壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

理想の鋳型

 俺は太りやすい体質だが、現在はめっきり痩せてしまっている。その理由は主に経済的な事由によるものである。会社側から一方的に理不尽な言及を宣告され、それ以降会社サイドから兵糧攻めを食らっているような状況である。家賃や公共料金などと言った出費はどうやっても削減できないため、必然的に食費を切り詰めることになり、言うならば強制的にダイエットをやらされているような状態である。丸顔だった輪郭は見る影もなくなり、腹回りの贅肉も消えうせた。

 しかし、俺は元来肥満体であった。それは祖母からの隔世遺伝による生まれつきの体質によるもので、俺は人並みに食事を摂るだけで他人よりも数倍は脂肪を蓄える体質のため、万年太っていたのである。大人になってからはある程度開き直ったような感があるものの、子供のころから俺には自分の太りやすい体質と肥えた肉体に対して大変コンプレックスがあった。

 コンプレックスを抱くきっかけとなったのは両親であった。俺の母親は祖母の隔世遺伝で太りやすかった俺の体をひどく忌み嫌っており、そのことを発言や態度で明確に表明した。父親も同様であり、彼らは肥満児だった幼少期の俺に常に運動やスポーツを強要した。俺は体を動かすことが苦手だったが、両親は俺に常に運動を無理強いし、俺の肥満を解消しようと常に躍起になっていた。

 俺は食事制限も児童のころから親に課された。太るという理由で両親は俺に満足に食事をさせなかった。特に肉類は厳禁で、牛肉や豚肉などが食卓に上がッた時には決まって、俺に与えられるのは三切れほどの肉のみであった。両親は食事の際に酒の勢いで俺の体型のことを明け透けにあげつらい、口汚くののしった。そのため、俺は食べるということに忌避感を抱くようになり、あまりものを食べない性分になってしまった。

 食べなければ当然身長は伸び悩む。そして両親はそのことに対しても明確に不満を表明した。俺の身長は小学校に入学してから高校を卒業するまでの間に平均水準を満たしたことは一度もなく、俺が小柄であることに対しても体系のことと同様に両親は幾度となく攻撃した。

 太りやすいから食事が摂れず、食事を十分に摂れないから身長が伸びない。その二つの現象は俺の容貌に深刻な悪影響を与え、太りやすいことと身長が低いことは現在においても大きなコンプレックスとなっている。

 身体的なコンプレックスは精神にも悪影響を与える。俺は物心ついた時から内向的な性格となり、根暗な人格が醸成されていくようになった。そんな性分も両親にとってははなはだよろしくなかったようだ。両親は俺の人格や精神に対しても自分たちの中の理想通りになるように命令し、俺に活発で明るい性格になるように強く強く促した。

 俺は心身ともに両親の願望とは180度異なる要素を備えた人間として成長し、現在に至ってもそれは全く変化していない。そのことは両親にとって途轍もなく不満なようで、今ですら両親は俺に電話をかけてきて俺にまつわ類あらゆる一切のことを不意打ちで批判してくるのである。有体に言えば俺はまごうことなき出来損ないであり、時事の母親をして「産まなければよかった」と言わしめるほどの欠陥人間なのである。

 両親にとって俺は問題だらけの子供であった。俺は彼らが提示する至らないところを自分なりに改めようともがきにもがいたが、結局俺は出来損ないの息子でしかなかったし、望み通りの子供に育たたない俺に対する父や母の失意の表情は今でもありありと目に浮かぶようである。俺は母の言う通り生まれてきてはいけない存在だったのだろうし、赤の他人が客観的に俺に対して評価を下したとしても、やはりそれは芳しいものでないないのだろう。

 両親をはじめとした、これまで生きてきて接触してきた数限りない他者が設定した超えるべき、または満たすべき水準というものに対して、俺は及第に達したことが一体何度あっただろうか。俺は他人にとっての理想という鋳型に上手く嵌ろうとしても絶対にそれができない人間であった。鋳型に填れないこと自体も無論苦痛だったが、自分以外の人間の尺度において自身のことを出来損ないだと言われたり思われたりすることが俺はずっと我慢ならなかった。

 他者の理想の鋳型に合致したような肉体や精神を備え、世の中の要望に適ったような言動を行い、社会の構成員として好ましい人生を歩んでいける人間が立派だと言うなら、俺にはそんなこと天地がひっくり返っても不可能である。それは俺が方はブレの規格外な人間だからではなく、単に容姿や能力などをあらゆる側面から見ても平均や標準を下回っている劣った存在だからである。そのことに対する自覚もまた一層この俺をさいなむのであった。

 他人が頭の中で抱いている「理想の鋳型」に填まれないことの何が悪いのだろうか。それによって俺にどんな不利益がもたらされるのだろうか。その問いに対する答えは自明である。他人から「お前には価値がない」と言われるのが俺にとっては問題なのだ。

 肉親であれ赤の他人であれ、お前は無価値な、あるいは価値が低い人間だと言われるのはとても辛いことである。しかし、どうしてそれが辛いのだろう。辛い辛い、嫌だ嫌だと言い立てるのは容易いが、そこから一歩踏み込んでこのような問いを立てるべきである。他者から貶められることが何故俺にとっては苦しみを生むのか。

 恐ろしいのだ。お前は値打ちが低い人間で、何の価値もないと他人に告げられることが怖くて、それから逃れられないから俺は苦しむ。辛苦と恐怖は俺には同時にもたらされ、不可分であり同義である。他者からの審判に恐れおののき、怯えながらどんな場所でも生きている。家の中でも学校でも会社でも、そんな生き方しかできなかったように思う。

 恐怖は人を苦しめるが、それに駆られそれから逃れようとすればするほどそれはどんどん膨れ上がる。俺はこれまで生きてきて、対人関係においてほんの一瞬でも安らぎを覚えたことは終ぞなかった。いつも戦々恐々と誰かや何かから責められる懸念に駆られ、自身の一挙手一投足が大変つらく苦々しく感じられた。他人からの失意や失望、そしてそれによってもたらされる態度や言動、あるいは仕打ちに対して俺は常日頃気がかりで、心休まる暇など一時もなかったと言っても過言ではない。

 見下され蔑まれ虐げられる。そんな経験やそれらに対する懸念は、俺に絶え間ない苦痛を与えた。他人に貶められ嘲られることが俺には我慢ならなかったし、その兆しを感じるだけでも俺は戦慄した。俺は怯えきって何もできない人間となり、人生をただ無意味に空費した感がある。

 他人に馬鹿にされることがなぜこんなにも恐ろしいのだろうか。俺は最近になってふとそのことに疑問を感じた。他人を失望させ、侮られ、軽侮の念を抱かれることがなぜこんなにも怖いのだろう。それを被った俺は一体何を損なったり失ったりするというのだろうか。

 恐怖とは要するに喪失に対する懸念である。しかし、人間は他人にどう思われたところで、何かが奪われたり傷つけられたりはしないのではないか? 当人がどうとも思わなければそれで済む話ではないか。

 思えば俺は、自分が抱く恐怖の源泉に対して全く無頓着だった。訳も分からず他人の目や言動に、ただ怯えすくんで生きてきた俺の生涯は振り返ってみれば滑稽ですらある。他人に蔑まれたくないというシリアスな思いを抱いて生きてきたはずなのに、そんな人生は冷静になって一歩引いてみれば単なるギャグに過ぎなかったのではないか? 今となってはそんな気がしている。貶され、蔑まれ生きてきた俺の人生が単なる笑い話に過ぎないとしたら、そのことは俺にってありがたい救いとなるのかもしれない。