他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

ガマン・サネヴァ・マネヤ その2

 測量技師になるために必ずしも工業高校の土木科に入る必要はないだろう。また、仮にどこかの会社の会計係や会計士などを目指すにしても簿記の勉強など高校でやらなくても大学や専門学校で十分であるように思える。何も職業科に入らなくてもそれらの職業を目指すことは可能だし、何かの統計では今日日職業科に行く高校生は全国の約3割ほどだという。逆に言えば7割は普通科の高校に行くのである。

 やりたいことがあって職業科に行くのならそれは好ましいことだろう。しかし、高校をどうするかという進路決定は中学2年生ぐらいで決定しなければならない。そんな時期に将来をどうするかなど決められるだろうか。決めたところでそれは正しい判断によるものだと言えるだろうか。取り敢えず高校は普通科で、となるのが普通の感覚や発想だろう。少なくとも今の時代においては。

 しかし、両親は俺にそういう判断を許さなかった。これは経済的な事由によるにところが大きい。中学2年生のある日、母親は俺に父親の給与明細を突き付け、俺が大学に行こうとすることも普通科の高校に進学しようとすることも高望みだと言った。だから諦めて職業科の高校に進学して「手に職」を付けろという話だった。

 「手に職」! この忌まわしい言葉! 自分が何をやりたいか、また何をやりたくないかということは全く考慮しないこの言葉を俺は心底憎む。両親が子供のころの俺にそろばん塾を強要したのも俺が将来机仕事に就くことを望んでのことだったのかもしれないし、中学時代に無理やり運動部で卓球などやらせたのも働ける甲斐性を身に付けさせるためだったのだろう。高校進学の選択肢を職業科のみに絞らせたのも高校を卒業し次第働かせる算段だったのだろう。両親は、彼らは、俺を働き頭にさせるためにあらゆる教育や躾を施した。津軽人にとって家族は経済的な共同体という意味合いが現代においても強く、その構成要素としての家族は「働いて稼げるかどうか」が最も重要なのである。さらに言えば、俺の家において子供という存在は潜在的な労働力に過ぎず、両親にとって俺の価値は働いていくら稼げるかどうかに全てかかっていたのだろう。

 習い事や部活動、職業科の高校だけに限った話ではない。物心ついた時から両親は俺には非常に辛く当たった。厳しかったし、また理不尽だった。彼らは俺には常に我慢を強い、俺の希望などほとんど聞き入れはしなかった。思えば俺の人生は我慢とか辛抱とか、忍耐とか我を殺すようなことの連続で、「思うまま」に生きられたことなど皆無に近いと言ってもよいほどだった。

 津軽は貧しく、土着の人々は頑迷である。だから生きていくには常に我慢が必須となる。耐え忍ぶことこそが我々にとっては生きることそのものであり、堪え性がないというのは生そのものへの冒涜に等しいのである。それは俺の家や俺の良心にもそのまま当てはまった。大人も子供もみな我慢して不本意な生き方をしているし、俺も例外ではなかった。人生におけるあらゆる局面で俺は我慢に我慢を重ねた。

 両親は俺にいつもこう言った。「我慢さねばまね」(我慢しなければならない)と。彼らには全く悪気がなく、むしろ親心で俺に我慢を覚えさせ、また無理強いしたのだろう。しかし、彼らは加害者なのだろうか。俺は子供のころから親や周りの大人が自分に対して理不尽に辛く当たっていると感じたし、自身をずっと被害者であり、自分の身の回りの人間を加害者であると認識してきた。しかし、この歳になってそれは正しくなかったのではないかと考えるようになった。

 確かに両親を筆頭に俺の周り人間は俺に様々なことを強要し、選択肢を奪い、無理強いをしてきた。子供のころから俺は自信を被害者であると認識し、両親や学校の教師などの周囲の人間は加害者であると考えてきた。しかし最近になって、この構図というか関係性への認識が本当に正当かどうか疑問に感じるようになってきた。

 先にも述べた通り津軽人にとって生きることと耐えることは不可分である。津軽の気候は厳しく、人々はみな貧しい。そんな環境で子々孫々と生きていく上で、我慢は美徳であるというような観念が醸成され、我々の深層心理、いや遺伝子レベルで深く刻み込まれてきたのではないか。自分や両親更にはそれよりも先の代からずっと我慢ばかりしてきた人間たちが、子供を教育する段になって我慢を強要させないなどありえない。津軽人の世界観において我慢は美徳であり、どんな生涯であっても耐えることですべてが正当化されるのである。そんな環境で子供をしつけるなら、俺が受けた仕打ちはむしろ政党といっても過言ではないのではなかろうか。

 だが、俺にとってそんなことは真っ平ごめんだ。やりたくもない、興味もない、嫌いなことを延々やって、それで「手に職」をつけたところでそれに一体どれほどの価値があるというのだろうか。

 無論、我慢に何の価値もないとまでいうつもりはない。何かを達成するための手段としての忍耐は仮にそれが必要なら礼賛されても何も問題はないだろう。しかし、生きることと耐えることを等号で結ぶ思想には俺には異を唱えたい。我慢できるから立派だとか、辛抱ができるから強いとかそういう考えは邪悪といっても言い過ぎではないのではないだろうか。

 我慢強さと愚鈍さはよく似ている。俺は今生でそのことを嫌と言うほど学習した。その学びにだってこれっぽっちの値打ちもないが。俺は親や学校の教師などの周りの人間に様々なことを無理強いされ続け、それに愚かにも唯々諾々としたがい続け、人生を棒に振ってきた。

 やりたくないことをし、好ましくない選択をし、住みたくない街で暮らし、嫌いなことに従事し、惰性で安酒を呷り、不快な酩酊に耽り、人生の貴重な歳月を丸ごと無駄にしてきた。そんな人生には常に「我慢」が付きまとっていた。耐えること即生きること、この邪悪な人生訓を俺は後生大事に守り続け愚劣に命を繋いできたのだ。

 我慢なんて馬鹿でもできる。愚かな人が無為無策で生きていることを忍耐とか辛抱とか言う言葉で正当化するのである。俺は津軽でそのような類いの人間にたくさん接してきたし、自身もまたそのような類いの人間であると思っている。しかし、それは肯定されるべき事なのだろうか?

 俺は否と言いたい。我慢、努力、忍耐、辛抱……俺はこれらの類いの言葉を愚かで弱い人間が現状を肯定するための言葉だと断じたい。俺は今生において大変苦しい思いをしてきた。屈辱や欠乏に耐えて今日までおめおめ生きてきたことを俺は大変恥ずかしいと思っている。だからこそ俺は自信の我慢ばかりしてきた人生を否定して前に進無ことを希望する。

 俺は無為無策の我慢や苦労、ひいてはそれらを礼賛する人々と決別したい。また、それによって成り立ってきた自身の生涯もすべて否定し唾棄することを望む。我慢が尊いという発想からは生産的なものやポジティブなものは全く生まれてこないだろう。苦しみに耐えることで何かが得られるだろうか。仮にそうなら、何故俺はこれほど困窮し、悔いばかり残るような人生を送っているのか。愚鈍に耐えてきた結果が子の生涯だというのなら、それは我慢や忍耐の無意味さの証明に他ならないのではないか?

 何も生まない我慢よさらば! そしてそれを美化、正当化する人々よさらば! 不本意な苦しみを惰性で被ることを肯定する邪悪な思想よさらば!