他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

ガマン・サネヴァ・マネヤ

「我慢さねばマネやぁ!」子供のころに両親、とりわけ母親から幾度となく言われてきたセリフである。この津軽弁を標準的な日本語に直せば「我慢しなければだめだ」くらいの意味合いになる。

 このセンテンスが俺の人生においてかなり重大な障壁となっていたのではないかと最近になって思う。俺は我慢しなければならない。しかし、なぜ? 何のために? そしてそれはいつまで? 我慢や苦労は津軽人にとっては生きていく上で不可欠であり、両親も俺もその例外ではなかった。両親も祖父母も、そして先祖代々どんな時代であろうとも津軽人にとって生きることは耐えることに他ならなかったのではないだろうか。

  俺の生涯における最初の大きな我慢、それはそろばん教室だった。忘れもしない小学校2年生のある日のこと、母親が突然それを始めることを俺に強要した。それ以来、小学校を卒業するまでのおよそ5年間にわたり、俺は大嫌いなそろばん教室に通い続けなければならなくなった。

 正座して何時間もそろばんの珠をはじき続け、無意味な計算を延々と続けるというのは子供にとっては拷問以外の何物でもなかった。電卓がある時代にそろばんなど将来的に考えてもくその役にも立たないことは小学生の頃の俺の頭で考えても自明なことで無価値で大嫌いなことに長い時間を費やすことが俺には我慢ならなかった。週三日、一日当たり約3時間は拘束されるそのそろばん教室は俺の幼少期の貴重な相当な時間を無意味に空費させたのであった。

 俺にそれを無理強いさせた母親の考えとしては、そろばん教室に通わせることで俺の将来に絶対にプラスになると考えていたらしい。俺は何度も何度もこんな無駄なことは一日も早く辞めさせてほしいと母親に懇願したが母親は全く聞き入れなかった。初めのうちは珠算検定というそろばんの試験で5級に受かったら辞めていいなどと母は俺に条件を付けてきた。

 俺は5級に受かった。しかし母は4級に受かるまで辞めるなと俺に言った。俺はそれを極めて理不尽に感じたがそれでも不得手なそろばんを懸命に習い4級に合格した。母が反故にして不当に釣り上げたそろばん教室を辞めるための条件を満たすに至ったのであった。

 しかし4級に合格した俺に母親はさらに高いハードルを課した。3級に合格するまでは辞めさせないというのである。これには俺にも閉口して話が違うなどと異議を申し立てたが全く受け入れられることはなく、4級に受かった後も俺は嫌々そろばん教室に通い続けた。

 俺にとってもともと計算は不得意な分野で、そろばんなどハナから適性がなかった。それは自分でも初めから気づいていたし、先にも述べた通りそろばんという習い事に将来性など皆無であるということも分かり切っていたから俺にとってそろばんの習い事は単に無意味な苦役に過ぎなかった。そのことをかねがね両親には幾度となく訴えかけたが子供の俺の意見や主張など彼らはまるで取り合おうとはしなかった。俺にとってそろばん教室は地獄のように感じられた。

 しかし、3級に受かりさえすればそろばん教室を辞めることができるのだ。少なくとも母からその言質は取ってあったし、さすがにこれ以上はハードルを上げる真似はしないだろうと俺は考えていた。そして何とか小学5年生の終わりごろに俺は3級に合格した。この無意味で嫌で嫌で仕方ない習い事が、この忌まわしいそろばんからようやく解放されると俺は欣喜雀躍した。

 だがそうはならなかった。母は俺にさらに高いハードルを課した。彼女は2級に合格するまでは辞めるなと俺に告げた。これには俺も完全に心が折れてしまい、錯乱状態になり咽び泣き、奇行に走るまでに至った。そろばんを勉強机に何度も何度も叩き付けて俺は叫んだ。

「こんなものがあるせいで! こんなものがあるから!」

 などと慟哭しながら喚いた記憶がある。俺がここまで取り乱しても両親は俺を決して自由にはさせず、そろばん塾には小学校を卒業するまで通わされることとなったのであった。俺にとっては人生において被った嫌な事柄のなかで、かなり上位にランクインする経験であった。

 小学校時代が終わり中学生になっても俺には自由がなかった。今度は部活動である。俺が通っていた中学校は部活動には強制的に入部させらる校風であり、俺はどんな部活動もやりたくなかった。しかし、どうしてもどこかの部に所属しなければならなかったので、俺はコンピュータ部に入ろうとして、両親にその旨を報告した。

 しかし、両親は俺の希望に対して首肯することはなかった。

「おめぇは運動さねえはんでマネんだぁ」

 と父は俺に言った。その言葉を日本語に直すと、「お前は運動をしないからダメなんだ」という意味になる。俺は父親が中学生時代に卓球をやっていたということを理由に、強制的に卓球部に入部させられた。父は俺と同じ中学校の出身であり、俺に自分の人生をなぞらせるように自分が入った部活に俺を入れさせたのであった。

 運動すれば性格が快活になるというのだろうか。スポーツに勤しむことで健全な肉体と精神が涵養され、社会に歓迎されるような人間が培われるというのだろうか。俺にははなはだ疑問である。無論、本人がやりたくて運動だのスポーツだのをやるのは結構かもしれないが、無理強いされて行うそれらの行為が人間に良い影響を与えるかどうか。俺にとっては言うまでもなく悪影響しかなかった。

 小学時代はそろばん、中学時代は運動部。親に言いなりなって俺は我慢に我慢を重ねてきた。やりたくもない、興味もない、将来にプラスにもならない無意味で無価値なことに多大な時間と労力を割いてきた。そして今度は高校となるが、俺は普通科の高校に進学を希望したが例によって例のごとく両親は俺の希望を無下にした。俺が普通科の高校に行きたいと言った時、母はこう言った。

普通科なんて、大学さ行く人の為にあるんだぁ!」

 次いで父は俺に言った。

「工業高校のぉ、土木科さ入ってぇ、測量技師さなればぁ、月30万ももらいにいんだぁ!」

 両親曰く、普通科は大学に進学する人間が行くところで俺にはそんなものは豚に真珠であり、工業高校の土木科に通って測量技師になれば月30万円も稼げるのだからお前はそれを目指せ、ということらしかった。

 中学2年生くらいの進路決定の段階で大学に行かないことを前提として将来を考えなければならないということ。加えて工業高校の、寄りにもよって土木科に進学をさせられそうになった日のことは今でも昨日のことのように覚えている。測量技師という職業や月30万の給料というのはまあいいとしても、職業科にしか進学できないというのは俺にとっては死刑宣告に等しかった。その時俺は社会的に死んだといっても過言ではない。

 土木科だけは勘弁してほしいと俺は泣いて両親に懇願し、簿記やプログラミングをやる学科に進学したが、結局職業科は職業科である。基本的の職業科など普通科に行けない人間が消極的に行くところであり、そこははっきり言って屑の吹き溜まりだった。それよりなにより、職業科でいくら勉強をしても社会的に上を目指すことはまず不可能であるという事実が高校時代の俺にとっては苦々しかった。

 小学校ではそろばん、高校では簿記である。計算が不得手な俺にとってはどちらも地獄だったし、何より楽しくなかった。不得意で楽しくもない、興味も持てない将来性もないようなことに多くの時間を費やすことの徒労は俺に大きな絶望感を与えた。