他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

被る物語

 俺が前に勤めていた会社は、単刀直入に言うと頭の悪い人間から詐欺によって金を巻き上げてどうにか凌ぐ、いわゆる悪徳企業であった。そんな外側に対して不誠実な組織が内側の人間に対して誠実であるはずもなく、その会社の一従業員として集団の序列の中に組み込まれた俺に待っていたのは、当然理不尽な苦役と屈辱であった。俺はその会社で最下層の下っ端として使役され、その会社が潰れてなくなるまでの間に色々と酷い目に遭わされたものである。

 目下働いている会社においても俺は底辺労働者として苦役に従事する日々である。賃金が低く拘束時間が長いだけでなく、おおよそ会社の利潤追求とは関係ないであろう事柄についても日々追求され、いびられながら屈辱的な生活を送っている。現職及びそれ以前の労働環境、および学生時代にまで遡って自分が今まで受けてきた酷い仕打ちを省みれば幾らでも書き連ねることができるがそれをする意味は無いだろう。

 何をどれだけ被ったかは問題ではない。どんな人間がどんなことを俺に行ったか、それによって俺がどれだけの損害を受けたか、そんなことを今になって言い立てること一体何の得があるだろうか。問題なのは、なぜ俺は不都合や不利益を被るのだろうかという一点のみである。

 なぜ俺は酷い目に遭うのか。それは単に俺に運がないからだとか能力が低いからだとか、人の縁に恵まれないからだとかそういう話ではない。世の中に悲惨が自身のみに降りかかる時、なぜ、どんな根拠があって「自分」という主体が害され、損なわれ、奪われていると感じるのだろうかということである。

 自分が時間や労力を不当に搾取されている。若しくは辱められ、踏みにじられていると感じている時、その「自分」という存在はどんな根拠や証明によって「在る」と言えるのだろうか。俺がいて酷い状況があり、俺が割りを食わされている。それは皮相的に上辺だけ見ればただそれだけで終わってしまう話だが、「被る自分」というのがどう言う存在で、どう定義されるのかという深い次元において俺はついぞ考えてこなかったように思う。

 複数の職場で幾つもの労働に携わり、ワーキングプアとして苦渋と辛酸を嘗めながらある時俺はふと思ったのだ。「被る私」は一体どこにいるのだろうかと。それは単なる安直な現実逃避ではなく、「酷い目に合う私」と「それが在る状況」を何故疑いを持たないのだろうかという純粋な疑問であった。それは仕事や人間関係がどうであるかという話ではなく、自分自身をどう定義するかという極めて内的なことであり、人生における諸事の根底に係る一大事なのだ。

 それは「被害者としての私」という頭の中の自画像に過ぎない。それを盤石なものとして裏付ける客観的な事実や加害者として存在する他者と自分との関係性などがいくらあったとしても、それらは表層的な瑣末事でしかない。それらが仮になかったとしても、「可哀想な私が存在する」という前提に固執する限り、別のなにかを根拠にして俺は死ぬまで哀れな自分を堅持し続けるだろう。

 そこには被害者で在り続けようとするある種の不毛な努力がある。ある意味では被害者たる自分という存在を確立するために身の回りのあらゆる事物や人間を根拠にして必死に自画像を形作り、守っているのである。人は被害者で在り続けようとする限り、どのような形であれいつも問題を抱え続けるし、そこには終わらない苦しみも抱き合わせで存在し続ける。

 なぜ俺は苦しまなければならないのか、ずっとそう自らに問い続けながら生きてきたが、そう考えれば原因は明らかである。「被る私」という自己が認識の根本にあるから、もっと言えば俺が俺であることこそが問題であったのだ。被害者としての、可哀想な自分という前提を頑なに守り続ける限り、俺は悲惨さと屈辱から逃れることはできないのだ。

 「被る私」が在り、悩ましめる数多の問題が降りかかり、それにより苦しむ。苦しみを望まず、それから自由になるには、抜本的に自分自身から自由にならなければならない。確固たる自己の存在が苦しみの源なら、それがどのような形でどのようにして在るあるかは問題ではなく、それと精神的に距離を置く必要があるのである。

 それは目の前に在る問題から目を背けろと言う話ではない。悲惨な状況から無為無策でただ逃げればいいという話でもない。極端な話、何もする必要はなく、ただ見方だけを変えるだけで良い。ただ、それらはそこに在り、それらを被る自分を想定せずそれらを観察するのである。

 その視点を得た時、人は「苦しむ者」から「苦しみを見る者」となる。前者の人の場合、身の回りの事象や事物、環境に自己を完全に癒着させ、自分という主体を頭のなかで常に想定して、苦痛や悲惨、不運を絶え間なく被る。この苦しむ人は「苦しみを被る私」を胸中で後生大事に守り続ける。

 後者の人はそれとは全く異なる形で自身や周囲を捉える。悪人や凶事、不遇の只中になっても後者の人はそれを決して被らない。この人にとってはそれらの事柄は全て「ただ在る」のであり、彼はそれと自らを同一視せずただそれらを観察する。よって彼は苦しまず、苦しみをただ見据えるだけなのである。

 苦しむ私、被害者としての自分、被害者として不遇を被る自分に依拠しながら世界を捉え続けることこそが問題の本質だ。時間や労力を搾り取られ、人格を否定される惨めな私がいるという構図、関係性、ストーリー……どんな言い方をしても同じだ。損なわれる、奪われる、傷をつけられる、そんな自分を頭のなかで想定して、そのセルフイメージにしがみ続ける限り、それは呪いのように人を苦しめるのだ。

 要するに、己の本地をどう見なすかである。自分自身をどう定義するかは、どんな環境に身を置くかよりも自由が利くし重要である。自身が何者かによって脅かされうる存在とするか、そうでないとするかで人のあり方は全く違ってくる。損なわれず、傷つかず、目減りすることのない本性としての自分を強く意識することだ。日常の瑣末事や他人の意図によって害を被ったり消耗する自分は本来の意味での自分ではない。

 いや、人間の本地、本性、本質とは「定義」できる何かなのだろうか? 俺にはどうもそうは思えない。仮に何らかの定義を行ってしまえば、それに基づいて人はどんな形にしろ「被る」のではないか? 自らを定義する試みはそれ自体が苦しみを生む入り口にしかならないような気もする。

 一切の苦しみからどのようにして人は解き放たれるのか。「我あり」という思い込みにより「被る私」が設定され、その主体が苦しみを被る。苦しみを断つには「被る私」から自由にならなければならないが、「我なし」という視点を保ちながら生きることは人間に可能なのかどうか?

 自分自身からの自由、それは自分にまつわるあらゆる定義からの解放を指すのだろうか。自己を確立しないことによって人は苦しみから免れるのだろうか。肉体も精神も、思考も感情も、思想も理念も、心も魂も、戸籍も肩書も、なんであれコレが私であるとした時点で、否が応でも自己は確立される。それらを全て廃したまま生きるというのはどんな心持ちだろうか。残念なことに今の俺には分からない。

 それが達成されうるかどうかはとりあえず置いておくとしても、苦しみの源が自分自身の中にあるのだと、心の何処かに留めるだけでも何らかの意味はあるだろう。あらゆる辛苦は究極的には各人の内面に由来するのであり、人生における諸問題の全ては個人的な問題にすぎないのである。それを踏まえた上でどうするかはこれから先の課題として残しておくことにする。