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乱文手記置場

雑記、雑感その他

苦しみの正体

 人間の脳は好ましい記憶よりもそうでないものを蓄積するという。嫌な思い出は良い思い出よりも脳に定着しやすく、そのため主観において人間の人生というのは概してそんなにいいものにはならないのが相場なのだという。しかし、そのような脳みそやそれがもたらす記憶の性質を差し引いたとしても、俺の半生を振り返ってみればあまりにも「好ましくないものごと」が多すぎたような気がしてならない。

 俺は今日に至るまでの間、何一つままならない不本意な生き方してこなかった。いや、そういう生き方しかできなかった。俺にとっての「現在」は過去への後悔と未来への絶望とで板挟みになっているような感じである。これまで嫌なことしかなかったし、今もこれからも明るい見通しは全くない。自身の生涯に対してはマジで大失敗だったと思っている。

 第一、俺の人生にはあまりにも嫌なことや辛いことが多すぎた。それらの内のいくつかはここに書いたし、未だ触れていない瑣事などを一から十まですべてここに書き連ねることもできるだろうが、それをすることに俺はあまり意味を感じない。なぜならそれらの一つ一つがどれだけ辛いものだったとしてもそれはさして重要ではないからである。仮に俺がこれまで生きてきて被った諸事が世間一般の標準的な人間が被る体験と比べて悲惨さの度合いが大きかろうが小さかろうがそれは問題の本質ではない。なぜなら辛さの多寡に関わらず一切皆苦は万人において共通であろうから。

 人間が生きていく上で最も大きな問い、それはなぜ苦しみながら人は生きなければならないのか、ということだろう。どんな苦しみか、どれほどの苦しみかは大事ではない。苦そのものに対する洞察が人生において最も重要なのではないだろうか。

 生きとし生けるものはどんな存在であれ苦しみを被る。生老病死すべての苦しみがどんな下等生物にも高等生物にもあるだろう。苦しみは生の本質と言ってもいい。しかし、それらを受けて「何故?」という問いを抱くことができる生物は地球上においては人間のみである。この一点において人間は他のあらゆる生き物と一線を画すのである。

 生きることは苦しむことであり、それは人生のどんなシーンにおいても共通である。若いうちには若者としての、老境においては老人としての苦しみが必ずあり、それから決して逃れることはできない。それならば私たちはそれに対してどのように臨むべきだろうか?

 俺はこの国の社会のおいては生まれと育ちが悪い部類に属する人間である。そのために標準的な環境で生まれ育った人間がしなくてもよい苦労が多々あったように思う。俺は幼いころから苦しまずに済む回想の人間を妬み、また苦しまなければならない自身の境遇を呪って生きてきた。苦しみの少ない人生には価値があり、それが多い人生は無価値であると考えてきた。だから俺は自身の生涯を肯定することができずにいた。なんと不幸なことであろうか。

 また、これまでの半生を振り返り、自分が苦しまずに済んだであろう選択肢について幾度となく夢想してきた。後悔の念に駆られ過去を振り返り、辛酸を舐めない人生を空想し、そうでない現実に打ちひしがれ不遇を託ってきた。なんという時間の無駄であっただろうか。

 〇〇だから苦しいのだ、そう認識することは易しい。しかし、そこから一歩踏み込んで何故苦しまなければならなければならないのかと考え出した途端、人生は艱難辛苦の茨の道と化す。前者の段階で留まれば単に人は不平不満を言い連ね、適当な気晴らしをして済ますことができる。しかし、後者の道を選んだ者に待っているのは果てのない暗中模索である。

 苦に対して分析なり洞察なりを深める入り口となるのは日常的な悩みであろう。その一つ一つを解決していくというアプローチの仕方もあるだろうが、人間にとって悩みは永久に尽きないものである。虱潰しに人生の悩み事を解消していった先に完全な安楽があるとしたならば、生きるということはどんなに単純明快で容易いものになるだろうか。だが、そうは問屋が卸すまい。数多ある悩みの源泉を明確にして解決していけばある程度は自身を取り巻く状況を改善できるだろうが、それは根本的な解決には決してなりはしないのである。

 俺は何故苦しまなければならないのか。そんな七面倒くさい問いを立てた人間が最後に行きつく先は、とどのつまりスピリチュアルな分野になってしまうのだろうか。〇〇だから辛い、苦しい、嫌だと言って不平不満を託ち、それに対して対策を講じ、改善を施すまでは実利的かつ現実的な話の範疇に収まるが。くだんの問いに向き合う時、人はどうしても「そっち系」に行かざるを得ないような感じがする。

 スピリチュアルな言説においてよく見られる話の一つに、この世は修行の場であるというやつがある。全ての人間は神か何かに色々と課題なりハードルなりを課せられた状態でこの世に生まれてきて、それをクリアするために人生を費やすというお話である。それが正しいとすれば、苦しむ人生は課題に向き合う正しい生ということになり、あらゆる一切の辛苦を正当化することができる。

 これはまあ、悪くないように思える。この世界観を完全なる真理とみなして生きていくことができれば、生涯におけるあらゆる困難が意義深いミッションとなる。ネックになるのは苦しみを与える至高の一者がどのような存在で、どのような目的で人間を辛い目に遭わせるのかということになってくるだろうが。

 その言説の正しさを証明する手だてはないし、先に挙げたような突っ込みどころに対する誰もが納得するような答えは多分ないのだろうが、それはさして大事ではない。重要なのはこのスピ系の言説が人生における苦しみに意味を付与しているという点にある。

 「意味」があれば人間はどんなことも甘受できるのだ。逆に言うと人間は無意味には耐えられない。この記事でさんざん取り上げた嫌なこと、辛いこと、苦しいことの究極の本質は、実は無意味さや無価値さだったと言えるのではないかという気がしている。生老病死をはじめとした人生の苦しみは、それ自体に意味なり価値なりがないから人間にとって忌むべきものとなるのである。仮にそれらが有意義なものであるという設定が自己の中で出来さえすれば、ともすれば苦にすらならないかもしれない。大義名分の為なら人は死の苦しみすら容易に乗り越えられる、というのはよくある話ではないか。

 無意味さが人を苦しめる、と言うよりも人間とっての苦しもの正体は無意味さである。理不尽が辛いのはそれに対して意味を感じないからだ。本意に適わない状況を苦痛に思うのはこの中に身を置くことに価値を感じないからである。無意味さや無価値さから人間は自らを守ろうとし、そのために人は信念や思想を必要とする。

 人間は意味がないことに耐えられないから、たとえでっち上げてでもあらゆる事柄に対して意味付けを行う。意味が人間を鼓舞し、生かし、肯定する。肉体や精神をどれだけ損なっても、物理的または金銭的にどれだけ多くを失ったとしても、そこにもし揺るがない意義があったならばそれは苦ではないだろう。

 事物に対して意味付けを行う行為だけが人間を救済する。どんな状況に身を置き、どんなことを被ろうとも、それに大いなる意味を見出す知恵や機転があれば、人間はそれだけで安泰なのだ。肝心なのは意味を他人から与えられるのではなく、あくまで能動的にそれを行えるかどうかである。