壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

苦しみと個我

 人間の本能は苦しみを渇望する。静寂の中で至福に満ちた状態を維持して生きていたいなどと、私たちは毛ほども考えていない。私たちは喧騒や猥雑、敵対や闘争をどんな瞬間にも絶え間なく渇望している。人間が望むのは不安や恐怖、葛藤や苦悩といったネガティブな感情であって、ポジティブで安穏とした精神状態は人間の腹の底からの願望とは全く対立している。
 誰もが幸せを望んでいるなどと考えるのは人と言う種への誤解だ。私にはどういう理由によるものなのかは全く見当もつかないが、何故か世間一般の通念においてはそういった建前がまるで自明で当然な真理であるかのように流布されている。私たちは一人の例外もなく幸せな生涯を送りたいと思っており、不幸せを遠ざけたいと願っているのだと。そのような誤謬がまかり通る社会に対して私は大変不可解さを感じる。
 私たちは千辛万苦の中にしか生を見出すことができない。私たちが個別の人格や精神、心を持った個人として存在できる根拠は苦しみや悲しみの記憶や体験による。余人の身の上話は苦労話や愚痴、不平不満などがその大半を占める。これは人間というものがどのようにして自身を認識し定義しているかよく分かる一例だろう。
 言わば、人の道は茨の道だ。努力や苦労なくして私たちの人生を語ることは不可能だ。人生のあらゆる局面において私たちは自分が支払った労力や金銭などの代償と、それがどれほど辛く苦しく、精神的に負荷がかかる出来事であったかを鮮明に記憶にとどめる。そしてそれを事あるごとに振り返り生涯の一コマと見なす。さらに、自分自身を指し示す要素として苦難や災難にまつわる体験を逐一意味付けたり定義付けたりもする。
 人間であることと苦痛を被ることは不可分である。私たちは苦しんだ経験によって己が何者かを思い知り、その経験を掛け替えのないものとして大切に胸中にしまい込む。嘆きや悲しみに暮れた日々。憤怒や憎悪の念に囚われた場面。遭わされた憂き目の内容についてのディティール。それらのどれもが私たちにとって己の生涯を語る上で決して欠くことができない大切で貴重な思い出となっている。
 従って、苦しみからの逃避は人間性の否定だと言える。辛労、苦痛、煩慮、憂愁どのような言葉で表しても詰まるところ全ては全てが苦である。それらの情念や心緒を「よくない」の一語で断ずるの言説が仮にあったとしたら、私たちはそこに一切の人間味を感じないだろう。人であることと苦しみことは完全に不二だといい切って良い。
 


 私は他人や世間からこれまで被ってきた仕打ちや憂き目を忘れらない。両親や親族を筆頭として学校の教師や仕事場で接する他の従業員、ひいてはすれ違うだけの赤の他人に至るまで、あらゆる数多の人間が私に対して怨憎会苦をもたらした。一期一会の出会いの一つ一つのどれもが私にとっては苦痛であり苦難・試練以外の何物でもなかった。それらの全部が私の人生を語る上で無視できない重要なイベントとなっている。
 嫌な思い出や辛かった経験の全てが私を象徴し、表現する。あの時あんな思いをさせられた、その時はこれほどの屈辱や不義理を味わわされた、そんな嫌な思い出が私の人生の節目節目を特徴づける。その時々に遭わされた惨禍とそれによって惹起された被害者意識や自己憐憫の念が、私がどれほど哀れまれるべき存在かを物語るだろう。
 人間を個人として形づくる要素とは他ならぬ苦しみだ。自己を詳細に規定し、彼我との峻別を明らかにする為に必要なのは記憶であり、それが楽しいものや喜ばしいものであることは稀である。私たちは苦しみや悲しみに関する事柄を鮮明に記憶する。

 それは戸籍や肉体、思想や倫理などよりも強固に私たちを定義する。私たちは自己を疑いようがないほど明確に認識したい。それによって人は途方もなく満たされる。自分が何者かをはっきりと自覚できれば、それはどんな快楽にも勝る。そしてそれは辛く苦しい思い、凄惨で汚辱にまみれた体験に頼るのが最も安易で簡便な手段となる。

 

 被った苦しみの一つ一つが私たちのアイデンティティと結びつく。苦しんだ記憶の蓄積が私たちをそのまま表す。もっとも、「私が苦しむ」という言い方は便宜上の表現にすぎない。私とは苦しみそれ自体であり、苦しみなくして私は存在することはない。人間の自己同一性には、嫌なことや辛い目といったものは不可欠な因子だと言える。
 思想や道徳、倫理よりもどんな苦しみに依拠するかで個人は規定される。損得や善悪といったものも、それに比べれば塵芥に等しい。自分がどんな存在であるかが、人間にとっては第一義にして最重要の根本義だ。自分自身を指し示す目印こそが人間にとっての最も望むべきものであり、そしてそれは他でもない苦しみなのだ。
 私たちはそれに終生固執する。自分が何者であるか自覚し、確信し、それに依拠することを覚えたら、それを捨て去る選択を通常私たちはしないだろう。正体不明の名無しの権兵衛、無意味・無定義・無意義な「なにか」で在り続ける心もとなさに耐えおおせる者は決して多くはない。そんな無用な骨折りより、人は安易な道に逃げたがる。即ち苦しみ続ける被害者として自分を設定し続ける。
 口や態度では苦労や不幸を拒む素振りをしても、それは所詮上辺だけのものでしかない。私たちは間断なく苦悩し、尽きることなく怒り憎み、底知れない絶望に打ちひしがれ、身を切られ胸を引き裂かれるような目に遭うことを本音では心底乞い願っている。それが苦しみを引き起こして私たちをより一層悲劇的にし、私たち個々人の存在を一段と際立たせるのだから。


 逆に、苦しみがなければ人は自己の細部を理解することも感取することもない。不足や欠乏から人は自身が何を求めているかを知る。また、不本意を無理強いされたときに人は本音や本心・己の本願が分かるようになる。
 さらに言えば、ある人間が苦しみから解かれるなら、その人はもうその人ではありえない。彼が彼のまま苦難や懊悩から解放されることなど有り得ない。何故ならこれまで重ね重ね書き連ねてきたとおり、苦しみこそが人間を人間、個人を個人たらしめるからだ。一人の人間が苦しむとき、その人は苦と同一で不可分な存在となっている。人間が苦しむのではなく、苦しみ自体が我々の本体なのだ。
 それは、人という種が永遠に度し難い存在ということを意味している。苦しみを一切受けない幸福な人間など存在し得ない。ある者が本当に言葉そのままの意味で幸せなら、彼は人であることを放棄していると言っても過言ではない。人間の根本にして本質たる苦から解かれた存在はそれだけで人間ではない何かだと言っていい。
 一個の人間もしくは個人であり続ける限り、私たちは永劫救われないだろう。人としての生は苦しみに満ち、有限で不可能に直面することばかりだ。そんな現実や実相から目を背けて自分が幸福だと思いこむことも可能ではある。しかしそれはやがて覚める夢でしかなく、遅かれ早かれ私たちは己の起源にして本性たる苦に対峙することになる。これは何人たりとも避けることはできない。
 逆に言えば、苦がなくれなれば私は消え去る。個我への執着、静的な個人であり続けることへの我執を捨て去れば、その瞬間に苦しみは消失する。苦しみの終わりは個人の終焉である。個我を存続させようと試みる限り私たちは死ぬまで、ともすれば死んでも苦しみとともにあり続けるだろう。
 つまり本当に腹の底から苦しみを厭うなら、私たちは己自身であることに固執すべきでないということになる。苦は人の個としての側面を強め、個として存在しようとすれば人の苦は大きくなる。逆に一個人、一個体としてこの世でどう遇されるかにこだわらなくなれば、その瞬間に私たちが被る一切の苦しみは幻でしかなくなるだろう。

幸か不幸か

 幸福のパターンは少ない。自他ともに幸福であると認めざるをえない完全無欠な人生を送る人物が仮にもし存在するとしたら、それが複数人いたとしても彼らの生活や生き方にはそれほど多くの違いはないだろう。どんな時代やどんな地域においても幸せの形や内容には大きな相違はないというのは例を挙げるまでもなく自明である。
 逆に不幸の様相は人の数だけあるだろう。同時代の同じ町で生きている人間に限って焦点を当てたとしても、彼らが背負っている不幸せの仔細について聞き出せば、そのヴァリエーションの多様さに恐らく圧倒されるだろう。どんな社会的な階層にも別々の苦しみや悲しみがあり、個々人が異なる不幸を味わっているだろう。

 幸福や至福はありきたりのありふれた営みの中にある。それは有り体に言えば平凡であり取るに足らない日常の繰り返しにすぎない。それは凡庸であり通俗的な無個性さへの埋没である。一言で言い表すならそれらは単純に面白みがなくつまらない。

 翻って、不幸や不遇は何であれ劇的であり刺激的である。対立や葛藤、理不尽や不条理の中でそれらを被る受難者は悩み苦しみを被り、憂いや恐れを抱かざるを得ない。そんな人間の振る舞いや生き様はドラマ性に満ち溢れているし、激情を掻き立てられ息をつく暇も与えないほどだ。
 また、幸せは個人の何たるかを定めてはくれない。特別でも特異でもなく、ありふれて何の変哲もない日々が展開される暮らしの中に置かれた人間は、どうやって自分が何者かを知ればいいのだろうか。一切の障害も設けられず、全てが粛々と恙無く執り行われるだけの世界の中に個性や独自性といったものは存在するはずもない。
 その点、不幸せこそが私たちに己の何たるかを教えてくれる。自身を悩ませる敵対者の存在は常に渦中にいる者を悩ませる。環境などの外的な要因の全てが悪い方に向かい、不利益や不運を被る人間を苦しめ続ける。そんな受難の渦中にある者は、自分が何故、何のために苦渋や辛酸を嘗めねければならないのかと考える。その問いかけや探求の道程において、私たちは自分がどんな存在なのかを明確に定義し、己自身に確信を抱けるようになる。
 
 
 私の不幸は私だけが占有している。私が被ったあらゆる苦しい思いや痛ましい追憶は分かち合ったり共有したりすることは絶対できない。私の不利益、私の損害、私の艱難……。それらの全てはオリジナルな体験であり、代替することができない代物だ。
 私と全く同じ不遇や理不尽を味わった者など存在しないと断言できる。非常に大雑把に捉えれば似たような苦労や辛苦を被った人間は当然大勢いるかもしれない。しかし、それは大まかに類似しているというだけで本質は全く異なるだろう。不幸とは客観的な事実の羅列ではなく、主観的な体験だからだ。

 独自かつ奇異な経験や体験としての不幸の蓄積が私にとっての記憶や思い出となる。そしてそれに基づき私の人格や精神が造形される。周りの人間にされた手痛い仕打ちで痛めつけられたこと、メディアを通して流布された身勝手で無遠慮な言説を通じて傷つけられたこと、実社会で金銭や労力を搾取された屈辱的な思い……。そういった類いの不幸せな追憶が無数に私の中に溜め込まれ、私がどんな人生を歩んだどんな人間かを定める。
 人間の脳は辛いことや不快に思ったことを鮮明に記憶に残すという。これまで生きてきて、不幸や悲劇には分類されない出来事も多数浴してきたはずだろうが、そういったことに対しては殆ど覚えていない。私たちは脳機能の性質から見ても幸福や幸運よりも不幸や不運に着目するようになっているようだ。
 事情はどうあれ、改めて考えてみれば私は不幸せの権化のような存在だ。生まれてきてから今日に至るまでの間に溜め込んだ辛かったことや嫌なことの集合体のような人間が他ならぬ自分であるという事実は無視できない。私の本質は不幸せそのものであった。痛苦や悲苦の念こそが私が私を成す根源で、肉体や精神さえそれよりも優先順位は下となる。
 
 不幸の性質が人それぞれの個性を表していると言える。私が被った不遇などはほんの一例に過ぎない。世間には無数の人間が居て、それぞれの人間に個性があり、別個の内容や性質の不幸せがある。ある人物の人間性について語ったり分析したりする際、彼がどんな不幸を背負って生きているかが焦点になるだろう。
 不幸の数だけ個人が存在する。とある人が被った損失や被害、あなたが切り抜けた艱難辛苦、私が悪辣な加害者によって味わわされた災厄などのそれぞれが各人の気性や性質を表す。その人間がどういう存在なのかは当人が被った痛みや苦しみ、悲しみや精神的な葛藤などの詳細が表す。
 さらに言えば、経験した不幸の内容によって人は自他を区別する。先に述べたように、私が味わった不幸は私個人の、私固有のものである。それを完全にコピーした体験をした人間はこの世にはいない。したがって、自己とそれ以外を分け隔てるものは個人的な記憶、とりわけ不幸せな出来事に関する追憶ということになる。
 私が被った憂き目や災難のすべてが私を示す勲章だと言える。己が何者であるか、自分自身がどれだけの値打ちや存在意義があるかについてそれらを参照するだけでいい。受難の数々が私を作り上げ、その一つ一つの詳細が私を定義づける。私たち人間は血や肉である前に不幸や苦悩なのだ。

 
 人は自身について確信していたい。自分にどれだけの値打ちがあり、どれほど貴重で大切な存在なのかをはっきりと自覚したがる。私たちは自分自身の正体や詳細について知ることに生涯の多くの時間や労力を費やす。それにはそれだけの価値があるのだろう。
 自分を定義づけられるなら、人は喜んで受難に浴する。苦しんだり悲しんだりすることで自分がどういった存在か明らかになり自身でも納得ができるなら、人はどんなことにでも耐えられる。義のために命を投げ捨てることができる人間の心理の背景にはこのような事情がある。人は自己を確立して大きな意義を自らに付与できるなら進んで死地に赴くことができる。
 正体不明の匿名な存在でいるよりも、ともすれば人間は敗者や被害者であることで妥協する。そのために人間は自身のために不幸・不遇・不運を設定して己の存在を盤石なものにする。たとえ悲劇の主人公になって破滅したとしても、人間は己が何者なのかと頭を悩ませるよりはその方がマシだと考える。
 なぜなら、不幸な人間はユニークでありスペシャルだからだ。受難に甘んじて苦しんでいるだけでも特別な存在になれると私たちは確信している。だからこそ私たちはフィクションにおいて架空の人物が苦悩し葛藤する様子を鑑賞したがり、実在する人物が醜聞で失墜するところを面白がって見物する。いわんや自分自身については、悲惨や苦難を一心に受ける憐れむべき被害者だと見做したいのが人の情というものだ。
 その一方で幸福な人間、ないし少なくとも不幸でない者は押しなべて凡庸だ。そこには一切のドラマ性がない。言うなれば至福の中に生きる人はストーリーという地獄から抜け出してしまった存在であるとも言えるかもしれない。創作でもドラマの結末がハッピーエンドだとしてもその過程において主人公は必ず対立や葛藤、試練や障害を通過する義務や宿命を追っている。考えてみればそれと同じことなのかもしれない。

 静寂や至福などで名状される幸せの在処は、ドラマやストーリー、スペクタクルや大立ち回りなどとは全く無縁な境地だ。そこに至る道がたとえあったとして、そこに達したとしても恐らく人はそこでのあまりの退屈さに無聊を託つようになるだろう。冒頭で触れたように幸せとはありふれたもの、論ずるに値しないつまらない愚物でしかないのだから。

 私たちはそれを踏まえた上でも不幸を厭い幸福を追求するだろうか。その詳細について知悉してもなおその道を歩もうとするのは相当な物好き、奇人変人だろう。人は苦しんででも手持ち無沙汰を紛らわそうとする。そうでもしなければ私たちの生は間が持たない。

 私たちはあくびをするより血反吐を吐きたく、物憂げに飽き飽きと暮らすより命からがらただひたすら汲々として生きたいのだ。人間の被虐的な本願や自己憐憫への渇望はもっと注目されるべきなのではないだろうか。

艱難汝を玉にする、なんて

 人は生ある限り苦しみから逃れることはない。生老病死をはじめとしたありとあらゆる苦が人間をどんな瞬間においても責め苛む。私たちはそれらの一切から遠ざかろうとするがそれらは執拗に私たちに追いすがり、我々の命が尽き果てるまで延々苦しめることだろう。
 そして私たちは苦しみから救われたいと漠然と願う。辛いことや嫌なことが自身の人生から取り払われ、歓喜や愉悦だけを感じてただ楽しく生きてみたいと口先だけは言い、また頭の中でも念じたりはする。またそれは人としての当然の願望であると世間的にも承認されていることでもあるので、私達は臆面もなくそれを口に出したり妄想したりはする。
 しかし、それは本心ではない。そのような私たちの願いは所詮は意識の表層の上辺だけの望みにすぎない。安逸や平穏への探求というのは人間が表向きに抱く願望でしかなく、我々の意識の深いところではそれとは全く逆の本願が秘められており、それは明け透けに語られることは極めて稀である。
 実のところ、私たちは本能や無意識の次元においては常に苦しみを渇望している。安楽や官能、平穏無事や天下泰平などは人間の本当の望みではない。仮にそれらを万人が心底希求していたとしたら、この世は全く別の様相を呈しているはずだ。少なくとも我が国においては、楽のみを第一義とするような生き方は礼賛されていない。忍耐や屈従とは無縁で、ただ安楽に遊興だけに耽溺するだけの遊民が褒めそやされたり尊ばれたりしたためしがあっただろうか。
 世間や社会が苦に満ちているのは単に我々がそう望んだからに他ならない。私たちが美徳とするものは専ら、懊悩や悲嘆、痛みや苦しみである。それらを手放したり遠ざけたりすることを私たちは明確な形で表明しないが間違っていると漠然と考える。痛苦と完全に無関係な人生を心の何処かでは好ましいと思うどころか憎んですらいるのではないだろうか。
 人間が抱えている問題はどんな苦しみを被っているかではなく、それを望んでいることを知らないという一事に尽きる。苦しみたくない、楽になりたいと思考や意識の表面だけでは夢想しながらも、胸中の内奥ではそれと正反対の苦痛や煩悶への憧憬や執着が根深く渦を巻いている。苦のない人生を人は望んでいるという前提が大間違いであることを私たちはまず自覚する必要がある。

 

 一般的に人間は、なぜか苦しみから避けたがるということにされている。あらゆるメディアで喧伝されている人間の願望や希求に関する言説はもちろん、直に対面して言葉を交わす人々の口から出る言葉でさえ、楽をしたいだとか苦労は嫌だとかいった文句ばかりがしきりに聞こえてくる。私にはこれが甚だ不可思議に思えてならない。
 人間が不幸を忌避し、幸福を追求しているなどとは大嘘であるのは先に述べたとおりである。私たちが現実の日常生活で本当に苦労を厭い、苦痛を倦んでいるならば、本当にそれを実行に移して実生活に反映させるものがもっと多くいても良いはずだ。しかし我々がよく知っているように、私たちは顔をしかめて本意でないことに耐え忍び、ただ悲苦の念に首まで浸かりきって人生を浪費しているではないか。

 人は苦を避け楽を求めるというのは大きな誤解である。人間は自身が何者であるかを明確に自覚するために苦しみや悲しみを必要とする。だから自分の生涯において被った数多の嫌な思い出というのは我々にとっての己を定義付け意味付けるための装飾品のような機能を持っているといえる。だから私たちは好ましくない記憶を後生大事に胸のうちにしまい続けるのだ。
 つまり、私たちは幸せより不幸せを好んでいる。仮に弱者や被害者といった屈辱的な立場に甘んじることになったとしても、私たちは自分が何者であるかをはっきりとさせたい。自分が無意味で無意義な存在かもしれないという不安や恐怖に脅かされるよりは、理不尽を被りながら惨めな悲劇の主人公として自身の役どころを確信する方が、我々にとっては気が楽で快感ですらある。
 翻って、私たちは自分以外の他者が被る不幸や苦労を尊んでもいる。愉快に安穏と世の中を渡り歩く人間よりも、苦心に苦心を重ね呻吟しながら辛うじて生きている人間の方を一般的に人は応援したくなる。この二者のどちらを好ましく思い肩入れしたいと感じるかは、私たちが自他の別なく世の中の苦というものをどう見做しているかを示す一つの例である。
 また、映画や小説などに代表される私たちが消費するストーリー性のある娯楽は、どんな形のものであれ葛藤や対立を賛美している。山場もなく敵対する存在も登場しないというのはストーリーテリングの都合上あり得ない。ドラマ性のあるコンテンツを私たちが享受し消費するとき、劇中の人物の身に起こるあらゆる困難や悲劇を私たちは面白がっているということは忘れられがちであるが否定のしようがない。
 だが、創作上の絵空事は現実と無関係ではなく、それは私たちの本質を象徴的に表す。スクリーンやディスプレイの向こう側で起こっている出来事や事件は現実の世界と完全に無関係ではない。フィクションやファンタジーの世界で重視されているものは現実においても多くの場合は重きを置かれる。そしてそれが苦しみや悲しみなどのネガティブな情動や情緒とそれに関連付けられる一切だとしたならば、その価値観や体系は現実の世界にも適応される。
 フィクションにおけるあらゆる描写は実在する人間たちの本音であり本性である。悲劇が珍重されるのは舞台の上や画面の中だけではなく、実社会や我々一人一人の人生においても同じだ。痛みや憂い、怒りや悲しみといった人間を苦しめるはずの情動がエンターテインメントの世界ではいつも不可欠なものだというのは私たちにとって看過できない事実だ。

 

 架空のキャラクターたちと同じく、私たちの人生も葛藤や対立が満ち満ちている。そしてその現実における実人生における劇的な苦しみは、フィクションにおいてそうであるように私たちにとっては何であれ意義深く値千金だ。そんな私たちが幸福を希求しているなどと宣うのはなんという皮肉だろうか。
 悩み苦しむ架空の人物たちの姿は、そのまま私たちにとっても奨励される、あるべき姿でもある。私たちにとって辛い生涯を送ることは素晴らしいことだ。さらに言えば、我々は苦しまなければならない。それを厭い避けるのは道理に反しているし、人道からも外れる愚行に他ならない。私たちは本心ではこのように考えている。
 我々はフィクションに倣い現実の社会を形づくり、その中で生きている。寓話や娯楽作品に登場する登場人物が艱難辛苦を乗り越えた果てにある勝利を掴み取り、自身の存在意義や値打ちを証明するように、私たち個々人の人生もそれを模倣することが是とされる。苦難の道を歩む物語の主人公たちの振る舞いが、我々にとって実践して当然な生き方の雛形となる。そして私たちはそうでない生き方を腹の底では軽視し、侮蔑さえするようになる。
 今や人であることと苦しむことは不二であり同義だ。この段になって私たちは、耐え難きを耐え忍び難きを偲ぶ社会に耽溺してしまう。そして苦しんで生きることと人間であることは完全に同一視される。
 最早万が一にでも苦しみから解かれるようなことがあれば、人は人間ではなくなる。人間であることの最低条件は苦しみへの我慢と忍従である。ただひたらすらそれに入り浸ってはじめて人間は人間である。にもかかわらず、この我慢大会と化した火宅から逃げ出そうなどと考える不届き者は人非人の烙印を押されてしかるべきなのだ。
 苦しみを倦んでそれを厭い、それから脱することを本当に腹の底から希うなら、私たちは人非人になる覚悟を持たなければならない。少なくとも無辜の市民として生涯を完遂することなど望むべくもないということだけは肝に銘じなければならない。

 なぜなら、苦しみは人間性そのものなのだから。苦しみから開放される瞬間、私は人間を辞めることなるだろう。それを是とするか否とするか。少なくとも、人でありながら苦を回避する道などは絶対に有り得ないということだけは確かであり、そのことだけでも心に刻んでおいても損はない。

自己無責任論

 私はかつて幼児だった。生まれ落ちた場所は文化や文明の光が届かない鄙びた農村で、家は貧しく家族は頑迷かつ狭量だった。当時の私はそんなことを理解する能力もなく、ただ毎日を漠然と生き、父や母の言動を唯一絶対の真実だと教え込まれそれに従って暮らしていた。

 私はかつて子供だった。自分が生活している場所が世間一般の標準と比べて著しく遅れているということや、両親が必ずしも正しく賢明ではないということにうすうす気づき始めた頃だ。学校では担任の教師に執拗に目をつけられ、毎日のようにいびられた。やりたくもない将来の役にも立たないそろばん塾に通うことを親に無理強いされ、学校と塾は私にとって地獄のように嫌で辛く苦しかった。私にとって自身を取り巻く全てが理不尽に思われ、何もかもが呪わしく思われるようになった。

 私はかつて学生だった。生得的に与えられた境涯の中で限られた選択肢の中から「自己責任」で自身の人生を歩まなければならなかったが、私にはその範疇でどんな生き方をしても不本意でしかなく、どうしたら良いか分からず途方に暮れ徒にただ時間を無意味に浪費するばかりであった。

 そして、ほんの数年前ですら、今の私にはとてつもなく遠い昔に思える。卒業証書という紙切れ一枚を渡され大学を放逐された私は、新卒をふいにした代償を社会に出て払わされることにった。底辺職を転々とし、貸与された奨学金を返済する目途は全く立たないまま無意味に年令を重ねた。若者というカテゴリーに分類された時期は瞬く間に過ぎ去り、人生の盛りは屈辱的な労働と貧苦に喘ぐ日常をやり過ごす為だけに費やされた。

 私は自身の生涯に後悔の念しかない。人生のどんな場面においても好ましいものや望ましい結果に浴することはただの一度もなく、私は理想や夢想とは全く正反対の現実に常に打ちのめされた。どの時期を振り返っても楽しく思い起こされる追憶など一つもない。苦々しいトラウマと無知や過失による誤った選択への悔恨だけが脈絡もなく脳裏を駆け巡り、人生にまつわる一切の記憶は私をどんな瞬間においても私を打ちひしいだ。

 ともすれば、今の卑しい労働に身をやつす、さもしい生活にもいつか悔やみ惜しむ日が来るのだろうか。憂鬱で腹立たしく、無気力や倦怠感が充満した現在の日常すら、あの時ああしていれば、と遠い未来の年老いた私には思われるのだろうか。少なくとも懐かしい思い出の一幕として今の暮らしを振り返ることは絶対にないと断言できるのが悲しいところではある。

 

 思い返せば、私の人生で思い通りだったことなど何一つない。好きなものに近づくことも、欲しいものを手にすることも、望ましい未来も何もなかった。人生は苦難と理不尽、不条理と不都合に満ち満ちて、私は幼い時分からずっと悩み苦しみ、悲しみに沈んで毎日をただ汲々を生きるだけで精一杯という有様だった。不本意な人生しか送れなかった後悔と、これから先もそれが覆りはしないという絶望とに板挟みにされ、私は目下自身の生涯にほとほとうんざりさせられている。

 しかし、なぜ私は自身の生涯がままならないことを嘆くのだろうか。思い通りに生きられないことがそのまま苦しみに結びつくのが法則めいているように感じて生きてきた。しかしそれがなぜ、どんな理由でそう思われるのかということについては終ぞ考えずに私は、訳も分からず自身の内面で起こる残念無念といった感情に囚われてきた。それは例えるなら、敵の詳細について知ろうともせずにそれを恐れ続けるようなものだった。

 私は人生は自分のものだとずっと思い込んでいた。人とのしての私の生と私自身は完全に等号で結ばれ、生涯に何を被り何を浴したかという主観的経験と客観的事実の蓄積や集大成が己の値打ちや意味、存在意義を決定付けるのだと信じた。人生と自分自身が不可分であるという前提は私に限らず余人の大半が共有する認識だろう。

 だが、そもそも私たちは自分の意志で生まれてきたのではない。産湯に浸かった日のことを鮮明に覚えている人間はこの世にどれだけいるだろうか。そしてその時に自分が満を持して産まれてきたなどという確信を持っていた者は果たして存在するのだろうか。私たちの大半は意図せずに不意に女からひり出され、気がついたら良く分からない状態でこの世に漠然と生きていた、というのが実際のところではないだろうか。

 また、生育環境などの境遇も自身で決めたのではない。個人とは環境の産物に過ぎないが、それが完全に望ましいものである事例は世の中においてはそう多くはないだろう。文化や文明に浴しながら聡明で寛容な両親のもとで育ち、幸福な少年時代を送り、然るべき正しい教育を受けられる境涯を選べるものなら誰もがそうするだろう。しかし、そういった星の下に生まれたものですら、それを自身で選び取ったわけではない。

 肉体も精神も自身で選んだのではない。背丈や顔貌などを自らの意志で形作ることができる人間など存在しない。私たちは親の要素を多分に受け継いだ肉体とそれを土台にして醸成された精神を携えて生きていくより他はない。そこにはどんな自由もなく、選択肢など端から設けられていない。外的な要因に拠る心身を自分自身だと見做し、また他人からもそう見做されて、私たちは生を強要されているのだと言っても過言ではない。

 自分に関する諸物の殆どは私の意志や選択とは無関係である。自身の生まれや育ち、肉体に至るまでの全ては私の希望や思いなど一切汲み取られていない。私たちは己の生の詳細について何一つ選ぶことも決めることも能わない。自身の意見や考えを表明し、それらを現実に反映させられることは稀だ。仮にできたとしてもそれは枝葉末節の重要でない些事に限ったことである場合がほとんどだろう。

 肝心なものに私の考えや思いが及ぶことなど実は一つもない。人生自体もまた然りだ。自分が意図しない望みもしない生を「お前の人生だ」と言い聞かされて私たちは不可抗力で無理強いされているに過ぎない。自分の意思で決めたものではなく、単に押し付けられた生について何故私たちは責任を取らなければならないのだろうか。本意ではない生なら、それに対してシリアスになる必要性が一体何処にあるのだろうか。

 

 

 自分の人生がままならないことを私たちが苦に思うのは、それを我がものだと見なすからだ。他ならぬ誰のせいでもない自己責任の結果として自分の人生というものがあるという前提に根ざした思い込みでしかない。

 人は自分の意志で産まれてくるだとか、親や環境を霊的に選択してこの世に生を受けるだとかいうスピリチュアルな解釈には何の根拠もない。それを盲信し確信を持つことができる人間は少数だ。少なくとも私はそうではないし、そうでないならばそういった思想に与する義務もないだろう。

 私たちが与えられた生を悔やむべきなのは一から十まで自分に責任がある、それを負う必要がある場合に限った話だろう。私が生まれたことは私が望んで起きた出来事ではない。また、私の生涯すべてを通して社会や他人の思惑の中でその大部分が勝手に決められたことにすぎないし、私はそれによって被った自身のあらゆる苦境や辛酸、艱難辛苦に対してもう責任がないことを確信する。

 自分が手に入れたものや占有したものについて人間には責任がある。「我がもの」だと主張、表明することはそれに対しての無限の責任を背負うという宣言となる。それを行った瞬間、人は「我がもの」の行く末や顛末に常に気を配らなければならない。獲得や所有という概念それ自体が実は人間にとっての現実や森羅万象に対する浅薄な誤謬でしかないが、それでもそれらを抱くときその人には責任が生じ、それにかかずらわなければならなくなる。

 己の人生が自身に因ると主張する者のみが人生に責任を負うべきだ。それは良い悪いといった話ではなく、そうしたいものだけがそうすればいい。それをすべき人間はきっと恵まれた幸福な人種なのだろう。そういう類いの人間に対してそうでない人間の想像など届くはずもないし、また慮る必要など一切ありはしない。

 私は「私の人生」が私のものではないことを知っている。自分の意思、願い、思いなどとは全く無関係に展開される人生なるものと自身を一体化しない時、私はそれをただ観察する。そこには何の不平不満や被害者意識、失意や絶望、後悔や無念も生じない。私の生は私のものではないのだから、特別な感情などそもそも抱くことができない。

不機嫌

 仕事の間、今日の私は絶えず不機嫌だった。連休明けて各取引先からの受注が溜まっていたし、週明けの忙しい日にもかかわらず、普段行わないイレギュラーな業務も追加でやらなければならなかった。加えて、業務を行う上で必要な機械の調子が悪く通常よりも仕事の進みが遅くなり全体的に進捗が芳しくない状況で終始私は苛立ちを隠すことができなかった。

 私が気分を害するのには正当な理由がある。先程述べたのが大体の詳細であるし、加えてそれらに耐えたところで大した実入りはない。おまけに時間外労働も行わなければならないし、それに対しての対価は全く得られない。そんな職場に対する不平不満や社会や他人への鬱屈した感情が募り、私は機嫌の悪さを常に腹の底に抱え込み、心の中はいつも乱れ耳だれている。

 私が機嫌や気分を害する要因は無数にある。今日は仕事のことで不機嫌になっていたが、会社で被る諸々の事柄とは全く無関係な事情にも私は頭を悩ませ、その度に煩わしい思いをさせられる。私は家族をはじめとしたあらゆる人間関係で齟齬が生じる度にふさぎ込み顔をしかめる。また、自分の過去へ後悔の念を抱いたり未来への不安や絶望を感じたりする度に暗澹たる気持ちにあり、そのことは逐一私の表情を曇らせた。

 逆に私が上機嫌でいられる状況は数えられるほどしかないかもしれない。私の心中が穏やかなまま一日をやりおおせることなど一年で一体何日あるだろうか。朝に目が覚めてから夜に寝入るまでの間に直面する事物や事象への感情は勿論、それらと無関係に胸中に去来する記憶や思いに心を掻き乱されることが全く無く、安楽に安穏と生きられる日が本当に私の人生に一度でもあっただろうか。

 不機嫌はどうしても表情や態度に出る。自分では無表情・無反応を貫こうとし、実際にそうしているつもりであっても、全くそれらが仕草や挙動に反映されないようにするのは至難の業だ。自分ではできているつもりでも周囲にいる他人からの指摘で否が応でも気付かされることもしばしばだ。そしてその度に私はより一層悪感情に囚われるという悪循環に陥る。

 不機嫌はあらゆる面で、自他共に良い結果をもたらさない。自分が他人からそういう感情を表明されたりぶつけられたりする状況に置かれればそのことはよく分かる。相手の機嫌が悪いとこちらの気分も害されるし、そういった感情に煩わされれることで生産性のある結果がもたらされることなど稀だろう。いや、全くないと言っても過言ではない。不機嫌は悪徳であり、損失であり、誰にとっても迷惑千万なものだと言える。

 

 思い返せば私は物心ついたときから快活でも明朗でもなかった。何も社会に出て様々な理不尽や屈辱を味わわされるようになってから不機嫌な感情に支配されるようになったということではない。悪感情が内心で常に惹起され、落ち込んだり憤ったり、昇進に沈み不遇を託つのは私の生来の気質であったと思う。これは生まれついての性分であり、かなり根深いものだと自覚はしている。

 有り体に言えば、私は根暗だった。不満があっても口に出すこともできず、嫌な思いをしても発言したり行動に示すこともできずただ溜め込むことしかできなかった。口は達者ではなく、表情はいつも暗く、後ろ向きで内罰的な思考や感情が私の内面を常に支配していた。

 私の陰気さは周囲の多くの人々を不愉快にさせた。私には異性も同性も全く寄り付かなかったが、それは改めて考えれば仕事当然のことであった。弱気で陰険な人間と関係を結び交流を深めたいと思う人間などこの世には存在せず、人々は私から離れ距離を置いていった。そしてその歴然たる事実を目の当たりにし、私は世間や社会に対して絶望の念をひときわ募らせるばかりであった。

 とりわけ私の態度に憤ったのは両親であった。お前はなぜそんな顔をするのか、お前はなぜ暗いのか、明るくる振る舞うことすらできないのか、何が気に入らず不満なのか、父も母も私に常日頃そのような詰問を浴びせた。そんな両親は私のことで常に頭を悩ませ、彼らも私よりいっそう不機嫌だったしどんな時でも怒りや失望、軽蔑や嫌悪の情を私にぶつけるのであった。

 私は常に気丈に振る舞おうとしたが状況がそれを決して許さなかった。家は貧しかったし、将来の選択肢もなく私の先行きはどんな時も一条の光明すら見出すことはできなかった。子供の頃から私は将来に絶望していたし、人間全般に対して幻滅してもいた。人生のかなり早い時期から私は自身の人生や生涯に何の希望も見いだせず、私の精神はいかなる瞬間にも失意のどん底にあった。

 大人になった今も、私はほとんどの時間を不機嫌に過ごしている。未来は一層暗く感じられるし、これまで経験してきた悲惨な思い出は何の脈絡もなく心の内奥から浮かび上がっては私を苛める。生活は金銭的に常に苦しく、望まない仕事をやらない選択肢などは考えられない。給料は少なく拘束時間は長い。社会的には卑しい職業であり、人に胸を張って言えるような仕事ではない。そんな生涯は生きれば生きるほどに恥の上塗りであり、そんな人生を強いる社会に私は常に不満を抱いている。

 悪感情が自身に不利益を与えることなど、私には重々承知である。どんな矜持や憂き目に遭わされてもアルカイックスマイルを湛え、寛容かつ鷹揚な態度で全ての人間に対して接することができれば、誰一人私を邪険には扱わないだろう。もしそんな生き方ができればそれはどれだけの恩恵を私の人生にもたらすだろうか。しかし、私の姿勢や態度はそれとは真逆であり、だからこそ私の人生は実りが少なく、幸に乏しいものであった。

 それでも、三つ子の魂百までという諺が私にも当てはまってしまう。凪いだ水面のような穏やかな心が、自身の人生に安逸と祝福、安楽を与えるのだと頭では理解していたとしても、主観的にも客観的にも私が置かれている状況はとてもではないが穏やかに暮らせるような代物ではないことは明白であった。私の生涯を上機嫌でやりおおせることなど狂気の沙汰としか思えず、だから私は憂鬱や腹立たしさを常に携えて生きるしかなかった。

 

 己を御する術を身に付けたいと私はずっと願ってきた。どんな状況や局面においても自身にとって望ましい精神を維持することは私の長年の望みであった。到底できず、目下できていないものの、もしそれが自分に能うならどれだけ素晴らしいことだろうかと私は夢想はしてきた。

 努めて明るく朗らかな表情を作ろうと悪あがきしたこともあった。自己啓発や能力開発、スピリチュアル系の分野に傾倒し、引き寄せの法則などを参考にして無理やりポジティブに、容器に振る舞おうとした。しかしそんな見せかけの明るさは社会や他人などが私に突きつける現実によって呆気なく打ち砕かれるのが常であった。

 それは現在においても成就していない。現に今日の仕事においては始業から終業までの間、誰に目にも明らかなほど私は追い詰められた表情をしていたし、声音にもそれが出ていたかもしれない。それが自然で正常な反応だから苦虫を噛み潰したようなかおをするのは当然だという風に、どれだけ心がけていても実際の生活ではどうしてもなってしまうのが現状である。

 思考や感情などといったものは、結局のところ自分のものではない。自身が身を置く状況や環境などといった外界は勿論のこと、精神や心などといった内界に関しても私たちは完全にコントロールすることは不可能である。できないものはできないと認めることも時には必要だと私は思う。

 しかし、自身における心の動きを観照することはできる。御することは能わずとも、自由にならない内的な現象としての機嫌や気分と自己を同一視せず、その情動に振る舞わされることなくそれらとは距離を置くだけなら現実的で私のような人間にも可能な範疇だろう。

 人間に必要なのは何かを被る態度ではなく、ただ観察する姿勢だ。お好みの情緒や情動、感情や精神を都合よく作り出し、それに固執し維持ようという試みは成功したためしがない。私たちは自身の内面が自分の物ではないということを知らなければならない。そしてそれが我が物でないなら、それがままならないのはそもそも必定だと言える。一切の執着はそれが自分の物だという迷妄から生じる。感情や情緒もまた然りだ。問題なのは不機嫌なることではなく、自身の情動を制御しようとする試み自体にあると言えるだろう。

 不機嫌な人間ではなく、不機嫌を観る人になる。不機嫌を滅尽することは能わなくてもそれなら十分可能だろう。

問題視

 生きるということは問題を抱えることである。我々の人生はたとえどれだけ満ち足りた素晴らしい生涯であったとしても、問題と無縁な生というのは恐らく存在し得ないだろう。私たちは大小や多寡の違いはあっても、万人がそれぞれの問題に対処しながら死ぬその日まで日々汲々とし、ほうほうの体で精一杯生きている。

 私たちにとって何の問題もない日など存在しないだろう。仕事がある日には当然業務上の諸問題に頭を悩まされるだろうし、仮に休日であっても、休みの日には働いている日とは全く別物の面倒事や悩みに直面させられるのが常である。少なくとも私は一つも問題がなかった日などこれまで生きてきて一日もなかったし、それは世のすべての人間にも敷衍して言えるだろう。

 個人とは諸問題の寄せ集めだ。皆それぞれ、一人の例外もなく我々は数多の問題を抱え、それにより煩わされながら生きている。その一つ一つをあげつらうだけでも日が暮れるほどの問題を私たちは抱えているし、我々の生が内包する問題の多種多様さはどれもドラマティックでバラエティに富んでいる。ある意味驚嘆すべき事実である。

 そんな数え切れない問題の解決のために私たちは悪戦苦闘する。生活や人生を楽しむことなど二の次にして、私たちは己の身に降りかかり、自身を煩わせる問題の数々と常に格闘する。それが分別のある理性的な人間としての正しい生き方だと信じながら私たちは数多の諸問題に直面し、それを解決・解消するために人生の多くの時間を捧げる。

 私は生まれつき問題だらけだった。生まれも育ちも悪く、容姿にすら恵まれなかった私にとって、自分を指し示すあらゆる要素や事実が即ち問題であるように思われた。そしてそれらの大半は後天的な努力や心がけなどでは到底解決しえないものばかりであった。山積した問題とそれが解消できないという動かしがたい現実に私は絶え間なく苦しみ、そして傷つきながら今日まで生きてきた。

 加えて、それらが一つも解決しないということはさらに大きな問題であった。人生の殆どの時間や多大な労力を犠牲にして問題について煩悶し、悩み苦しみながら出来る限りの手段を講じているにもかかわらず、結局問題の多くはそのまま解決も解消もされずに明日や将来に延々と持ち越され続ける。問題に直面することだけでなく、それを克服できないことが一層私の心を乱し、私は己自身を苛み続けた。

 

 しかし、問題はなぜ問題なのだろうか。私たちは「こんな問題がある」、または「これは問題だ!」と言い立て叫ぶばかりで、それらがなぜ問題であると言えるのだろうか、といった点については考えることは殆どない。問題はなぜ問題なのか、という疑問は多くの場合ただの屁理屈や考えるだけ時間の無駄な愚問として処理されるのが常だろう。

 そもそも、問題は解消されるべきなのだろうか。問題が解決し、それが克服されれば私たちは喜ぶが、一つの問題の解消が即ち大団円だと言えるのは稀である。むしろ一つの問題の終焉は新しい問題の始まりとなる。一つの問題を終えても、別の問題がまた浮き彫りにされ、それが終わったとしてもまた別の何かが……といったように延々それが繰り返される。そのような営みに虚しさを感じない者はいないだろう。

 仮に私たちからあらゆる問題が取り払われたなら、それはいいことだろうか。悩みも苦しみも悲しみも一切なく、面倒で大儀な事柄も何一つなく生きられるとしたら、私たちはどんな目標を持って生きていけばいいのか却って途方に暮れてしまうのではないだろうか。問題が一つもない生など我々には想像するしかないが、それが薔薇色で素晴らしいと手放しで言い切れないのもまた事実だろう。

 人間にとっての生の詳細は、抱えている問題に依っているという事実は無視できない。私たちは直面している面倒事や取り組んでいる問題を通して己が何者かを知る。そしてそれは自分を自分たらしめる己の一部をなす要素となり私たちにとって実は欠かすことのできない存在になってしまうことすらままあるだろう。

 どんな問題に向き合っているかが個人の本質である。政治問題を取り扱う者は政治的な人間となり、教育問題を取り扱う者は即ちそれとなる。私たちを規定するものは私たちが直面する諸々の問題であり、それこそが私たちの実相、本質であると言っていい。それは克服されたり取り除かれたりされるべき代物ではなく、私たち自身を決定づける我々と不可分な何かなのである。

 そう考えれば、個人を個人たらしめるアイデンティティとは、当人にとっての問題そのものだとも言える。自分の存在意義や己を定義するための不可欠な要素とはその人間にとって問題視している何某かであり、それなくしてその人物はそれたり得ない。私たちが自分が自分であると胸を張って明言するには、自分が何を問題だと見做しているかを表明しなければならない。

 そのため、己が何者でどんな存在であるかを明確にしたがる限り、私たちは問題に煩わされ続ける。人間にとっての自己の確立は、自身を煩わせる面倒事や改善されなければならない不備などといった諸事を問題視することと完全に同義だ。私たちが自分であり続けるには常に問題に悩み、苦しみ続けなければならない。それを厭い避けながら、我々が自分自身で在り続けることなど不可能だと言っていい。

 ある個人が何かを問題だと思うことでそれはその人を表す要素となり、それがその人を定義する根拠となる。仮の全ての問題が私たちから「取り上げられ」ることがあったら、もしかしたら私たちはそれに反対しさえするかもしれない。完全な問題解決は私たちにとってのアイデンティティや存在意義を脅かす脅威たりえる。それを私たちは自分でもそれと知らずに本心では忌避しているのではないだろうか。

 

 さらに言えば、私たちは心の内奥では問題を常に欲しているのではないだろうか。自己を確立し、人生の意味や目的を明確化するために、問題に直面することを我々は実は渇望している。私たちにとって何かに煩わされ、苦しみ、それと戦い続けることは実は本望なのだ。どんな瞬間においても私たちはそれを心待ちにし、それが失われることを恐れているのが本音なのだ。

 問題を求めているからこそ私たちの生は問題だらけなのだ。人間が不幸や苦悩から解き放たれたがっているだとか、問題の解決や克服を願っているだとかいうのは根本的な誤解である。私たちは私達自身の本願に無自覚であり過ぎる。私たちは諸般の葛藤に呻吟することが内心喜ばしく、嬉しくて仕方がないのである。

 また、問題を見つけるために私たちは相当な労力を割いている。先に述べたとおり、問題に直面し、懊悩することで私たちは己がどういう存在でどんな意義を持っているかを自覚できるのだから、どんなときでも絶え間なくそれが恙無く執り行えるように私たちは苦しみの源たる問題を血眼になって探し求めている。もし身近に何一つそれが見当たらず、発見できなかったとしても私たちは無理矢理にでもそれを捏造しさえするだろう。

 私自身、大いに心当たりがある。子供の頃には問題だと思っていなかったはずのことを現在は問題視していたりもするが、それはまさしく先に挙げたような問題の捏造であると言えるだろう。人間が幸せや自由、安楽を願い求めているなど大嘘だ。自分が何者であるかを知るための極めて安易な手段として、私たちは森羅万象の中に問題を求める。問題視するものが多ければ多いほど私たちは何かに苦しむ。そしてその苦しみが私たちの存在をより強固なものにする。それが私たちの何よりの望みであり、私たちの本心からの喜びなのだ。

 問題はそれ自体が問題として存在しているのではない。問題は問題視する人間がいることではじめて存在しうる。そしてそれは本当は改善されたり根絶・撲滅されなければならない何かではなく、問題視するその人が自身を定義付け、意味づけるための道具として機能している。問題とは人間が自身の存在に箔をつけるための装飾品でしかない。

 ある事象や事物を問題視する私たちの精神の中にこそ真の問題がある。それを求める心がそれを盤石なものにしている。問題がある時、その根本・根源はそれを見出している人間の内側に常に存在しているのだと私たちは知らなければならない。そして私たちはマゾヒスティックな自身の本音や本心を自覚しなければならない。

 苦しむことが好ましく、喜ばしいならば大いにそれに耽るべきだ。それを希いながらそれを否定するかのような姿勢を表明することは不幸な倒錯である。己の本当の望みが苦しむことや悲しむことならば、それを存分に追求するべきだ。

 もっとも、私個人はそんなことはもう御免被りたい気持ちだ。そしてそうだとしたら、苦しみを欲し、問題を求める思考や行動のパターンを唾棄し、それから脱却する必要があると言えるだろう。それを成就させたいと本当に腹の底から願うなら、これまでの生で踏襲してきたあらゆる言動の様式や精神活動の形式とは距離を置かなければならなくなるのだろう。

本願

 世間一般の通念では、人間は幸福を望み不幸を避けたがるということになっている。人は誰しも、ただ一人の例外なく幸せになることを願いそれのために念じ、それを実現させるために行動を起こしているということになっている。幸福追求は人間の権利であり本能で、その欲求に従って万人が生きているということに表向きはなっている。

 私自身、幸せになることを望んでいたつもりであった。世間の人間がそうであるように、私も豊かで自由な生活、自己実現が思う存分成就するような実り多き人生を望んで人生を送っているのだと思っていた。私は意識や思考の表層でも深層でも、そういった願望を抱いて生を全うしようとしているのだとばかり自分では考えて生きてきた。

 しかし実際のところ、私の人生は一貫して不幸だった。前述のような願望とは裏腹に、私の人生は不幸そのものであり、金銭的には常に困窮し、好ましくない仕事のために人生の大半の時間を浪費し、望ましい形での自己の実現など夢のまた夢といった有様だった。私の生涯においては、願い通りにできたことなど全く無かったと言っても過言ではない。

 人生において私の身に起きたのは、大抵願いとは正反対の出来事だった。世界は私の期待や希望をあらゆる局面において裏切ったし、私はそんな現実に直面する度に人生に失望した。私にとって人生とは常にままならないものであり、胸中に抱いた願いはどんな場合でもこの世のあらゆる一切から無碍にされ続けた。

 私は自身の身の上を嘆き、自己憐憫に浸った。私は自分を哀れで惨めな人間だと見做し、己を可哀想な人間だと考えた。それは私にとっては紛れもない客観的事実にしか思えず、自分を省みれば省みるほど私は自分が憐れまれるべき存在だとしか思えなかった。

 しかしあるとき私はふと思った。私にとって自身が不幸で哀れな存在であるということは自明であるとしか思えないが、その事実が私にとってもしかしたら自分でも気付かないうちに好ましいものとなっているのではないかと。不幸や不遇といった者の中で生きることを私は自分でもそれと気付かないうちに許容し、ともすれば好ましく思っているのではないかと。

 

 望みが叶わない度に私は不平不満を抱いた。私の頭の中は常に夢や希望に満ちているのにもかかわらず、現実はことごとくそれに反する結果を私にもたらした。そしてその事実に私はいつも気分を害した。望み通りの結果が得られず、幸福を浴せない自分の人生を私は子供の頃から延々呪い続けた。

 ままならない人生は私を苦しめた。私は掛け替えのない存在で、そんな私が送れる人生はたった一度きりしかないのに、それが望み通り出ないのだから当然だ。一回しかない生涯がままならないという現実は私を大いに絶望させた。

 思い返せば私は、人生のどんな瞬間においても被害者として振る舞っていた。好ましい生き方を選ぶことも許されず、望まない人生を送ることを身近な人間たちから無理強いされる自分は何と不幸で悲劇的な存在なのだろうか。そういった感情に耽溺することで私は自身を慰撫し、そういった捉え方で己や人生、この世界を解釈することが完全に状態化していた。

 私にとって生涯は悲劇であり、自分はその主役であった。世界で最も可哀想で憐れむべき存在が他ならぬ自分自身なのだという盤石な思いが私を常に支配し続けた。私はどんな場所でどんな時においても被害者であり、そのように振る舞うことが現実に即した正しい姿勢であると確信してずっと生きてきた。

 私にとっての生は不幸が常であり、私は不遇の中で生き続けた。それらはまるで空気のように自身の身辺に存在するものであるように思われた。そして私は、それらがなくしては私の人生は成立せず、己について語ったり定義したりすることもできないと考えていた。いつしか、私にとって生きることと不幸であることは不可分なものとなり、不幸が自身のアイデンティティの根幹をなすようになっていった。

 今にして思えば、無意識のうちに私は不幸せに安住していたのかもしれない。自分にとって好ましい状態や望ましいものについて夢想することすらいつからかしなくなり、思い通りにならない状況の中で生きることが当然であり、それ以外の生き方など有り得ないと思うようになっていった。不都合や理不尽が身に降りかかると、私はかえって安心することさえあった。

 私は自身が被害者や悲劇の主人公だと思いたい願望があったのだと思う。被害者であること、悲劇的な人物として生きることはある意味気楽だ。そういった存在は常に自分以外の何らかの要因によって苦しめられる。その人が被る痛苦や苦悩といったものは基本的にその人には責任がないと見なされる。だから自らを被害者と定義付けて生きることを人間は無意識のうちに望んでしまうのかもしれない。

 そう考えれば、私にとっての本願は幸福ではなく不幸になることであったと言える。上辺だけは幸せを欲し、好ましい結果を望んでいるかのようなフリをしていたが、私の本当の望みは不幸せになって被害者然として振る舞い、自身を悲劇の主人公として位置づけて自己陶酔に耽ることだったのかもしれない。そんな己の本心に無関心で在り続けたことが本当の意味での私にとっての不幸だったのかもしれない。

 

 私は悲惨や窮状を腹の底ではずっと望んでいた。たとえそれが悲劇でしかないとしても、私は自身の生涯がドラマティックであって欲しいと願った。ストーリー性のある人生を送れるなら、それが大団円でなくても良く、むしろ悲劇の舞台の上で生きた方が自身をより劇的な存在だと見做せるからその方がかえって好都合だという浅ましい算段すらあったように思える。

 だから私は物心ついてから今日に至るまでずっと不幸せであった。それは他ならぬ深層心理や無意識といった次元における私の本願であった。そして私はそれを自覚することもなく被害者として臆面もなく生き続けてきた。ドラマやストーリーの中で意味付けや定義づけられた生を私は内心ずっと望んでおり、それが私の人生を形作っていた。

 それは紛れもなく私にとっての本願であった。社会の不備や他人の悪意によって私の人生が台無しになって自分が惨めな境遇に置かれているのではなかった。私が被った不幸や悲劇の出処は疑いようもなく私の内なる願いであり、自身の生涯は本願がそのまま成就された結果でしかなかったのである。

 私の人生はそういう意味では常に思い通りであった。自分が不幸を望む自意識過剰な弱者にすぎないと気づく能力を持たなかったことが問題の本質であり、根源であった。私の人生はどんなときも期待通り、望み通りであったし、世界は私の本願を忠実に叶え続けていたのだった。

 私は己が不幸や悲劇を望み、そこに安住したがっていたのだと今頃になって愚かにも気付いた。願いどおりの生を送っているのにもかかわらず、私は自分の外側に常に原因を求め続けた。私を被害者にしている加害者としての悪いやつがこの世の何処かに存在し、それによって自分の人生が台無しになっていると愚昧にも思い込んでいたが、それは人生やこの世界に対する根本的な考え違いであった。

 そのことを踏まえれば、あらゆる理不尽や不条理、不都合といったものを私はもう望むことはない。それらは最早私にとって本願たり得ない。とどのつまり、間違っていたのは私自身であった。自分の本心が不幸や不遇を心底望んでいて、それをこの世は忠実に成就させて私に提供していたの過ぎなかった。それに気づくまでに私はあまりにも多くの時間と機会を犠牲にしてきたが、せめて残りの人生はこのような浅薄で愚劣な勘違いから離れた生き方をしたいと切に願う次第である。

限界

 人間にとっての限界とはなんだろうか。改めて考えてみれば、私たちの人生には常にあらゆる制限や限界が存在する。様々な意味において私たちは有限であるし、日常の生活や暮らしの中で無制限にできることなど一つもないと言っても過言ではないだろう。

 そんな事実に思いを馳せれば、私たちの生は息苦しく窮屈である。限られた可能性や機会を失わないように、損なわないように常に恐れと不安を携えて生きなければならない。そんな避けがたい現実が私を暗澹たる気持ちにさせる。それと同時に私は、無限や永遠と言った代物に強く惹かれる。

 私の肉体はやがて老い朽ちるだろう。人間は生まれたときが最も若く、それから刻一刻と年令を重ね、決して若返ることはない。人生の盛りをすぎれば只々年老いて体の節々の自由が効かなくなり、風貌も衰え老醜を晒していくだろう。そして我々は最終的には死に至り、死骸は荼毘に付され遺骨は埋葬されそれで一個人としての生は幕を下ろす。

 私の精神はその肉体を土台に存在する。心は健全な肉体があってはじめて正常な機能を保つ。私たちの体が健康を害したとき、私たちの精神は直接影響を受ける。肉体を損ないながら精神を強く保つことは殆ど不可能と言ってもよい。肉体の壮健さに限りがあるなら、私たちの心もまたそれの如何によって大きく左右されるだろう。肉体の自律神経が失調したとき、正常な真理や精神が維持されることは殆ど無い。その事実だけでも私たちの精神が肉体と不可分であることは疑いようがない。

 心身ともに私は限界がある。これは疑いようも動かしようもない真実である。人間としての肉体と精神が有限で制限だらけであるということを否定できる人間が果たしてこの世の中の何処にいるだろうか。私たちは己の限界を常日頃さまざまな形で、さまざまな状況下で思い知らされるし、それに対して何も思わずにただ安穏としていることもできないだろう。

 自分が有限な存在だという事実は私を大いに悩ませた。私にはやりたいことがたくさんあったし、行きたい場所も数多くあった。しかしそれらの大半を為すこともなく私は老いさらばえてやがて惨めに死んでいくだろう。そんな人生への目算が私を苦しめる。自分が有限な存在であること、限界を超えることは能わず、制限を強いられた生を送るしか選択肢が与えられていないということが、私には我慢ならなかった。

 

 私は自分の人生を振り返りながらも未来についても考える。もし自分があと20歳若かったら、そういった一円の特にもならない空想や妄想に耽るようになったのはいつごろからだろうか。今現在の私は既に若いとは言えず、これから先の展望にも明るい兆しなど一切ない。このまま馬齢を重ね、惨めな男として生涯を閉じる将来の己の姿が目に浮かぶようで、私は前触れもなく後悔と絶望の念に駆られる。

 私はもう戻らない青春や、ただ年老いるだけの将来を悲観する。学生時代をやり直すことは不可能だし、今頃になって発奮して決起したところでもう、大したことはできそうにもない。同世代の人間は然るべき青春を送り、然るべき職に就き、然るべき収入を得、然るべき伴侶と然るべき子供を得て然るべき家庭を築いている。自分がこれから先いくら発奮したところで、これらのうちの一つでも達成できるだろうか。恐らくそれは無理だろう。私は自身の能力や将来性に限界を感じており、その範囲内で先に挙げたような「偉業」を成すことが能わないと分かってしまっている。

 私は自身の容貌が年々若くなくなっていくのを感じる。一個人として、一個体としての自身の限界や不可能性を日々思い知ることが多くなっている。もう若くないという現実は私の生を生きづらくさせる。それは偏にもう自身の可能性が狭まっているということである。肉体的には成長することはあり得ず、精神的な面でも三つ子の魂百までという言葉通り、大きな変化は望むべくもないだろう。

 私は自分にまつわる限界についてももどかしく思う。若さは可能性そのものであり、それが失われるということは個人としての限界が見えつつあるということを意味する。個人として行き詰まり、制限や限界を目の当たりにして失意や絶望に打ちひしがれているのが現状である。

 私にとって余暇や休日は有限であり、自由に使える金銭にも限りがある。無限に好きにできるものなど改めて思えば私には何一つない。自分自身というものはたかが知れている。そう考えればただ虚しく、やるせない。ままならない人生に窮屈さを覚え、それから逃れられない現実にほとほとうんざりさせられる。

 自身を束縛するあらゆる条件や制限を私は呪わしく思っている。何処にも行けず、何にもなれず、何も為すこともない人生。取り戻すことができない好機や望むべくもない成長や発展。そういったものに思いを馳せればはせるほど、自分という存在の限界や幽玄さを強く意識させられる。

 しかしそれらによって呪縛される私は、それらによって規定されもする。できないことや果たせないことは、自分が何者であるかを私に知らしめる。自分にとって不可能なことを列挙することは、それは遠回しに自分自身について語ることでもある。

 制限や限界の中で人間は己を定義し、自身を知る。自分にとって可能なことや成し得ることよりも、その正反対の事柄がより正鵠を射た自己への言及となる。有限性こそが自分が自分であることを表している。不可能なことや無理なことは自分を形作る諸要素となっている。

 

 人間を個人たらしめるのは記憶や思考ではなく、己を束縛する制限や限界なのかもしれない。自己同一性やアイデンティティとなるのは本質的には為し得ない事柄であり、その総体が私であると見なせる。

 人間としての自分とは有限性そのものなのではないだろうか。自身の寿命や能力の限界が個人を規定し定義づける。自己の実体はできないことを通してうかがい知ることができ、私は何者なのかといった類いの疑問の明々白々たる回答はそんな不本意な事実の中に明確に存在すると言っても過言ではないのかもしれない。

 それならば、限界や制限を厭う気持ちは、本質的には自己嫌悪であると言える。自分自身における嫌いな側面や要素というのは、突き詰めれば成せないことやできないことに起因する。不可能性や有限性に悩み苦しみながらも、それらが自分を自分たらしめる不可欠な要素であるというのは皮肉めいた現実だ。自分自身を嫌うということと自分にまつわる限界を嫌うことは全く同じことであると言える。

 私は私が私であることなどに最早大きな意味を感じない。自己のアイデンティティとして機能している諸要素が限界そのものであると気付いたからだ。限界を超えるということは自己を否定することである。

 自分とは限界そのものであり、それを肯定するか否定するかで身の振り方は全く異なるだろう。私は一個の人間としてはもうたかが知れているが、そこに執着しない視座に立つならば、限界や有限性などといったものから解放されるのではないだろうか。

 一個人、一個体として私を定義づける制限や限界から解き放たれることが真の自由であると言えるし、それが私が目指すところであると気付いた。私は限界や制限の中で自己を規定したり定義づけることを取りやめ、無限や永遠のなかで在り続けることを志向する。

 個人であるということは限界を定めることであり、無限や永遠に帰依・帰属するなら個人としての視点や観点から留まることはできない。一個人としての限界や制限から脱却すれば、その瞬間から私は広大無辺であり永劫不滅の存在となる。

一事

 私たちは人生において一体何を大切にすればいいのだろうか。世間を見渡せば、これには様々な回答があるだろう。それは自分自身の生存を確保し、財産を築くことだと言う者もいるだろうし、国や社会ひいては他人に奉仕することだと言う者もいるかもしれない。何かの分野に私心を捨てて貢献するという未知もあるのかもしれない。それがどのような答えであれ、それは完全に個々人に拠るものでしかないだろう。

 私という存在が生きる上で留意して置かなければならないのはたった一つのことだけだ。私にとって肝に銘じ、心に刻まなければならないと感じられるのはたった一事しかなく、それは先に述べたような社会的に余人がよく主張するような答えとは全く異なった性質の代物である。

 十や百の事柄を心に留めておける者は稀だろう。そういった才人はもしかしたら存在するかもしれないが、それはこの世の中において本の一握りの人間だろうし、言うまでもなく私はそれではない。また、大切に思わなければならない事柄がいくつもいくつも挙げられるならば、人はそれらによって雁字搦めになってしまうだろうし、それによって私たちは大変生き辛い思いをさせられるだろう。

 しかし、たった一事ならどんなに愚かな人間だとしても苦ではない。思えば、私は愚鈍で浅薄な人間だからこそこの一事を完全に捉え、気に留めることができると言えるのかもしれない。一個人、一族、一国家などといったものとは全く異なる一事のみが私にとって重要であり一大事であった。

 その一事とは、私の本性はこの世界そのものであり、この世を形作る根源的な何かであるということだ。よくスピリチュアル関係の分野においてはアートマンブラフマンであるなどといった言説が頻繁に語られるが、私はそれに近いことを身を以て知るに至った。それは新しい知識ではなく、自身が生まれながらにして「それ」であったということを改めて思い出したにすぎないのだが、これは私にとって驚くべき再発見であったと言える。

 これによって私は場所や時間を問わず、完全に安泰である。私は人間であること、一個人であること、日本国民であることは揺るぎないことではあるが、それらの属性や要素といったものは私にとってのただの一つの面でしかない。それらの一つ一つは蔑ろにしても構わないなどと言うつもりは毛頭ないが、しかしそれらは私にとっての本質ではない。本質ではないが故に、それらの観点から見た私の値打ちや意義といったものの仔細については全くシリアスになる必要が無いというだけである。

 

 人間という存在は、何を大切に思うかに拠っている。自分の生命や財産にのみ注視する人間は単にただそういう存在でしかない。私はそれについての善悪や是非について論ずるつもりはない。また、社会の公益や他人の幸福のために奉じ、殉じさえする大人物であっても、それは単にそれがその人の性質を表しているだけだ。個人が重視しているものが、それが何であれそのままその当人を表現しているのである。

 それは一個の人間としての心身かもしれない。私たちにとって自身の肉体や精神は掛け替えのないものであることは疑いようがない。だからそれを何よりも大切なもの、唯一にして絶対なものであるとし、それを第一に考えて行動するというのは全くおかしい話ではない。そういう指標に則って生きる生き方は世の大半の人間が実践している。

 または死後も存続する霊体かもしれない。自身の本質が霊魂であり、生前も死後も永遠に不滅であるという考え方は宗教や精神世界などに傾倒する者が抱く思想である。自身の霊を何よりも大切であるとする考え方も一般的であり、現世利益だけに終着するような人間であっても、自身の死期が迫ればその多くは己の不滅を信じたくなり魂や霊としての自分が何らかの形で存在し、それが何よりも重要であると改心することもままあるだろう。

 何に重きを置くかが個人のアイデンティティとなる。それが即物的なものであれ観念的なものであれ、大事に思っているものがその個人の本質でありその人をそのまま表現する。何を大切にし、何を第一義とするかに貴賎や優劣は一切なく、単にその事実は「汝それなり」ということを表しているだけだ。

 今の私は最早肉体も精神も霊魂も一大事ではない。余人にとっては重大な関心事となるであろうそれらが私にとっては少なくとも「最も大事」ではない。最重要事項としてそれらを挙げる者は世間においては大多数かもしれないが、私はそれではない。それは私が特異だとか特別だとかなどという話ではなく、単にそれでないという事実だけがあるのみである。

 無論それらは人間としては大切かつ重要ではある。私は目下人間としてこの世に生まれ落ち、依然生存しているため、人間としての自己がまったく無視して捨て置いて問題なし、とはならない。どんな屁理屈を言ったところで、私が一個人であること、一個の人間であるという側面を完全に否定することはできないし、全く重要でなくなるということはあり得ないだろう。

 しかしそれには「人間として」という注釈がつく。私にとっての人間としての側面は数多くある面のほんの一つでしかない。それは唯一無二の絶対的な重大事ではないと言っているに過ぎない。それを軽く見ていいということではなく、私は単に人としての自分としてどうであるかという問題だけに煩わされるべきではないと述べているのである。

 私は自己の本質は「人間としての視点」を超えたことろにあると感じている。それは大切ではあるが絶対ではない。これをはっきりと述べるのは難渋なことではあるが、人間でありながら人間に限定されない要素が我々にはあり、それにフォーカスすることで見えてくる境地のようなものがあると私は考えている。

 

 私は自己の本性はこの世界の根源、宇宙そのものだと感得した。自分が何者であるかという疑問への一つの答え、それは私は即ち全体自体であることだ。私はこの世の全てであり、一切合切の全部を為す源が自分自身の正体だ。

 一個人としての私はその根源の一つの現われや状態にすぎない。私は田舎出の貧乏な日本人でしかないが、それは私の本質や本性、本地ではない。それは否定のしようがない、動かしがたい厳然たる事実ではあるが、それ自体が私ではない。だからそのことに対して私はシリアスに悩んだり苦しんだりする必要が全くない。

 自己の本質は宇宙やこの世などの全体性の根源である。あらゆる一切を生み出し、形成し、維持し、消滅させる大きな全体が全て丸ごと私であるといえる。私は肉によって私であるのではない。また、私は精神や霊魂と言った形而上の概念的な主体それ自体にも限定されない。霊格や人格、肉体にも依存しない自己の本質とはこの世界そのものであり、宇宙自体が己であると私は言い切る。

 この世界全体が私であり、だから私は無限かつ不滅である。私の肉体は私の全てではないから、私は肉体が生み出された日に生まれたのではない。だから私の肉体が死ぬことは私の滅びを意味しない。また、それは精神や霊魂に対しても同じだ。それらのどれもが私を限定的に定義し、規定するのではない。私は特定の何かではないから、不滅であり普遍である。

 このたった一事を留意し続けることで最早人間としての問題は瑣末事となる。この世を成す根源としての空間や宇宙こそが私である。心や体はその「大きな私」、「全体性としての私」が顕現した一つの形でしかない。その一表象としての私の煩悶や苦悩といったものは本質的な意味において私を痛めつけたり苦しめたりすることは決してありえない。

 一事が万事であり、それだけにフォーカスできるかが常に私に問われ続ける。この世の根源、大元となる宇宙や空間こそが己の本地なのだと私は何度でも繰り返し宣言し、自らに言い聞かせる。私は一個の人間、一個人ではあるが、それよりももっと大きな本性を具有しており、それこそが本当の私なのだ。そしてそれとしての私は完全無欠であり広大無辺にして永劫に不滅である。

 それとしての私には何の不足も欠乏もなく、悩みや苦しみなど抱きようがない。そのたった一つのことを常日頃、どんな瞬間においても見失わないなら私には何の憂いも煩いもありえず、何の問題も生じない。

私の正体

 自分とは何かという問いは月並みだが究極の疑問だ。これは古代から現代に至るまで、おそらくすべての人間が人生のある時期には最低一度は抱く疑問ではないだろうか。青臭く、通常なら答えがでないこの問いは世俗的な感覚においては考えるだけ時間の無駄なものでしかなく、それに延々悩むのは余程の暇人か世捨て人くらいのもので、余人の大半は実際生涯を通してこの疑問を本気で解消しようとは思わないだろう。

 私たちは己自身を蔑ろにする。私たちは自分という最も重要なはずの存在について棚上げにして生活している。冒頭で述べたような疑問を取り敢えず保留し、日常の瑣末事に忙殺されながら暮らしている。それが当然の振る舞いであると認識して実利的な損得に頭を悩ませることに汲々とし、人生の根源たる自己への探求を怠ることが常態となっている。

 だが、人生とは自分自身を定義するための試行錯誤でしかないのかもしれない。人間は何のために生きるのか、という疑問も本稿のはじめに掲げた問いに並ぶほどのものではあるが、この2問は実は本質的には同一のものではないだろうか。私たちは己を知るために生き、人生の目的や目標も詰まるところは己を探し求め、発見することにあるのかもしれない。

 しかし、自分探しとは一個人の一生を費やしても足りない旅路である。自分自身をどう定義するかという問題はあまりにも遠大過ぎるように思われる。そしてそれに取り掛かることを経済的な観点で見たとき、一円も生み出さない徒労にすぎないと断ずるのは間違いでもないので人はそれについてはもう問いただしても仕方がないと諦めるのも妥当ではある。

 私は一個の人間としては恐らく取るに足りない存在だ。私は全く特別でも優秀でもなく、また平均や標準の域にも達していない個人にすぎない。自分が塵芥に等しい存在でしかないという客観的な事実は私にとっては大問題であり、かつ受け入れがたいことでもあった。

 自身への幻滅や失望が常に私を苛んできた。あらゆる面で自身について考察しても全く一つも肯定できる点が見当たらないように思え、私は己を激しく嫌悪した。鏡に映る自身の像にすら嫌悪や憎悪の情を抱き、本当の自分というものが何らかの形で何処かにあるはずだという漠然とした願望を抱くに至り、しかしそれが見つからないと私は日頃嘆き、不満を募らせていた。

 

 現実や日常における私は卑小かつ低劣な男にすぎない。社会的に低い地位に置かれているし経済的には困窮している。外見や容姿もとても褒められたものではなく、私は他者から好かれることも愛されることも極めて稀であった。世間一般の客観的な視座に立って己を省みたとき、その惨状は見るに堪えないものである。

 私は生来、貧しく無学な人間であった。生まれ育った場所は全国でも屈指の遅れた辺境の地で、両親も貧苦を常とし無知で頑迷であった。そういった環境で生育された人間が立派な人物になれる余地など当然あるはずもなく、私は貧乏で無知な田舎者になるべくしてなったといったところである。

 私は社会において、下流や下層と言った分類に当てはまる人間である。そんな厳しすぎる客観的事実は人生のあらゆる局面で私に突きつけられ、その度に私は煩悶した。私にとって自分が自分であることは呪わしく、耐え難いことであった。目に見える自身の姿や他人や世間の目で値踏みされる己の値打ちといったものが逐一私を苦しめてきた。

 自分自身が価値のない存在であることに私は常日頃苦しんだ。自分の生涯が無意味であることは私には否定し難く、それが何よりも嫌で煩わしく思えた。自分が他人よりも劣った存在でしかないという事実を受け入れることができず、その一事に私は随分と傷つき懊悩してきた。

 他者からも私は卑しく無価値な存在だと値踏みされることを私は常に恐れた。家族にしろ赤の他人にしろ、自分以外に人間が私を嘲笑したり侮蔑することが我慢ならなかった。そしてそれは大抵の場合、私の生得的な要素に起因する問題であったため、後天的な努力や心がけでは如何ともしがたいものであった。

 自分が唯一無二で高貴かつ値千金、特別で有為な存在だったなら、と私は物心ついたときから常に思っていた。希少で価値が高く、特異で尊重される存在になることができたなら、自他共にそう認める存在にたった一日でもなることができたならと、いつも願っていた。

 そして私は、自身をユニークでスペシャルな存在たらしめるために四苦八苦を重ねた。自分が考えられるあらゆる手段や方法で私は己の価値を刷新し、確認しようと試みた。そしてそれは主に精神世界や神秘主義に関連する価値観や世界観によって行われた。私は自身を特別で価値のある存在だと思いたいが為に通り一遍のスピ系の言説を頼りにして多大な労力を割いてきた。

 自分は掛け替えのない尊い存在だと思おうとしたが、現実が常に私の邪魔をした。己を有意義で価値のある意味ある存在たらしめる為の定義付けや設定を行うために、私は千の言葉を駆使してただひたすら苦労や努力を重ねた。自分が絶対で唯一無二の、至高の存在だと見做したいという一心で生きてきたが、己自身を満足の行く形で定義するというただその一事が私にはどうしても不可能であった。その悲壮な悪戦苦闘の果てにもたらされた好ましくない結論は、単に私を絶望の淵に追い込んだだけだった。

 

 そんな私はあるとき、一個の人間であることに見切りをつけた。人間としての価値や人としての生の意味についての煩悶は、己の本性や本分が人間であるという前提に根ざしている。ならば私は、自身が人間であることに重きを置かなければいいと考えた。人間として客観的かつ現実的に無価値で無意味で取るに足りないとしても、それが自己にとっての本質とは無関係であるならば、それはそもそも問題にもならない。

 私は人間であることや一個人であることを手放した。生きている限り私は人間でしかないが、それは私にとっての本質ではない。自分が自分であるということが、人としての肉体や精神、また霊的なアイデンティティとは全く別の何かに拠るのではないかということに思い至った。

 その時その瞬間、心身や霊魂などに基づく、個としての自我が融解していった。肉体を持った人間、戸籍や経歴を携えた個人としての私は上辺だけの一面に過ぎなくなった。また、霊的な主体としての一貫性を保った私という代物も皮相でしかなく、根源かつ本質的な自己はそれらとは無縁の何かであり、それが本来の私であると気付いた。

 この世、この世界、宇宙……どのような言い方をしても差し支えないが、要するに森羅万象の基盤となる全体性自体が自分自身の本来の姿であると私は「思い出した」。根源的な本質、この宇宙の礎としての己の本地を呼び覚まし、立ち返ることができるようになった。それは何の前触れもなく起こり、私は人間としての私を超越した己の本性に何の努力や作為も要せず想起させられた。

 私の本性は人ではない。あらゆる煩悶や懊悩、憂いや煩いというものは人間が人間であるがゆえに私たちが背負い被る苦しみである。人間が自己の本質を人間でないと見抜いたとき、それらはそもそも存在し得ない。

 私の本地はこの世の根源、宇宙そのものであった。無論それは人間としての私が直ちに消滅するとか、顧みなくていい存在になるという話ではない。人間としての私は上辺や皮相にすぎないが、その次元としての私は依然として在り続け、それは重要であり大切であり続ける。しかしそれは唯一の実相ではなく、私の正体がそれではないというだけのことだ。

 私が人間であるということは私を表す一つの側面にすぎない。多面体のある面がそれ自体、それ全体だとは決して言えないように、私たちの人としての姿や有り様も私たちを表象する一つの形でしかない。ただその当たり前の事実が浮き彫りになったというだけのことだ。

鏡張りの独房

 他者をはじめとしたあらゆる事物は自己の心を映し出す鏡だ。人間に対しても動物に対しても、また物体や現象、形而上の概念的な存在ですら一切は私たちのある面や部分を表象する象徴のような役割を果たしているに過ぎない。私たちは自分以外を道具やきっかけとして、己自身をそれの中に見出している。森羅万象は己を婉曲的に知るための手段にすぎないと言って良い。

 自分の精神のある部分を人間は外界の何かに投影する。他人の不徳や罪悪を糾弾しているとき、人はその対象に自分が抱いている後ろめたい何かを見ている。他者に対して軽蔑や嘲笑の念をぶつけるとき、人は少なからず自身の内面にもそれとの共通項を無意識の内に発見し、それを外部の存在に転嫁することで己を防衛している側面もあるかもしれない。なんにせよ、他人というものは自己を映し出す鏡であり、他人を指差すときにどんな感情や意図を持っているにせよ、それは必ず己自身にも少なからず該当する場合がほとんどである。

 厳密な意味で私たちは決して他人を知ることはない。他人に対して己にまつわる何かを見出すが故に人はその人物に何らかの言及や評定を下すことができるのであり、それらは自己の認識に依存している。よって他者について語るという行為は自分がどのように他者や事物について考え感じているか、ひいてはどんな願望や情動を内に秘めているかを吐露する行為となる。たとえどれだけだけそうならないよう気を配ったとしても。

 私たちが他人に対して何らかの評価を下すとき、それは迂遠な自分語りにしかならない。とある人物について「自分が」どう思うのか、ある出来事について「自分が」どう感じたのか、というように。人間が何にどう言い及んだとしてもその発言のテーマは「自分自身について」にしかならない。社会正義や人類全般に敷衍して言える真理めいた分析や批評をしたつもりになっていても、それは単に自分自身を基準にした私見、つまり自分自身の内面の暴露の域を決して出ることはない。

 他人を批判するとき、それがどんな内容であっても、自己への言及でしかない。どんな極悪人の非道な振る舞いを糾弾していても、それは自身の倫理、自身の思想を遠回しに表明しているだけだ。淫行や詐欺、強盗や殺人に至るまで、それがなぜ責められるべきなのかを大上段から語るとき、人は己が抱いている価値観や世界観、思考回路や精神構造を精緻に露呈することになる。

 人間は終生どんな瞬間においても自身と向き合い続ける。何かを褒めそやしても、蔑んでも、虐げても哀れんでもそれは遠回しに自分自身のなんらかの要素と対峙して何かを言ったりやったりしているだけだ。人間の言動は詰まるところ徹頭徹尾自己満足の域を出ず、公や天下国家のための行動と見せかけてそれは深いところで単に私的な動機に拠るものでしかない。

 

 私はこれまで生きてきて、数え切れないほどの悪人と邂逅した。陰険で悪意ある、強欲で倒錯した悪漢との交わりは、私に怨憎会苦をもたらし大いに私を痛めつけた。私は幼少期から今日に至るまで、徹底的に自身を被害者として位置づけ、これらの悪党との対峙を悲劇的な事件と捉え、彼らから被った被害や損失に絶えず惜しみ嘆いてきた。悪人に苛まれ、辛酸を嘗め痛苦に呻吟する自己に憐憫の情を抱きながら生きてきたと言っても過言ではない。

 私はどちらかと言えば性悪説を信じてきた。人間という存在は根本的に悪であり、自他共に本性は悪そのものであると考えてきた。事実これまで生きて巡り合った善人の一人悪人の数を比べれば、後者の方が圧倒的に多かった。また、自分自身の内面に宿っている「良くない要素」を私は見逃すことができなかった。私は他者を害したいと思った経験は数知れず、我欲のために自分以外を犠牲にすることを厭わない面を持っている。だからそういった気質が遍く全ての人間も具有していると考えた。

 また、私にとって社会は陰険で殺伐とした厳しい世界だった。誰も彼も腹に一物あり、強欲かつ猜疑心にまみれ、身勝手で傲慢な人間が寄り集まってできているのが世の中の実相だと私はかなり幼い時期から考えていた。巡り合う全ての人間が私には信じる値せず、また顧みる価値もない存在だと信じていた。

 しかしそれは自身の疑い深さや恨み深さ、欲深さに根ざした偏見に過ぎなかった。他者や世界に対するそのような認識は、自分自身の内面が外界に投影されていただけだ。他人を推し量り値踏み、決めつけるだけで結局のところ私はこの世や自分以外の人間について何一つ分からず、また知ろうともしなかった。ただ自分の頭の中の考えをただなぞっていただけだった。

 私は己の中に救う幻影を他人の中に見出していただけだった。他者が醜く見えるのは他でもない自分が醜いからそう見えるだけだ。他者が強欲で身勝手に見えるのは他ならぬ自分自身の本性をその人物を引き合いに見出しているに過ぎない。

 私は未だ他者を知らず、これからも決して知ることはない。仮に今日を持って心機一転、心を入れ替えて世界や他者への認識を改め刷新したところで、その新しい見方や捉え方もまた、大将それ自体とは似ても似つかない独りよがりなものにしかならない。それが肯定的であれ否定的なものであれ、この一点は決して覆ることはない。

 人間の認識は例えるなら鏡張りの独房だ。自然も社会も、人間もそれ以外の生物も、物体もイメージも全て自分自身を投影する「何か」以外にはなりえない。他人を分析しているようで己自身を省みているだけであり、森羅万象の一切合切は映し出された己の虚像でしかない。

 人は生涯を通して、変形した歪な自画像と向き合うだけだ。どんな極悪人や聖人君子、呪わしい災厄や欣喜雀躍すべき吉事、恐るべき凶兆や胸躍る福音も全てが自分自身の投影にすぎない。私の中の何かが象徴的または比喩的に顕れているだけである。それが人としてこの世を知覚し解釈する限り限界として私の厳然に常に立ち塞がる。

 

 外界の実相について、人間が本当の意味で知悉することはできない。事物のありのままについて、人は決して触れることは能わず、その片鱗さえもうかがい知ることは不可能だ。平たい表現をするならば、人間にできるのは理解ではなく偏見に基づいた決めつけや手前勝手な思い込み、浅薄で愚劣な錯覚の類いだけだと言える。

 人間の視点における人間の知の限界は極めて浅い。私たちは生涯を通して、真の意味で何を知り得るだろうか。偏見や誤謬の一切を排し、本当の意味で何かを一つでも分かることができるだろうか。どれほどの叡智や見識、分別を持ってしてもそれが可能になるとは私は全く思わない。

 しかし、人間は人知を超えた神の視点を持つことができる。私たちは全にして一なるものであり、無分別で境目が全く無い。神の視点で一切を捉えるなら、あれやこれ、ここやそこなどと行った区別もなく、悪人と善人、自分と他人、損益も得失、生死のべつもない。全宇宙のすべての事物や生物・無生物、形而上・形而下の別なく等価であり、時間や空間を超越して全ては即ち一つのものであり、その一者こそが神そのものだ。

 私たちには、人間でありながらそれを超越できる可能性が内在している。一個の人間としての分別や見識、を維持しながらもその視点を失わず、全一性や無分別の境地にわずかでも足を踏み入れることはもしかしたら可能かもしれない。それが擬似的なものでしかないにしても、私たちは人間を超越した次元を思いを馳せることはできる。

 人でありながら人としての矩を超えた意識や視座を会得した瞬間、世界は一瞬で転換する。善悪や可否、生と死、物心などといった物事の境界線が消失し、肯定することも否定することもなく、あらゆる全てをただひたすらに観照し、あるがままの状態をただそのまま受け入れる妙境を体験する。

 私たちを取り囲む鏡の部屋はその瞬間幻のように消え失せるだろう。それは限定的な時間におけるほんの一瞬の経験でしかなく、とてもではないが生涯を通して貫徹できる姿勢や状態ではないかもしれないが、非人間的というか超人的な観点に依拠するときだけ、私たちは束の間鏡張りの牢獄から出られる。そしてそのような間においてだけ、その牢獄の実体が我々の心や精神、霊魂それ自体であることに思い至るだろう。心がそれに捕らわれているのではなく、心それ自体が私たちを縛り付けるしがらみに他ならないということを。

見境

 人は無意識のうちに物事を分別して捉える。生まれついた瞬間の嬰児にとって、この世界は一体どんな様相を呈しているのだろうか。分別や分類などといった浅知恵など一切持たない無垢な者にとって、世界は全く単純明快であり仏語で言うところの無分別の境地がそのまま現れているのだろうか。しかし、我々にとってこの世や世界は到底そういった代物ではないことは論をまたないだろう。
 まず人は己とそれ以外を分け隔てる。確固たる掛け替えのない存在としての自分自身というものが意識がある限り常に我々にとっての中心となる。そして己の身辺を取り囲むあらゆる事物が存在し、私たちの近くは自己とそれ以外を明確に分類して分け隔てる。まず私がある、という前提に基いて私たちは生活を営んでいることもまた疑いを挟む余地はないだろう。
 次に人は自身に属するものや関するものとそれ以外を隔てる。自分とそれ以外という単純な構図飲みを想定するだけでは認識不足だ。自分の身内や友人、利害関係を基準とした敵味方の峻別、同国人と外国人、人間と非人間の生物などといったように私たちは己とそれと関わりがあるものとそうでないものを分け隔てて認識し、どのように対応すればよいかを判断できるようになる。
 人の知的な活動は形而上形而下の別なく「分ける」ことが肝となる。触れられるものであれ、概念上だけの存在であれ、私たちは何かを知るには兎に角分類することから始める。私たちは己と他者が異なる存在であることを踏まえ、さらにそれがどのように違っているかなどといった観点からそれを理解しようとする。
 さらに人は自己の認識化において分別したものに名前を付ける。「己でないもの」に個別の名前を与えることで私たちはそれを明確に認識するに至る。分類して命名するという一連の過程こそが人間の知的活動の本質であり、私たちは全く意識せずにこれを絶え間なく、すべての対象に行っている。

 

 しかし、本来この世界には区別や分類、分け目や境界など存在しない。冒頭に述べたように、嬰児にはそういった視点は備わっていないだろう。そういう無分別の境地こそがこの世界の実相であり、あれ・これ・それ、自分とそうでないもの、などといった区別はこの世の本来のあり様とはかけ離れた認識である。
 境界や分別といったものは人間の頭の中にしかない。私たちの脳内の活動としてあるものと別のものが区分けされて知覚されているに過ぎず、私たちはそれぞれの意識や至高の中で形作られた仮想の世界観に基いてこの世界をバーチャルに認識しているだけであるといっても全く過言ではないだろう。
 私たちにとって自明であるそれは、結局のところ幻想である。頭蓋の内側で構築された価値観や世界観というフィルターを通した世界は言うなればまがい物でしかない。私たちが普段現実だと思っているこの世界は意味づけされあらゆる区別や分類がなされているがそれは我々人間の目や脳にとってそう見える、そう感じられるというだけでしかない。
 しかし、その幻想は私たちにとって必須である。私たちの生存、人生というものはほかならぬこの幻想を土台にしている。いわゆる無分別という状態で四六時中生活することは能わないだろう。私たちはこの世界を適切に知覚し認識することではじめて生きる上で適切な思考や判断が可能となる。
 事物や事象、自己と他者の間に正しく線引きをすることが理性であり正気である。私たちがマトモであり続けることができるのは、先に述べた「正しい幻想」を抱き続けているからだ。バーチャルな認識、イマジナリーな境界線、生存上の便宜としての識別などが駆けたなら、私たちは生活能力を失い生きることすらままならないだろう。
 境界や区別がない状態は有体に言えば狂気である。精神病患者や痴呆老人は事物を的確に分類することができない。だから彼らは常人が暮らす世界の一員ではいられず、遅かれ早かれ社会から隔離されてしまう。狂人は事物や事象の見境を付けられないから日常生活に支障をきたす。私たちと彼らの差異は結局のところこの一点しかない。
 言うまでもなく、狂気の中で人は生きるべきではない。精神世界や神秘主義の世界ではことさら称揚され賛美される無分別やワンネスなどといった思想は、あえて否定的な言い方をするならそれは単に狂った人間の考えにすぎない。私たちは世俗や日常の領域においては正気を保つことが絶対に不可欠であり、そこから離れて生きようすれば世捨て人になるか病院に収容されるしかなくなる。
 しかし、それは単に狂気が実利や実益に適わないというだけの話だ。人間が受容する世界は妄想や幻想にすぎないが、そのマトリックスな世界観に首まで浸かって生きることは私たちにとっては無論有益である。私たちは分け隔て名付けることでこの世界を知り、それによって自身にとって有利になる判断を下し、行動できる。それによって得られる恩恵は計り知れない。我々が頭のなかで解釈する世界がこの世の真実や実相とはかけ離れていたとしても、プラクティカルな観点では全く何の問題もない。

 

 そういう訳で、私たちが正気を保つべきなのはその方が自身にとって生きる上で多く得をするからに他ならない。正気は生産性と不可分である。狂人が社会から隔離されるのは彼らが何も生み出さず、自活する術を持たないからに過ぎない。多くの利益を生み出しかつ自立する能力がある狂人は、場合によっては才人扱いされて世間で持て囃されるかもしれない。
 逆に言えば、実利的な問題と無関係な場合において私たちは正気を保つ必要や義務などない。人生のあらゆる局面において利害が絡むなどということはない。そのため私たちは生まれてから死ぬまでの間、徹頭徹尾マトモでなければならないわけではない。私たちが正気を失ってはならないのは実益を確保しなければならないからであり、分別ある振る舞いや思考を維持するのは偏にその一事のためであることをゆめゆめ忘れてはならない。
 むしろ分別が足かせとなる場合もあり得る。区別や分類が全て万人にとって有益で実利をもたらすとは限らない。むしろ全く逆に作用する誤謬などは積極的に正し、ともすれば唾棄すべき場合すらある。私たちの分析や解釈が丸ごと間違いであることは大いにあるしまた、余計な分別など取り払ったほうが却って得をする局面も十二分にありえるということも留意しておくべきだろう。
 更に言えば、打算や実利を度外視できる局面において、私たちは無分別の境地に足を踏み入れても問題ないはずだ。プラクティカルな論理から離れた視点でこの世界を戯れに捉えることも時には良いのかもしれない。人間にとっての損得や個々人における利害を超越したところに「本当」のことがあるのだと私は考えている。それが一体何の役に立つのかと問われれば答えに窮するところではあるが。
 境界や分別を設定せずこの世を認識するとき、人は初めてこの世をありのまま感得することができる。それは無意味かつ無益な狂気の世界だ。そこには価値判断やカテゴリーの分類はおろか、自分と他人の区別すらない。過去現在未来といった時系列に則ったパラレルな出来事の並びすらなく、あらゆる一切が混淆した混沌とした状態だ。ありのままとは文明や理知による文脈や前提が存しない完全なる不条理の世界だ。
 ともあれこの世の実相はボーダーレスかつシームレスである。私たちは普段、日常的に慣れ親しんだ世界を現実と呼ぶが、それは便宜的な認識や解釈にすぎず、それは利得のための方便のために重んじられているだけのものだと自覚するべきだ。私たちの人生は本質的な意味において、どんな捉え方でどんな生き方をしても酔生夢死の域を出ることはない。しかしそんな空想や妄念によって支えられた世界観こそが私たちに多大で有益な恵沢を与えるということも無視すべきではないだろう。

問題即自我

 問題とはそれ自体が人間にとってのアイデンティティだ。自分が自分であることと己自身がどのような存在であるかということは密接に関わり合っていると言っても過言ではない。人間にとって格闘している問題の内容が己が何者かを表す。このような視点で考えたとき、人は問題を解決したり解消したりすることなど内心全く望んでいないのではないか、という気さえしてくる。

 私は今こんな問題を抱えているのだと宣うとき、その時点でその人は自身について語っている。あるものを問題視し、それについて悩んでいると誰かに吐露するとき、それは当人が意識していないが広義の自分語りとなる。その問題それ自体は己について語る端緒に過ぎず、その人はそれに対面して何らかの反応や行動を起こしている自分自身を誇示している。

 このようにして人間は、問題によって自分自身を定義する。頭痛の種やや闇のタネを通して人は自分が何者かを知る。そしてそれがその個人にとってのアイデンティティを形成する。悩み事こそが概念上の自己を自己たらしめる要素となり、それによって人間は自己を意味づけする。

 目下直面している問題がその人の形而上の血肉となるのである。我々にとって問題とは取り除くべきもの、克服し解消するなり解決するなりすべき何かだと思われがちだが、人間の意識の深いところでは実はそうではないのである。我々の自我は問題それ自体の化身であって、それが解決あるいは解消されるということは私たちの自我が霧消することを意味しているのである。

 よって、抱える問題を増やすことは人間にとって自己の拡張となる。我々は問題を克服することに依ってではなく、問題それ自体によって自己を確立する。我が強い人間は多くの問題がある人物であり、逆に生きる上で問題がない者は無我、無私の状態に近いと言える。

 私たちは人生の中に問題を見出す度に自我を強くする。何かに悩み、苦しみ、怒り、憎み、倦み厭うことで私たちは自分が自分であることを確認している。それによって人間が得られるのは単に我の強さだけなのだが、これがどういうわけか我々にとっては強烈な快感となるのは不可思議なことである。私たちは自己や自我を強く意識することを望んでいる。そしてそのためには多くの問題を抱える必要がある。人間にとって多くの場合、何らかの問題によって苦悶し葛藤するほどアイデンティティを強めることになり、それが無意識下における我々の強烈な願望となっている。

 

 私は数々の問題を抱えてきた。私にとって生まれや育ちが悪いことがまず第一の問題であったし、自身の肉体的な特徴の一つ一つが常に私を悩ませてきた。履歴書に書かなればならない経歴なども問題だらけであるし、目下生活上の金銭面で抱えている問題は当然感化できるものではない。更に言えば私は将来というもの自体がたいへん大きな問題であると考えているので、私にとって自分自身というよりも生涯それ自体が巨大な大問題そのものであると言っても過言ではない。

 懊悩や煩悶に耽ることが人間として上等な振る舞いなのだと私は信じてきた感がある。葛藤を抱え込んだり苦しんだりすることで自分が高踏な人間に慣れると愚かにも考えていた。まるで私小説の主人公よろしく自意識過剰で自惚れが過ぎる人格が思春期以降形成され、私はそれによって根暗で陰気で悩み深い人間となっていった。

 問題に悩まされることこそが私の人生であった。私の生涯において、問題に直面していない瞬間など全く無かった。生きること即悩むことであり、また苦しむことであった。映画の主人公が葛藤を抱えながら問題に格闘するかのように、私もまた生きる上で対峙するありとあらゆる煩雑な事柄を問題視し、それに取り組んでいる自らに憐憫の情を抱き、それによって自分が何者かを知り、定義し設定てきた。

 私にとって人生の全ては悩みの種であった。何らかの問題について悩んだり苦しんだりすることで自己を確立するという手法で生きてきたのだから当然である。私は悩みが存しなければ己が存在し得ないという愚劣な考えに基づいて人生を棒に振った。私がそのことに気付いたのは、馬齢を重ね色々と手遅れになった後のことであった。

 私は問題に対処することが人生だと思って生きてきた。果敢にそれへ立ち向かい、それと格闘し、勝利することが人間として好ましい振る舞いだと本気で考えていたフシがある。今にして思えば、理不尽で不条理な諸問題に直面し、煩悶し葛藤に苛まれながらも生きている自分というヒロイックな自意識がそうさせたのかもしれない。

 だが、私はそういう姿勢にいつしか疲れ果てていた。生涯が問題で満ち満ちていて、寝ても覚めても常にそれらに頭を悩ませ、命ある限りそれと延々格闘し続けなければならないという姿勢を取り続けることに、私はうんざりし飽きてしまったのだ。

 また私はある時から、仮に一つの問題が解決しても自身が置かれている状況が好転していないことに気付いた。ある問題が解消されても全く異なる別の問題が噴出し、それについて今度は頭を抱えることになるのは世の習いだろう。私はそれにほとほと嫌気が差して、もういい加減終わりにしたいと望むようになっていった。

 

 自分が存在し、それに対して何らか問題があるという世界観を私は自明なものとして認識していた。まず、私が在り自身を悩ませ、苦しめ、妨害する問題が存在し、それに何らかのアクションを起こすことが人生であり生きることの本質であり真理だと思いこんで生きてきた。

 しかし、私があって問題があるという構造に私はある時ふと疑問を感じた。一体どこの誰がそれが真実だと保証したというのか。それは単に私個人がそう思って生きたというだけであって、そういう捉え方が真理でありこの世の実相であるなどという根拠は何一つない。

 私は思った、何かが私を悩ませるののではなく、その何かこそが己の本質となっているのではないか、と。私が悩んでいるのではない。私が苦しんでいるのではない。私が苦しんでいるのではない。その悩みや苦しみこそが私を私足らしめている要素であり、私が生じる出どころであり己の正体であった。

 問題を抱えれば抱えるほど、自我は強固かつ堅牢となる。自我の強化のために人は望んで問題があると思いたがる。自分が自分で在り続けるのは人間にとって何故か快感となる。それを追求するために私たちは常に諸事を問題にしたがり、問題視できるなにかを血眼になって探し回っているのが実際のところではないだろうか。

 逆に問題がない時、そこには私はない。確固たる私、一個の人間として確立された自我というものは対峙して取り組むべき問題があってはじめて存在する。問題なくして己を打ち立てることは不可能であり、問題を抱えたくないと真に望むなら、人間は己が己で在り続けたいという欲を手放し、その妄執から離れなければならないだろう。

 我在りという思いと問題があるという思いは不可分であった。問題即私という構図が見えており、なおかつそれでも問題に煩わされることを望まないならば、私は私であることをやめる必要がある。と言うよりも、ただそれをするだけで私は煩雑な問題から解放されると考えるべきだろうか。

 本当の意味で問題から開放される時、私の自我は消滅する。自分自身に固執したり執着したりすることが無くなれば、問題持つ必要性もなくなりそれこそが本当の意味でのソリューションとなる。自分が自分であるという状態に拘ることも囚われることが無くなれば問題は生じず、憂いも煩いも起こり得ずそもそも存在すらし得ない。

肉の人、霊の人、そして無

 人間の本質とはなんだろうか。我々は様々な瑣末事に翻弄され忙殺されながら日々を汲々と送っているせいで、自分を自分たらしめる要素が何かなどといった思いを馳せる余裕はあまりない。自分自身を守り維持するために暮らしを営んでいるのだから、それが何なのかを知ることは重要であるはずなのに、何故か我々はそれを怠り、蔑ろにしがちである。

 各人をそれぞれ個たらしめる核心となるものは千差万別だろう。何かが万人にとって画一的に自己の本質であるとは言えないだろう。何を自身の核とするかは人によりけりであり、どれを若しくはどんな状態をもって自分自身だと定義するかに貴賎や優劣などといったものはないだろう。

 しかしそれは大抵、己の心身のどちらに属するものである場合が多いだろう。別の観点で述べるならば物質的なものか精神的なものかのどちらかであるとも言えるだろう。それが何であるかが個々人の個性であり、独自性であると言える。

 心と体のどちらに重きを置くかによって人は肉体的な存在か霊的な存在かに分類される。しかし、それらのどちらかが優れているとか勝っているという話ではなく、ただ単に別の人種だと言うだけである。世の中の大部分の人間はこれらの2つのタイプのどちらかに属し、それぞれ異なった価値観や世界観を前提として生きている。

 

 肉体およびそれに付随するものに重きを置くのは肉の人だ。自身の頑健な肉体そのものやそれの働きをもって自己の本質とする人は多いだろう。母親の腹から生まれた日をもってその人は自身の人生の始まりと定め、心臓や脳が昨日を失った瞬間に自身の人生が終了するとこの手の人間は確信するだろう。

 体こそが自分自身だと確信を持って言える人は幸いである。肉体は極めて明々白々とこの世に存在し、生きている人間の耳目でありありと認識することができる。鏡に写っている自己の像を指して自分自身だと認識するのは正常かつ当然だ。肉体が己そのものであり、それだけが全てであると考えることは安直かつ短絡的ではあるが、同時に妥当な認識であると言える。

 精神およびそれに付随するものに重きをおくのは霊の人だ。自分の肉体だけでは満足できず、心や魂といった形而上の領域に本質的な自己があると考える人がこれに当たる。この手の人種は肉体が滅んでも自身は雲散霧消しないと考える。不滅の霊魂がその人にとっての本地であり、それはあの世に行くにしても生まれ変わるにしてもその人であり続けるのだ。

 心こそが己の本地だと胸を張って言える人も別の意味で幸いだ。自己同一性というものが肉体の有無に依存せずに厳然と保たれ続けると核心を抱けるなら、その人は死を恐れる必要がない。永遠に自身が不滅であると信じる人は迷いなく生き、そして死ぬことができるだろう。肉体の老化や死亡といった将来的に避けがたい問題に自らの内面的な解決を図る上で、霊即自分とするのは極めて有効であると思われる。

 しかし他方では、心身ともに自分自身だと思えない人種もいる。肉体は自分の思い通りにならず、精神も完全に意のままに制御できないという事実から、それらの両方とも自分自身だと見なすことができない人間である。私はまさにそういうタイプで、肉体も精神も自分だとは認めたくないという思いがある。私の本質、本性、本地といったものはそれらのどちらでもなく、全く別の何かであるような気がするというか、そうであって欲しいという願望のようなものが子供の頃から内心ではずっとあったように思う。

 こういった類いの人間は寄る辺のない不幸な存在だ。目に見える肉体や想像が届く概念としての霊魂が自分自身の本質だと見なすことができない

 この不幸な人種が救われる道はどこにあるのだろうか。この手の人間が抱えているのは本質的かつ究極的な自己への不安である。形而上においても形而下においても、自分だと思えるものが全く存在せず、何に重きを置けばいいか覚束ない。そんな状態で生きていかなければならないのは辛く苦しいものである。

 私は肉体も精神も自分自身だと見なせず、それが私を悩ませてきた。己にとって大切にしなければならないものが何か分からない。肉も霊も己の本質や本性だとするにはなにかが足りないのではないかという思いが払拭できない。自己のアイデンティティの問題を解決することができず、私はそれについて頭を悩ませてきた。私は肉の人でも霊の人でもない。それらのどちらにも帰属せず、どうすればいいのか途方にくれてこれまでずっと生きてきた。

 

 しかしその煩悶は、どこかに何らかの形で自分があるはずだという思いから端を発するものだ。それが物質的な形であれ観念的な形であれ、確固たる自己が何処かにあるはずであるという前提を根拠にした思想だ。私達は漠然とそれに対して疑う余地がないと思い込んでいるが果たしてそれは妥当だろうか。

 真の自己という代物が肉体にも霊にも依らない何かだとしたら? いや、それどころか真我というものがどんな形でもどんなところにも実在しないとしたら? そうだとしたならば、人間にとって心身に関わる諸々の事柄は本質的には問題ですらないと言っていいのではないか?

 人間の本地・本性が実のところ無だとしたら、心も体も本当の意味での私ではないということになり、本質的な次元で見たり考えたりしたときに何の問題も存在しなくなる。

 無とは「なにもない」ということではない。無とは定義や言明が不可能なものや状態を指す。人間の本質とは実際は人知を超えた完全なる不可知・未知そのものではないだろうか。我々は己自身の本性を決して知ることはない、少なくとも生きている間には。

 余人がどうであるかは置いておくとしても、私は己の本性が「無」であると断言してしまいたい。私は心身のどちらにも依らない存在であると、本質的には。世俗や日常を離れた究極的かつ本質的な意味における自分自身とは他ならぬ無そのものだ。だから私は滅ぶことも損なわれることも決してありえない。

 無から何かを取り除くとはできない。無から何かを奪い取ることはできない。自分自身が無であると確信したとき、人は完全無欠の最強な存在となる。それは仏教的な用語で言い表すならば悟りや成仏といった言葉が当てはまるかもしれない。

 無論、日常的な次元においては私は肉の人でありまた霊の人でもある。しかしそれは本質ではない。生きる上で人は世俗的な感覚を失ってはならない。しかし、人は本質にも目を向けるべきであり、己が本来は何者であるかを思い出し気付かなければならないと私は考える。

 生活とスピリチュアルのバランスを取る必要はあるが、私は自身の本地が無だと確信する。私は肉の人であり霊の人でもあり、究極本質には無でもある。他人がどうであれ少なくとも私は自分自身を何とするかという月並みかつシリアスで遠大な問に対しては一つの回答を持つに至った。私とは無であると。

 心身はともに仮初めの自分にすぎず、私と呼べるものは本質的かつ究極的には全くの無であると断言できる。無は何かに限定されず、始まりも終わりもない。決して生まれることも死ぬこともない本性を自覚することができれば、人間は死ぬことや失うことを恐れる必要など本当はないということを知るだろう。

 無という言葉はNothingではなくEverythingである。無限や無尽、無辺といったものを指し示すことはできないからそれを便宜上無と名付けるしかないが、それは本来ならどんな言葉でも言い表すことができない「何か」であるのかもしれない。

 ともあれ、自分自身というのは絶対的な未知であり永遠のフロンティアであるというのは私にとっては福音にほかならない。肉体や人格、または霊魂が即己自身だと見なす余人にはもしかしたら私の考えはいたんかもしれないが、個人が己をどう見なし捉えるかは自由の範疇だからこれについては誰の理解や許可も不要だろう。

喪失

 仔細は省くが、今日ブログで使用するはずだった文章の草稿が故あって無駄になってしまった。タイトルを決め全体的な構造を考え、各行ごとの冒頭に据える一文を綴るだけでも私にとっては大仕事であり、それを完遂するだけでも少なからぬ時間が掛かる。それが全て無に帰したということは時間的な損失だけでも決して無視できるものではないと言えるだろう。

 それを考えたり書いたりするのに要した時間や労力は全くの無駄となった。人生における時間はどんな局面においても有限であり、通常の一般的な感覚においては時間の無駄というのは忌避されて当然の代物だ。言うまでもなく私たちは有限なある期間の中でしか生きられず、健康でいられず、正気を保ちつづけることができない存在である。だからこそ時間というものは貴重でかけがえのないものだと見なされているし、私自身も全く同意する。

 時間や労力、金銭の喪失は人間を大いに苦しめるのは周知の通りだ。割いた時間や支払った代金に見合った何かが得られないとしたら私たちは大抵の場合ひどく落ち込むはずであり、それは世間的には正常な感覚だと言える。形而上形而下の別なく、私たちの心の奥深くには何かを所有したいあるいは所有しているという感覚と、それらが得られないかもしれない若しくは失いかねないという思いがある。

 人間にとって精神的にしろ肉体的にしろ失うことは苦痛や恐怖の源だ。自分の所有となっているはずの何か、自身の一部であるはずのものがふとした拍子から我々の手からこぼれ落ち、どこかに霧消してしまうとしたら、私たちは何も感じずにはいられないだろう。不感症にでも陥らない限り、それは私たちにとって苦痛の元となるのは当然勝つ自明なことだ。

 今日のことに限らず、私は数限りない数多のものを失ってきた。まずそれは若さであり、未来への夢や希望である。そして絶ってはならない人間関係や不意に紛失した財産や幾つもの私物、将来への切符となるはずだった数多の機会などなど数え上げればキリがない。

 また、喪失への後悔と懸念が私をずっと責め苛んできたように思う。ほんの些細なことから得難く掛け替えのないものをなくし、また目下当たり前のように手元にある事物や人との繋がりについて一体どんな弾みでそれが失うのではないかという思いが、たとえ杞憂だったとしてもどんな瞬間においても延々私を苦しめ続ける。

 

 だが、喪失を被る時、人はなぜ苦しむのか。私だけではなく、万人にとって失うこととその可能性は頭痛や悩みのタネとなるだろう。自分の体の一部でもなく、自身の神経と直接結びついているわけでもないのに人はなぜ失う度に苦しみを感じるのだろうか。それについて私は洞察や分析も怠ってきた感があり、それへの無理解がよりいっそう私を苦悩させてきたようにも思える。

 肉体的な損失は怪我や病気、そして死などが当てはまる。若さや健康、五体満足な体や正常に働く臓器などは私たちにとって基本的に失いたくないものであり、それらの存在はっきりと目に見えて認識したり自覚したりできるものだ。しかしそれらは老化や身体を負傷することで容易に失われるものでもある。四肢が欠損したり内蔵が機能不全に陥れば私たちは嫌でも喪失感を味わうことになる。それは言うまでもなく耐え難いものだ。

 対して、精神的な喪失は既に持っている何かを失うことで引き起こされる感情だ。所有物は本来先に挙げた肉体とは異なり私たちと直結するものではないが、それでも「我がもの」を失ったり手放すときに通常人は悲しみや苦しみを被るだろう。それは概念的に我が身の一部のように感じられるから、それが手元から無くなるとすれば人は、擬似的に手足を引きちぎられるような思いを味わうだろう。

 そんな多種多様、種種雑多な諸々の苦しみに悩まされずに済む道があるなら、私ならぜひそうしたいところだ。肉体が衰え滅び、身ぐるみを剥がされ全てを喪失してもそれを苦にも思わず、それについての可能性に思いを馳せても呻吟することのない境地に至ることができたら、もう私は憂い煩うことは今後一切なくなるはずだ。

 そもそも、「これは私のもの」という前提に基づいて生きてはじめて人は喪失することが可能となる。そんな考えや思いが自明で疑いようがないという体で人は自他や世界全体を知覚し、判断を下している。そういった価値観や世界観に支えられ満を持して私たちは何かを失うという経験ができる。言い方を変えるなら、そういう目に遭うことが可能となる。

 しかし、私たちは何かを失えるのだろうか? くだんの前提が盤石で疑う余地が全くないなどと一体どんな根拠や確証があって言えるというのだろうか。何かを指してこれは私の物だと宣言するのは単に当人が身勝手にそう認定しているに過ぎない。私たちは自身の肉体ですら代謝や生理現象を自在に制御できない。なぜ私たちはそんなままならない代物を我がものだなどと恥ずかしげもなく宣言できるのか。改めて考えてみれば極めて滑稽なことだ。ましてや体以外の事物や事象など言うに及ばずであろう。

 何かを自分の所有物だとか、己に帰属するものだと考えるのは間違いではないか。それは浅薄で狭量な了見でしかない。獲得や所有という概念はそれ自体が幻想にすぎないのかもしれない。私たちは本質的には何一つ手中に収めることはできず、一瞬たりとも何一つ「我が物」にすることは能わないのではないだろうか。

 

 そして、何も持たない者は何かを失うことはない。持たざる者とは私たちの本来の姿である。何かを得る、得うる、得ているといった誤謬から解かれたとき、人は何かをなくす可能性が一切なくなる。

 完全に徒手空拳の者が何かを喪失することはそもそも不可能だ。端から失うものがない人間は手放すことも捨てることもできない。そしてその人は喪失への懸念や不安とは全く無縁の存在となる。

 何かを獲得しようとする試みは全て不毛である。なぜならそれは単なる錯覚にすぎない。私たちは空手で産まれ空手のまま死んでいく。それは一人の例外もなく、どう足掻いても覆ることがない。仮に何かを手に入れたように思えてもそれは一時の思い過ごしにすぎない。そのことを遅かれ早かれいずれ必ず私たちは気付かされることになる。

 また、何かを失うまいとすることも徒労である。私たちは決して何かを失わない。先に述べたように、そもそも私たちは決して得ることはないのだから。得ることがないものは失うこともなく、それについて心配することは取り越し苦労にすぎない。

 肉体も精神も厳密には私の所有ではない。そして精力や時間も私に帰属しない。だがそれは厳然と存在し、私はそれらを有効に活用することはできる。人間にできるのは手に入れることではなく使うことであり、それは仮初めの獲得や所有に固執するよりも遥かに多くのものを我々自身にもたらすだろう。

 何かを活用する上で所有することは必須ではない。自身に有益なものの恩恵に浴するとき、それが自分の物である必要などない。何度も述べたように所有しているという感覚は錯覚や幻想にすぎないのだから、使うときにそれが自分の物かどうかについて拘泥する意味はない。

 喪失など問題ではなく、恐るるに足りない勘違いでしかない。それに気づければ私たちは無用な心配や恐怖からは縁を切ることができるようになるだろう。何事も自分の物だと思わないことだ。そういった姿勢を保つ習慣を身に付ける必要があると感じている。

 私は空手で産まれ、生き、そして死ぬ。そう思えば人生というのは何と気楽な旅路だろうか。何も得られないということは抱え込んだり背負い込んだりするものもないということだ。私たちはただ路端にあるものを使うだけで十分だ。そんな憂いなき生に喪失という概念自体が不似合いであると言えるだろう。