書き捨て山

雑記、雑感その他

神を携え

 俺は「神は在る」と胸を張って主張したい。なぜかといえば、その方都合がいいからである。いわゆる至高の一者というものが何らかの形で存在しているという前提で生きることは生きていく上で人間には有益であることは疑いようがないと考える。

 有神論を唱えるにあたり、その証拠を出す必要はない。神の存在を証明しなくても神は在るとすることは完全に個人の自由の範疇であり、他人にとやかく言われる筋合いのない話である。俺は自分が生きていく上で神の存在を必要とし、現にそれは俺に多大な恩恵を与えているから俺は神は在ると主張する。

 神の実在を証明する手立てはないし、それをする必要もない。ただ俺個人の主観において神は在るとするだけである。それがどんな存在であるかというディティールについて明確に設定することもできないし、またしなくてよい。大事なのは有神論によって俺個人が救われ、生き易くなるという一点に尽きる。

 逆に神が不在だという前提で生きていかなければならないとしたら、俺にとってこの世は不可解で理不尽な地獄でしかない。理由もなくこの世が形作られ、意味もなく人間が生み出され、生老病死を始めとした四苦八苦があり、実社会においていつ終わるともしれない果てなき競争に身を投じざるを得ない人生を強制的に命ある限り続ける。神なくして生きるなら俺は、理由も意味もなくただ訳も分からいまま諸事に弄ばれて身をやつして生きる他なく、単にそれは苦しいから嫌なのである。

 神について考えたり論じたりするにあたり、余人は大抵その有無とそれを裏付けるための根拠を問題とするのが常である。しかし、神について有用性という視点で見た時、それはいないよりはいた方が人間にとっては益が多いと俺は思う。神とは人間の上に君臨する何者かではなく、人が生きていくために必要な道具のようなものと捉えれば、その有用性は明白ではないか。

 神は使い勝手の良い道具である。日常的な瑣末な問題や悩みからはじまり、この世界の存在意義などについても一括で意味付けを行うことができる。これにより生きるという複雑な営みは単純かつ簡潔なものとなり、余計な思索や思弁に時間や労力を割く必要もなくなる。逆に言えば無神論は人生を無意味に複雑にするだけの有害な思想であるといえる。

 ただし、神はあらゆる意味で人知を超えている。人間の倫理や道徳、理屈や論理で知ることも推し量ることもできない存在が神である。だからこそ神は神聖であり絶対な存在足り得るのだ。さらに言えば信賞必罰や勧善懲悪などは人間の間でしか通用せず、神の次元においては適用されない。だから一見この世界は人間の感覚で捉えるなら不完全で不条理であるかに見え、それにより余人は神の実在を疑う。

 この世は人間にとって不都合なことが多々起こり得るというのが無神論の依拠するところだろう。しかし、人間にとって都合の悪いことが起こり、逆に好都合の事象があまり起きないということで以て神は存在しないと断言してしまうのはいささか暴論が過ぎるというか、飛躍し過ぎの感がある。

 先に述べたように、無神論は人生をむやみに複雑にしてしまうことは自明であるが、それによって人間にどんな恩恵が有るのか、考えてみるべきである。神がいないという前提で生きるとして、それが人間にどんな恩恵をもたらすだろうか。神がいない世界観で生きたところで人は、理由も目的もなく、ただ一目先の欲得や不安や恐怖に振り回されて生きるより他なくなる。無神論は人を動物にする。神という指針無くして人は人間たり得ず、神を持たない人間は虚無主義や刹那主義に堕するだけである。

 人間は無意味さや無価値さに耐えることができない。神を持たない人間はこの耐え難さに直面するのだが、それにより人は何を得るというのだろうか。無駄に人生を複雑で困難なものにするよりは、神が在る世界観を前提として生きたほうが余計なことに煩わされることもなくなる。そのようなプラクティカルな観点で考えた時、神はないよりは在る方が得なのだからその恩恵に浴するのが賢明な判断であると言える。

 神を信じるのではなく、神を使うことにより人間はより良い生き方ができる。それを使う上で信じるというプロセスは必須ではない。信じるに足り得る証拠や証明がなくてもそれを活用することは可能であり自分にとって益が多いと判断したならばそれをするまでである。神の有無に限らず一事が万事、そんな姿勢で良いと俺は思う。

 神は在り、俺はその恩寵を受けている。そう言い切ってしまってもいいだろう。それに対して証拠を出す義務はないし、自分が腹の底からそう思えるならばそれで十分だろう。自分が今この時点で無病息災でこの世に生存していること、それを持って神の恩寵として至高の一者たる存在に感謝する。それをするだけで日常の生活に大きな意味や価値が生まれる。逆にそうしなかった場合、日々の暮らしは単調で味気ないものとなるだろう。どちらを選ぶかもまた各人の勝手である。

 標準的な日本人の生活水準と比べれば大きく下回るものの、俺は目下人間並みの生活は営むことができている。仕事や金銭にまつわる不満は多々あるが、それでも生存を脅かされるほどの貧しさに喘いでいるというわけでもない。もうそれだけで神のはからいを受けていると言ってもいいだろうし、それを否定する者が仮にいるとすれば否定する証拠の方が求められるだろう。神の不在を証明することは神の実在を主張するよりも遥かに難しいのは言うまでもない。

 俺は天の加護や神の恩寵を受けるに値する人間である、そんな大言壮語もいいではないか。それにより誰かが傷つくでもなく損を被るわけでもない。なぜ俺はこれまでそう胸を張って言い切れなかったのだろうか。思い返してみれば甚だ愚かしいと言う他ない。俺の身の回りのすべては祝福に満ちており、前途洋々たる未来を示す瑞祥は数限りなく用意されている。証明の必要などなく、ただそうであるとある意味無責任に言い放つ勇気があっていいと思う。

 神がどんな存在で何を意図し、我々に何をもたらしているかはこの際どうでもいいのである。ただ我々が気に留めるべきなのは神が自分に与える愛だけである。神に愛されていないものがどうやってこの世に生まれていくるというのか。五体満足で雨風を凌ぐことができ、空腹を満たせるだけでそれはどれだけの恩恵であるかを一考するだけで十分だろう。あえて証拠を挙げればキリがないくらい、少なくとも俺は店の寵愛を受けているのだから、神の実在を声高に叫んでもなんの問題もない。

 神に依って人生は意味付けられる。意味があるということこそが人間にとっての幸福であり、それが神が人間に与える加護なのである。人間がそれに報いるためにすべきことはその愛をただ甘受することだけだ。神と人間との関係で問題になるのは人間が神の愛を受け取る準備ができているかどうか、そのただ一事だけである。

 自分は神に愛される資格がある、それだけの値打ちがある。そう明言できるかどうかに存在の全てがかかっている。神の愛は大きいためにそれを受け入れるにもそれだけの器が必要となる。自身がそれに値する存在であると断言できた時、抱えていた問題の全てから人は解き放たれ、まったき自由と安寧を得る。俺は自分の幸福と安楽のために神の存在を確信し、それに一切を委ねる準備を整えながら一日一日を生きるようにしているのだ。