたときに心にトラウマを抱え込む。それらのどちらも当人自身が「自分はダメージを受けた」と認識してはじめて起こる内的な現象だ。どのような状況下でどんな人間の悪意でもって、どれほどの仕打ちを受けようが、最終的に自己が損なわれた、傷ついたと見なすことで人は心に傷を負う。

 全ては自分自身によっており、環境や他人など実は一切関係がない。私たちにとっての世界とは自分の頭の中の思考や感情が大半を占めており、少なくとも精神的に消耗したり打撃を受けたりするかは完全に己の裁量によっている。それを意識できなければ、人間は外界に振り回されて生きるしかなくなる。内面の葛藤やわだかまりの本当の原因が己にあるという視点を持たなければ我々は永遠に本質に至ること無く無用な苦しみを甘受し続けるだろう。

 肉体的な傷はどうにもならないが心のそれは自分次第で負うか負わないかを決めることができる、最終的な決定権は自分自身がどんな場合においても握っているということを肝に銘じなければならない。それを忘れたとき、人は被害者となり尊厳を奪われ屈辱を味割ることになる。内面の主導権を他人や外部に明け渡したときに私たちは社会や世間、この世界に対して敗北を喫する。「私は傷ついた」と言ったり思ったりするのはそういう意味で禁忌だと言える。

 これは自分を痛めつけるのは本質的には常に自分自身だということでもある。求めるものが得られない、忌むべき事柄が自分に降りかかる、嗜虐的な他人から損害を被る……これらの出来事を根拠にして私たちは自分で自分にむち打ち、ダメージを受けたと騒ぎ立て、己で作った傷を愛でたり見せびらかしたりしている。加えてそれを至極当然のことと見なして疑問を抱くこともなく死ぬまでこの愚行を延々繰り返しているのだ。いくつになってもどんな環境においても私たちは他ならぬ自分自身を能動的に加虐しているという事実がある。

 人間の人格や精神が繊細で傷つきやすいなどと最初に言い出したのは一体何処の誰なのだろうか。人は心に傷を負いうるという前提で生きなければならないと誰が最初に言い出したのだろうか。そうでなければならないなどという決まりは言うまでもなく存在せず、私自身そうでない方が生きやすいと思う。誰の手によっても、どんなことがあっても自分の精神は堪えるたりはしないという確信を持ってもいいのではないか。というよりももってはならないという法もないのだが。

 私はこれまで生きてきて数え切れないほどの憂き目に遭ってきた。敵となった他者は星の数ほどいたし、どんなときでも自らを被害者だと見なして常に「傷ついて」きた。しかしそれは己に自ら鞭打つような自傷行為でしかなかった。自分は脆い存在だと喚きながら自分で痛めつけて作った傷を見せびらかして自己憐憫に浸り続けた、ただそれだけの人生でしかなかったように思う。

 内面や精神という面に限れば、人間は「傷つく」ことはあっても「傷つけられる」事はありえない。人はどんな時も能動的に自らの意志や決定でもって傷つく。それを肝に銘じておけば私たちは他人の悪意や害意に翻弄されることはなくなる。それは絶対に起こり得ない現象となる。

 「お前は弱く、他人からの影響を多分に受ける存在だ」思い返せば何者かによってずっとそんな刷り込みをされていたような気がする。それは両親や教師などといった権威付けられた他者はもちろん、メディアなどを介した間接的な存在によるものから常に受け続けたマインドコントロールであった。人を馴致させるには畢竟、己を弱く移ろい易い存在だと自認させるのが一番手っ取り早いということなのだろう。

 強くある必要はないが弱いのは問題である。また、肉体が頑健かどうかは生得的に決まっているが精神が脆弱かどうかは後天的な要素による。打ちひしがれ、くじけるかどうかはいつも自分自身が判断する。それを忘れ去ったとき人間は他人に流され操作されるようになる。それだけは命に変えても避けなければならない。

 ずっと他人のいいようにされてきた。それは私が己を弱いと信じ切っていたからに他ならない。私を利用し搾取し、時間や労力を掠奪していった、あるいは目下それらをしている連中の手によって私は被害を被っているのでは断じてない。私を苦しめ辱め続けていたのは他ならぬ私自身であった。それに気づき、意識的でなければならない。自分を嗜虐している己自身の存在とその所業を。

 この段になれば最早他人などどうでもいい。己を苦しめている原因は常に自分自身だと断ずることとその姿勢を崩さない意識だけあれば十分である。その心構えさえあれば精神を損なうことはありえない。これによって人は絶対安全圏に常に身を置くこととなる。

 何人たりとも私を痛めつけることも損なうことも、害することも能わない。それを前提とするだけで人間は無敵である、心の領域に限っては。自分を傷つけるのはいつ、どんな局面においても自分自身であり、本来一個の人間の精神は絶対に他者の手が届かない場所にある。そんな代物を一体誰が毀損できるだろうか。

 己の精神を損なえるのは己のみ。外界や他者はせいぜいそのきっかけに過ぎず、自身の本質は内面にある。どんな苦境や凶事に見舞われても人間に求められるのは唯一つ、内省である。己自身を見つめる目を失わなければ人は、自身を虐待している愚行を見逃すこともなく、それに及ぶ自らの振る舞いを正せるだろう。大切なのは自分の内側で何が起こり、自分が自分にどんな仕打ちをしているかを自覚し、意識し続けることだろう。

 自分を取り巻く環境や他者から「なんとなく」影響を受けることで人間は脆弱になる。自分を弱いと見なした瞬間、人間は打ちのめされる。逆にそれをしなければ精神的に屈服することなどありはしない。そんな姿勢、態度を維持し続けることで私たちは心に傷を負うことがなくなる。

 「精神にダメージを受ける」という奇妙な現象は完全に一人相撲である。傷つく者とと傷つけられる者は同一で、それ以外の登場人物は実は一人もいない。これが人生の実相であり、私は己を後生大事に守るふりをしながら自身を痛めつけ、またその所業に自覚を持つこともしない。そして無用な苦しみに終生呻吟し続ける、大本の原因を知ろうともしないで。

 少なくとも私個人は、それに終止符を打つ。私はもう傷つかない、何によっても。

彼岸

 霊魂とは肉体を超越した自己同一性だ。人間はたとえ体が老い衰え、滅び去っても自分が自分であり続けることを望む生き物である。余人の大半は自分自身がそのままの状態で未来永劫存続して欲しい、そうであることが望ましいと思うようだ。私はそうではないが、それが一般的な人間の願望であるということは理屈では理解できる。

 死後の世界が洋の東西を問わず信じられているのもそれに付随するのだろう。不滅で無窮の自己としての霊魂が一時的であれ恒久的であれ身を置く場所が当然必要となり、それがあの世と呼ばれる所なのだろう。霊魂を信じるならばあの世もセットで存在しなければならない。どちらかがあってどちらかがないということは考えにくいのだろう。

 自己同一性への希求は肉体や物理を超えた人間にとっての強い欲求だと言える。自分が自分のまま在り続けたいという願いの大きさは考えてみれば凄まじいものだ。たとえ不可視かつ不可知な領域に属する概念や言葉を用いなくても、アイデンティティを保つために日常的に夜の殆どの人間がどれほどの労力を割き、また腐心していることか! かくいう私も自覚もないまま己を己たらしめるために数多くの骨折りをしているのだろうか。

 何故人間にとって自分が自分であり続けることが大切なのだろうか。生存上槽であるほうが好ましいからなのだろうか。自己同一性が損なわれかねない時に感じる恐怖は、どのような理由で起こるのだろうか。考えてみれば甚大にして深淵なテーマである。

 もしも肉体が滅んでも霊魂が不滅であれば、人間は死してなお自分で在り続けることになる。そして死後の世界に移るにしろすぐに生まれ変わるにしろ霊格は永遠に保持され、霊的な意味で未来永劫私は私であるということになる。その前提によって立つならば、私たちは肉体的な享楽や現世利益に固執すること無くあの世での安寧や転生した後の境遇を見越して生きることになり、信心深い生活をしなければならなくなる。霊的な見地に立った倫理や道徳はこのような過程によって成り立つ。

 しかし、仏教においては彼岸という概念がある。これは死んだ後あの世に行ったり別人あるいは別の生物に生まれ変わったりするというモデルとは全く異なる考え方である。死後の世界や転生後の待遇といった類いのものは霊的主体としての自分が肉体を超えて永続するという前提に基づく、これは彼岸と対になる言葉で例えれば此岸であろう。この世から離れても依然「我在り」という意識に拘泥し、自己同一性への執着を捨てられないならばこの世ならざる場所に在ったとしてもその状態は厳密には「彼岸」とは呼べないだろう。彼岸とは言わば悟りの境地であり、私が私である限り至ることはない。

 彼岸に至るには私であることをやめなければならない。一個人、一個の霊格としての己、即ちアイデンティティを手放さなければ例え死んだとしても此岸の域を出ることはない。私たちは己自身であることをどのような形であれ望むが故にそれに縛られ続ける。あの世も来世もスピリチュアルな牢獄に過ぎない。

 しかし、世の大半の人間にとってそれは問題ではない。世間では自己同一性への固執は物理法則のように疑問に思う余地のないことと見なされている。それを捨て去り、遠ざかりたいと願うのはよほどの奇人変人だ。そして他ならぬ私自身がそれである。

 変身願望や成長や進歩への志向では彼岸には至れない。姿形や霊的ステージといった類いのものがどう変容したところで「私が私であること」への偏執や執着という点では何も違いがなく、余人の殆どが抱く変わりたい、より良くありたいという願いはその域を出ることはない。

 それに何か問題があるかといえば、全く無い。むしろ人としての正しい在り方だと言ってもいいくらいだろう。それに疑問を抱くのは社会不適合者の烙印を押されても文句を言えないのではないか。しかし私は己が己であり続けることに何故人が固執するのか、頭では理解できても心情的には良く分からないし、可能ならば何者でもない状態を志向したいと願っている。要するに彼岸に至る道を求めている。

 だが、彼岸を望む私もまた私であり、それもまた捨て去らなければなければならないらしい。そこがこの手の分野にかぶれた凡人にとっては最大の壁となる。私は自分が自分でなくなればいいと考えているが、今の私が滅却したところで別の自分が生み出されるだけである。自分という代物は放擲しても唾棄しても心の中で無限に生み出される。どのような私であれそれが私であるならば根本的には何一つ変わらない。いかに私は無私、無我、忘我没我の妙境に到達し、それを保ち続ければいいのだろう?

 これは達するとか至ると形容している時点で望みが薄いのかもしれない。彼岸とは個我の消滅であり無念無想の状態である。しかし、そこに到達することを希求し志向する限り永遠にそれは成されないというのは何と皮肉な話だろうか。

 今生で立身出世を成し遂げ栄耀栄華を極めても、来世で恵まれた境遇に浴しても、死んだ後に極楽浄土に安住しても、「私であること」からは逃れられない。アイデンティティがどうであれ、どんな体験をどれだけ経験したところで、その一事は不変であり、それを潔しとしないならば何であれ瑣末なことだ。彼岸を望み、個我を放棄することが人生の目的ならば、生涯なにを獲得しようが死んだ後に高待遇を受けようがどうでもいい。

 自己同一性が何らかの形で担保されれば人は安心する。己を己たらしめる何かが明確であり続けるなら人は生存上様々な面で都合がいいということを私たちは本能的に知っているのだろうか。それから逸脱しようという暴挙は、人によっては全く理解できない欲求なのかもしれない。私個人としては、どんな形であれ私が私であること自体が窮屈に思えてならない。自分自身を肉体や物理の面に限らず、精神や霊魂の次元においても放下したい。しかしそれのために何かを思い、為したところで先に述べたように落第となるのだから難しい。

 しかし、何もしなければそれで良いかと言えばそうでもない。何もしないことを選び、拘れば即ち「何もしない」をしている状態となり、それにもまた執着が生じる。如何ともしがたい。それを志すことは、何者かになろうとすることや何かであろうとすることと比べて遥かに厄介な試みだ。

 完全に己を捨て去ることは個人的な目標として置いておくとしても、霊魂という概念の正体は肉体を超越した自己同一性だという見解には一考の価値はある。自分や他者の心について考察する時にこの見地は役に立ちそうである。自他共に精神活動や情緒情動の類いを分析するときには、自己同一性への執着という観点を踏まえれば深く洞察できるかもしれない。

 我々は自分自身を確立し、保持することに無意識に大変こだわる。ときにそれが様々な弊害を生み、人生を難しく苦しい旅路にする。霊的な探求や修練の最終的な目標地点をどこに置くにしても、我在りという視座に固執するがゆえに我々の生は常に困難を極めるという一事をよくよく理解し、忘れないようにすれば人生は少しは生きやすいものになるのではないだろうか。

 彼岸やそこへの道程が何であれ、我々の辛苦の根源は他ならぬ自己同一性にある。それを完全な意味で手放せなくても、それが我々に有害だということだけは念頭に置きつつ生活していきたいものだ。

完了

 愚痴をこぼしたり他人に胸中で毒づいたりするとき、人の内面では一体何が置きているのだろうか。私たちは不平不満を抱いたり、傲慢で身勝手な悪人に危害を加えられたり財産や労力を掠奪されたりすると、当然穏やかな心持ちではいられなくなるが、そんな悪感情を抱いたところで自分に何の益もないこともまた承知のはずである。何故人間は機嫌を損ねたり不遇を託ったりするだけで現状に甘んじてやむなしとしてしまうのだろうか。そうしてしまう精神の作用について内省してみたくなった。

 他人などの外的要因によって自身が窮状に置かれているとはっきりと自覚しているのにもかかわらず、何故私たちは具体的な対処をしようとも思わずに被害者意識を抱え込み自己憐憫に耽るだけで済ましてしまうのか。その理由としては、その手の情動をコンテンツとして私たちは自分の内側で「消費」してしまっていて、そういう目に遭うことを目標にしているフシがあるのではないだろうか。

 被害者として憂き目に遭っているかわいそうな自分、そしてその自己が被っている悲惨な状況とそれによって惹起する悲嘆や憎悪などといった情緒……。これらを人間は映画を鑑賞するように内心では楽しんでいる面があるのかもしれない。いや、そのように考えれば何故私たちは不遇や理不尽の中で安住できてしまっているのかという疑問をすんなりと解決できしてしまう。我ながら不本意ではあるが、自分自身思い当たるところもないではない。私たちは己の人生をまるで他人事のようにコンテンツして享受、鑑賞、消費しているのでは?

 言うまでもなく私たちは自分の人生の当事者であり主人公だ。にもかかわらず、心の何処かでは他人事のように自身の生涯を見なしている部分がある。というよりも、そうでなければどうして悲惨な境涯に「仕方がない」などと言ったり思ったりできるだろうか。私自身生まれも育ちも下の下であるが、どうにもならないと自分の人生に対して自暴自棄になるとき、思い返してみればまるでテレビゲームのなかのキャラクターでも見ているかのような余所余所しさでもって自身の生を放擲していたような感がある。

 苦しみ嘆いた時点ですでに私の中では全てが完了している。己の人生、ひいては生涯全てをコンテンツとして消費するという態度で生きるなら、そうなって当然だ。哀れな自分、可哀想な私、その惨めさをまるで遊びに興じるかのように受け止め、感じ取って、それでおしまいというわけである。それで良しとしてきた浅薄で愚鈍な自分自身の性向は唾棄されなければならない。

 苦心や煩悶、懊悩といった悪感情を堪能することがいつの間にか目的になってしまうのは何故なのだろうか。人生で如何ともしがたいことは山ほどあり、脱することができない苦境や絶望と言うものも数多ある。それらに対して自分自身の心を納得させるためのある種の防衛本能としてそのような精神的な作用があるのだろうか。被る理不尽や不条理から自分を守るため、自身の無力さを正当化するためにこのような試みが無意識の内に為されるのかもしれない。

 しかし、それによって私たちは何を得るというのか。精神的な安定など所詮は気休めにすぎない。私たちは心の安寧を犠牲にしても、己の苦境をはっきりと自覚し、それから脱するために何をすべきか考え、それを実行に移さなければならない。自分の人生をコンテツのように消費し、不平不満を抱いたり不遇を託つだけで「完了」させてしまうなど以ての外だ。

 辛苦に喘ぎ、自分の不遇を嘆くだけでそれで全てを終わりにしてしまう人間の本心はだいたいこのような感じである。少なくとも私はこれまでの人生で己を奮起扠せられなかった大本の原因がこのような精神構造に由来していると確信している。自分でも気づかない内に、苦しむことが目的となりそれによって一切が完了してしまっている。嘆き悲しむことで、自身を悲劇の主役として位置づけ自分を慰撫することが目標でありゴールとなってしまっていた。

 どの段階、どの地点でもって完了とするかで物事に対する姿勢は全く変わってくるだろう。私は最近になって、職場や家などで苦しめられている状況のなかで、自身を被害者として位置づけ己を憐れむことが目的化してしまっているのだと喝破した。思い返せば、この一事が私を足踏みさせていた。苦しみや哀しみの渦中で己を哀れみ、そこから脱却できないことを正当化して人生を空費してきた。

 苦しむ自分を憐れみ、被害者として振る舞い、そんな人生をコンテンツとして消費することが目的なら、内心では苦しみを礼賛しているということになる。仕方がないと諦められる心理の背景にはこのような自己憐憫と正当化があり、それらの根底にあるのは現状維持を図る怠惰な精神だ。それを今まで掘り下げて考えることもなく、自身の気質を直視し、向き合うこともしてこなかったように思う。

 自己憐憫のために人生を費やしてきた。それが目的であるがために私は苦しい境涯を変えようともしなかった。それどころか私は心の深いところではそれを是としていた。そのことに気づくのには、正直あまりに遅すぎた感がある。これまで自分が悲惨で屈辱にまみれた人生を好転させるために発奮できないのは自身の怠慢にあるとばかり思ってきたが、本稿で述べてきたような本当の理由や原因があるとようやく明確に知ることができたのは大きな収穫であった。

 このような視点を得たことで、自他ともに、嘆いたり悲しんだり、不平不満をこぼすだけで何もしない人間の様相への理解が一気に深まった。自己憐憫に浸る人間は己の苦しみや哀しみ、ひいてはそれらを被る自分自身をコンテンツとして享受しているが故に、それらを浴するためにむしろ率先して酷い境遇を選びそこに安住する。不幸な人種はそうなるべくしてなっているのであり、またそれは彼らにとっての潜在的な願望の発露によるものでもある。

 不幸から逃れるには、それを望まないことだ。そこがまず第一の出発点であるにもかかわらず、私たちは多くの場合、その地点に立つこともできないし、それができてないという自覚を持つことも難しいのが現状ではないだろうか。それこそが諸悪の根源であり、余人の多くが不幸せであり続ける原因であるといえる。

 悲惨や災厄を肯定し称揚する心根を捨て去るには畢竟、飽きるしかない。どんなコンテンツもいつかは飽きるように、自己憐憫への耽溺もまたいつか辟易するときがやってくるだろう。逆に言えば、心底うんざりするまで人間は苦しみを被り続け、俺の不遇を嘆き続けるのだろう。私たちが依然そうであるならば、我々は未だ苦しむことに飽きてはいないということなのだろう。

 これは偏執や依存の全般に言えることだ。私たちが何かを手放すことができるのはそれに懲り懲り、飽き飽きする段になってからだ。腹の底から辟易してはじめて私たちは何かと袂を分かつことができる。それができないならば、未だその域に達していないのである。

 悲嘆や呻吟、憤懣や怨恨、怨嗟、慟哭……それらの一切から遠ざかることが私の本懐であるはずだ。だから私はそれらに心の底から辟易していなければならないということになる。嫌気がさすまで苦しんだ自負は一応はある。だからこれからはそれを常に念頭に置き、もうたくさんだという思いを携えて万事に臨んでいきたい。あらゆる憂き目に遭うとき、それでもって「完了」してしまうことがないように。

愛と感謝

 お前には感謝する気持ちがない、と母親に2、3年ほど前に言われた記憶がある。母は私が両親をはじめとしたあらゆる他者に対して感謝の念を持ち合わせていないから、人生全般に行き詰まっているのだろう、というような趣旨のことを私に言い放ち、当時私は母の発言に不愉快な思いをさせられたのを覚えている。

 私は他人に感謝など一切しない。何故ならば、感謝というのは愛に対する返礼であり、愛は人の世には絶対に存在し得ないからだ。人間と人間との関係性におけるあらゆる営みには打算や思惑が絶対にあり、そこに愛が介在することなどあり得ない。だから愛なき世界には感謝も存在することもなく、それを念じることも口に出して表明することも有り体に言えば胡散臭い嘘っぱちの発言、挙動でしかない。

 愛は神が一方的に人間に与えるものであり、感謝はそれを受けた人間が神に捧げるものである。つまり愛も感謝も神と人間の間柄においてだけ成立するのであり、それらは人間同士で融通し合う何かではない。どんな関係性においてもどんな状況であっても、人間の間には愛も感謝も厳密はありえないのだと私は断言したい。

 私はこれまで人を愛せないことと誰からも愛されないことを気に病んできた。また、他人に心底感謝することも能わぬ自分に嫌悪の情を抱くこともままあった。しかしそれらの類いの悩みも所詮、愛や感謝という代物が人の世に何らかの形で存在しうるという誤った前提がもたらす誤謬でしかない。ありえないことが現になかったと、煩悶することは単に愚かである。無いものは無いと断じ、期待や希望を廃するのは正しい道である。そこから外れるのは迷妄の道である。

 愛は無条件かつ無制限の恵みである。それを与えられる人間がこの世の何処にいるだろうか。どれほどの聖人、大人物がそれを持ち、他人に与えるというのだろうか。私はこれまでそのような人間と邂逅したこともなければ風の噂で聞き及んだこともない。加えて、自分がそれに類する、若しくは準ずる人間であるなどとは毛頭思わないし、将来的にその手の人種に成り得る兆しなどとも欠片も持ち合わせてはいない。

 感謝はその愛を受けた上で心の内奥で惹起する感情である。愛が人間の世界において絵空事でしかないならば、厳密な意味での感謝というのもまた然りだ。礼儀礼節や便宜上感謝の言葉や態度を表明するべき、若しくはそうした方が望ましい状況というのは無論あるだろうが、その際に述べられる言葉や態度は上辺だけの見せかけだけの感謝でしかない。人の世に愛が存在し得ないように、感謝の念やそれに基づいた言動も原則ありえないと言える。

 この世の全ては有限である。時間も富も無限に持っている人間など存在しない。たとえ世界一の大富豪でもその所持金は無尽蔵ではないし、どれだけ暇を持て余している自由人でも永遠に生きながらえるわけでもない。我々は財産にしろ余暇の時間にしろ全て有限にしか所有してないし、それらの有形無形の別なく限度ある代物を他人に提供するのだから無制限だの無条件だのと言う話には絶対にならないのは自明だ。

 これは心理であり変えることも目を背けることも不可能だ。その前提を正しく認め、その上で他者に金や時間、労力の類いを提供するのだから、その際には必然的に条件や上限を設けた上でそれを行うことになる。その仔細がどうであれ、少なくとも無条件かつ無制限に無限の富、時間、労力を他者に差し出せるはずがない。それができないならそれは何であれ愛と称せられるべきではない。

 人間が他者に何かを明け渡すとき、略奪や搾取という形を取らないのであれば、それは条件付きでの提供となる。それは良くて一対一のギブアンドテイクとなる。現実にはギブとテイクは等価ではない場合が常であり、だからこそ人間関係は私たちの悩みの種となる。もし仮に労働者と雇用者の立場が完全に対等で、労働者がどんな場合においても拘束時間や労働力に見合った正当な報酬が得られるなら、我々の社会で労働を忌避するものなど相当少数になるだろう。しかし現実にはそうではなく、またそれを解決する手立てを持つ者も現状現れていないのは言を俟たない。

 世間では労働以外のシチュエーションでも等価交換が原理原則になっている取引は極めて稀であり、仮にそれが成立していたとしても、結局のところ私たちは他者から何かを引き出すには条件を満たすだけの何かを差し出すか、するかしなければならない。ギブアンドテイクという関係には愛はないし、ギブとテイクが釣り合っていたとしても、その関係性には愛などない。

 自分にも他人にも愛など決してありはしない。自分が他人に理由も打算もなく、無条件に無制限に何かを提供しようと思わないように、他人もまた自分にそういう施しなど原則しないとはっきりと認識するべきだ。そして愛がないという現実を自明で当然のことであると考え、それについて悲観したり罪悪感を抱いたりするべきではない。仮に人間以外の生き物の場合であっても、自分のことを度外視して他の個体のために尽くしたりはしないのだから、「愛がない状態」は他ならぬ自然の摂理であり、それに従って全てが執り行われる有り様について何かを思う必要など本来ないのだから。

 自分が他人に為したことを愛と称することはできるし、謝意を言葉や行動で示すことも可能だ。しかし、それらはそれであるように見せかけたり振る舞ったりしているに過ぎず、それそのものではない。装ったり見せかけたりしたところでそれは本当たり得ないのに、何故そうしなければならないのだろうか。何故そうすることに固執するのか。

 方便としての愛や感謝は世間にはある。しかし方便は方便でしかなく本質にはかすりもしない。人が生きるためには本当でないことも場合によっては有効だったり有益だったりすることはままある。しかし、そうでないならば方便に何の価値があるだろうか。それは大切でもなければ大事でもない。ならばそんなものは捨て置けばいい。無尽蔵の施しや恵みなど頭の中だけの妄想でしかないのだから。

 愛せないことも愛されないことも自然であり、それを悲しんだり罪の意識を感じたりする必要は全く無い。愛は天から人に一方的に与えられるものでしかなく、万人はそれをただ受け取るだけだ。

 感謝とはこの神と人間の関係性を意識することに他ならない。特別な儀式や供物は不要である。感謝とは愛を感じ取ることであり、恩寵や天佑を自覚すればそれで完了する。そこには難しい理屈や面倒な工程が入り込む余地など一切ない。私は天から愛されていると声高に叫ぶだけで十二分に神に返礼したことになる。

 重ね重ね言うように人の世には愛も感謝もあり得ない。それらを声高に唱え、振りかざすものは自覚があろうがなかろうが詐欺師である。我々は金銭的な見返りであれ行為であれ、代償なしに他人から何かを得られはしないのだと努々忘れないようにしなければならない。

 人格や情緒の欠落によって何かを愛せないとか感謝できないなどと考えるのは自他共に誤謬である。この世の実相を正しく見据えれば自然とそうなるのだから、そこに煩悶する材料など何一つありはしないのだ。しかしどうも世間一般でまかり通っている通念と、ここで私が述べた見解との間には著しい隔たりがあるようだ。それに絆されたり流されたりしないよう、常に意識的に生きなければならない。そんな自戒をもって本稿の締めくくりとしたい。

自由

 自由は利害得失を超えたところにある境地だ。起き抜けにそんなフレーズが前触れもなく頭に浮かんだ。それはインスピレーションのようなもので、自分でも全く想定も予期もしていないことで驚いたが、なぜだか自由という言葉や概念についてそのその時一瞬で腑に落ちたような、感得したような感じした。

 思えば私は自由という言葉を深く考えずに用いていたような気がする。自由がないとか、自由が欲しいとか、絶えず考えたり愚痴をこぼしたりはしても、そのくせ自由とは何か、と思案することに時間を割くことは殆どなかったし、戯れにそれを考えたところで、せいぜい「自分の思い通りになる状態」などといった程度の認識しか持たなかった。

 しかし、そんな次元とは一線を画す視点が私に何の予兆もなくもたらされたのだ。損得を超えた領域に自由があるとは、一体どういうことなのだろうか? これは逆に言えば、損得勘定に基づいて物を考え判断を下すとき、人は自由がないということになるがそれは果たして本当なのだろうか。これは自分でも完全には把握しきっていない感がある。

 確かに利益や得だけを追い求めるとき、人の精神には余裕がなくなる。その状態を指して自由がないと言うなら確かに一理あるかもしれない。損得に振り回されそれに囚われた状態はたしかに窮屈ではある。しかし、それの一体何が悪いというのか、という思いもある。自分の利を最優先するのは人間として当然のことではないか。

 しかし、それが人としての営みとして当然であるということとそこに自由がないという指摘は矛盾がない。それが悪であるとは言えないもののそれこそが自由であるとも明言することも能わないのではないか。欲得への固執と自由の追求は天秤にかけなければならないものなのかもしれない。

 手探りで考えつつも、朧気に掴みつつある。何かを得たい、あるいは失いたくないと執着すれば自由を失う。自由を欲するならば、得失という指標に拘泥している自分を明確に意識し、それから距離を置き、また可能であるならそれから離脱しなければならない。自由を求めるならば損得勘定から離れた視点を持たなければならない。それを成し得ないならば厳密な意味での自由はないのではないか。

 欲得に執着して何かを求めることは自由ではない。何得られなかったとしてもそれに構わない境地に達したとき、その時にはじめて人間に自由が与えられる。自由とは欲しいものがある状態でもそれを追い求めることができるということでもなく、何も欲さず、また求めていない状態を指す。

 執着が悪いのではない。何かを欲しいと願うことは自然なことではある。しかし、その思いを自己の本質と見なし、欲望と自分を切り離すこと無く完全に同一のものだと見なすとき、そこには自由がないと言うだけの話だ。自由を求めるか欲し求めるか、それらから人は二者択一をしなければならない。

 そう考えれば、自由とは万人にとって絶対の願いというわけではない。手に入れたいものや目指しているなにかを追い求めることを「自由になる」または「自由でいる」ことよりも優先することは全然おかしいことではない。むしろ「必要なものがない状態」を志向するよりも何かを絶え間なく追求し続ける精神のほうが我々が生きている社会においては一般的と言うか人口に膾炙している。何かを必要としないだの求めないだのと宣う人種のほうが少数派であり、異端であると言えるかもしれない。

 私個人としてはその方を是としたい。そのために必要なことは自分を突き動かす衝動についての明確な理解とそれに対して常に意識的であることだけだ。自分が何を欲し、願っているか。またそれはどうしても自分にとって不可欠なものかどうか。生きるためにどうしても執着せざるを得ないものは多々あるだろうし、それに対しては多少「自由」を犠牲にしてでも求めるしかないだろう。

 しかし、私たちにどうしても手にしなければならない、あるいは手放してはならないものは、どれだけあるだろうか。具体的な名言はしようもないが。それは決して多くはないのかもしれない。逆に必須でないものについては不要であると断じ、それへの執着を意識的に放棄し、自由を志向する道もあるはずであるし、それこそが今生において私がしなければならないことではないだろうか。

 利害得失を超えた境地としての自由を可能な限りで追求する。そのために必須でないものを見極め、それを手放し遠ざかっていく。私が生涯を通して完遂すべき修行がそこにはある。私が成し遂げなければならいことはその一事のみであるということが明らかになった。何かを得ることが人生の本分ではなく、実際はその真逆の試みこそが肝心であったのだ。

 休日の朝、起き抜けに得た天啓は私にとって青天の霹靂であった。それは私に自由の本意と生きる指針を授けた。私は得ることよりも手放すことの重大さを知り、また死ぬまでの間にすべき事のなんたるかを感得するに至った。無論これは頭では分かっていたというか、スピリチュアルな世界では近年よく言われていることではあるのだが。

 知識として見聞きして頭で知っているという状態と、それを腑に落とすということでは言うまでもなく決定的な違いある。前者の段階から後者に移行することがどんな分野においても思いの外難しいのだが、自由というものが何かということについての明確な答えが腑に落ちたのは私にとって大きな収穫だった。

 だが考えようによっては自由とはつまらないものだ。執着をなくせば確かに気苦労は減るだろうがその境地は楽しくも面白くもないのだろう。余人の月並みな感覚から見れば自由など案外好ましいとは言えない代物なのかもしれない。それを求めるということは畢竟変人や暇人の専売特許なのかもしれない。

 しかし、それでも一向にかまわない。重要なのは自由とは何かということであり、それを礼賛すべきかどうか、志向しなければならないのかということではない。欲望や執着に没入し、骨の髄まで耽溺するという道があってもしかるべきだし、考えようによっては面白さではその方がいいという見方もある。

 要するに欲にとらわれ自由を無くすか、それから離れるかは個人の裁量により、それの良し悪しは一概には言えないのだ。欲し、願い、望むのは大いに結構だがそれに拘泥するならばそれを明確に意識すべきで、その状態からは自由は望むべくもないと知っていさえすればいいのだ。逆にそれが苦しみのもとであると考え自由を望むならそれを試みても良い。

 漠然と自由を願い、それがあるかないかで思い煩うことが問題なだけだ。そこから脱すれば自由とは何で、それが得られるかどうかなどは重要ではない。問題の大半はその本質への無理解や無自覚であり、それが解消されればそれはもう深刻な悩みではなくなるだろう。私に今朝置きた事件は結局のところ、自由のなんたるかを明瞭に意識できるようになったというただそれだけのことにすぎない。

 損得で考えてもいいし、そこから離れれば自由がある。要約すれば簡単で自明な話であった。しかし、裏を返せばそれにこれまで気づくこともなく浅はかに生きてきたということでもある。自由という言葉は世間で頻繁に用いられるし、私自身よくそれについて思うことはあったが、その実それについて明確な定義をすることもなく、なんとなくでそれがない、得られないと悩み不満を抱いていたのはとんだお笑い草である。自由に限らず、はっきりと分からないものについて私は知りもしないで思い悩んだり煩ったりしていることが存外かなりあるのかもしれない。

人格

 自分に害をなす人間に対して私達はどのように捉えればよいのだろうか。こいつは悪人だとか、許せない奴だとか、身勝手なサイコパスだとかそのように考えたところで有害な加害者としてのそいつが消えてなくなるわけではない。

 敵を敵であると認識するとき、私たちはその対象がどんな人格を有した存在であるかということを無意識に考え想定してしまう。自分本位な人間だとか、守銭奴だとか、自分のために他人を犠牲にすることを厭わない正確だとかいう具合である。私たちは自分でも気づかない内に嫌っている相手の人格や人間性を分析し、精神や心、人格がある血肉のある存在だと見なしてしまう。

 相手に何らかの考えがあり、それに基づいてそれが自分に被害をもたらすという前提でもって自分に危害を加える他者を想定することは、もしかしたら不毛で的はずれなのかもしれない。他人の心情や魂胆など何だというのだろうか。そんなものを想定して、自分を虐げる人間について考察して何になるのだろう。

 憎むべき、許せない奴がいる。しかし、それらの感情が何故私の中で起こるのだろう。憎悪の対象がどのような腹づもりでどんな悪行を私に働いているかなどといったこを掘り下げたところでそれが一体何になるだろうか。

 問題にすべきなのは常に自分自身なのだ。悪人がどんな人間であるかなどはどうでもよい。私はなぜ奴を憎むのか。この感情の源にあるのは一体何なのか。実際、人生の中で悪党との邂逅は、そんな自省や内省のためのいい機会なのかもしれない。

 自分にとって不利益や理不尽をもたらす存在に対して人は問答無用で憎しみを抱くだろうか、そんなことはないだろう。天災などを忌避することはあっても、自然現象を憎悪する人間がいるだろうか。獣や害虫を疎む人間は大勢いるが、それらに怨恨の場を持つ人間がいるか。

 「嫌い」と「憎い」との間には大きな隔たりがある。嫌うのは自分に有害なものを遠ざけたいという思いであり、憎むのは自分に害をなす存在への被害者意識の発露である。憎しみは加害者と被害者という関係性の中で生み出される情動だ。無論それは自分が被害者であるという前提に基づいている。

 邪悪な人間が悪意によって自分に危害を加え、掠奪や搾取を企み、自分が損なわれ消耗するという思いがその根底にはある。しかし、私はそれを好ましく思わない。そんな認識を持って生きていくことで自分が救われるとは到底思えないからだ。そんな感情に支配されることで一体何か得るものが一つでもあるだろうか。

 確かに自分の欲得のために他者を犠牲にし、それを当然とし、奪われ炒め詰められる人間を嘲りながら嬉々として虐げる悪漢というのはこの世には大勢いる。私自身目下そのような人非人によって散々苦しめられ、呻吟しながら日々汲々している。しかし、悪を成す人間がどのような存在で、その精神の様相の仔細について推し量り思いを巡らせれば巡らせるその人間に対して憎悪が膨らんでいくばかりだ。

 私がしなければならないのは奴から逃れ離れることであり、それがどのようなものか知ることではない。私はこれまで生きてきて数え切れないほどの「嫌な人間」と邂逅してきたが、それらがどういう人格や精神を持った存在で、どんな魂胆や思惑にって自分に危害を加えるか、そんな被害者意識に固執するばかりだった。そのような人種と接触せず、影響下に置かれないようにするためにどうすればいいかということはあまり考えてこなかった感がある。

 自分を騙しこき使い、虐げ辱めるような人間の魔手から逃れるには、力をつけるしかない。弱者はどんな形であれ食い物にされるだけであり、弱い者は常に被害者として甘んじるしか選択肢がない。貧窮し屈辱を味わっているなら、それは自分が目下弱者であるということに他ならず、その状況から脱却できないのは力不足だからだ。これは認めたくはないが厳然たる事実である。

 自分が弱く、力がないということがあらゆる苦境の根源であり原因だと自覚しなければならない。それができてはじめて、自分がどうすればいいかがはっきりと分かる。そしてこの過程の中で自分から掠奪し損害を与える加害者がどのような人間であるかは全く関係がない。

 加害者や悪党の人格や人間性は徹底的に無視するべきだ。むしろ自分にとって害悪な人種については精神や霊魂の存在を認めないくらいで丁度いいかもしれない。他人の心がどのようなもので、魂胆や心情について当て推量をすればするほどその対象を憎むことになる。

 憎しみは他人の心を推し量るから起こる感情であるが、それが私たちに何かをもたらすことはない。憎むべき相手から逃れるためにどうすればいいか考えなければならないのに、他者について類推することに時間や労力を費やす。それによって結局私たちは何もできず、不遇を託ち被害者として甘んじて人生を無駄にしてしまう。

 相手を憎むことをやめるにはその対象の人格や人間性を想定しないことだ。他人の魂胆や腹づもりなどブラックボックスのままでよく、知ろうとしないことだ。飽くまで考えるべきは己自身がどうすればいいかだ。自分が悪漢の魔手から逃れ、害されることも損なわれることもない状況に身を置くには何が必要か、どんな行動を具体的に取るべきかだけに意識を集中するべきだ。

 悪人がどんな人間か考えるのは、皮相的なものの見方にすぎない。本質に関わることはそこには何一つない。相手の気持ちなどどうでもよく、それから以下に遠ざかるかは自分自身にかかっている。悪漢の人格や人間性を分析し理解できたところで何一つ自体は好転しない。

 憎悪とは他者に対するネガティブな理解である。邪悪な魂胆が相手にあり、悪意があって自分に危害を加えているという思いがあってはじめて人は他人を憎むことができる。私はそれに何の意味も価値も見いだせないし、またそれをしたいとも思わない。よって、私は自分を苦しめる他者の人格や精神を完全に無いものと見なし、それによってもたらされる害悪は人災ではなく、天災のようなものだと断じることとする。

 他人など問題ではなく、根本は常に自分自身だ。悪いやつがどんな存在であるか論じても憎しみが増幅するだけだ。有害な他人の気持ちを推し量ろうとする過程で生まれる害毒のようなものが憎悪である。逆に自分に危害を加える存在を無理に知ろうとしないならば、私はそれを憎むことはないだろう。

 他人の人格や精神を問題にするべきでない。相手の心を認めない姿勢が憎しみの芽を摘むことになるだろう。人の気持ちを考えましょう、などと世間ではよく言われるが自分を不当に虐げ使役するような悪党の気持ちなど考えるだけ時間の無駄だ。なによりもそれによって私の内面に憎悪や怨嗟の情が惹起されるだけなのだから、これは百害あって一利なしだ。益のない、害しかもたらさないことなどしないほうが賢明であることは言を俟たない。

 考えるだけ無駄、ということは世の中にはたくさんある。自分にとって単に有害なだけの人間の心や精神、人格や人間性などはその最たるものだ。他人の人格を問題にすれば、私は余計で生産性のない感情に囚われるだろうし、それはその悪辣な人間が私に為す仕打ちよりもよほど私にとって悪い影響を及ぼすだろう。

 自分を嘲笑し、軽蔑し、詐取・掠奪し、危害を加える人間たちの気持ち、そんなものは一顧だにすべきでない。しなければならないのはそういう手合いからいかに距離を保ち、それらの影響下から遠いところに自分が達するかということだけだ。