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書き捨て山

雑記、雑感その他

労働忌避感情の源

 俺が生まれて初めて労働に従事したのは高校一年生の15歳の夏だった。それは世間一般の高校生が暇な時間にやるような学生バイトのような感じではなくフルタイムで朝から晩までガッツリ拘束される類いの、「苦役」だった。

 当時の俺は特に金に困っていたわけではなかった。そんな俺がなぜ高1の夏休みを全て労働に捧げなければならなかったのか。その原因の発端は母の親心だった。母親は俺を労働に慣らせようとして自分が働いているクリーニング工場に強制的に俺を紹介して働かせようとしたのであった。当時の俺は親に逆らうという選択肢もなく、不本意な仕事に夏休み中従事することとなった。

 その職場は当時の俺にとっては筆舌に尽くしがたいものだった。まず、とにかく給料が安かったのだ。高校生バイトは普通のアルバイトよりも低い時給で雇われるのが常だがその職場はとりわけ時給が安かった。俺は高校卒業まで青森県で暮らしていた。青森県の法定最低賃金は俺がそこで暮らしていた時代においては608円で、俺は例のクリーニング工場で時給610円で働かされていた。今俺は東京で暮らしているが、街中で見かけるアルバイト募集の広告やポスターを見る度に自分が高校生時代にやっていた仕事の賃金と比較してしまう。東京ならココイチなどなら時給1300円などという水準なのに、高校時代の俺がもらっていた賃金の低さは何だったのか。そう思うとやるせない。

 もう一つ特筆なのは不潔さであった。俺が務めていたクリーニング工場は街中のあらゆる穢れを引き受ける場所だった。その工場の主な得意先は市内の病院やラブホテルなどで、搬入されてくる洗濯物はどれも糞尿や血液にまみれていた。そんな環境で汚物まみれの洗濯物と日夜格闘していた俺は肉体的にも精神的にも著しく疲弊した。その上先に述べたような日本国内においては最低水準の賃金しか得られないという屈辱も相まって、俺の精神の内奥には労働という行為それ自体に対する忌避感が根深く上つかれるに至った。その労働忌避感情は今なお俺の中に息づき、俺の人生に多大なる影響を及ぼしている。

 俺は働くという行いを毛嫌いしている。憎んでいるといっても差し支えない。それはこの記事の前半に上げたような肉体労働はもちろん机仕事などの頭脳労働系の仕事に対しても同じである。高1の夏休みに味わった屈辱が現在でもはっきりと糸を引いている。労働に対する嫌悪の情は俺の人生を著しく窮屈なものにしていたと今になって思う。そこのこの記事では自身の労働に対する忌避感情の源泉について一考してみたいと思いこのような主題にしてみたのだ。

 直接的には冒頭で上げたような辛苦が原因であることは言うまでもない。しかしそれはあくまでも皮相的な解釈に過ぎない。どんなことにも言えることだが、「こういう思いをした」とか「こんな目に遭った」で済ましてしまえばそれはただ単に汎用性のない過去のある時点に対する記憶や思い出で終わってしまう。そうではなく、それに基づいたもっと根幹にある「何か」を浮き彫りにすることで、一時の経験に過ぎない事象を現在や未来における広範な事柄に対処できる教訓としていくべきだ。そのために必要なのは表層としての出来事に対して深く洞察することだ。

 安い賃金で割に合わない労働をすること。それは誰にとっても嫌なことだろうが、ただそれだけだろうか。もっと深いところにある何かが俺に働くことを忌まわしいと思わせているのではないか。最近になってふとそう思うことが多くなった。今やらされている仕事も社会的には下の下の人間がやる仕事だし、正規雇用者ではあるが賃金もおそらく法定最低賃金を下回っているものと思われる。その仕事について詳細を述べることはここでは控えるが、要するに高校時代に被った苦役塗装大して変わらないことを現在もやっていることになる。当時は単にキツくて汚くて割に合わない仕事をやらされているから自分が苦しいんだ、辛いんだと思っていたが、今の俺には先に述べたように「それだけでない何か」があるように思えてならない。

 今まで生きてきて、アルバイトから席雇用の仕事までいろいろな就労条件で様々な動労を行ってきたが、どの仕事に対しても共通して抱いた嫌な感じというのは、思えば自分の思い通りの環境や待遇が得られないから抱いたものではなく、「赤の他人にいいようにされている」という、ある種の被害者意識からくるものだったのではないだろうかという感じがする。

 仮にもし、賃金や拘束時間、休日の日数などについて労使契約を結ぶ時点ではっきりと明示され、その時点で明かされた条件が絶対に覆らないとしたら、仮に休みが少なくもらいが少なかったとしても俺は不満を抱いただろうか。現実は無論そうではない。実際は面接や労使契約を交わす際の取り決めとはまるで違う拘束時間、賃金、休日の日数、はては言葉る勤務地での就労まであり得る。俺は今務めている会社で不当に賃金を下げられた。会社が被雇用者の賃金を下げられる場合、必ず契約書を交わさなければならないにもかかわらず、そんな手続きの一切を省いて会社側は一方的に理不尽に俺に言及を食らわせたのだ。これは俺にとってだまし討ちに等しい行為だったし、あれやこれやと上司や社長にその理由を言われたところで俺にとっては到底納得がいかない話である。

 不当な言及だけではない。賃金未払いでの時間外労働や休日の出勤、休憩時間を返上しての労働、エトセトラエトセトラ……。それらのどれもが社長を筆頭とした会社側の身勝手で傲慢な都合やその時々の気分に基づく無理強いであり俺にはそのどれもが許しがたい。そこで重要なのは「俺は何に憤っているのか」という一点である。会社側の人間どもの意図やそれによる言動、処置などはこの際どうでもいい。

 労使契約にない仕事の強制、契約書なしの減給。無給の休日出勤や残業などを強いられている俺にとって、それらはすべて赤の他人の勝手な都合なのだ。それによって俺の人生が無意味かつ無価値に空費されているという事実が俺にとっては許せない。この感情は例え今働かされている会社を辞めて別の仕事をしても絶対に付きまとうだろうし、職種や業種を変えても絶対に解決しない問題であると言えるだろう。

 問題は待遇ではない。俺はたかが労使契約だけの繋がりしかない赤の他人に好き勝手にされるのが堪らなく嫌なのだ。俺はあくまで労働力を金に換えて雇い主や上司に提供しているのに過ぎないのに、契約以上のことをやらされたり時間を費やしたり、肉体を拘束される。その理不尽さが俺に忌避感情を引き起こさせていたのだ。この嫌悪の情の源は結局のところ雇われて生きていく限り絶対に払しょくすることができず、それから逃れることは不可能であることは自明である。

 ではどうすればいいのか。結局は雇われの身から脱却するしかないのである。ではどうやって俺はそれを達成するか。やはり「書く」しかないのだ。最近日常の中で被る諸々の事柄が俺にとっては示唆に富み刑事に満ちているような気がする。一本の道が俺の前に示され、俺はそれに向かって進んでいかざるを得ないような、そんな感じがしているのである。

 俺は長きにわたり人生の隘路に迷い込み、暗中模索のまま年を重ねてきた。人生をドブに捨て、若く価値のある時間を浪費に浪費を重ね、障害を台無しにしてきた。その只中にあって俺は自分が何を目指洗馬いいか皆目見当もつかずに途方に暮れていたように思う。この頃になってそれが静かに、かつ劇的に変わってきているのを感じるのだ。