書き捨て山

雑記、雑感その他

損得勘定原理主義

 人間は日常の生活でどれだけ損得を考えて判断を下しているのだろうか。常に自分にとって得があるかどうかという観点で物事を断じ行動している人間というのはこの社会にどれだけいるだろうか。翻って自分はどうだろうか?

 世の中本当の意味で利に聡い人間というのは極めて少数であると思われる。自分自身もこれまで生きてきて本当の意味で自らに利益をもたらすような選択をしてきたかどうかと自問するとはなはだ疑問である。自分の判断や行動に対して、それこそ原理主義的なまでの損得勘定でもって決定を下すことができていたなら、どれだけの不利益を回避し、なおかつ「良い結果」が得られていただろうかと、最近になってふと思うようになった。

 他人に対してもそうだ。特に仕事で接触する人間、とりわけ上司とか社長とか言う上役の人間に対してそんな疑問を抱く。こいつは損得勘定でものを考えているのか? いや、こいつにとっては損か得かなどどうでもいいんじゃないのか? といった具合にである。

 完全に損か得かだけで物事を断じ、動く人間がいるとしたらその人間は極めて聡明であると言えるだろう。また、その人物の言動は単純にして明快、もっと言えば理に適っているだろう。だが、そんな人間はとても稀な人種であろう。

 現実にはそういう人間はなかなかいないのではないだろうか。結局のところ余人は自分が得をするとか損を被るとかには基本的にあまり関心がなく、その場その場の気分屋期限に応じで物事を反出して行動しているのが実情ではないのだろうか。

 俺は他人の言動に対して共感を抱けないことがままある。それは学生時代でもそうだったし、今現在会社で働かされているときもそうである。特に会社の社長が俺に対して不満を言ったり文句を付けたりする時の言動の動機が全く理解できない時がある。

 仮に俺が会社に不利益を与えたり商機を逃したりした場合、そのことをあげつらって社長や上司などの上役の連中が俺を糾弾したとしたら俺はそれに対しては納得がいく。連中は損得勘定に基づいて俺を攻撃し責め立てているのだということを理解することは容易である。また、その叱責に対して自分がどう対策を講じていけばいいかも明確であるから反省のしようもあるだろう。

 だが、現実の対人関係においては損得とはまるで関係のないことで他人を攻撃し、我を通して他人に害を与えようとする人間のなんと多いことか。俺にはそのことがどうしても腑に落ちずにいる。そして自身について振り返ってみると、やはり俺も損得にかかわりのないことに拘泥していることが思いのほか多かったりする。

 生きていく上で抱く不可解さや理不尽な感じを詳しく分析してみると、損得勘定の欠落によるものであることは意外に多いのではないだろうか。利に聡くなることで人生はシンプルになるのでは? それこそ原理主義的なまでに損得に拘れば、自分に対しても他人に対しても判断や理解を誤ることはないのではないかと思う。

 俺を責め苛み、攻撃し危害を与える人間がいたとする。その人間は果たして損得勘定に基づき、自分が何らかの損害を被ったという認識の下で俺を攻撃しているのだろうか? それについて一考することは大いに有効であろう。仮にそうだとした場合、俺はそいつに対してどんな損害を与えたか考えればそいつが抱いている憤りを俺は理解できるだろうし、それについて対策を講じることは容易だろう。

 逆にそいつが損得勘定を度外視して気分や機嫌といった「なんとなく」で俺を攻撃していたとしたらどうだろうか。そいつの激憤や不満などについて俺が何かを感じ、考える必要がほんの僅かでもあるだろうか。無論答えは否であろう。そんな正当性のない他人の思いには何の値打ちもないし、一顧だにする必要はない。

 自分が何かを感じ、判断し、行動する際にも原理主義的な損得勘定を軸にすることは極めて有効であろう。自身の情動によって俺は何が得られ、何を失うか。自分の行動がもたらす損と得にフォーカスすることで自分がすべきことととすべきでないこと、大事なものとそうでないものの判断が極めて容易になるのではないだろうか。

 人生における生き辛さの正体は曖昧さや不可解さだと俺は思う。自分にとって何が必要で何が必要でないか。それが判然としない暗中模索の中で人は苦しむのではないだろうか。逆に明瞭な基準でもって生きている人間に生き辛さなどあるだろうか。人間は明確な指標や機軸をもって生きることで少なくとも生き辛さからは解放されるのではないか。

 それは「損得勘定原理主義」により達成される。自分が何を得るべきで何を失うべきでないかを明確にせよ。そして必要でないと断じたものは積極的に手放すべきである。自分にとって無用なもの、不利益を与えるものは徹底的に捨て去るべきである。

 それは目に見えるものや他人だけではなく、自身の中の情緒や記憶など言った形而上のものに対しても同様である。自分にとって無益な感情や過去の出来事などは積極的に切り捨て、忘却すべきである。自身にとって得でない思いや記憶を手放すことで人間は相当楽になれるはずである。

 当然捨てることができないものも多々あるだろう。どうしても切り捨てることができない人間関係や、生活の維持のために辞めることができない仕事、強烈なトラウマのために忘れることができないトラウマとか、生理的な反応として払しょくできない悪感情などがそれである。手放したくても手放せない諸事。

 それらに対して必要なのは強引にそれを捨て去ろうとすることではない。自分の気持ちの中では不要でしかないものでも、実利的にすぐに手放せないものは多々ある。すぐに切るべきでない人間関係やすぐに辞めるべきでない仕事などから無理矢理逃避することは得策でない。第一それは「損得勘定原理主義」の思想に反する。

 それらに対して必要なのは「自分にとってそれは本質的には不要である」と強く意識することである。それを手放せる時まで雌伏し、力を蓄え、それが叶うころ合いを見定め満を持してそれを唾棄するのである。

 このような思想に基づきそれを判断の指標とする上では、自分にとって何が得になり、何を自分が得るか、というよりも自分にとって何が損で何が不要であるかについて熟慮する方がより有益かもしれない。必要なものよりも不要なものの方がどんな人間にとっても多いだろうし、挙げても挙げてもキリがないくらいだろう。自分にって不要なものを切り捨てていった先に本当に必要なものが見えてくる。

 必要のない他人、必要のない物、必要のない習慣、必要のない感情、必要のない記憶、エトセトラエトセトラ……。一つずつ自分の生涯の中で無意味に抱え込んでいるものを自身からそぎ落としていくワーク。それによって自分が歩むべき道がほの見えてくるのだ。

 人生は足し算でなく引き算である。本稿で述べたような手放しのワークこそが人生における前身であると俺は主張したい。俺にとって貧苦や屈辱、怠惰や焦燥などといったものは不要である。それから遠ざかるために必要なことはなんだろう。また、それらを俺にもたらすものは何だろう。

 損得勘定に則って人間は生きていくべきだし、それに基づいた取捨選択は人間に間違いを起こさせないと思う。少なくともそれについて踏まえずに情緒に振り回されたり、なんとなく物事を判断するよりはよほどいいと断言できる。