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乱文手記置場

雑記、雑感その他

面白基準

 親譲りの底辺気質で子供の時から損ばかりしている。学歴は低く、見識は狭く、経済的に常に窮乏し他人には騙され見下されこき使われている。そんな人生は損得勘定で考えれば全否定せざるを得ない有様であり、自分という存在を客観的に考えれば価値の低い人間であると断じるしかない。生まれてこなければよかったとすら思う。

 価値のある人生とはどのようなものだろう。俺には想像するしかないが、豊かで恵まれた環境で生まれ育ち、将来の選択肢に幅があり、良い人間関係に恵まれ、正当な対価が得られる職業に就き、良い伴侶を得て円満な家庭を築き、無病息災で歳を重ね畳の上で大往生を遂げる、そんな生涯がまぁ理想的で値打ちのある人生であるとしよう。

 翻って自らの実人生を省みれば、惨憺たる有様である。機を逸し、他人には騙されるし割を食わされるようなことばかりだった。本当に損ばかりして、振り返ればもったいなく思うようなことばかりだった。利害得失で人生を考えれば公開することがあまりにも多すぎて、自身の人生を肯定することができない苦しみに押しつぶされてしまいそうになる。

 しかし、自分の人生を肯定することができないというのは大変辛く耐え難い。己の存在を過去現在未来というシリアルな時系列の出来事の羅列の中で定義づけるとしたならば、俺は単に無価値で無意味な下等な存在であると結論付けるしかない。それから目を背けて現実逃避を試みたところでより一層惨めさだけが募る。この環状は俺の精神を蝕み、最終的には俺を死に追いやってしまうかもしれない。

 人生を損得で考えれば、俺はこれまで生きてきたすべての時間や局面を否定するしかなく、それは最終的に俺を破滅に導くだろう。仮に俺が今日この瞬間に自分の人生を閉じる気があるならばそれでも構わないのかもしれないが、残念なことに俺には目下死ぬ気が一切ないのである。死ぬ気がないということは消極的にでも生きていかなければならないし、その上で必要なことは人生の自己正当化に他ならない。

 人間は自分の人生に対してどうやって「然り」と言うべきだろうか。人並みに幸福な人間にはそれは容易いことだろう。これまでに自分が体験してきた幸福な時間や楽しかった経験、浴してきた快楽や愉悦などを思い起こすだけでそれは可能となるだろう。しかしそうでない人間の場合においては、どのようにしてそれを成し遂げればいいのだろうか。不幸で良い目にあったことが皆無に近い人間にとって自分の人生を肯定するということは極めて難しいと言わざるをえないだろう。

 俺は自分のこれまでを振り返っても、いい思い出など何一つないし、目下ワーキングプアとして最低最悪の生活をしながらこの社会で地を這うような暮らしぶりである。そして将来に思いを馳せたところで先行きは暗いのである。そんな人間が自分の人生を肯定するということの困難さは恐らく幸福な人間の想像の届くところではないだろう。

 余人に理解されることがなくとも、俺は自分の人生に対して然りと言わざるをえない。それはどのようにして可能となるのだろうか。考えても考えてもその答えは全く出ることなく、俺は鬱々と日々を過ごし、徒に歳を重ねてきた。無価値な自分や無意味な人生を肯定できずにただ足掻き、苦しみ、嘆き続けて生きてきた。

 なぜ無価値であったり無意味であったりすると、人生を肯定できないのだろうか。それは損得や利害得失という観点で生きているからである。自分が不利益を被ってきた、あるいは現在もそうでありそれを覆すことができないから、俺は自身の生涯に然りと言えないのである。その状況を打破するために必要なのは、損得で考えないことだ。

 自分が被害や損害を被っていると考えるから人間は自分が身を置いている状況に対して不服に思うのである。得失という視点で物事を解釈するから人生を肯定できないならばその前提を変えればいいのである。利害得失に変わる基準でもって自分が被るすべてを捉え直すことにより世界観を再構築することで人生に対して然りということができるようになる。

 損得に変わる新しい尺度、それは「自分にとって面白いかどうか」という基準である。たとえ得をしなくても、損害を被ったとしても、自分にとって面白いと思えればその状況を肯定する、そのような視点で世界を見始めたときに、代わり映えしない日常がまるで違って見えてくるようになるかもしれない。

 それによって世界を見るときに必要となるのは面白さを見出す能力である。自分が被る事象や置かれている状況に対してどのように面白がるか、その一点に焦点を当てて生きてみれば、他人にこき使われる生活も見方一つで様変わりするかもしれないし、これまで生きてきて遭ってきた悲惨な事柄に対しても捉え直しが可能となり、俺は自身の障害を肯定できるようになるかもしれない。

 自分にとって不利益な状況下にあって、どうやってそれを面白いと思えるか。低賃金で長時間拘束される労働を強いられることを面白がることができれば、そこには何も問題がないことになる。苦しみを面白いと思えれば、それを肯定できる。それしかない人生に然りと言える。それをどのようにして達成するか、その一点だけが俺の人生における唯一の問題、テーマとなる。

 生きていく上で気にかけることは身を置いている環境をどう面白がるかだけである。そう考えれば、人生はなんとシンプルなことか。辛く苦しく惨めで虚しい人生を面白いと思える境地こそが俺が求めるべきものであり、目の前の諸問題はその域に達するためのハードルにすぎない。そう考えればどんな状況においても俺は腐らずに臨むことが可能となる。人生の意義や目標があまりにも明確となるからである。

 最早なにを被るかなど問題ではない。何も得られないどころか、どれだけの物を失ったとしてもそれがなんだというのか。面白さだけを追い求めるとき、そんなことは度外視してもいい瑣末事に過ぎなくなる。生活上のあらゆる辛苦が問題でなくなる時、人生はどれだけ気楽な旅路となるだろうか。

 無駄、無意味、無価値……それらに対抗する道標としての「面白」が、俺を救い導くのである。それを追求するために必要な能力はただ日常を面白が理ながら甘受することだけだ。闇雲に職を変えたり人間関係を断ち切る必要はない。生活の中で、凡庸なあらゆる瞬間に「面白」を見出す時、森羅万象は祝福に満ち溢れるだろう。

 価値のない、意味のないあらゆる一切を面白いと見なすことができれば最強だ。その妙境に達することさえできれば人生は安寧であり、すべての問題は雲散霧消するだろう。その域に至るために人生のすべての諸事はハードルとして人間に課せられているのであり、それらを面白いと思える時点で人間はすでに救済されていると言ってよいだろう。

 損得に振り回される人生はもう真っ平である。有益であったり有意義であったりする瞬間から転じる度に悲嘆に暮れるような生き方を俺はもう望まない。人生の醍醐味は面白さを享受することにあり、それは代わり映えのない日常の営みの中に全てがある。面白いと思えさえすれば人間は笑うことができるし、笑っていられるうちは人間は安泰である。その一時こそが万事であり、最も気に留めなければならない一大事である。

 そのために必要なのは鋭敏さだ。研ぎ澄まされた感覚でもって目の前の事物を面白いと感じる感性を涵養しなくてはならない。それは生涯を通して取り組むべき一大事業であると言っても決して過言ではないだろう。