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乱文手記置場

雑記、雑感その他

彼らについて私が知っている二、三の事柄

 劣等感というものは、かくも人を怪物にしてしまうのだ。明け透けに言ってしまえば、Yは血統的にどう考えても日本人ではないし、育った環境も悲惨かつ異常であることは彼が語った話から察することができる。まっとうな世界で生きていくこともできず、格上の相手にはただひたすらへつらい、格下と見た相手には恫喝や暴力を背景にして支配することでしか関係を築くことができないYに対しては同情すべき点もいくらかはあるのかもしれない。

 しかし、そんなことが俺に一体何の関係があるというのだろうか。ある一時期同じ会社に勤め先輩、後輩という間柄だったという点を除けば単なる赤の他人に過ぎない人間である。そんなYがどんな思いを抱いて生きているかなど無論俺にとってはどうでもいいことだし一々慮る義務はないはずである。赤の他人になめられる俺の態度にも大いに問題があるのかもしれないが、そんな衣冠禽獣の化け物に等しい危険人物とは関わりを断つのが当然である。

 しかし、Yのように弱そうな人間に対して牙を剥き、支配しようとする人間はこの社会には決して少なくはない。その手の悪魔はアンダーグラウンドな業界に限らず表の世界でも我が物顔で世の中を渡り歩いているのが現状ではないだろうか。その手の手合いは「捕食者」として社会に潜み、俺のような強く出られない人間を見つけるやマウントを取り心身ともに支配して食い物にしようと目論んでいるのである。

 捕食者の目的は劣等感の解消である。弱そうな他人をサンドバッグにして自分がかつて受けた、あるいは現在進行形で受けている仕打ちの憂さ晴らしを試みている。そんな連中の都合により俺は今まで不当に貶められ、騙され、こき使われてきた。俺はそんな手合いに受けた屈辱や時間や労力の浪費について思いをはせるだけで悔やんでも悔やみきれない思いがある。

 しかし、ある時ふと疑問に思ったことがある。俺が今現在使役されているブラック企業の社長が俺に対して日ごろから不当な要求を日常的に突き付け、報酬が発生しない強制労働や契約書を交わさない形での減給などといった仕打ちを俺に食らわせているのだが、それらの所業に対してその社長はどのような認識を持って行っているのだろうか、ということだ。こいつは単に俺に対して加虐や嗜虐の念でもってそれらを被らせているのだろうか? いや、もしかしたらそうではなく、こいつは俺に対して被害者意識をもってそのような仕打ちを行っているのではないか、という疑問である。その社長なる人物、第一そんな輩を役職付きで呼ぶことには相当抵抗があるが、一応便宜上「社長」とするが、そいつが俺に対してまるで懲罰でも与えるように必須でない時間外労働を無理強いしたり、唐突に給料を下げたりする際には決まって、まるで俺が何か重大なミスや過失などを犯し、それによってそいつ及びそいつの会社に多大な損害や不利益を与えたかのような口ぶりで俺を責め立てるのである。そんな社長()の言動を目の当たりにした俺に、ある天啓のようなものがもたらされたのである。

 こいつは居丈高に尊大な態度を取りながら、俺に対して「仕返し」をしているのだ、と。俺からしてみればそいつは会社の労使契約や組織内の上下関係を悪用して俺に対して不当な残業や減給でもって俺を苦しめているのであるが、逆にその男(社長)の認識の中においては、まるで正反対の関係性が成り立っているのではないかということである。

 そいつからしてみればそいつは不意打ちや詐欺にでも遭った哀れな被害者であり、それに対する正当な報復として俺にサビ残や減給などといった措置を行っているのではないだろうか、という仮定である。そこまで思い至って、会社という枠組みの中でそいつや社内の人間から被っている不当な扱いやあらゆる苦しみが途端にどうでもよくなった。一気に氷解したような感があった。

 かく言う俺も被害者意識や劣等感といったネガティブな感情の塊である。そんな俺は加害者というか「捕食者」として社会で振舞う手合いに対してある不可解な疑問が幼少のころからずっとあった。それは、「何故こいつはこんな酷いことを言ったりやったりできるんだろう?」という疑問であった。他人に対して偉ぶったり危害を加えたりする人間の気持ちというか行動原理というか、根幹にあるものが俺には全く理解することができなかったので、俺は他人という存在を常に恐れていた。

 しかし、どうということはなかったのだ。結局外罰的な人間というのは自分が何者かによって害されているという確信がありその感情のはけ口を常に探しているだけの哀れむべき存在に過ぎないのである。この世の何かが、誰かが自分に都合の悪い結果を引き起こしているのではないかという不信感や不安、もっと言うと恐怖を原動力とするこのような性質の連中の振る舞いなど所詮張り子のトラである。

 さらに言うとこういう人間は常に自分よりも格下のフォロワーを探している。だから上下関係や労使契約という形而上の道具を使って格下の相手に常にマウントを取り、傲慢かつ尊大に振舞うのだ。主従関係を築き上げ、その関係性の中で自身を定義することで自らを強い者や正しい者であると認識することにより彼らは精神の安寧を得ようとする。

 前回の記事で述べたYにしろこの稿で触れた社長にしろ、結局のところ恐怖を原動力にしているただの臆病者でしかないということだ。そんな人間がどんなことを言い立てたところでそれに対して俺が何かを感じる必要など全くない。そんな単純明快なことに今までずっと気づかなかったなんて! 連中は自らが上位に立つことができる相手を常に必要とし、またその対象に常に依存している。どんなに高圧的に恫喝していたとしても連中の心の内奥にあるのは自分が貶められ、害され、不利益を被るのではないかという不安だけである。そんな連中がやったことや言ったことに一体何の意味や価値、正当性があるというのだろうか?

 生活のためにやりたくもない仕事に従事し、嫌いな人間が運営する会社に所属して尊敬できない人間の下について屈辱を被る人生を俺は心底倦んできた。自分が受けている扱いや仕打ちがはなはだ無駄で理不尽なことのように思えて、俺の心の中はいつも不満でいっぱいだった。

 しかし、この記事で書いているようなことを感得して俺は天啓を得たのだ。怨憎会苦の苦しみの中で、俺は達した。自身を苦しめる環境やそれを作り上げる悪人どもの正体を俺は見破るまでになったのである。その境地に達するには、会社Xや今苦役に従事させられている会社でしごかれることはどうしても必要なことだったのではないか。いやそれどころか、学生時代や幼少期に至るまでの人生におけるあらゆるシーンで被ってきた屈辱や辛苦は、ある意味学びのために必要不可欠なプロセスだったのではないだろうか。俺は自身が被った一切について深く洞察し、甘受し、ついにはその本質を理解するに至った。この「分かった!」 という感覚を得るために俺は生涯を通して夥しい嫌な思いをし続けてきて、その結果としてこの記事で書いているような「人生における妙境」が何の前触れもなく、平々凡々たる日常の営みの中で不意に俺にもたらされた、そんな感じがする。

 うまく言葉にはできないが、人生という難儀なものの正体とか本質のようなものに、俺はYは社長といった存在を通して触れることができた気がするのである。そういう意味で言うならば、彼らは俺にとって仏教的な言葉を用いるなら「菩薩」と呼んでも過言でないような存在……、いやそれは言い過ぎかもしれないが。