壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

負け犬と不機嫌

 常に機嫌よく、愛想よくありたいものである。それを望み、努めてそう振舞おうとしても未熟なせいかなかなか思うようにはならない。つまり、俺は基本的に不機嫌であることの方が多い。その原因としては経済的な問題とか、仕事上の問題とか人間関係における何某かなどといったことなのだが、明確に顔や態度に出さなかったとしても、俺は人生において大部分の時間を不機嫌な感情を携えて過ごしていると言っていい。

 我ながらこれは問題だと思っているが、これがなかなか改めることができないでいる。不機嫌になる理由というのを挙げ始めるともう枚挙に暇がないのが俺の人生である。特に経済状況や自身が置かれている就労環境などを客観的に認識すれば、俺は紛うことなきワーキングプアである。有り体に言えばきつくて割に合わない仕事をやらされ、貧困と屈辱にまみれた生活を営んでいるのだから、俺が常日頃不機嫌でいるのはある意味当然のことなのである。

 しかし、俺はこの不機嫌から脱することを望んでいる。なぜなら、不機嫌とは現状への敗北であるからだ。自分が置かれている環境に対して屈したとき人間は不機嫌になる。機嫌を損ねる正当な理由がたとえ厳然と、いくつもあったとしても、それに対して不機嫌になる時、人間はその状況に負けたことになる。機嫌が悪い人間は常に歯医者であり不機嫌は人間に良いものを何ももたらさない。

 俺は子供の頃から不機嫌な人間をたくさん見てきたし、大人になった今では自分もその連中の一員になってしまっている。下層階級に属する人間は無知で貧困である。そしてそれらは不可分であり、それによってもたらされるのが不機嫌である。俺が間近で見てきた人間は大抵低い階層の人間たちであり、皆貧窮していたし頑迷だったし、いつも不満そうにしていた。無論俺自身もそうだった。

 その振る舞いは完全に負け犬のそれである。そういう人種は自身が置かれている状況を克服する能力や気概を持たないから、結局愚痴をこぼしたり不遇を託つことしかできない。その惨めさや度し難さといったらない。こういった手合に対しては同情するよりも嫌悪の情を抱くべきだ。そういう人間は言わば、被った不幸に対して戦うことを放棄して惰性で生きている存在で、概して人格的にも低劣である。

 俺は目下、そういう人間と同類なのである。そう考えるとワーキングプアとして使役され、薄給で糊口を凌いでいつも不機嫌でいる現状に対して忸怩たる思いがある。これではいけないと最近は強く思っている。単純に生活が楽になってまともな職業に就く事ができれば問題は大方解決するのだが、そうは問屋が卸さないのが現実である。そのため、当面生活の好転は見込めないことを前提としてこの「不機嫌」と向き合い、乗り越えていかなければならないのである。

 人間は自分が置かれている状況を完全に選ぶ自由など与えられていない。貧しく、額もなく、若くもなく、孤独で、未来がない状況を喜々として選択する人間などいない。しかし、そのような泥沼のような悪い環境の中にあっても、人は自身がそれにどのような態度で臨むか、という一点においては完全に自由である。それは究極的な自由で奪われることも侵害されることも決してない、自らそれを放棄しない限りは。

 俺は自身の弱さのために、その自由を放擲してきたのだ。自身の身を取り巻く事象に翻弄され、敗北し立ち向かうことをやめ、社会に敗北を喫した結果として俺の表情はいつも曇っていたし、胸中にあるのは愚痴や不満や他人への怨嗟の念のみ。それは苦しいだけでなく、屈辱であった。打ちのめされた自分の惨めさとそれを乗り越えることができない己の弱さに俺はうんざりしているし、それからの解放を希求している。

 結局、人間は強くなければならないのである。人間は弱者のままでは苦痛と屈辱を被るだけである。それらに対して御免被るという気持ちが、ほんの僅かでも存する人間は須らく強くあろうとしなければならないし、弱いままでいいなどということは絶対にありえない。そんなことは自明であるはずなのに、この歳になるまで身に沁みて理解することができなかった自身の浅はかさには深く恥じ入る他はない。

 不機嫌は弱さの発露である。そして、それを肯定するべきかどうかで身の処し方も当然変わってくる。不機嫌であることをやめるには、とどのつまり強く非なければならない。安い賃金でこき使われ、人格を否定され、尊厳を踏みにじられ、粗末な食事で口に糊して、身をやつし心は荒み、寄る辺なく……。そんな最中にありながらも不機嫌にならないとしたら、それはどれだけの力強さが必要になるだろうか。

 不機嫌でない状態とは、要するに上機嫌だろうか。屈辱や悲惨の只中にあって、上機嫌でいられるとしたら、その人はもう仙人の域に達していると言っていい。宗教やスピリチュアルな分野でよく言われている「悟り」の境地というのは、もしかしたら卑俗な捉え方をするならば、常に不機嫌にならない人を指すのかもしれない。俺はそれを目指すべきなのだろうか。そしてどのようにしてその願いは遂げられるのだろう。

 これはもう、結局のところ笑うしかない。悲惨に対してどう考えても、何を言っても、何をしても突き詰めていけばどうにもならない。人がそれに不機嫌を廃して臨もうとするのなら、笑う他にどんな手があるだろうか。苦しみや悲しみに立ち向かうなら呵々大笑、これに尽きるのである。

 笑っていられる人間は負けはしない。打ちのめされ踏みにじられても、笑いがあれば

人間は強くあり続けることができる。ただし、それは作り笑いではなく、腹の底からの笑いでなければならない。無為無策の空元気や無知蒙昧な能天気さではなく、機知や諧謔でもって人間は不幸に対処していかなければならない。

 しかしそれは面倒臭くて辛い茨の道でもある。それに比べれば不機嫌さを表明し、不平不満を言い連ねて被害者然として振る舞う弱者としての在り方はなんと安易なことだろうか。それで満足できるならその方が簡単でいいのかもしれないが、それを手放して自由になりたいと欲するならば強さを、もとい笑いを求め続ける道しかないのである。

 易きに流れることを潔しとせず、不撓不屈を旨としてユーモアやウィットでもって人生を切り開く、そんな生き方に俺は憧れているし、今この瞬間からでもそうするべきである。しかし、実はその類いの理想は遥か昔から掲げていたにも掲げていたにも拘らず、延々達成できなかった志でもある。つまり、それは容易ではないのである。

 その大願を成就することは、俺の人生における大きなテーマなのかもしれない。この記事を書く遥か昔から俺は不幸には笑いで臨むべきだと思っていたし、頭では分かっていた。しかし、それを実践できる境地に達することはこれまで終ぞなかったのである。ともすれば俺の生涯はそれを達成するためにあるのかもしれないし、生活や就業の際に被る諸々の好ましくない事象はそれをクリアするための良い課題となっているのかもしれない。

 俺は世間に敗北し続けてきたし、目下惨敗中である。しかし、負けてばかりの惨めな人生の大本にあったのは、貧しさや不遇、他人からの悪意などといった外的な要因よりも、この記事で何度も述べたように自身の内面、とりわけ不機嫌さであったと思う。負け犬であることに甘んじず、歯医者として生きること拒否するならば、俺はこのインディヴィジュアルな問題に全力で当たらなければならないのである。