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書き捨て山

雑記、雑感その他

一日最低3000字

 シナリオの勉強をする前にまず始めに文章を書く習慣というか文章を書く体力を身に付けてみたいと思った。よって昨日からブログに文章を毎日最低3000字以上書くというハードルを自分に課すようにした。

 書式や内容にかかわらずどんな文章でもいいから最低毎日3000字書くようにする。それができるようになったからって別に何がどうなるわけでもないが文章を書いて作品を発表したり収入を得たりできるようになるまでの基礎の基礎にはなるかもしれない。

 はてブロの編集画面だと記事の編集画面に文字数が表示されるのが便利でよい。上記のような目標をもって文章を書いていると文字数表示が大変ありがたい。今の時点で大体300字弱は書いていることになる。

 使っているパソコンのスペックが低く、かなり使用年数も経っているためかブラウザが勝手によく落ちる。そのため編集中の文章が保存する前に消えてしまうことが結構あるからマメに編集画面の「記事を更新する」ボタンを押して文章を保存しておく癖をつけなければならない。

 シナリオの勉強をし始めるのはスクールが開校する4月からでいいだろう。その前段階として今から文章をコンスタントに作成して公開する習慣を身に付けるようにしておけばスクールに払った大金も無駄にしなくて済みそうだ。ブログを開設したばかりのころは記事を更新するのが正直面倒でならなかったが更新する回数や頻度が増えていくにしたがって書いていくのが苦にならなくなってきた。

 かと言って楽しくなってきたわけではない。しかし、「苦にならない」というのは大変重要なことである。今まで生きてきて「嫌いではない」という感情の大切さについ最近になって気づいてきた。

 好悪の情はよく判断の材料にされる。どのような人間でも好きか嫌いかである物事に対してどのように振舞うかを決めるのは自然なことだ。普通の人間は好きなことを進んでし、嫌いなことは極力避けるようにするだろうし自分も今まではそうしてきた。

 しかし、近頃になって思うのは「好き」という感情よりも「嫌い」という感情の方が行動の動機としてははるかに強く、かつ確定的なのではないかということである。「〇〇が好きだ」という念よりも「〇〇が嫌いだ」という念の方が自他ともに人を実行に移させる。そういう具体的なケースはたぶんいくらでもあげられるのではないだろうか。

 そして「嫌い」という感情は「好き」という感情よりもはるかに覆りがたい。だからその感情は判断の材料としてはとても有用であるといえる。逆に好きという感情は容易に覆る。好きからすぐに嫌いとまでは行かなくても「好きでない」にはあっけなく転じる。だから物事の取捨選択や何をすべきで何をすべきでないかについてジャッジを下すにあたっては「好きかどうか」ではなく「嫌いかどうか」という問いを自分の中に立てれば誤った判断をする確率を下げることができるのではないだろうか。自分自身の心変わりを加味して長い目で物事を判断するには「嫌いかどうか」というファクターは大変良い指針になるといえるだろう。

 そして今自分がやっているこれについてはどうだろうか、と自問してみる。先にも書いたとおり俺は文章を書くことがほかの仕事などに比べればあまり苦にならない性分である。この「嫌いではない」という感情がかなり重要なのだとこの年になってようやく気付いた。嫌いでないことは忌避しないでやるだけの価値があるのではないか、最近になってそう思う。

 逆にハッキリと嫌いだと言えるようなことはするべきでなかったのだとも思う。俺はこれまでの人生の中で明確に嫌いだと思っていたこともだらだらとやってきたきらいがある。仕事でも学校の勉強でも全部そうだったような気がする。それがどれほどの徒労で人生の浪費であったか。そして今やらされているブラック企業での苦役も、これまでやってきた不毛な転職活動も思えばただの骨折り損だった。だってやりたくないんだから。

 無論、嫌だからの一言ですべてを片付けられるものではない。学生時代もそうだし今もそれは変わらないだろう。第一今務めている会社の仕事の内容もかかわる人間も何もかも嫌だけれど、だからと言って無鉄砲にやめたら生活ができなくなってしまう。

 短絡的に判断を下すきっかけとして嫌悪の情を使うのではやはり身の処し方を誤ってしまうだろう。人生にはやりたくなくてもやらなければならないことは無数にある。一番大事なのはやりたくないことをすぐにやめるかどうかではなく、自分の本心を常に正しく知り、それを念頭において日々を過ごすことなのではないだろうか。

 俺は今やっていることが明確に好きでないのだ。嫌いなのだ。そのことを意識に置くことで自分が何をすべきで何をすべきでないかが見えてくる。キラなことをやらざるを得ないとしても、最終的にはそれから遠ざかるにはどうすればいいかという建設的な思考をこのような姿勢によって得られるのではないか。

 仕事に限った話ではなく、趣味とか日常的な習慣にもこれは敷衍して当てはめていくことができるかもしれない。自分が普段何気なくやっていることが本当はあまり好きでやっているのではないということは考えてみればままあるものだ。前回の記事でアルコール依存症だった時期の話を書いたが酒を断つことができたのは実生活に支障をきたしたり心身の健康を害したということも大きいが、決定的なのは自分があまり飲酒という行為や酩酊という状態が実は大して好きでないということを身をもって知ったことだと思う。

 逆に言うと嫌気がさすまでやってみなければそのことに対して自分の本心など分からないのかもしれない。酒の例で言えば俺は限界を超えるまで何年も飲酒をした結果、自身の人生に酒は不要であるという結論に至ったが、それにたどり着くまでには嫌になるまでやるというプロセスが必須だったのだと今になって思う。

 酒以外に趣味に対しても、これまでの人生で傾倒したあらゆる事柄に言えることだと思う。好きじゃなくなるまでやってみて初めてそれが自分にとって本当にやるべきことかなのかどうか、自分にとって本当に必要なのかどうかが分かるのだ。

 これまで仕事でも余興でも好きだったことが好きでなくなったり嫌いになったりすることは幾度もあった。しかし、書くという行為に対しては俺は少なくとも嫌いにはなっていない。一日3000字何らかの文章を書くという行為が苦になっていないというのは俺にとって喜ばしいことだ。

 なぜなら、文章を書くことをこれからの人生の突破口にしていけるかもしれないという一縷の望みを抱くことができるからだ。今まで俺がやってきたことや他人にやらされてきたことは、思い返してみれば好きじゃないことや嫌いなことばかりだった。だから俺は何もモノにできなかったし、現在進行形で悲惨で惨めな人生を送っている。そんな人生を好転できうることは書くこと以外にないとしたら、今書いているブログも、27万円も払った脚本学校にも、今の子の暮らしにも意味なり価値なりが生まれてくるかもしれない。

 嫌いじゃないことをしよう。この記事で書きたかったのは結局その一点のみだ。その嫌いじゃないことが収入なり仕事なりに結び付いて行けば、残りの人生がほんの僅かでもマシなものになる。そう思いながらとりあえずこの記事は終わりにしようと思う。