他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

失う、または得るという幻想

 俺は人生はシリアスであると、何の根拠もなくそう思って生きてきたのだが、最近になってそれを疑問に思うようになってきた。と言うよりもその前提が俺には窮屈で仕方なく感じられるようになってきたのである。人生はなぜシリアスなのか、そしてそれからどのようにして俺は解放されればいいのだろうか。俺が救済されるには、自身の生涯を通して付きまとったシリアスな感情に対して向き合うべきであろう。

 勉強でも仕事でも遊びですら俺は常にシリアスにやってきた。それは人一倍それらにことに一生懸命にやってきたとか、そういう意味ではなく、恐怖や不安、あるいは焦燥感と言った念に駆られてそれらを行ってきたのだ。そんな類いの感情を携えて人生のあらゆる場面に臨んできた俺にとって、生きることは常に苦行であったし、それによって得られたものなど本当にたかが知れた物でしかない。

 俺の人生は常に生き辛く、常に窮屈で苦しかった。そんな障害の根底にあったのはこの記事の冒頭に挙げたようにシリアスな感情であった。いつも真剣というか深刻に事に当たらなければならない、そんな強迫観念やおきてのようなものが俺をどんな瞬間においても縛り続け、俺はそのためにずいぶん無駄に苦しんできた。勉強や仕事に限らず、余暇における息抜きですら俺はそんな感情を払しょくできなかった。

 何かを失うかもしれない、何かを得られないかもしれない、そんな思いをずっと抱いて生きてきた。シリアスな感情を分析すればそれは、喪失に対する懸念である。機を逃すかもしれない、嫌われるかもしれない、大損するかもしれない、自らの失敗や他人から向けられる悪意によって、自分が不利益を被ることを俺は常に恐れ続けた。俺はどうしようもなく臆病だったし、人生のおけるどんな局面においても怯えて臨んでいた。

 気楽に何かをやるということが今までどれだけあっただろうか? そう自問してみれば、あまり思い当たる節もない。無駄にしたら、失ったら、損なったらどうしようとただそればかり案じ、緊張し、焦り、おののきながら生きる人生は悲劇を通り越して喜劇的ですらある。

 それは俺の望みだろうか。断じて否である。本当はもっと気楽に行きたかったし、人生を楽しみたかった。もっと遊び心をもって、明るく朗らかに生きたかった。しかし、これまで生きてきて一度たりともそうはならなかった。どのような場所にいても、どんな人間関係の中にあっても、俺には常にシリアスな感情が呪いのように付きまとっていた。

 ここにきて、ふと一考する。一体何を失うというのだろうか。一体何を損なうというのだろうか。何かを有するから何かを失うのである。何かを得うるからその機を逸しうるのだ。しかし、それはいったい何だろう。俺は何を持っているというのか。どんな機会があったというのか。考えてみればそんなものは初めから存在していなかったように思う。人は持っていないものを失うことはできないし、それを憂うことは滑稽である。そう思えば俺の生き方は道化もいいところであったと言える。

 何も持ちえない人間が何かを失うことを心配していたのだ。俺にはシリアスになるべき理由など本当は一つもなかったにもかかわらず、周りの人間が吹き込むことを真に受けて常に不安や恐怖に囚われていたのである。親や教師、友人知人、はてはメディアなどの言説に至るまでが皆口々に「失うことへの懸念」を俺に吹きこんでいたし、俺はそれを馬鹿正直にこの世の真理のように信じ込んでいた。

 どんな人間も空手で生まれてきて、空手で死んでいく。何かを手にしたところでそれはどんなものであれいずれは手放すか、ともすれば自分の所有物だと思い込んでいるだけであるかもしれない。自分が何かを獲得できる、獲得しうるという前提があって初めて、何かを喪失する可能性が生まれる。そしてその可能性が不安や恐怖を生み、それらから引き起こされるのがシリアスだ。

 得るということそれ自体が幻想である。私的所有というのは便宜上の概念に過ぎず、人間は本来どんな瞬間においても手ぶらなのである。だからこそ失うということもまた迷妄に過ぎないと言えるし、「シリアス」という呪縛から解き放たれる可能性がある。いや、それどころかそれに囚われているという念すらも幻想であると断じることができるのである。

 そう考えてみれば、人生というのはなんと気楽なものだろう。生きている最中にたとえ何かを手にすることがあったとしてもそれは仮初めでしかない。どんな人間も永遠に何かを所有することはできないしまた、何者も失い得ない。そんな視点で生きられれば、まるで人生とは丸ごと遊びのようではないか。楽に、楽しく生きられるなら、俺にとってはそれは素晴らしいことである。

 そのような境地はある意味絶望的である。何も得られないということを否定的に考えれば、それは希望がないように感じられるだろう。しかし、シリアスという情緒に対して飽き、倦んだ人間にしてみればそれは希望以外の何物でもない。それどころか、自身が給されるための突破口、一縷の望みのようにすら思えるのだ。絶望こそが希望に転じ、それにより人はより良い生き方ができるのではないだろうか。

 何も得られないから何も失い得ず、なにも損なうことがない完全無欠の存在。それこそが人間の本性であり、本質である。それを見失っているから人は悩み、恐れ、苦しむのである。シリアスである限り人は辛苦にさいなまれ、人生は常に悲劇となる。しかしシリアスという幻想から解き放たれた時、人間は自らの本性を悟り、悲劇的な生から解放されるのである。

 シリアスな人生は単なる苦行に過ぎない。しかし、その苦行が少なくとも俺にとっては今生のこの時期において終わろうとしているのかもしれない。それは貧しい生活や苦しい労働、または嫌な人間関係が終わるという意味ではなく、それらに対して不安や恐怖、焦燥と言った念を抱くことなくただそれを甘んじて受けるということである。無論状況が好転すればそれに越したことはないが、それは皮相的なことでしかない。

 それらの苦境の只中にあっても、俺は決して何一つ失わず、損なうことはないと断言してしまおう。ノーダメージである限り、そこにシリアスな感情が入り込む余地などない。さらに踏み込んでいうならば、喪失や損害を「被る私」という認識すら思い込みに過ぎないのではないかとすら思う。得失が幻想ならば、その主体となる「私」もまた幻想なのかもしれない。

 被る私はどこにいる? 損害を、損失を、不幸を、不運を、危害を、屈辱を、侮辱を、被っている「我あり」と、どのような確証があってそう言えるというのだろうか。なんとなく「我あり」と思い込みながら得失への幻想とそれから生まれる不安や恐怖を抱き続けて生きてきたなんて、全くのお笑い草だ。

 確たる自分というものが存在しているという前提を踏まえた時、人間は必ず不幸になる。その確固たる私はいずれ何らかの形で損なわれるからである。精神的にも肉体的にも「我あり」という前提は人間にとって問題の源泉となる。得る主体は遅かれ早かれ失う主体となり、それを自分だと認識するならば人間は苦しみからは絶対に逃れられない。人はシリアスであり続ける。

 余人はそういう在り方を人として当然だと考えるかもしれないが、俺にとってはもうたくさんである。シリアスからはもう卒業したいし、それをもう必要としない。だから俺はもう何かを失うこと、自らを損なうことを恐れはしないし、それらを被る自己を手放してただ快哉を叫びたい。