壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

捨身

 私は何かにつけていろいろな事柄を恐れてきた。私が恐れる対象は大抵、金銭や機会の喪失などといった事柄についてだった。そしてそれを婉曲的に暗示するものや間接的に自身をそれに近づける事象などにもまた恐怖を抱き続けてきた。そしてとりわけ死は究極的な喪失であり、落命に至らなくても様々な形で肉体や精神を害することやそれについての懸念もまた私を絶えず戦慄させてきた。そんな懸念や不安を抱く材料はこの世に満ち溢れているし、私の人生は常に恐れとともにあった。

 しかし、果たして私は死ぬのだろうか。それは自明であり疑いようもないことだとばかり思ってきたが、それについてこのごろ疑わしく思うようになった。死ぬということは生まれてこなければならない。生まれてきたという事実や前提があってはじめて人間は死ぬことができる。

 しかし、私は一体いつ生まれたというのか。肉体的に生まれ落ちた日をもって自分が「生じた」とするのは短絡的過ぎはしないだろうか。生まれた瞬間から自我や意識があるというならば話は別だが、人間は誕生してから物心がつくまでの間には数年はかかるし、その人格も芽生えてから永遠に不変であるというわけではない。とにかく肉体即自分という前提には個人的には首肯しかねる。肉体だけをもって自己であると見なすことには私は反対の立場を取りたい。

 では精神や心、霊魂といった代物が己の本地なのか。私はこれにも疑問を抱かざるをえない。心変わりという現象は誰にでもあるだろう。昨日まで好きだったものがある日突然好きでなくなったり、好ましかったはずの人物が一瞬で仇敵となったりすることは日常茶飯事だ。そんな自身の内面を顧みれば心や精神、人格といった代物が全く盤石でも確固たるものでもないと否が応でも気付かされる。肉体は儚く、精神は移ろう。そのどちらも私自身、私そのものと見なすにはどうしても足りない、十分でないという感がある。

 私は何故私なのか。私は何をもって私なのか。己の拠り所はどこにあるのか。これらは月並みな問いではあるが人間の精神を狂わせかねない一大事だ。そしてこれらについて誰にとっても明白で客観的に正しい答えなど存在しないということは更なる大きな問題である。にもかかわらず私たちは日常的な瑣末事や生活上の諸事に忙殺され、その手の答えのない、しかし本質的かつ根本的な疑問に向き合うことをせずに生きているのが実情である。

 私たちは己が何者かを知らぬまま生きている。自分が何なのか分からない癖にそれが死に、滅び、損なわれ失うということについては何故か確信している。これはよくよく考えてみれば甚だ滑稽だ。知りもしない、分かりもしないものが無くなることを一体なぜ恐れる必要があるのだろう。それをする前に失いうる「それ」についてはっきりと認識するなり定義するなりすべきだ。しかしそれは先に述べたとおり無理な相談だ。

 知り得ないものを自分だと思うのは単なる錯覚ではないのか? 近頃はそう思えてならない。得体の知れない、定義不能の「自分」をなぜ私たちは後生大事に守ろうとするのだろうか。「私は死ぬという」命題は、私は生まれて目下生きているという前提があって成り立つが、その私は何をもって私なのかという疑問には答えが存在しない。

 定義不能のものは確固たる存在だとはとても呼べない。そんなものが滅びたり失われたりすると考えるのは迷妄でなければ何なのだろう。肉体も精神も脆く儚い。それらのどちらも自分自身だと見なしたくはない。いずれ必ず衰弱して死滅する肉体や、状況に応じていくらでも変じる心の両方とも私でないとするならば、私は心身のどちらにも依拠していない存在だということになる。自己の究極的な本質は不在であり、端から「ない」ものが一体どうやって損なわれたり失われたり、ましてや死ぬというのだろうか。生まれていないものは殺すことができない。それこそが人間の本質だとするならば、私たちにとって本当は死など恐るるに足りない幻想にすぎないのかもしれない。

 無論私も老いるし怪我もするし病気にもなる。そして遠からず衰えてくたばる運命にあるがそれは「私の肉体」であって私の痛みや苦しみ、滅びを意味しない。肉体即自分であるという前提や定義が苦悩の源であり、それが覆ればそれは最早問題ではなくなる。精神もまた然りである。「形而下の私」としての肉体と、「形而上の私」としての精神のどちらも自分と等号で結ばれないとするならば、それの変遷についてはもう一喜一憂する必要など無くなる。

 このアプローチによって苦痛が消えてなくなるわけではない。しかしこれにより私たちは、苦痛を被る立場からそれをただ観察する立場に転じる。私にとって心身の消耗や老衰は最早私事ではなくなり、辛苦の当事者としての立場から身を引くこととなる。私はどんな形でもなく、どんなところにもいない。私は私であることから遠ざかり、己を手放して生老病死と縁を切る。私は自身が生まれる存在でも死ぬ存在でないと気づくに至った。

 既に己の心身はともに私とは無関係だ。肉体的な死は私の消滅を意味しない。いや私は初めから無いのだから滅することはできない。存在しないものは壊すことも痛めつけることも不可能だ。私は「ない」が故に不滅であり、永劫不朽の存在だ。

 私の骨よ、私の血よ、私の内臓よ、私の肉よ、私の皮よ、私の脳よ、私の感情よ、私の思念よ、私の思想信条よ、私の霊よ魂よ、私でありながらも私と呼ぶには値しない全てのものよ。それらの全てに別れを告げる。それらはもう私ではない。

 痛みよ、苦しみよ、飢えよ、渇きよ、憂いよ、煩いよ、悲しみよ、憎しみよ、妬み恨み嫉みよ、恐れよ、虚しさよ、心の中で生じる全てのものよ、私はそれらの全てと縁を切る。それらはもう私ではない。

 自分とは無関係なものを人は大切にはしない。自分と縁のないものに固執する人間など存在しない。自分でないものならば簡単に捨てられる。私は自身の肉体や精神の変移や消滅には頓着しない。よって私は私が死ぬことを恐れないし、それの遠因たりうる全ての喪失への懸念もまた放擲できる。

 私は己に対して他人として振る舞う。私は私でありながら私に対して他者でもある。この矛盾が成り立つとき、そこには深刻さがない。肉にも心にも執着がなく、拘泥せず、シリアスのない自由と気楽さだけの境涯に私は到達する。

 恐怖を克服するには失うことを厭わないようになるしかない。そして究極的な喪失は死であり、それを超越することで本当の意味で人は恐れから解放される。富を失い、心身の安全を脅かされ、体を損ない、死に至る。その過程を恐れない人種というのは結局のところ、捨て身になった人間だ。逆に一個の人間としての「私」に固執して固持しようとする者は永遠に恐怖や不安から逃れることはなく、その者は常に死にうるし、また遠からず死ぬ。

 私の肉体、私の精神、私の痛みや苦しみ、それらの全てに対して、もうどうでもいいという姿勢、要するに捨身の振る舞いによって人は死ぬことや恐れることから解放される。恐れおののき、懸念や不安に囚われて生きることに辟易した人間は、自分自身を捨て去るという決断に踏み切る必要に迫られる。そしてそれをすることでしか畢竟、私たちは救われはしない。

 自分自身から離れ遠ざかることで私たちは死を超越し、永久不滅にして完全無欠の「何か」となる。それは仏教的な言葉で形容するなら大悟や成仏といった状態なのだろうか。それについては未だはっきりとは言えないがとにかく捨てること、遠ざかること、また手放すことは重要だということだけは確信を持って言うことができる。

ダメージ

 人間は精神的に傷を負うとき、常に能動的である。というよりも自分の心が傷ついたという思いがあってはじめて人間は精神にダメージを負う。外的な要因や他者による何らかの働きかけが決定的な要因になることは絶対にない。人間が精神的な打撃や痛手を負うときには、一つの例外もなく自らが自らを傷つけている。

 無論、肉体的な損傷は別だ。体にできる物理的なダメージは心の問題ではないし、基本的には何かによってつけられるものだ。病は気からという言葉はあるが傷や打撲などといった代物は気の持ちようではどうにもならない。体の傷と心の傷は一緒くたにされることがままあるが、これらは全く別のものであると認識されなければならない。

 人間の精神に何らかの作用をもたらすことができるのは最終的には当人のみである。他人の手によって何かをされたとしても、それは何であれ間接的な影響を与えるのみだ。それはきっかけに過ぎず、根本的には自分の認識によって人間は心に傷を負うようにできている。

 環境に敗北したと思ったときに人間は挫ける。人は自分の精神が傷つけられたと感じたときに心にトラウマを抱え込む。それらのどちらも当人自身が「自分はダメージを受けた」と認識してはじめて起こる内的な現象だ。どのような状況下でどんな人間の悪意でもって、どれほどの仕打ちを受けようが、最終的に自己が損なわれた、傷ついたと見なすことで人は心に傷を負う。

 全ては自分自身によっており、環境や他人など実は一切関係がない。私たちにとっての世界とは自分の頭の中の思考や感情が大半を占めており、少なくとも精神的に消耗したり打撃を受けたりするかは完全に己の裁量によっている。それを意識できなければ、人間は外界に振り回されて生きるしかなくなる。内面の葛藤やわだかまりの本当の原因が己にあるという視点を持たなければ我々は永遠に本質に至ること無く無用な苦しみを甘受し続けるだろう。

 肉体的な傷はどうにもならないが心のそれは自分次第で負うか負わないかを決めることができる、最終的な決定権は自分自身がどんな場合においても握っているということを肝に銘じなければならない。それを忘れたとき、人は被害者となり尊厳を奪われ屈辱を味割ることになる。内面の主導権を他人や外部に明け渡したときに私たちは社会や世間、この世界に対して敗北を喫する。「私は傷ついた」と言ったり思ったりするのはそういう意味で禁忌だと言える。

 これは自分を痛めつけるのは本質的には常に自分自身だということでもある。求めるものが得られない、忌むべき事柄が自分に降りかかる、嗜虐的な他人から損害を被る……これらの出来事を根拠にして私たちは自分で自分にむち打ち、ダメージを受けたと騒ぎ立て、己で作った傷を愛でたり見せびらかしたりしている。加えてそれを至極当然のことと見なして疑問を抱くこともなく死ぬまでこの愚行を延々繰り返しているのだ。いくつになってもどんな環境においても私たちは他ならぬ自分自身を能動的に加虐しているという事実がある。

 人間の人格や精神が繊細で傷つきやすいなどと最初に言い出したのは一体何処の誰なのだろうか。人は心に傷を負いうるという前提で生きなければならないと誰が最初に言い出したのだろうか。そうでなければならないなどという決まりは言うまでもなく存在せず、私自身そうでない方が生きやすいと思う。誰の手によっても、どんなことがあっても自分の精神は堪えるたりはしないという確信を持ってもいいのではないか。というよりももってはならないという法もないのだが。

 私はこれまで生きてきて数え切れないほどの憂き目に遭ってきた。敵となった他者は星の数ほどいたし、どんなときでも自らを被害者だと見なして常に「傷ついて」きた。しかしそれは己に自ら鞭打つような自傷行為でしかなかった。自分は脆い存在だと喚きながら自分で痛めつけて作った傷を見せびらかして自己憐憫に浸り続けた、ただそれだけの人生でしかなかったように思う。

 内面や精神という面に限れば、人間は「傷つく」ことはあっても「傷つけられる」事はありえない。人はどんな時も能動的に自らの意志や決定でもって傷つく。それを肝に銘じておけば私たちは他人の悪意や害意に翻弄されることはなくなる。それは絶対に起こり得ない現象となる。

 「お前は弱く、他人からの影響を多分に受ける存在だ」思い返せば何者かによってずっとそんな刷り込みをされていたような気がする。それは両親や教師などといった権威付けられた他者はもちろん、メディアなどを介した間接的な存在によるものから常に受け続けたマインドコントロールであった。人を馴致させるには畢竟、己を弱く移ろい易い存在だと自認させるのが一番手っ取り早いということなのだろう。

 強くある必要はないが弱いのは問題である。また、肉体が頑健かどうかは生得的に決まっているが精神が脆弱かどうかは後天的な要素による。打ちひしがれ、くじけるかどうかはいつも自分自身が判断する。それを忘れ去ったとき人間は他人に流され操作されるようになる。それだけは命に変えても避けなければならない。

 ずっと他人のいいようにされてきた。それは私が己を弱いと信じ切っていたからに他ならない。私を利用し搾取し、時間や労力を掠奪していった、あるいは目下それらをしている連中の手によって私は被害を被っているのでは断じてない。私を苦しめ辱め続けていたのは他ならぬ私自身であった。それに気づき、意識的でなければならない。自分を嗜虐している己自身の存在とその所業を。

 この段になれば最早他人などどうでもいい。己を苦しめている原因は常に自分自身だと断ずることとその姿勢を崩さない意識だけあれば十分である。その心構えさえあれば精神を損なうことはありえない。これによって人は絶対安全圏に常に身を置くこととなる。

 何人たりとも私を痛めつけることも損なうことも、害することも能わない。それを前提とするだけで人間は無敵である、心の領域に限っては。自分を傷つけるのはいつ、どんな局面においても自分自身であり、本来一個の人間の精神は絶対に他者の手が届かない場所にある。そんな代物を一体誰が毀損できるだろうか。

 己の精神を損なえるのは己のみ。外界や他者はせいぜいそのきっかけに過ぎず、自身の本質は内面にある。どんな苦境や凶事に見舞われても人間に求められるのは唯一つ、内省である。己自身を見つめる目を失わなければ人は、自身を虐待している愚行を見逃すこともなく、それに及ぶ自らの振る舞いを正せるだろう。大切なのは自分の内側で何が起こり、自分が自分にどんな仕打ちをしているかを自覚し、意識し続けることだろう。

 自分を取り巻く環境や他者から「なんとなく」影響を受けることで人間は脆弱になる。自分を弱いと見なした瞬間、人間は打ちのめされる。逆にそれをしなければ精神的に屈服することなどありはしない。そんな姿勢、態度を維持し続けることで私たちは心に傷を負うことがなくなる。

 「精神にダメージを受ける」という奇妙な現象は完全に一人相撲である。傷つく者とと傷つけられる者は同一で、それ以外の登場人物は実は一人もいない。これが人生の実相であり、私は己を後生大事に守るふりをしながら自身を痛めつけ、またその所業に自覚を持つこともしない。そして無用な苦しみに終生呻吟し続ける、大本の原因を知ろうともしないで。

 少なくとも私個人は、それに終止符を打つ。私はもう傷つかない、何によっても。

彼岸

 霊魂とは肉体を超越した自己同一性だ。人間はたとえ体が老い衰え、滅び去っても自分が自分であり続けることを望む生き物である。余人の大半は自分自身がそのままの状態で未来永劫存続して欲しい、そうであることが望ましいと思うようだ。私はそうではないが、それが一般的な人間の願望であるということは理屈では理解できる。

 死後の世界が洋の東西を問わず信じられているのもそれに付随するのだろう。不滅で無窮の自己としての霊魂が一時的であれ恒久的であれ身を置く場所が当然必要となり、それがあの世と呼ばれる所なのだろう。霊魂を信じるならばあの世もセットで存在しなければならない。どちらかがあってどちらかがないということは考えにくいのだろう。

 自己同一性への希求は肉体や物理を超えた人間にとっての強い欲求だと言える。自分が自分のまま在り続けたいという願いの大きさは考えてみれば凄まじいものだ。たとえ不可視かつ不可知な領域に属する概念や言葉を用いなくても、アイデンティティを保つために日常的に夜の殆どの人間がどれほどの労力を割き、また腐心していることか! かくいう私も自覚もないまま己を己たらしめるために数多くの骨折りをしているのだろうか。

 何故人間にとって自分が自分であり続けることが大切なのだろうか。生存上槽であるほうが好ましいからなのだろうか。自己同一性が損なわれかねない時に感じる恐怖は、どのような理由で起こるのだろうか。考えてみれば甚大にして深淵なテーマである。

 もしも肉体が滅んでも霊魂が不滅であれば、人間は死してなお自分で在り続けることになる。そして死後の世界に移るにしろすぐに生まれ変わるにしろ霊格は永遠に保持され、霊的な意味で未来永劫私は私であるということになる。その前提によって立つならば、私たちは肉体的な享楽や現世利益に固執すること無くあの世での安寧や転生した後の境遇を見越して生きることになり、信心深い生活をしなければならなくなる。霊的な見地に立った倫理や道徳はこのような過程によって成り立つ。

 しかし、仏教においては彼岸という概念がある。これは死んだ後あの世に行ったり別人あるいは別の生物に生まれ変わったりするというモデルとは全く異なる考え方である。死後の世界や転生後の待遇といった類いのものは霊的主体としての自分が肉体を超えて永続するという前提に基づく、これは彼岸と対になる言葉で例えれば此岸であろう。この世から離れても依然「我在り」という意識に拘泥し、自己同一性への執着を捨てられないならばこの世ならざる場所に在ったとしてもその状態は厳密には「彼岸」とは呼べないだろう。彼岸とは言わば悟りの境地であり、私が私である限り至ることはない。

 彼岸に至るには私であることをやめなければならない。一個人、一個の霊格としての己、即ちアイデンティティを手放さなければ例え死んだとしても此岸の域を出ることはない。私たちは己自身であることをどのような形であれ望むが故にそれに縛られ続ける。あの世も来世もスピリチュアルな牢獄に過ぎない。

 しかし、世の大半の人間にとってそれは問題ではない。世間では自己同一性への固執は物理法則のように疑問に思う余地のないことと見なされている。それを捨て去り、遠ざかりたいと願うのはよほどの奇人変人だ。そして他ならぬ私自身がそれである。

 変身願望や成長や進歩への志向では彼岸には至れない。姿形や霊的ステージといった類いのものがどう変容したところで「私が私であること」への偏執や執着という点では何も違いがなく、余人の殆どが抱く変わりたい、より良くありたいという願いはその域を出ることはない。

 それに何か問題があるかといえば、全く無い。むしろ人としての正しい在り方だと言ってもいいくらいだろう。それに疑問を抱くのは社会不適合者の烙印を押されても文句を言えないのではないか。しかし私は己が己であり続けることに何故人が固執するのか、頭では理解できても心情的には良く分からないし、可能ならば何者でもない状態を志向したいと願っている。要するに彼岸に至る道を求めている。

 だが、彼岸を望む私もまた私であり、それもまた捨て去らなければなければならないらしい。そこがこの手の分野にかぶれた凡人にとっては最大の壁となる。私は自分が自分でなくなればいいと考えているが、今の私が滅却したところで別の自分が生み出されるだけである。自分という代物は放擲しても唾棄しても心の中で無限に生み出される。どのような私であれそれが私であるならば根本的には何一つ変わらない。いかに私は無私、無我、忘我没我の妙境に到達し、それを保ち続ければいいのだろう?

 これは達するとか至ると形容している時点で望みが薄いのかもしれない。彼岸とは個我の消滅であり無念無想の状態である。しかし、そこに到達することを希求し志向する限り永遠にそれは成されないというのは何と皮肉な話だろうか。

 今生で立身出世を成し遂げ栄耀栄華を極めても、来世で恵まれた境遇に浴しても、死んだ後に極楽浄土に安住しても、「私であること」からは逃れられない。アイデンティティがどうであれ、どんな体験をどれだけ経験したところで、その一事は不変であり、それを潔しとしないならば何であれ瑣末なことだ。彼岸を望み、個我を放棄することが人生の目的ならば、生涯なにを獲得しようが死んだ後に高待遇を受けようがどうでもいい。

 自己同一性が何らかの形で担保されれば人は安心する。己を己たらしめる何かが明確であり続けるなら人は生存上様々な面で都合がいいということを私たちは本能的に知っているのだろうか。それから逸脱しようという暴挙は、人によっては全く理解できない欲求なのかもしれない。私個人としては、どんな形であれ私が私であること自体が窮屈に思えてならない。自分自身を肉体や物理の面に限らず、精神や霊魂の次元においても放下したい。しかしそれのために何かを思い、為したところで先に述べたように落第となるのだから難しい。

 しかし、何もしなければそれで良いかと言えばそうでもない。何もしないことを選び、拘れば即ち「何もしない」をしている状態となり、それにもまた執着が生じる。如何ともしがたい。それを志すことは、何者かになろうとすることや何かであろうとすることと比べて遥かに厄介な試みだ。

 完全に己を捨て去ることは個人的な目標として置いておくとしても、霊魂という概念の正体は肉体を超越した自己同一性だという見解には一考の価値はある。自分や他者の心について考察する時にこの見地は役に立ちそうである。自他共に精神活動や情緒情動の類いを分析するときには、自己同一性への執着という観点を踏まえれば深く洞察できるかもしれない。

 我々は自分自身を確立し、保持することに無意識に大変こだわる。ときにそれが様々な弊害を生み、人生を難しく苦しい旅路にする。霊的な探求や修練の最終的な目標地点をどこに置くにしても、我在りという視座に固執するがゆえに我々の生は常に困難を極めるという一事をよくよく理解し、忘れないようにすれば人生は少しは生きやすいものになるのではないだろうか。

 彼岸やそこへの道程が何であれ、我々の辛苦の根源は他ならぬ自己同一性にある。それを完全な意味で手放せなくても、それが我々に有害だということだけは念頭に置きつつ生活していきたいものだ。

完了

 愚痴をこぼしたり他人に胸中で毒づいたりするとき、人の内面では一体何が置きているのだろうか。私たちは不平不満を抱いたり、傲慢で身勝手な悪人に危害を加えられたり財産や労力を掠奪されたりすると、当然穏やかな心持ちではいられなくなるが、そんな悪感情を抱いたところで自分に何の益もないこともまた承知のはずである。何故人間は機嫌を損ねたり不遇を託ったりするだけで現状に甘んじてやむなしとしてしまうのだろうか。そうしてしまう精神の作用について内省してみたくなった。

 他人などの外的要因によって自身が窮状に置かれているとはっきりと自覚しているのにもかかわらず、何故私たちは具体的な対処をしようとも思わずに被害者意識を抱え込み自己憐憫に耽るだけで済ましてしまうのか。その理由としては、その手の情動をコンテンツとして私たちは自分の内側で「消費」してしまっていて、そういう目に遭うことを目標にしているフシがあるのではないだろうか。

 被害者として憂き目に遭っているかわいそうな自分、そしてその自己が被っている悲惨な状況とそれによって惹起する悲嘆や憎悪などといった情緒……。これらを人間は映画を鑑賞するように内心では楽しんでいる面があるのかもしれない。いや、そのように考えれば何故私たちは不遇や理不尽の中で安住できてしまっているのかという疑問をすんなりと解決できしてしまう。我ながら不本意ではあるが、自分自身思い当たるところもないではない。私たちは己の人生をまるで他人事のようにコンテンツして享受、鑑賞、消費しているのでは?

 言うまでもなく私たちは自分の人生の当事者であり主人公だ。にもかかわらず、心の何処かでは他人事のように自身の生涯を見なしている部分がある。というよりも、そうでなければどうして悲惨な境涯に「仕方がない」などと言ったり思ったりできるだろうか。私自身生まれも育ちも下の下であるが、どうにもならないと自分の人生に対して自暴自棄になるとき、思い返してみればまるでテレビゲームのなかのキャラクターでも見ているかのような余所余所しさでもって自身の生を放擲していたような感がある。

 苦しみ嘆いた時点ですでに私の中では全てが完了している。己の人生、ひいては生涯全てをコンテンツとして消費するという態度で生きるなら、そうなって当然だ。哀れな自分、可哀想な私、その惨めさをまるで遊びに興じるかのように受け止め、感じ取って、それでおしまいというわけである。それで良しとしてきた浅薄で愚鈍な自分自身の性向は唾棄されなければならない。

 苦心や煩悶、懊悩といった悪感情を堪能することがいつの間にか目的になってしまうのは何故なのだろうか。人生で如何ともしがたいことは山ほどあり、脱することができない苦境や絶望と言うものも数多ある。それらに対して自分自身の心を納得させるためのある種の防衛本能としてそのような精神的な作用があるのだろうか。被る理不尽や不条理から自分を守るため、自身の無力さを正当化するためにこのような試みが無意識の内に為されるのかもしれない。

 しかし、それによって私たちは何を得るというのか。精神的な安定など所詮は気休めにすぎない。私たちは心の安寧を犠牲にしても、己の苦境をはっきりと自覚し、それから脱するために何をすべきか考え、それを実行に移さなければならない。自分の人生をコンテツのように消費し、不平不満を抱いたり不遇を託つだけで「完了」させてしまうなど以ての外だ。

 辛苦に喘ぎ、自分の不遇を嘆くだけでそれで全てを終わりにしてしまう人間の本心はだいたいこのような感じである。少なくとも私はこれまでの人生で己を奮起扠せられなかった大本の原因がこのような精神構造に由来していると確信している。自分でも気づかない内に、苦しむことが目的となりそれによって一切が完了してしまっている。嘆き悲しむことで、自身を悲劇の主役として位置づけ自分を慰撫することが目標でありゴールとなってしまっていた。

 どの段階、どの地点でもって完了とするかで物事に対する姿勢は全く変わってくるだろう。私は最近になって、職場や家などで苦しめられている状況のなかで、自身を被害者として位置づけ己を憐れむことが目的化してしまっているのだと喝破した。思い返せば、この一事が私を足踏みさせていた。苦しみや哀しみの渦中で己を哀れみ、そこから脱却できないことを正当化して人生を空費してきた。

 苦しむ自分を憐れみ、被害者として振る舞い、そんな人生をコンテンツとして消費することが目的なら、内心では苦しみを礼賛しているということになる。仕方がないと諦められる心理の背景にはこのような自己憐憫と正当化があり、それらの根底にあるのは現状維持を図る怠惰な精神だ。それを今まで掘り下げて考えることもなく、自身の気質を直視し、向き合うこともしてこなかったように思う。

 自己憐憫のために人生を費やしてきた。それが目的であるがために私は苦しい境涯を変えようともしなかった。それどころか私は心の深いところではそれを是としていた。そのことに気づくのには、正直あまりに遅すぎた感がある。これまで自分が悲惨で屈辱にまみれた人生を好転させるために発奮できないのは自身の怠慢にあるとばかり思ってきたが、本稿で述べてきたような本当の理由や原因があるとようやく明確に知ることができたのは大きな収穫であった。

 このような視点を得たことで、自他ともに、嘆いたり悲しんだり、不平不満をこぼすだけで何もしない人間の様相への理解が一気に深まった。自己憐憫に浸る人間は己の苦しみや哀しみ、ひいてはそれらを被る自分自身をコンテンツとして享受しているが故に、それらを浴するためにむしろ率先して酷い境遇を選びそこに安住する。不幸な人種はそうなるべくしてなっているのであり、またそれは彼らにとっての潜在的な願望の発露によるものでもある。

 不幸から逃れるには、それを望まないことだ。そこがまず第一の出発点であるにもかかわらず、私たちは多くの場合、その地点に立つこともできないし、それができてないという自覚を持つことも難しいのが現状ではないだろうか。それこそが諸悪の根源であり、余人の多くが不幸せであり続ける原因であるといえる。

 悲惨や災厄を肯定し称揚する心根を捨て去るには畢竟、飽きるしかない。どんなコンテンツもいつかは飽きるように、自己憐憫への耽溺もまたいつか辟易するときがやってくるだろう。逆に言えば、心底うんざりするまで人間は苦しみを被り続け、俺の不遇を嘆き続けるのだろう。私たちが依然そうであるならば、我々は未だ苦しむことに飽きてはいないということなのだろう。

 これは偏執や依存の全般に言えることだ。私たちが何かを手放すことができるのはそれに懲り懲り、飽き飽きする段になってからだ。腹の底から辟易してはじめて私たちは何かと袂を分かつことができる。それができないならば、未だその域に達していないのである。

 悲嘆や呻吟、憤懣や怨恨、怨嗟、慟哭……それらの一切から遠ざかることが私の本懐であるはずだ。だから私はそれらに心の底から辟易していなければならないということになる。嫌気がさすまで苦しんだ自負は一応はある。だからこれからはそれを常に念頭に置き、もうたくさんだという思いを携えて万事に臨んでいきたい。あらゆる憂き目に遭うとき、それでもって「完了」してしまうことがないように。

愛と感謝

 お前には感謝する気持ちがない、と母親に2、3年ほど前に言われた記憶がある。母は私が両親をはじめとしたあらゆる他者に対して感謝の念を持ち合わせていないから、人生全般に行き詰まっているのだろう、というような趣旨のことを私に言い放ち、当時私は母の発言に不愉快な思いをさせられたのを覚えている。

 私は他人に感謝など一切しない。何故ならば、感謝というのは愛に対する返礼であり、愛は人の世には絶対に存在し得ないからだ。人間と人間との関係性におけるあらゆる営みには打算や思惑が絶対にあり、そこに愛が介在することなどあり得ない。だから愛なき世界には感謝も存在することもなく、それを念じることも口に出して表明することも有り体に言えば胡散臭い嘘っぱちの発言、挙動でしかない。

 愛は神が一方的に人間に与えるものであり、感謝はそれを受けた人間が神に捧げるものである。つまり愛も感謝も神と人間の間柄においてだけ成立するのであり、それらは人間同士で融通し合う何かではない。どんな関係性においてもどんな状況であっても、人間の間には愛も感謝も厳密はありえないのだと私は断言したい。

 私はこれまで人を愛せないことと誰からも愛されないことを気に病んできた。また、他人に心底感謝することも能わぬ自分に嫌悪の情を抱くこともままあった。しかしそれらの類いの悩みも所詮、愛や感謝という代物が人の世に何らかの形で存在しうるという誤った前提がもたらす誤謬でしかない。ありえないことが現になかったと、煩悶することは単に愚かである。無いものは無いと断じ、期待や希望を廃するのは正しい道である。そこから外れるのは迷妄の道である。

 愛は無条件かつ無制限の恵みである。それを与えられる人間がこの世の何処にいるだろうか。どれほどの聖人、大人物がそれを持ち、他人に与えるというのだろうか。私はこれまでそのような人間と邂逅したこともなければ風の噂で聞き及んだこともない。加えて、自分がそれに類する、若しくは準ずる人間であるなどとは毛頭思わないし、将来的にその手の人種に成り得る兆しなどとも欠片も持ち合わせてはいない。

 感謝はその愛を受けた上で心の内奥で惹起する感情である。愛が人間の世界において絵空事でしかないならば、厳密な意味での感謝というのもまた然りだ。礼儀礼節や便宜上感謝の言葉や態度を表明するべき、若しくはそうした方が望ましい状況というのは無論あるだろうが、その際に述べられる言葉や態度は上辺だけの見せかけだけの感謝でしかない。人の世に愛が存在し得ないように、感謝の念やそれに基づいた言動も原則ありえないと言える。

 この世の全ては有限である。時間も富も無限に持っている人間など存在しない。たとえ世界一の大富豪でもその所持金は無尽蔵ではないし、どれだけ暇を持て余している自由人でも永遠に生きながらえるわけでもない。我々は財産にしろ余暇の時間にしろ全て有限にしか所有してないし、それらの有形無形の別なく限度ある代物を他人に提供するのだから無制限だの無条件だのと言う話には絶対にならないのは自明だ。

 これは心理であり変えることも目を背けることも不可能だ。その前提を正しく認め、その上で他者に金や時間、労力の類いを提供するのだから、その際には必然的に条件や上限を設けた上でそれを行うことになる。その仔細がどうであれ、少なくとも無条件かつ無制限に無限の富、時間、労力を他者に差し出せるはずがない。それができないならそれは何であれ愛と称せられるべきではない。

 人間が他者に何かを明け渡すとき、略奪や搾取という形を取らないのであれば、それは条件付きでの提供となる。それは良くて一対一のギブアンドテイクとなる。現実にはギブとテイクは等価ではない場合が常であり、だからこそ人間関係は私たちの悩みの種となる。もし仮に労働者と雇用者の立場が完全に対等で、労働者がどんな場合においても拘束時間や労働力に見合った正当な報酬が得られるなら、我々の社会で労働を忌避するものなど相当少数になるだろう。しかし現実にはそうではなく、またそれを解決する手立てを持つ者も現状現れていないのは言を俟たない。

 世間では労働以外のシチュエーションでも等価交換が原理原則になっている取引は極めて稀であり、仮にそれが成立していたとしても、結局のところ私たちは他者から何かを引き出すには条件を満たすだけの何かを差し出すか、するかしなければならない。ギブアンドテイクという関係には愛はないし、ギブとテイクが釣り合っていたとしても、その関係性には愛などない。

 自分にも他人にも愛など決してありはしない。自分が他人に理由も打算もなく、無条件に無制限に何かを提供しようと思わないように、他人もまた自分にそういう施しなど原則しないとはっきりと認識するべきだ。そして愛がないという現実を自明で当然のことであると考え、それについて悲観したり罪悪感を抱いたりするべきではない。仮に人間以外の生き物の場合であっても、自分のことを度外視して他の個体のために尽くしたりはしないのだから、「愛がない状態」は他ならぬ自然の摂理であり、それに従って全てが執り行われる有り様について何かを思う必要など本来ないのだから。

 自分が他人に為したことを愛と称することはできるし、謝意を言葉や行動で示すことも可能だ。しかし、それらはそれであるように見せかけたり振る舞ったりしているに過ぎず、それそのものではない。装ったり見せかけたりしたところでそれは本当たり得ないのに、何故そうしなければならないのだろうか。何故そうすることに固執するのか。

 方便としての愛や感謝は世間にはある。しかし方便は方便でしかなく本質にはかすりもしない。人が生きるためには本当でないことも場合によっては有効だったり有益だったりすることはままある。しかし、そうでないならば方便に何の価値があるだろうか。それは大切でもなければ大事でもない。ならばそんなものは捨て置けばいい。無尽蔵の施しや恵みなど頭の中だけの妄想でしかないのだから。

 愛せないことも愛されないことも自然であり、それを悲しんだり罪の意識を感じたりする必要は全く無い。愛は天から人に一方的に与えられるものでしかなく、万人はそれをただ受け取るだけだ。

 感謝とはこの神と人間の関係性を意識することに他ならない。特別な儀式や供物は不要である。感謝とは愛を感じ取ることであり、恩寵や天佑を自覚すればそれで完了する。そこには難しい理屈や面倒な工程が入り込む余地など一切ない。私は天から愛されていると声高に叫ぶだけで十二分に神に返礼したことになる。

 重ね重ね言うように人の世には愛も感謝もあり得ない。それらを声高に唱え、振りかざすものは自覚があろうがなかろうが詐欺師である。我々は金銭的な見返りであれ行為であれ、代償なしに他人から何かを得られはしないのだと努々忘れないようにしなければならない。

 人格や情緒の欠落によって何かを愛せないとか感謝できないなどと考えるのは自他共に誤謬である。この世の実相を正しく見据えれば自然とそうなるのだから、そこに煩悶する材料など何一つありはしないのだ。しかしどうも世間一般でまかり通っている通念と、ここで私が述べた見解との間には著しい隔たりがあるようだ。それに絆されたり流されたりしないよう、常に意識的に生きなければならない。そんな自戒をもって本稿の締めくくりとしたい。

自由

 自由は利害得失を超えたところにある境地だ。起き抜けにそんなフレーズが前触れもなく頭に浮かんだ。それはインスピレーションのようなもので、自分でも全く想定も予期もしていないことで驚いたが、なぜだか自由という言葉や概念についてそのその時一瞬で腑に落ちたような、感得したような感じした。

 思えば私は自由という言葉を深く考えずに用いていたような気がする。自由がないとか、自由が欲しいとか、絶えず考えたり愚痴をこぼしたりはしても、そのくせ自由とは何か、と思案することに時間を割くことは殆どなかったし、戯れにそれを考えたところで、せいぜい「自分の思い通りになる状態」などといった程度の認識しか持たなかった。

 しかし、そんな次元とは一線を画す視点が私に何の予兆もなくもたらされたのだ。損得を超えた領域に自由があるとは、一体どういうことなのだろうか? これは逆に言えば、損得勘定に基づいて物を考え判断を下すとき、人は自由がないということになるがそれは果たして本当なのだろうか。これは自分でも完全には把握しきっていない感がある。

 確かに利益や得だけを追い求めるとき、人の精神には余裕がなくなる。その状態を指して自由がないと言うなら確かに一理あるかもしれない。損得に振り回されそれに囚われた状態はたしかに窮屈ではある。しかし、それの一体何が悪いというのか、という思いもある。自分の利を最優先するのは人間として当然のことではないか。

 しかし、それが人としての営みとして当然であるということとそこに自由がないという指摘は矛盾がない。それが悪であるとは言えないもののそれこそが自由であるとも明言することも能わないのではないか。欲得への固執と自由の追求は天秤にかけなければならないものなのかもしれない。

 手探りで考えつつも、朧気に掴みつつある。何かを得たい、あるいは失いたくないと執着すれば自由を失う。自由を欲するならば、得失という指標に拘泥している自分を明確に意識し、それから距離を置き、また可能であるならそれから離脱しなければならない。自由を求めるならば損得勘定から離れた視点を持たなければならない。それを成し得ないならば厳密な意味での自由はないのではないか。

 欲得に執着して何かを求めることは自由ではない。何得られなかったとしてもそれに構わない境地に達したとき、その時にはじめて人間に自由が与えられる。自由とは欲しいものがある状態でもそれを追い求めることができるということでもなく、何も欲さず、また求めていない状態を指す。

 執着が悪いのではない。何かを欲しいと願うことは自然なことではある。しかし、その思いを自己の本質と見なし、欲望と自分を切り離すこと無く完全に同一のものだと見なすとき、そこには自由がないと言うだけの話だ。自由を求めるか欲し求めるか、それらから人は二者択一をしなければならない。

 そう考えれば、自由とは万人にとって絶対の願いというわけではない。手に入れたいものや目指しているなにかを追い求めることを「自由になる」または「自由でいる」ことよりも優先することは全然おかしいことではない。むしろ「必要なものがない状態」を志向するよりも何かを絶え間なく追求し続ける精神のほうが我々が生きている社会においては一般的と言うか人口に膾炙している。何かを必要としないだの求めないだのと宣う人種のほうが少数派であり、異端であると言えるかもしれない。

 私個人としてはその方を是としたい。そのために必要なことは自分を突き動かす衝動についての明確な理解とそれに対して常に意識的であることだけだ。自分が何を欲し、願っているか。またそれはどうしても自分にとって不可欠なものかどうか。生きるためにどうしても執着せざるを得ないものは多々あるだろうし、それに対しては多少「自由」を犠牲にしてでも求めるしかないだろう。

 しかし、私たちにどうしても手にしなければならない、あるいは手放してはならないものは、どれだけあるだろうか。具体的な名言はしようもないが。それは決して多くはないのかもしれない。逆に必須でないものについては不要であると断じ、それへの執着を意識的に放棄し、自由を志向する道もあるはずであるし、それこそが今生において私がしなければならないことではないだろうか。

 利害得失を超えた境地としての自由を可能な限りで追求する。そのために必須でないものを見極め、それを手放し遠ざかっていく。私が生涯を通して完遂すべき修行がそこにはある。私が成し遂げなければならいことはその一事のみであるということが明らかになった。何かを得ることが人生の本分ではなく、実際はその真逆の試みこそが肝心であったのだ。

 休日の朝、起き抜けに得た天啓は私にとって青天の霹靂であった。それは私に自由の本意と生きる指針を授けた。私は得ることよりも手放すことの重大さを知り、また死ぬまでの間にすべき事のなんたるかを感得するに至った。無論これは頭では分かっていたというか、スピリチュアルな世界では近年よく言われていることではあるのだが。

 知識として見聞きして頭で知っているという状態と、それを腑に落とすということでは言うまでもなく決定的な違いある。前者の段階から後者に移行することがどんな分野においても思いの外難しいのだが、自由というものが何かということについての明確な答えが腑に落ちたのは私にとって大きな収穫だった。

 だが考えようによっては自由とはつまらないものだ。執着をなくせば確かに気苦労は減るだろうがその境地は楽しくも面白くもないのだろう。余人の月並みな感覚から見れば自由など案外好ましいとは言えない代物なのかもしれない。それを求めるということは畢竟変人や暇人の専売特許なのかもしれない。

 しかし、それでも一向にかまわない。重要なのは自由とは何かということであり、それを礼賛すべきかどうか、志向しなければならないのかということではない。欲望や執着に没入し、骨の髄まで耽溺するという道があってもしかるべきだし、考えようによっては面白さではその方がいいという見方もある。

 要するに欲にとらわれ自由を無くすか、それから離れるかは個人の裁量により、それの良し悪しは一概には言えないのだ。欲し、願い、望むのは大いに結構だがそれに拘泥するならばそれを明確に意識すべきで、その状態からは自由は望むべくもないと知っていさえすればいいのだ。逆にそれが苦しみのもとであると考え自由を望むならそれを試みても良い。

 漠然と自由を願い、それがあるかないかで思い煩うことが問題なだけだ。そこから脱すれば自由とは何で、それが得られるかどうかなどは重要ではない。問題の大半はその本質への無理解や無自覚であり、それが解消されればそれはもう深刻な悩みではなくなるだろう。私に今朝置きた事件は結局のところ、自由のなんたるかを明瞭に意識できるようになったというただそれだけのことにすぎない。

 損得で考えてもいいし、そこから離れれば自由がある。要約すれば簡単で自明な話であった。しかし、裏を返せばそれにこれまで気づくこともなく浅はかに生きてきたということでもある。自由という言葉は世間で頻繁に用いられるし、私自身よくそれについて思うことはあったが、その実それについて明確な定義をすることもなく、なんとなくでそれがない、得られないと悩み不満を抱いていたのはとんだお笑い草である。自由に限らず、はっきりと分からないものについて私は知りもしないで思い悩んだり煩ったりしていることが存外かなりあるのかもしれない。

人格

 自分に害をなす人間に対して私達はどのように捉えればよいのだろうか。こいつは悪人だとか、許せない奴だとか、身勝手なサイコパスだとかそのように考えたところで有害な加害者としてのそいつが消えてなくなるわけではない。

 敵を敵であると認識するとき、私たちはその対象がどんな人格を有した存在であるかということを無意識に考え想定してしまう。自分本位な人間だとか、守銭奴だとか、自分のために他人を犠牲にすることを厭わない正確だとかいう具合である。私たちは自分でも気づかない内に嫌っている相手の人格や人間性を分析し、精神や心、人格がある血肉のある存在だと見なしてしまう。

 相手に何らかの考えがあり、それに基づいてそれが自分に被害をもたらすという前提でもって自分に危害を加える他者を想定することは、もしかしたら不毛で的はずれなのかもしれない。他人の心情や魂胆など何だというのだろうか。そんなものを想定して、自分を虐げる人間について考察して何になるのだろう。

 憎むべき、許せない奴がいる。しかし、それらの感情が何故私の中で起こるのだろう。憎悪の対象がどのような腹づもりでどんな悪行を私に働いているかなどといったこを掘り下げたところでそれが一体何になるだろうか。

 問題にすべきなのは常に自分自身なのだ。悪人がどんな人間であるかなどはどうでもよい。私はなぜ奴を憎むのか。この感情の源にあるのは一体何なのか。実際、人生の中で悪党との邂逅は、そんな自省や内省のためのいい機会なのかもしれない。

 自分にとって不利益や理不尽をもたらす存在に対して人は問答無用で憎しみを抱くだろうか、そんなことはないだろう。天災などを忌避することはあっても、自然現象を憎悪する人間がいるだろうか。獣や害虫を疎む人間は大勢いるが、それらに怨恨の場を持つ人間がいるか。

 「嫌い」と「憎い」との間には大きな隔たりがある。嫌うのは自分に有害なものを遠ざけたいという思いであり、憎むのは自分に害をなす存在への被害者意識の発露である。憎しみは加害者と被害者という関係性の中で生み出される情動だ。無論それは自分が被害者であるという前提に基づいている。

 邪悪な人間が悪意によって自分に危害を加え、掠奪や搾取を企み、自分が損なわれ消耗するという思いがその根底にはある。しかし、私はそれを好ましく思わない。そんな認識を持って生きていくことで自分が救われるとは到底思えないからだ。そんな感情に支配されることで一体何か得るものが一つでもあるだろうか。

 確かに自分の欲得のために他者を犠牲にし、それを当然とし、奪われ炒め詰められる人間を嘲りながら嬉々として虐げる悪漢というのはこの世には大勢いる。私自身目下そのような人非人によって散々苦しめられ、呻吟しながら日々汲々している。しかし、悪を成す人間がどのような存在で、その精神の様相の仔細について推し量り思いを巡らせれば巡らせるその人間に対して憎悪が膨らんでいくばかりだ。

 私がしなければならないのは奴から逃れ離れることであり、それがどのようなものか知ることではない。私はこれまで生きてきて数え切れないほどの「嫌な人間」と邂逅してきたが、それらがどういう人格や精神を持った存在で、どんな魂胆や思惑にって自分に危害を加えるか、そんな被害者意識に固執するばかりだった。そのような人種と接触せず、影響下に置かれないようにするためにどうすればいいかということはあまり考えてこなかった感がある。

 自分を騙しこき使い、虐げ辱めるような人間の魔手から逃れるには、力をつけるしかない。弱者はどんな形であれ食い物にされるだけであり、弱い者は常に被害者として甘んじるしか選択肢がない。貧窮し屈辱を味わっているなら、それは自分が目下弱者であるということに他ならず、その状況から脱却できないのは力不足だからだ。これは認めたくはないが厳然たる事実である。

 自分が弱く、力がないということがあらゆる苦境の根源であり原因だと自覚しなければならない。それができてはじめて、自分がどうすればいいかがはっきりと分かる。そしてこの過程の中で自分から掠奪し損害を与える加害者がどのような人間であるかは全く関係がない。

 加害者や悪党の人格や人間性は徹底的に無視するべきだ。むしろ自分にとって害悪な人種については精神や霊魂の存在を認めないくらいで丁度いいかもしれない。他人の心がどのようなもので、魂胆や心情について当て推量をすればするほどその対象を憎むことになる。

 憎しみは他人の心を推し量るから起こる感情であるが、それが私たちに何かをもたらすことはない。憎むべき相手から逃れるためにどうすればいいか考えなければならないのに、他者について類推することに時間や労力を費やす。それによって結局私たちは何もできず、不遇を託ち被害者として甘んじて人生を無駄にしてしまう。

 相手を憎むことをやめるにはその対象の人格や人間性を想定しないことだ。他人の魂胆や腹づもりなどブラックボックスのままでよく、知ろうとしないことだ。飽くまで考えるべきは己自身がどうすればいいかだ。自分が悪漢の魔手から逃れ、害されることも損なわれることもない状況に身を置くには何が必要か、どんな行動を具体的に取るべきかだけに意識を集中するべきだ。

 悪人がどんな人間か考えるのは、皮相的なものの見方にすぎない。本質に関わることはそこには何一つない。相手の気持ちなどどうでもよく、それから以下に遠ざかるかは自分自身にかかっている。悪漢の人格や人間性を分析し理解できたところで何一つ自体は好転しない。

 憎悪とは他者に対するネガティブな理解である。邪悪な魂胆が相手にあり、悪意があって自分に危害を加えているという思いがあってはじめて人は他人を憎むことができる。私はそれに何の意味も価値も見いだせないし、またそれをしたいとも思わない。よって、私は自分を苦しめる他者の人格や精神を完全に無いものと見なし、それによってもたらされる害悪は人災ではなく、天災のようなものだと断じることとする。

 他人など問題ではなく、根本は常に自分自身だ。悪いやつがどんな存在であるか論じても憎しみが増幅するだけだ。有害な他人の気持ちを推し量ろうとする過程で生まれる害毒のようなものが憎悪である。逆に自分に危害を加える存在を無理に知ろうとしないならば、私はそれを憎むことはないだろう。

 他人の人格や精神を問題にするべきでない。相手の心を認めない姿勢が憎しみの芽を摘むことになるだろう。人の気持ちを考えましょう、などと世間ではよく言われるが自分を不当に虐げ使役するような悪党の気持ちなど考えるだけ時間の無駄だ。なによりもそれによって私の内面に憎悪や怨嗟の情が惹起されるだけなのだから、これは百害あって一利なしだ。益のない、害しかもたらさないことなどしないほうが賢明であることは言を俟たない。

 考えるだけ無駄、ということは世の中にはたくさんある。自分にとって単に有害なだけの人間の心や精神、人格や人間性などはその最たるものだ。他人の人格を問題にすれば、私は余計で生産性のない感情に囚われるだろうし、それはその悪辣な人間が私に為す仕打ちよりもよほど私にとって悪い影響を及ぼすだろう。

 自分を嘲笑し、軽蔑し、詐取・掠奪し、危害を加える人間たちの気持ち、そんなものは一顧だにすべきでない。しなければならないのはそういう手合いからいかに距離を保ち、それらの影響下から遠いところに自分が達するかということだけだ。

失敗

 これまで数え切れないほどの失敗を積み重ねて来た私の生涯は、しくじりが多いというよりもそれその物であったと言っても過言ではない。人生における全ての場面で私は取り返しのつかない過ちを犯してきた感がある。

 失敗続きの人生を振り返りながら、あり得たかもしれない成功についても思いを馳せるのはありきたりな思考の形態だろう。進路をああしておけば、就職をこうしておけば……。人間関係においてもあの時にあんな受け答えをしておけば、などといったありえないはずの成功したケースについて妄想を膨らませる。そんなときにふと思うのだ。「失敗しなかった自分、成功した自分は自分といえるのだろうか」と。

 私がもし親の反対を押し切り普通科の高校に進学し、きちんと受験勉強をしてまともな大学に入り、真っ当に就活を行い、平均的な就職をし、人並みに恋愛や結婚をしていたならば、そんな自分はもう到底自分とは呼べない赤の他人ではないか? 成功した、あるいは失敗しなかった「ifの自分」について夢想しながらこんな疑問が平行して私の脳裏に浮かぶ。そして私は自分が自分たらしめる要素として失敗は不可分であったと悟るのだ。

 成せなかったことや達せられなかった何か、結べなかった関係や訪れられなかった場所……それらが私を構成する諸物として私の自意識の中で機能を果たしているというのはなんとも皮肉な話だ。

 失敗していなかったらなら、成功していたとしたなら、そんな私は私とは呼べない。私を私たらしめるのは他ならぬ過失や喪失、あるいは被害や毀損といったネガティブな代物ばかりだ。私は生涯において何一つ得られなかったどころか、機会や可能性といった類いのものを失うばかりであったが、そのような事実こそが己それ自体だった。

 つまり、私という存在は無価値で、私の人生は無意味だと結論付ける他はない。そしてそんな代物について深刻に煩悶や懊悩を重ねてきたこれまでの自身を顧みれば滑稽この上ない。ゴミ未満の値打ちしかないものを必死になって護持してきた自分のバカバカしさ! 鏡に写った自身の像を指差して哄笑してやりたい思いだ。

 自分自身の無価値さや無意味さを認める時が来た、今になってそう思う。気休めの慰めなどよりも、現在に私には己の馬鹿さ加減を一笑に付すことが却って救いになるだろう。失敗こそが自分の本質であると断じたその瞬間、生活におけるあらゆる好ましくない要因や結果が何の脅威にもならなくなる。根本が間違いならば、その上になにが来ようともそれは問題ではない。どうせ大した人生ではないし、私は無価値で無意味である。そういう視座を失わなければ、私はどんな憂き目に遭ってもそれを問題とは見なさないだろう。

 これはある意味ではペシミズムであるかもしれないが、そこから立脚してはじめて見えてくる境地もあるのではないか。安直で気休めにしかならない前向きな言葉や思考や、綺麗事で糊塗された詭弁やでっち上げの大嘘にすがるよりは、絶望する方を私は選びたい。私は自分自身に絶望し、望みを断つことで新しい視点を得ることを志向したい。要するに故意的に一度どん底まで落ち、そこから這い上がるのではなく、底が抜けるまで極めたい。絶望の底が抜けたときに見いだせる何かこそがほんとうの意味の希望なのではないか。漠然とではあるがそんな風に思っている。

 自身の本質や自己同一性の根本が失敗や喪失ならば、損なうことや失うことを恐れる意味や必要はあるだろうか。それらを恐怖するのは「価値ある自分」や「意義ある人生」といった幻想を捨てられずに固執するからだ。何故己に値打ちがあるという前提で物事を捉えるのだろうか。そんな根拠や必然性が一体何処にあるというのだろうか。私に価値など無く、人生に意味などない。それで何の問題があるだろうか。

 失敗を恐れるのは自分に無条件に価値を見出しているからだ。人生は本来有意義であり、そうでなければならないという前提で生きるから、人は「人生に失敗」しうる。それらがはじめらから無価値、無意味なのだとしたら、一体何がどうやってそれらを台無しにできるだろうか。

 ないものは失いようがなく、損ないようがない。人生即失敗ならば、そんな人生ははじめから失敗のしようがない。何かに失敗したと思うとき、自分の中の前提を明確に意識するべきだ。そしてその前提が狂っている、間違っていると知ったとき、人は犯した過ちを悔やんだりしくじった自分を責めることもなくなる。

 本当は何事も失敗しようがない。首尾よくいけば、しくじることがなかったならば、こうなるだろうとかこうならねばならないという仮定は何であれ私たちを苦しめる。私はそれによって無駄に生涯を浪費してきた。私はずっとそれが嫌だったし、それによって苦しむことから救われたかった。

 私は成功を望み失敗を忌避し恐れた。だがしかし、それは迷妄に他ならなかった。自分は何かを得うる、成しうる存在であるのに、そうならないことを悔やんできた。前提としての考え方が根本から間違っていたとも知らずに! 私は価値があり、人生には意味があるのに、それが諸般の事情によって損なわれたという誤謬こそが私にとっての心労の根源であった。

 失敗、被害、喪失など被りようがない。もともと人間には失うものなど何一つありはせず、本質的にはどんなものも得ることはない。この世に何かを携えて生まれてくる人間がいるだろうか。また、何かを携えたまま死んでいく人間がいるだろうか。一人の例外もなく人間は空手で生まれ死んでいく。その過程で何を浴し何を被ろうとも、それは一時的なものでしかない。成功や栄達、獲得も所有もなんであれ皮相の、上辺だけの代物でしかない。そこに「ホント」はない。

 そんな私たちが一体何に失敗するというのか。何かを有ると見なした瞬間からそれを失いかねないと人は憂い始める。それは絶え間なく人を苦しめ、我々の生を困難なものにする。現に私は常に失敗や喪失を懸念し、恐怖し、煩悶し呻吟してきた。損なわれる可能性がある自分というセルフイメージがその原因であった。そのことに気づき、それが間違いだと思い至るまで、私はかなり長い歳月を要した。

 「失敗した」という文句は傲慢さを孕んでいる。本当は首尾よく恙無くいくはずだったという無根拠な前提がそこにはある。そんな奢りが結局のところ自分自身を痛めつける。尊く掛け替えのない「私」が毀損され台無しになった! そんなことを大っぴらに言う人間がいたら、思い上がるなと一喝されるだろう。害されうる、損ないかねない私を念頭に置き、それを掲げることは本来恥ずべきことだと言える。

 過去犯した失敗への後悔や、将来それを犯しうることへの不安や心配はとどのつまりは鼻持ちならない自惚れなのだ。そんなものが自家中毒のように人間を苦しめる。言うまでもなくナンセンスである。私は失敗できる人間だなどと公言することは重ねていうが恥ずかしい。

 私は過去現在未来において失敗のしようがないと断言する。元来人は徒手空拳で生涯を貫徹するしかなく、また何かを得たとしても何であれそれは暫定的なものでしかない。それが手にできなくても、不意に失っても、私はもうそれを問題だとは思わない。私という存在がしくじる可能性はどんな局面でもゼロであり、私は何も失わず損なわれず、害されることもない。だいいちそれは天地がひっくり返っても不可能なのだ。

人生

 人生失敗した。この文句を生まれてきてから何度吐いたか分からない。口に出さずに頭でこのフレーズを思ったことも回数に含めれば、何千何万という回数になるかもしれない。しかし、そもそも人生とは一体何なのだろうか。そんな大本の疑問を抱くこともなくただ闇雲に人生人生と愚痴り念じてきたような感があり、よくよく改めて考えてみれば甚だ奇妙な話である。

 人生とは生まれてから死ぬまでの間のことだ。それに対してやれ失敗しただのしくじっただのと寸評するのは滑稽である。それがどのような内容であったとしても、それが成功したか充実したかなどと考えること自体がナンセンスだ。そもそも成功した人生とは一体どんなものなのか。生きてから死ぬまでに何を得て、何を経験すればそれが満ち足りたものであるといえるのだろうか。

 第一満ち足りる必要などあるのだろうか。それが果たされないから心が満ちず、私は不本意な人生を送っているとずっと自分でそう思ってきたが、それが今日になってバカバカしく思える。自分が経験したことを過去現在未来という時系列において並べ、あれが良かっただのこれが悪かっただのと言って、それの総体を人生と呼び、それが成否を自問自答するというのはなんという不毛な営みだろうか。

 人生とはシリアルな出来事の羅列に過ぎない。それがいいか悪いかではなく、それはただ単にそれでしかない。それのクオリティがどうであれ、それは自分自身とどこまで関連があるだろうか。自分が歩んだ人生を自分それ自体だと見なすから人生の質や内容について煩悶することにある。私が送ってきた人生と「己自身」は完全に同一であるという前提は一体どこから来るのか。それにどれだけの正当性があるというのか。

 そんなものはない、今となって私はそう断言できる。「私という個人の人生」と私が何者であるかは実は何の関連もない。私の生涯がどんなものであろうとも、それは「私それ自体」を指し示すものではない。仮にもし私が自分の人生を始めから終わりまで全て望み通りに完遂でき、望んだ経験を全て願望のままに体験し尽くしたとしたならば、その人生と私は等号で結び付けられるかもしれない。しかし、現にそうではないし、そういう意味で「満ち足りた人生」を送った人間など恐らく有史以来誰一人存在していないのではないだろうか。少なくとも自分がそうでないというのは絶対的な事実としてはあるので、私にとってはそれで十分である。

 生まれ落ちる町を自分の意志で選べる人間がこの世にいるだろうか。両親を誰にし、どのような教育を施されるか、完全に望みのままに誂えることなど言うまでもなく不可能だ。生まれや育ちといった人生における背景となる要素は、誰にとっても本意でないものだろう。私がどんな町に生まれ、どんな家庭で育ったかについて事細かく述べる気はないが、それらはどれも私にとって望ましくも好ましくもなかった。土台が不本意なものにどうして満足や納得できるだろうか。

 無論この世には幸福な人生を送る人間もいるだろう。多くの愉悦に浴し快楽を貪るような満ち足りた生涯を満喫する人種もいるのかもしれないが、自分自身がそれでなく、将来的にも絶対にそうはならないと確信を持って断言できるならば、それの実在性やそれについての詳細など何の意味も持たないだろう。私は私の人生になんの意味も値打ちも見いだせない。ただその事実が厳然としてあるだけだ。他人の幸せなど全く無関係である。

 しかし、それが何だというのだ。自分の人生に愉悦や楽しみがなく、他人のそれにおいてはそれらが満ち満ちていようと、それが何だというのだろうか。だからどうしたの一語でそれは終わる話だ。そもそも先に述べたように、人生と自分を同一視することが問題の根本であると断じた時点で、一個の人間としてどのような人生を送ってきたか、また送るべきだったかなどは瑣末事だ。それの詳細について一喜一憂する段階はもうとうの昔に過ぎ去ったのだ、私の場合。

 人生という枠組みから脱することだ。それが成されればそれから人は解放され、自由になる。私の本当の願いは良い人生を送ることではなく、時系列に則った出来事の陳列に過ぎない「人生」と自分自身を切り離すことにあった。今はそれがはっきりと腑に落ちている。

 私たちは人生という枠の中に閉じ込められている。これは言うなれば生まれながらの幽閉状態であり、私たちは自分が虜囚であるということにも気づかずにぼんやりとした意識で生きている。私たちは人生と名付けられた枠組みに囚われた私たちはその中でどう過ごすか、牢獄の中をどう飾るかといったことに頭を悩ませ、他の房の囚人と比較して自分の独房の良し悪しを判断し落ち込んだり思い煩うのである。

 なんという滑稽なことだろうか。しかし、多くの人は自分が囚われた存在であるとは夢にも思わず、監獄の中で生き続け、死んでもそれに思い至ることはない。たとえどれだけ快適な環境であったとしても牢屋は牢屋である。宮殿のような造りだったとしても、刑務所は刑務所であることに変わりはないのに。

 囚人として満足して生きる道もあるのだろう。模範囚として充実した生もありかもしれない。しかし私自身はそれを望まない。それは私が身を置く「牢獄」が好ましくないから他人のそれを羨み負け惜しみで言っているのではなく……、いやそういう思いももしかしたらないではないかもしれないが、ともかく私は「出る」ことを望んでいるのは確かであり、これだけは確信を持って言える。

 私たちは自分が歩いてできた足跡や運転した車が作った轍を自身の片割れや己の一部だと見なすだろうか。人生にも同じことが言える。何度も述べるが生きてきた軌跡は単に軌跡に過ぎず、それ以上の意味合いなど本来は持たせようがない代物だ。そんなものに自分自身を投影して託すから人生のクオリティの是非について懊悩するハメになる。足あとは足の延長ではなく、車の通り道にできた溝は車のタイヤと同じにはならない。それと同じことが「私と人生」にも言える。

 よって、これまでのこともこれからのことも私には無関係だ。もちろん余人はそういう姿勢にあれこれ物言いをつけるだろうがそれもまた私にはどうでもいい。これは開き直りではなく、自身にとって不必要なものをただ手放し、別れを告げるだけのことだ。不要なゴミやガラクタでしかないものを後生大事に掴んで離さないどころか、それが自分の一部だと見なすようになった愚かな異常者、それこそがこれまでの私だった。私は単にもうそれをやめる。

 自分自身について語らなければならないとき、私は自身の人生について言い及ばなければならいこともあるだろうが、その時はその時に応じ適宜その時だけそれについて語るだけでよい。頑なに人生というパラダイムを拒絶する必要もまたない。己について語る上でそれが便宜の上で有益であるならば私は依然それに頼るだろう。しかし、もうそれは私と同一でもなく、私の本質を表すものにはなりえないのだ。

 私において人生は終わった。他人にとってはどうであるかは知る由もないが、重ねて言うがそれはどうでもよい。私は私の人生にただ「さらば」と言うだけであり、それだけで十分なのだ。この段になり私は、人生や生涯と称される重荷を下ろすときがようやく訪れたのだ。これは大変喜ばしいことだと言える。何よりこれで楽になる。少なくとも苦しみは減るだろう。

問題

 私はこれまでずっと自分が問題を抱えて生きていると思ってきた。自分は数え切れないほどの問題を解決あるいは克服しなければならず、それが果たされないから自分は不本意な人生を送っているのだと考えていた。しかし本当にそうだろうか。私は「問題を持って」いるのだろうか。

 これは私と問題が別々に存在しているという前提に基づいた認識である。しかし、これらを分けて考えていることがそもそも間違っているのではないかと今日脈絡もなく思い至った。自分自身と問題の2つは実は不可分なのではないか、と。

 自己のアイデンティティとは即ち問題それ自体であり、自分が自分であることと問題を見出しそれと奮闘することは同じなのかもしれない。労働中にふと、問題を抱えている状態が己が己であることの証明となっているような気がしてならなくなった。強制的に苦役に従事している最中で、仕事上の問題と格闘している只中にあって前触れ無くそんな仮説が思い浮かんだ。

 私の人生には目下数多くの問題がある。それは貧困であり、以前自身の胸中で消化しきれてないな過去への後悔と解消できない未来への不安、将来性が全くない下層階級の賤業に従事し続けなければならない絶望的な状況に対する不満など、数え上げればきりがない。しかし、それらの問題の全てが考えようによっては自分を自分たらしめている要素の一つ一つではないかと。私は貧乏で孤独で不遇を託ち、低賃金で割に合わない仕事をして限りあるかけがえのない人生を消耗している。しかし、そんな問題が仮にもしある日突然雲散霧消してしまったら、私は何を持って自分が自分だと確信を持って自他に誇示できるのだろうか。労働の最中、そんな疑問が脳裏にかすめた。

 自分にとって好ましくないから問題は問題であるにもかかわらず、それが自分自身の本質かもしれないとは! それは受け入れがたいことのように思われたが、そう解釈すればいろいろな事柄が腑に落ちるような感じがした。私は問題を解決したいと本心では実は思っていないのではないか? 生きている間にあれやこれやと問題を見出し、それらをあげつらいああでもないこうでもないと悪戦苦闘しているような風を装い、実のところそれが自分が自分であることの証としてはいないか。自己のアイデンティティとして抱えている問題を実は利用しているというか、自分を自分たらしめる「問題」を常に躍起になって血眼で探しているのが実際の所ではないか? 自分が頭を悩ませている種種雑多な問題は実は自分自身について言及するための道具にすぎないのではないか?

 もしそうだとしたら滑稽である。自分が自分であることの証明として本心では問題を求めていたのだから。常に人生は問題ばかりであると思ってこれまで生きてきたが当然だ。私は腹の底では問題を携えて生きることを常に欲していたのだから。問題の本質は問題を望む心それ自体であった。そう思えば私の生涯は、自分を自分たらしめるために直面すべき問題を常に追い求めた、実に不毛なものであったと思う。

 これは自分自身をどう定義するかといっ自己へのアイデンティティにも関わる。何故なら、深層心理で問題を抱えることを渇望しているならば、問題とは人間にとって己の本質であり、問題即自分という図式が成り立つからだ。何によって私は私であると言えるのか、そんな月並みでありながらもシリアスで重大な疑問への答えの一つとして、問題こそが自分そのものだ、というものが挙げられる。

 問題とは自分に本来なら良くないものであるはずだ。しかし、本稿に於いては「汝それなり」という結論が出つつあるのだから、書きながらも我ながら奇妙に思われる。自己の本質が自分にとって好ましくない状況や事物、事象に他ならないという大きな矛盾をどのように捉えればいいのだろうか。

 辛く苦しく、嫌だから問題は問題であるはずなのに、それが自分自身の根源であるとしたならば、それは私が私であることがそもそも好ましくなく、自分自身とは手放してもよい、いやだきして然るべき代物なのではないか? そんな思いすら湧いてきてしまう。自分でないもの、己を取り巻く何かが悪いのであって、それをなんとかしなければならないという観点が転換され、自分自身それ自体こそが問題の核心であったと私は今まさに知りつつあると言えるのかもしれない。

 この視座を保った生き方は、何が問題でありそれをどのように解決するかといった古式ゆかしい取り組みとは全く異なるものとなるだろう。どんな困難に直面しても目を向けるべきなのは自身の内面ということになる。原因は常に己自身の中にあり、自分に拠らないものは全て皮相に過ぎない。目を向けるべきなのはどんな局面においても私なのである。一見理不尽で自分には何の非もなく感じられたとしても、それは上辺や見かけに於いてそう思えるだけのことなのだ。この視点は厳しいが革新的である。

 問題が問題でなくなるとき、私自身もまたなくなってしまう。それを喪失であると見なす限り、私たちは無限に問題を生み出しそれを抱え続け、そしてそれゆえに苦しみ続ける。それから逃れる一つの道は己を捨て去ることだけである。自分即問題で、それが嫌ならばそういう結論に至るしかなくなる。

 私は掛け替えのない存在であり、それを害する何らかの問題ががあるという前提を放擲しそれを単なる誤謬として切り捨てる。その先にあるのは無我、忘我の境地であろう。我を忘れたところに本当の愉悦や至福がある。一切の問題から解き放たれ、「我あり」という軛から抜け出したい。それが今の私にとっての望みである。

 抱えている問題の質や量がその人が何者であるかを表す。しかしだからこそ、何者かであることをやめるとき、どんな問題であれ消え失せる。それによって何かが変わるわけではない。自分自身の内面ですら何ら変化がないかもしれない。しかしそこには気づきがある。問題と自分が不可分であり、それらが何故生じるか、それへの気づきが私たちに冷静さをもたらす。煩悶や呻吟ではなく、自身やそれを取り巻く全てに対する冷徹に洞察するとき、私たちはそれが必須でも不可欠でないということを知る。そして、それだけで十分なのだ。特別なことをする必要など全く無い。

 自我は問題なくしては存在できず、私とは問題そのものである。究極のソリューションは自分自身から自由になることであり、自己を手放すことによってのみそれは可能となる。問題は苦しみでありそれの源は私たち自身の本質であった。よって苦しみの源を立つには私たちは私たちであることに拘泥してはならない。

 それに躊躇いがあるなら、それは即ち苦しみや煩いに実は辟易していないのだ。それへの躊躇は辛苦や煩悶を実は拒んではいないことの現れである。我が強い者は内心問題を抱え込みそれにより苦しむことを望んでいる。表向きでは自身を悩ませる諸事に嘆き悲しみ、嫌そうにしていてもそれは自己憐憫であり、それは彼にとって実は理想なのだ。

 しかし私はそうではない。巷の他人が自己とそれを悩ませる問題についてどう見なしていたとしても無関係だ。私個人はもう問題に取り組むことも「我あり」という思いに囚われることもたくさんだ。苦悩や煩悶からはもういい加減に別れを告げたい。そのために必要なのは何かに対しての行為ではなく、ただ「さらば」と一言言うか思うかするだけで十分なのである。

魂という牢獄

 スピリチュアルな分野においてよく唱えられる世界観の一つとして、人間は霊格を向上させるためにこの世に生まれてくるのであり、この世界は人間が冷静を成長させるための修業の場として創造された、といったものがある。これはその世界で名高い様々な人間が提唱する説で、この世や人間が存在する意味や私たちが生きている間に経験する辛苦に対する理由付けなどの観点から見て矛盾のない言説であるように思える。この思想により生き死ににまつわる一切に対して腑に落ちた状態で生きることができるだろう。

 しかし、霊的ステージを上げ、魂を成長させるとして、その最終的な帰結はどのようなものになるのだろうか。肉体を超えたところにある自己同一性や主体性といったものが霊魂だとするならば、それを無限に向上させ、進歩させていったその最終的に何がどうなるというのだろうか。スピ系ではより高次元の世界に行くとか、人間以上の髪に近い存在に転生するだとか色々な説が唱えられているが。結局のところどれも放言の域を出ないだろう。それらを鵜呑みにできるほど私は純粋ではなく、またそうなるべきだとも思わない。

 この世は修行の場であるという仮定や想定(設定と言っても良い)を前提として生きることに対しては特に反対する気はない。とどのつまり、自分やこの世界の存在意義や被る苦しみに対してどのように理解し、納得するかと言う話である。そのためにスピリチュアルな世界観を持って生きることは悪いことではない。むしろ虚無主義に堕するよりは信心深く生きたほうが建設的で人畜無害な生き方ができるだろうし、それは社会的に善ですらあるだろう。しかし、私個人はどうにもその世界観には首肯しかねるのである。

 霊魂という概念は、肉体を超越しても何らかの形で「自分」が保たれるという前提があって成り立つ。しかし、自分が自分であり続けるというのは私にとって必ずしも好ましいとは言えない。何故人は一個の人間であろうとするのか。過去現在未来において揺るがない自己と言うものを携えて生きていくことに、なぜ余人は窮屈さを感じないのだろうか。

 日常的な感覚や理屈の中に限って言うならば、それはかくいう私も「自己同一性」というものを否定することはない、というより不可能である。「昨日の俺はこう言ったが、今日の俺は昨日の俺とは別の人間だからそれは無効だ」などといったセリフを吐く人間には真っ当な社会生活は営めないし、最悪正気を疑われかねない。生きる上では「私は私」という前提を世俗的な領域や次元においては無視することはできないし、またするべきではない。

 一個の人間としての己であるという認識や時間の流れの中でも自分自身は損なわれずに同一であるという前提が私にはもう嫌なのだ。何故私は私なのか、何故そうでなければならないのか、そんな疑問が近頃頻繁に脳裏をよぎる。前述のとおり、実利や世俗的な必然性から言って、自己同一性は保たれなければならない。それは「正気」であることと同義であるし、それができない者は遅かれ早かれ社会から隔離されてしまうだろう。言うまでもなくそれは私にとって本意ではない。

 しかし、必要に迫られない状況においては、それを手放してもいいのではないか。俗世においてうまく立ち回り、生活を維持しなければならない場面においては私が私であることは避けられないとしても、この世界をどう見なすかや自分自身の存在意義を何とするか等と言った「戯言」と言っても過言ではないようなトピックを取り扱うような局面において、自己同一性という必要悪からは開放されたいと私は望む。

 余人はどうもそうは思わないようだ。ことに精神世界の類いに傾倒するような人種においては尚のことそうであるらしい。確固たる自分が肉体を離れても頑として実在し、それを向上・進歩・発展させていくというモデルがまるでこの世の真理であるかのごとくスピリチュアル系の界隈では盛んに喧伝されている。永劫に盤石な自分自身というものを携え、この世でもあの世でも、どんな世界においても己が己であり続けるのが当然だという認識が蔓延している。それがどうにも私には性に合わない。

 霊とは肉体に拠らない自己だ。肉体はいずれ年老い滅びるがそれとは無関係な不滅の自分が存在して欲しいという願望が人間にはある。そんな望みを叶えるために生み出されたアイディアが霊魂の正体である。それが実在するかどうか、仮に実在するとしてそれは一体どのようなものであるかどうかは生者には知りようがなく、当然私自身もそんなことは知らない。要するに魂とは不可知である。

 不可知のものをどう捉えるかは各人の勝手だ。各々の主観の中で、その実在性やそれが具体的にどのようなものであるかは如何様にもなりうる。それは畢竟、当人にとって最も都合の良い形で解釈されるというだけだ。不滅の霊魂がどんな次元のどんな世界でも確固たる実存を保ち、それが極楽のような環境で至福に浴すだとか、地獄のような所で辛苦を被るとか、あるいはこの世に何度も生まれ変わり、様々な事柄を経験して成長するだとか、説の違いはあれどそれらは唱え信奉する人間にとって都合のいい前提に依って定められると言う一点において共通している。

 仮に霊魂が存在していないと見なすとしても、それもまた見なす人間にとってそれが都合がいいと言うだけのことでしかない。肉体を離れた形で自己が存続するかどうかなどということを考えるの事自体がそもそも馬鹿らしいという思いもあるかもしれない。魂が不在であると考えるのはその方が自身に益するところが大きいという実利的な視座が根底にあり、それが存在するとした方が利が大きいとなればそのような人種もまた自身の霊魂の存在を容易に信じ込むだろう。

 つまり、人間は己に都合の良いことを信じ、それを事実や現実であると認識する。人間は万人がご都合主義で森羅万象を捉えているに過ぎず、それは己自身に対しても例外ではない。霊魂の有無やその詳細についても、それを語る当人にとっての願望の投影にしかならない。そこで問題になるのは、私個人は霊魂、ひいては自分自身のアイデンティティがどのようなものであれが好ましいのかということである。

 人間は見たいようにしか見れず、知りたいようにしか知れない。知覚や認識の前には願望というフィルターがあり、それのほうが物自体よりも人間にとっては重要となる。しかし人間はそれを自覚することができない。言うなれば人間は無自覚な欲望に振り回されて物事を見聞きし、頭の中だけの絵空事をこの世の実相だと信じて疑わない迷妄状態で生きているとも言える。

 何かを知り、解釈し論じる前に、自分が腹の底でどんな望みを抱いているかをはっきりと自覚しなければならない。それが明らかになれば自身にかかっている認知の偏りがどのようなものでその程度がどれくらいのものであるかをはじめて知ることができる。形而上形而下の別なく、一切について知り考えることは自己への探求に繋がる。それこそが知的活動の本懐であり最終的な到達点である。

 霊魂の実在や時間や肉体を超越した自己同一性への捉え方や見なし方は、とどのつまりは自分自身がどうありたいかという単純な簡単な問いに帰結する。私はそれらについては単なるしがらみと感じず、それからただ自由になることのみを欲している。霊格の向上や霊的ステージの向上、死後の救済などといった霊魂がどのような処遇を受けるかなどはどうでもよい。むしろ私はそれからの解放を望む。肉体が滅んでも私が私であり続けるという世界観は私にとって自分が永遠の虜囚であるかのように感じられる。私が何者であったとしても、私は私から逃れ解き放たれることを望んでいる。それだけははっきりと分かる。

人類皆無価値

 誰しも皆等しくに価値がない、これこそが真の平等である。自分自身含め、この世に尊い存在など誰一人としていないのではないか、最近ふとそう思うようになった。この世界になにがしかの価値のある人種が何処かに存在しているという仮定や前提は人間を単に不幸にするだけなのかもしれない。尊く貴い、値打ちのある「なにものか」という幻影のような存在に、これまで私は知らぬ間に苦しめられてきたような気がする。これは大変馬鹿げたことだ。

 思うに、対人恐怖症という奇妙な精神的な疾患の原因もこのような迷妄によるものなのではないだろうか。無闇矢鱈に他人に価値があると見なし、その「価値ある他者」からどのような評定がくだされるか戦々恐々としている人間が患う病がそれであるように思えてならない。私自身もまた他人を過剰に恐れながら生きてきたが、何故他人を恐れるのかという根本的な部分を考えもせず、闇雲に関わる全ての他社に対して怯えすくみ、恐れるばかりであった。他人の目や評価を気にするのは他者という存在が無条件でなんらかの価値を有していると思い込むからに他ならない。

 この世にいる全ての人間に価値がないとするなら、どんな理由があって私たちは他者を恐れるだろうか。男も女も目上も目下も、親も子も、一切の生きとし生けるものは皆平等に価値がないとするなら、何物も恐れるいわれなどないということになる。会社のなかで上役の評価を恐れるのはその人物が自分よりも価値があるという前提があるからだし、女に対して恐怖心を抱くのは女から嫌われることを懸念してのことであり、その大本にあるのは異性に対して無条件に価値を見出しているからに他ならない。

 これらは根本的に間違っている。自分も含めてこの世に生きてうごめいている万人には無条件に確保された価値などない。誰しも何らかの値打ちが生まれつきあるという誤謬こそが単に恐怖心を抱く原因である。それを克服するには、万人が無価値な存在であると断ずるのが最も効果的である。無論それは自分自身にも当てはまるが。

 価値のない人間に嫌われたり見下されたりしたところで何のダメージもないだろう。自分と比較して同等以上の相手にこれらのことをされれば私たちは精神に打撃を受けるが、何故そうなるかという理由は先に述べたとおりだ。これを避けるには人間という存在は皆例外なく価値がなく、尊い者など地球上に誰一人存しないという前提を崩さずにこの世を渡るより他はないのだ。これ以外の解決策を少なカウとも現状私は知らない。

 これは他人を蔑むとか侮るという話ではない。価値がないと見なすのは存在価値の否定等といったものとは全く異なると断言した。ただ単に万人は価値が「ない」だけであって、嘲りや貶しをする根拠があるというわけではない。この違いは決定的ではあるが、言葉で説明するのはもしかしたら難しいかもしれない。単に無価値であるということは軽蔑や嘲笑の念を抱く理由にはならない。

 価値が「ない」というのは事物に対するニュートラルな見方でありそれ以上でも以下でもない。ただ必要以上に他人に対して畏まる必要がないというだけの話である。他人を恐るるに足る存在であると無闇に買いかぶるせいで対人関係の無用な苦しみンを我々は被っているように思える。私はこの手の心労にはもういい加減辟易しているし、世間一般の社会通念がどうであろうともうこの前提を手放して少しでも生きることを容易にしたい。

 万人が無価値であるならば、自分自身もまた然りであろう。自分自身を高く見積もることでも精神は苦痛を被る。「価値ある私」と言う前提を持ってしまえば、それがいずれどんな理由にしろそれが損なわれる可能性が付いて回るだろう。己が損なわれるという不安や懸念がまた内心に恐怖を生み、それが我々を常日頃苦しめることになる。自分が価値ある存在だと思うこともまた辛苦の源となる。

 自分自身と言う存在が無価値であるならば、我々は己を損なう懸念から解放されるだろう。ないものをどうやって失えるだろうか。価値という尺度から解き放たれてはじめて人間は捨て身にも空手にもなれる。外的な要因でどれだけの憂き目に遭ったとしても自己が損なわれることなど絶対に有り得ないという確信。これこそが私を救済する境地だと言えるが、どのようにしてこれに達すればよいか。

 簡単だ。価値という概念それ自体が単なる妄想にすぎないと見向きさえすればよい。価値の有無や多寡などというのは人間の頭の中だけで便宜的に存在するものでしかない。それは実存のない妄想に過ぎず、我々は実体を持たない幻影のような代物を後生大事に抱え込んで生きていると言っても過言ではない。

 それがまるで無意味だとまでは言わない。私達が生きていく上で、要不要の峻別を持つことは絶対に不可欠であり、それを行う上で価値という尺度で万物を断ずることは生きている限り避けることはできない。しかしそれは飽くまでやむを得ずしなければならないことであって、しなくてよい場合でも常にそれに固執しなければならない義務など我々は背負っていない。例えるならば、定規は必要な時にのみ手に持つべき道具であり、そうでない場合は手放して何処かにしまっておけばいいだけのことだ。

 長さを測らなければならない時には定規が必要であり、重さを量るなら秤が必要だろう。しかし、重さや長さが問題でないとき、それらの道具も長短や軽重の概念も無用となる。それらはただ有効に活用するためだけに存在するのであって、それ以上の何かにはならない。価値という代物も物事の重要さを見極め判断を下す場合にしか有用でないのだから、それが必要なときにだけ用いられるべきだ。逆に言えば、それが必須でない局面においては捨て置いてよい。

 他人を値踏みし、どのように対応するべきか考えなければならない局面というのは大して多くはないはずだ。他者をどのような基準で評価し、優劣や美醜、貧富などといった観点から自身と比較して相対的にどうであるか分析して判断を下すことが「絶対に避けられない」状況とはどのような場合だろうか。それは仮にあるとしても相当稀ではないか。稀であるならば、基本的にはそれはしなくて良いと言ってしまった方が妥当ではないだろうか。

 ましてや自分自身対して価値があるかどうかなどと、それについて考えなければならない状況など本当にあるのだろうか。少なくとも他者に対しては人間関係を円滑にする必要性などを加味して、ある基準により誰がどれだけ価値があるかどうかといったようなことを考慮しなければならないこともあるだろうが、こと己に対しては価値などあろうがなかろうがそんなことはどうでも良いではないか。

 と言っても他人に対しても相手の貴賎などどうでもいいことがほとんどであろう。他者を見誤ることが致命傷となることは通常生きていてまずありえない。他人がどれだけ価値が高く優れ、美しかったとしても、それが私自身にとってどれだけの意味があるだろうか。どれだけ尊い存在に対しても、私自身が自分の中で価値がないと思えば、少なくとも私にとってその相手は取るに足らない。

 誰しも皆平等に価値がない。それを見失わないようにした。よって何者からのどんな評価や評定も恐れる必要など全く無いと断言できる。また、己もまたハナから価値がないから、貶めることも損なうことも傷つくことも絶対に有り得ないのだと今この段になって私は確信できる。

自己責任

 自己責任という言葉は大抵否定的な意味で使われる。苦境に陥っている人間に対して、その艱難の原因をその者自身に拠るものであると見なすとき、「お前のせいだ」というニュアンスで自己責任という言葉が盛んに用いられる。それは様々な場面で見られるだろうし、その言葉は大抵攻撃的な意味で相手に投げつけられる。

 私の人生もまた自己責任の一言で片付けられるのだろうか。生まれも育ちも悪く、経済的な事由により普通科の高校に通う機会すら無く、卑しい職業にしか就くことができずに社会の底辺を這うだけの人生を送ってきた私の生涯は自己責任という一言で表されるのだろうか。だとしたらそれは私にとって残酷な事実の突きつけとなるだろうか。

 しかし、一切が自分によるというのはある意味で望みがあると言えなくもない。問題の原因が自身によるものだとするならば、己の決断や行動によって状況が好転しうるということになるからだ。自力でなんとかなる余地があるならばそれは喜ばしいことであるといえるかもしれない。

 逆に、自分に一切の責任がないとするならば、それは絶望的である。責任の所在が己にないということはつまり、自力ではどうにもならないと認めることに他ならない。責任とは可能性と言い換えてもよいだろう。もし仮に私が誰かに「これはお前のせいではない」と言われたとき、それは即ち「お前の力ではどうにもならない」と宣告されていると言えるだろう。

 自己責任という言葉や概念は他人を攻撃するためのものではなく自戒として事故に向けて使われるべきだ。苦境に陥っているとき、自分以外の何かに原因を求めるならばその時点で自力で解決することは不可能になる。どんな状況にしろ、己による何かによってそれが引き起こされ、抜け出すことができないとするならば、己の力によってそこから脱せられると考えられる。自己責任は厳しくも希望が伴うと言えるかもしれない。飽くまで自分に向けてその言葉を使うなら。

 問題は何か、誰が悪いのか、その最終的な帰結が自分自身であるとするとき、人は自分の力で己が身を置く状況を変えようとする。そういう気持ちを持つことが結果的に個人を救済する。自分を救えるのは自分自身であり、自己責任とは克己心を鼓舞するための言葉としては有効である。

 しかし、客観的な因果関係から見て苦難の原因が明らかに自分のせいでない場合はどうすればいいか。その解決はただ一つ、客観を捨て去るのみだ。事実を冷静に見て明らかに自分には非がないとしても、その苦境から脱却できないのは己自身の力不足であり、紛れもない「自己責任」であると自身を戒めることで具体的に行動する上での原動力や動機づけが得られる。自己責任とは自分自身を戒めるための思想として有効に活用できる。

 自分を不当に扱い、虐げ騙し、搾取し使役する人間がどのような思惑で動いているかなど問題ではない。加害者としての他者がどんな人間であれそれもまた問題にするべきでない。全ては自分自身によるという確信を持ってこの世界を認識するべきである。これは皮相的に見れば理不尽で歯科な状況下にあっても、自身を鼓舞するためには大いに有益である。己に責任があるからこそ、現状を変え悪状況から脱する可能性も自分自身が孕んでいると考えることが可能となる。

 加害者としての他人、不条理な環境などといった外界に原因を求めてはいけない。それをした時点で我々は外界に対して敗北する。これにより我々は歯医者であることが確定し、その認識を改めるまでその苦境は決して覆ることはない。己自身を救うには、艱難辛苦から逃れられない根本的な原因が自分にあると断言するしかない。全ては私自身によると明確に宣言することで、能動的な意志を持って具体的に何をするべきかが見えてくる。それによって何をするべきかが確定し、最終的には不遇から脱することができる。

 天は自ら助くるものを助く。どのような不幸や不運であれ、究極的には自分自身が立つことでしか人間は救われることはない。希望とは常に厳しさの中にある。仮に先天的な要因や偶然による何かによって辛苦に喘いでいるとしても、それの全ての責任を自分が取るという気概を持つことが救済の端緒となる。これは意地や見栄という言葉に言い換えても良い。虚勢を張ることで苦渋や辛酸の中で呻吟する日々から抜け出すことができるのだと私は考える。

 私は悪くないのだと考えたり言ったりするのは容易いがそこには救いはない。責任がないということはそれを克服する可能性もないということだ。自分以外の何某かに責任の所在を求める限り、その人は絶対に救済されない。責任転嫁を行う人間は結局のところ救われることを望んでいるのではなく、自己憐憫に浸ること自体が人生の目的にしていると言っても過言ではない。生涯農地で被る一切に事故の責任を認めない者は永遠に被害者であり負け犬である。

 この世は被害者という立場に安住するかどうかを常に人間に問いている。この世が我々に課したり味わわせる一切に対して、我々はどのように振る舞いどのような姿勢で臨むかが肝心だと言える。外界が何を私達にもたらすかなど上辺だけの瑣末事に過ぎず、それに対して我々がどう見なし、何を為すかが本質であり、それが人間としてこの世で生きる意義となる。

 自分がどんな経験をし、どんな降伏や快楽を浴するか。またどんな辛苦を味わい、悲惨や屈辱を被るか。それらはもう度外視してもよい。自分の外側から何が与えられるかではなく、自分の内側がどのような様相であり、それに基づく己の言動がどのようなものであるかを常に人は意識しなければならない。

 外界ではなく、内側が全てだ。ましてや社会や他人が自分にどんな仕打ちをしたかなどは現在の私にはもう何の意味も価値もない。肝心なのはそれを受けた自分が胸中でどんな思考や感情に囚われ、どんな言動を実際に行ったかだけだ。生きるということは自己完結的な行為であり、内省こそが人生の目的、本質である。そのような意味合いを持って私は「自己責任」という言葉を肯定的に解釈し、実際に肝に銘じて生きていきたいと考えている。

 社会的な現象であれ、他人が自分にもたらす被害であれ、それは所詮自分自身を顧みるためのきっかけや材料にすぎない。己の内側にこそ全てがあり、あらゆる改善や向上の可能性がある。物事の原因は外側ではなく常に内にある。内面を意識的に観照する修練を積むことが人生においては重要である。霊的な意味を持って人間がこの世に生を受けるとするならば、己自身を深く知ることこそがそれであろう。

 人生とは徹頭徹尾個人的かつ主観的なものだ。客観的な視点や事実関係などは表層的なものであり、本質とは無関係だ。一切は己に拠り、自分自身は全ての起点となる。そのようなニュアンスで人間はあらゆる場面において自己に責任がある。この大いなる責任に目を向けか、背けて生きるかでこの世や人生に対するスタンスは正反対になるだろう。

 自己責任が持つ霊的かつ本質的な意味合いを知るためにこの世にはあらゆる理不尽や不条理が用意されているのかもしれない。これまで私を苦しめてきた他者や社会的な要因というのは全て、このような気づきを得るために必要なものだったのかもしれず、自己責任というのは一見新自由主義などの政治的な単語のように見えて、実はスピリチュアルな言葉なのかもしれない。

カルマ

 カルマという概念はこれまでずっと私を悩ませてきた。人生において自身が被っているあらゆる厄災や屈辱、悲惨や不遇の全ての原因が「自分のせい」などというのはあまりに理不尽に思えたからだ。昔2chで「前世で悪事を働いた者はその報いとして青森県に生まれてくる」などという書き込みがあり、これを目の当たりにした当時は大変不愉快に思ったものである。東洋思想におけるこのカルマというものは私にとってはそれ自体が極めて理不尽で不可解な到底許容できない代物であった。

 しかし、今になって私は業というものに対してある程度理解しつつある。カルマというのは単なる迷信ではないかもしれない、それを世迷い言だと断じるのは正しくないかもしれないという思いがある。それは単に己の不遇を前世の報いであるとして諦念するのではなく、今自分が被っている一切を理解するための鍵としてカルマという概念を利用できるのではないかと考えている。

 業とかカルマというのは人間に与えられた課題のようなものだと思う。これは生涯を通して解消、解決しなければならないもので、生前死後も引き継がれていくものなのだろう。誰しも前世の業を背負ってこの世に生まれてくるという世界観は、人間がこの世に生まれてくる意味や意義といったものを設定する上で有効だと思う。どのような境遇で生を受けるにしろ、それは今生で克服すべき何かをクリアするために必須なのだとしたら、人生の意味を納得することが容易になる。なぜ産まれ、生き、そして死ぬのか。そのことに対する一応の説明をつける為に有効な概念がカルマであると言えるだろう。

 自分自身の存在意義を考える上でカルマという考え方は有用である。カルマとは前世現世来世に跨る己が抱える問題であり、それを乗り越えるために人間が生まれてくるのだと考えれば、人生はなんとシンプルだろう。この世や己の意味を知る上でカルマという概念は使い勝手が良い。カルマにより、何故人間がこの世に生まれてくるのかという月並みだが万人を悩ませる問いへの筋の通った答えが一応は出るのだ。それが正しいかどうかは置いておくとしても、少なくとも個人的には腑に落ちる。

 この世や自分をどのように理解するか、どのような世界観を持って生きればよいか。この手の問題を解決するためのツールとしてのカルマは使える。他人を攻撃する時に前世の報いだ、などというのは言語道断で、カルマという概念は飽くまで内省のために用いられるべきものであり、その用途に限ればこれは有益である。ずっと忌避してきたこのカルマというものは自分を知る上で重要となるということは私にとっては一つの発見であった。

 カルマに限らず、どのような考えであってもそれは道具にすぎない。何であれ無闇に否定するのは益のないことだ。生きる上で使いようがあるものならば宗教用語でも学術用語でも何でも活用するのが賢明だろう。カルマは人生を理解する為に有効な概念であり、それにより何故生まれ生きるか、という類いの疑問で殊更煩悶することもなくなる。

 私はどのようなカルマを背負って生まれてきたか。それは私自身が個人的に把握すべきことだ。そのことについて一々文章にして述べる必要はない。しかし、人生における様々な辛苦に対して、これが私のカルマだと常に念頭に置き、そのことを忘れないようにすることは大切である。

 カルマがなければ、人生は理不尽で不可解なものとなる。それにまつわる視点がなくなれば人は、自身が被る不都合や不運に対してどう認識すればいいか分からなくなってしまうだろう。被る不幸であれ浴する幸福であれ、それが無意味だとしたら何であれ人間にとっては耐えがたいものだ。人間が最も恐れるもの、それは無意味である。人は心身が辛いから苦しむのではなく、自分の無意味さや無価値さに苦しむのだ。カルマに基づく自分や世界への見地はそういう意味で人を救いうる。カルマによって私は悩み事を抱え込み、諸々の事柄に煩わされるのだとしたら、それがどんなものであれ少なくとも無意味ではない。

 意味付けによって人は救済される。カルマは煩雑な人生における諸事に対する意味付けに有効である。自分がとある問題を抱えているとき、それが自分のカルマであり、それを乗り越えることこそが己が生まれてきた意味であると考える時、人は虚無感を覚えること無くそれに立ち向かっていくことができる。

 人生とはどこまでも個人的なものである。自分の中であらゆる事柄に意味が付与されれば、客観的にそれがどうであれ考慮する必要はない。自己完結という言葉はどのような文脈の中でも悪い意味で用いられるが個人的には首肯しかねる風潮である。生きる意味や生まれてきた理由などという類いの疑問は自己完結していればそれで十分であり、他人からの客観的な見地は不要である。カルマにより人生の意味を自分の中で腑に落とさせる。それだけでよい。

 しかし、カルマは自分自身の人生を理解する道具となるもので、他人に対して使うのは間違いである。誰かを指して前世の業だなどと言うのは以ての外であり、それは霊的な差別に繋がるだろう。自分以外の人間に業だのカルマだのと言って貶める人間を私は軽蔑する。カルマは自分に対してだけ使うべき概念である。

 本稿の冒頭においてカルマという言葉や考えを忌み嫌ってきたと述べたが、それは他人に向けられてその手のワードが使われることに対する嫌悪だ。私は己の生涯における一切をカルマであると断じはするが、他人の不幸や不運に対してはカルマや業という言葉を使って蔑んだり貶したりはしない。

 自身と己が被るものに納得するためにそれは活用されるべきだ。その用途に限定すれば業という概念は人間にとって有益だ。それには輪廻という世界観も抱き合わせとなり、それを前提にした認識を持つことになるが、前世や来世という概念もまた生きる上では有効であると個人的には思う。

 前世現世来世を通して向き合わなければならない問題が業であり、それを解決するために人間はこの世に生まれてくる。そういう視座から人生を認識すれば、かえって人生に悲観的になったり虚無感に苛まれることもなくなる。この視点から見れば人生は単純にして明快なものとなり、有意義なものとなるだろう。無意味な苦しみというのはこの世界観では存在し得ない。

 避けがたい苦しみを理解し、納得するためのツールとしてカルマという概念はある。生きる上でどうやっても逃れられない辛苦に意味が与えられたとき、人はそれに耐えられるようになる。カルマという観点は人間を強靭にし、絶望から私達を遠ざける一助となるはずだ。

 カルマは飽くまで問題であって罪ではない。カルマという言葉や思想にネガティブがイメージが付きまというのはそれを罪業と結びつける宗教観によるものだろう。悪事の報いとしての業ではなく、各々の魂が抱えている解決すべき問題が業であり、それ自体が人がこの世に生まれる理由なのだ。人生の意味はカルマの解消であり、生涯において直面する諸問題も突き詰めればこの一事である。そう捉えさえすれば私達が生きる世界の様相はだいぶ変わって見えるのではないだろうか。

 現世における問題を解決しなければそのカルマは来世に持ち越しとなるだろう。だから人生の諸問題から目を背けるべきでない。現世で抱えた問題から自殺などの手段で逃げれば、結局また来世で同じ問題に直面する、この世はもしかしたらそういう風にできているのかもしれない。

得と徳

 私は徹底的に利己的でありたい。己に利する事を極限まで追求し、逆に自身に益のないことは徹底的に忌避していきたい。実利とは生きていく上で絶対に欠かしてはならない指針であると私は確信する。何が自分にとって長期的かつ最終的に得であるか、という視点を失うことがないようにしなければならないと私は自身に常に言い聞かせながら生活を営んでいる。

 ただし、安直かつ短絡的に得をしようとするのは悪手である。一時的な目先の得のために多くを犠牲にするのは間違いである。そうではなく、長い目で自分がどれだけ特をするかどうかという視座であらゆる事柄について判断し、考え実行に移さなければならない。自分が浴する恩恵を最大にするために必要な振る舞いを明確に想定し、これを実践しなくてはならない。

 このようなアプローチで以て得を突き詰めた先にあるのが徳である。自分に利する手段を用い、それに浴する状態に身を置くために万策を講じ、ただただ自身に有益なものを追い求めることに終始し、貫徹するとき、人の振る舞いは道徳的にならざるをえない。利に聡くなってはじめて人は善性を発揮する。逆に悪徳とは利害得失の計算ができない浅薄さや軽薄さによってもたらされる。悪人というものは得てして損得勘定ができないものである。

 自分の半生を振り返ってみても、損得勘定を正しく行えなかったときには大抵、不義理や悪徳に染まった言動を行っていたような感がある。長期的な視野児で自身や周囲を分析することが出来なくなったとき、いつも私の良心は鈍麻し、愚行に及ぶことすらままあった。それを思い起こせば大変恥ずかしくもあり、また損をしたものだとも思う。

 連連された利己主義こそが人間を善に導く。己の言動を省み、自分や身の回りに利益をもたらす行いこそが徳であり、功利主義と善行は深く結びついている。逆に言えば自他共に損害を被る未来を見通すことができないとき人は悪に染まるのだとも言える。

 利害関係を踏まえ、損得勘定ができるかどうかによって人間は善人と悪人に大別される。その能力を備えたものは必然的に善を為し、それができないものは愚行により自他を損なう。このような視座によって世間の事件や事象を見てみれば、世の中は案外シンプルに成り立っているといえるのかもしれない。

 情けは人のためならず、という諺がある。これは他人に施すことで巡り巡って自分自身も何らかの恩恵にあずかれるようになるという意味の言葉であるが、これを実践するには長期的な視野を持って、物事を捉える必要がある。最終的に自分が何を被り、何を浴すかを冷静に見通し、見極める知性が求められる。その能力を涵養すること道徳であり、それを修め実践できる人間こそ紳士である。洗練された人物は自分に利をもたらすものを決して見失わず、自分に害をなすものを遠ざけることが自然にできるものなのだろう。

 世間ではエゴイストは良くないという風潮があるが、それは次元の低いエゴイズムにのみ当てはまる言説であろう。自分にとって何がプラスになるかを適切に分析できる人間がどのような理由で悪い振る舞いをするだろうか。利己主義が悪と結びつくのは、当人が己の振る舞いが最終的に損になるか得になるかきちんと分析できていない場合だろう。本当の意味で己に利する行為というのは自然と人道に則ったものになるはずだ。利益や幸福を最大化するには聡明であるべきだし、そのための土台にあるのは目ざとい損得勘定である。得が最終的に徳に結びつくのだから、エゴイズムは本来ならば推奨されてしかるべきだ。

 しかし世の中の潮流がそのようにならないのは、結局それが世の相当数の人間には難しいからなのだろう。私がそれを実践できるほどの知性を備えているかどうかは取り敢えず置いておくとしても、自分自身に長い目で見てプラスに繋がるような生き方ができている人間などやはりほんの一握りなのだろう。だからこそこの社会は不平等であるし、幸福な人種とそうでないものにどうしても二極化してしまうは無理からぬ事なのかもしれない。

 他人や社会全般についてあれこれ考えたところで埒が明かないが、少なくとも私は己自身に福徳を引き寄せることは可能だと信じたい。天は自ら助くるものを助くという。「自ら助く」とはやはりどう考えても自身が浴する得の追求であり、本稿で何度も述べているように詰まるところ実利や損得を踏まえた振る舞いということになる。得を求めることを究めれば即ち徳となり、私はその徳によって人が幸福になるのだと思いたい。

 利己主義とは肯定され礼賛されるべき思想である。悪人とは損得勘定を正しく行えない人種であり、善人はその逆のタイプである。どちらを志向するかは人によるのだろうが、少なくとも私個人は後者を選択した。人が善を為すには第一に利己的である必要があり、これは本来ならば美徳とされるべきだろう。世間の風潮がどうあろうと私個人はエゴイスティックあろうとする人間の中にこそ善性が芽生えると信じている。

 利に聡ければ聡いほど人は悪から遠ざかる。悪感情に飲まれて他人と対立することは無益であり、自身に何ももたらさないと知る者は慎み深く振る舞うだろうし、最終的に時分の利益や幸福を最大化するために必要な行為が何かを知るものは勤勉かつ実直に日常生活に臨み、堅実な人生を歩むだろう。それこそがまさに模範的かつ善良な人間の姿ではないか。洗練された利己主義が人間をより高みへと導いていくと断言できる。

 自分にとって有益な道を歩むためには聡明でなければならない。それこそが人間が身に付けなければならない知性だと言える。常識や通念、倫理などではなく利己主義によって人間は善良に振る舞える。しかし、その意気に達するために人は、自分にとって何が得になるかを知り、見極めなければならない。そのような観点を培い、保ちながら生きる姿勢こそが私にとっての理想である。

 自分にとって得にならないことは基本的にしなくてよい。それを念頭に置いて生活してみれば、いかに自分が無駄なことに固執しているかが歴然とするだろう。無益な思考や感情、言動などは挙げるだけで両手の指で数えても足りないほどだろう。得になることをする、というよりもこのような逆からのアプローチも有効だろう。

 得を求めるのが高望みだとしても、損をしないように心がけることは容易である。自分を害さず、損なわないためには何を遠ざけ、何をするべきでないか。そのことを常に念頭に置きながら思考や情緒を観照する習慣が身に付けば生活の質は絶対に向上する。得は取り敢えず度外視するとしても、損を忌避するだけでも及第とすれば超えるべきハードルは決して高くはなく、またそれによって得られる恩恵は少なくはないはずだ。

 損害は悪徳である、と言う見地を得れば倫理という曖昧模糊な代物に対する理解が深まるというか腑に落ちる。自分や他人を損なう行いや考えこそ悪だと定義すれば、己に対して合理的な自戒が可能となるだろう。極端な話、犯罪行為をハゼ行なってはならないかという問いに対して明確な回答がこれによって得られる。

 善悪と利害は同義であり、道徳とは損得勘定である。得失を正確に認識し、何をすべきで何をすべきでないか判断し実行するのが人道である。このように考えながらこれまでの人生や目下の生活を振り返れば、どれほど自分が「悪徳」に染まっているか自覚できる。