他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

何が好きかより何が嫌いかで自分を語れよ

 俺の身の回りには嫌いなものが満ち溢れている。まず、俺は自分が今就いている仕事が嫌いだし身の回りの人間のほぼ全員が好きではない。また、自分のこれまでの人生を振り返っても嫌なことしかなかったし、これから先のことを考えてもうんざりするような将来だけが待っているような気がしてならない。俺の生涯は徹頭徹尾嫌いなもので横溢しているような有様である。

 好きなものも多少はあるが一々挙げるのは馬鹿らしい。そもそも「好き」という感情は一体なんだろうか? 自分にとって都合がいい、または利益をもたらす対象に対して抱く念であろうか。または、人生の慰みになる何かであろうか。自分が好きなもの、好きだったものについて振り返ってみればそういう類いのなにがしかであったように思える。

 逆に嫌いという感情に対しても一考してみる。嫌いとはどんな感情だろうか。それは自分に不利益を与えるものだったり不都合なものに対して抱く念であろう。自分にとって有害なもの、または有害たりうるものに抱く感情が嫌悪の情だといえるだろう。

 そこで私の中である問いが思い浮かぶ。人にとって何かを嫌いだと思うことと何かを好きだと思うことと、どちらが生きる上で重要だろうか。好悪の情を判断の基準として見たときに、どちらがより指針として有効であると言えるだろうか。さらに言えば、好きという気持ちと嫌いであるという気持ちの、どちらに価値があるだろうか。

 そのような観点で言えば、嫌いなものは好きなよりも価値がある。なぜならば、生きる上で自身にとって不利益をもたらすものは可能な限り避けるべきであり、それを為すために必要なのは「何が嫌いか」を常に自問する姿勢である。人生における重要な局面で、嫌いなものが明確に在るならば、それを避けるような選択肢を選ぶようにすれば人は間違いを起こさずに済むようになる。

 また、嫌いという感情は「好き」に比べて覆ることはない。逆に言えば、好きという思いは簡単に嫌い、若しくは「好きでない」に転ずる。今まで生きてきて、好きなものが好きでなくなったことは多々あれど、逆はほぼ皆無に近いと言っていい。コレは私に限った話ではなく、人間全般に敷衍して言えることであろう。「嫌い」は「好き」に比べて揺るぎない感情であり、そのような点から見ても判断の基準としては有効であるし、そのために嫌悪は好感よりも価値が高いと言えるのである。

 嫌悪の情は人生の道標と言っても過言ではないかもしれない。もしも自分にとって好ましくないものが全く見当もつかない人間がいるとしたら、彼は生きる上であらゆる判断を謝るだろう。そのような人間は現実にも少なからずいるだろうし、自身を省みてもそういう側面があるように思える。自分にとって嫌いなもの、望まないものがはっきりと分かっていたならば、恐らくしなかったであろう人生における判断ミスは枚挙に暇がないほどである。

 好きだという感情は、ともすれば一時のことにすぎない。その思いは容易く覆り、場合によっては嫌悪に転じる。好きだから、という理由で何かを決めると結構な確率で失敗しかねないし、また俺の人生においても「好きなもの」は長い目で見れば俺の判断を誤らせた。また、かつて好きだったものに対しては興味がなくなったり却って嫌いになっていたりすることも多々ある。好きという感情に振り回され、俺はたくさんのしくじりを犯してきたように思える。

 何かを嫌いだと思うことは人間にとって実は天啓なのである。人は何かを嫌うことにより自分が望まないもの、求めていないことをありありと知ることができ、益のある選択が可能となる。何かを嫌う感性は人間を正しく導くと言える。善悪や建前に依らない自分の本心は何かを嫌うことで浮き彫りになり自身の目の前に示されるのである。
 忌むべきものや避けるべきもの、遠ざかるべきものや手放すべきものをきちんと知っている人間は賢明である。それは嫌うことで可能となるのであり、好きという感情はこの点で見れば何の意味も価値もなさない。人間は嫌うことによって本心からの要不要を知ることができ、それによって人生はより良いものになるのだと思う。

 自分が生きる上で何をすべきで何をすべきでないか、それを知るには「自分にとって好ましくないもの」は何かを自問しなければならない。それは人生の重大な局面に於いてはもちろんのこと、常日頃のあらゆる瞬間においてその指針を持ち続けることが望ましい。自分にとって必要でないことがはっきりと分かっていれば人は決して迷うことはなく、迷いのない人生は無用な苦しみも減ぜられるあろう。

 嫌悪の情を起こさせる全てに人は感謝すべきだ。重ねて言うようにそれは人生の道標となり、人を良い方向に導いてくれるのだから。自分が嫌っている人間は現状の好ましくない環境を知らしめ、具体的な行動を促す菩薩であると言える。嫌いな人間がいない人生はどこに向かえば分からない、暗中模索五里霧中の帰って辛いものとなるかもしれない。嫌いな存在がいるということとそれを嫌える感性が備わっているということに人はありがたいと思わなければならない。

 凶事は吉兆であり、悪人は良い導き手となる。好ましくないものが自明ならば、それを避け遠ざかるために自分が何をしなければならないかも明白である。具体的な行動が伴った嫌悪は人生において有益なツールとなり得る。そう思えば、切らないもので満ち溢れている人生のなんと実りの多いことか。

 もう一歩踏み込んで言うならば、「嫌いでない」ということも重要である。好きだと言えなくても、嫌いだとも言えないとすれば、それは自分にとって少なくとも不要だと言いきれないものであり、それは忌避しなくても良いものであるといえる。嫌いでないことは取り敢えずやるだけの勝ちはあるし、嫌いでない人とは取り敢えず付き合うべきである。嫌いでないなら人はそれを忌むべきでない。

 嫌いなら遠ざかるべきであり、嫌いでないならそのままでよい。好きかどうかは問題ではないのである。人間にとって重要なのは手放すことであり何かを得ることではない。好きだ、と言って何かを追い求めることは尊いとはいえない。人にとって有益なワークはそれとは間逆であり、それを行う上で必要な感情が嫌悪となるのである。

 人生とは望みを叶える道のりではなく、望まないものを自身から切り離していく試みである。人は好きになることよりも嫌いになることでより多くを知るし、嫌うことにより多くを学ぶ。避け、遠ざかり、手放すことで人間は苦しみから解放されるだろうし、その始まりをもたらすのはやはり忌避や嫌悪の情なのである。

 無論それには行動が伴わなければならない。具体的に嫌いなものから物理的にも精神的にも距離を置く為に何らかの実践が必須となる。嫌いだ、嫌だと言い連ねてそれで終わりにしてしまうならそれは単なる愚痴でしかなく何ももたらしはしないのは言うまでもない。明確に好ましくないと感じたならば、その上でどうするかを自身に問う姿勢が肝要である。

 俺の人生は嫌なことばかりであったし、これからもそうであろう。しかし俺は、それに対して「然り」ということができる。生涯において直面する数多ある嫌なことは紛れもなく有益で価値があり、それに満たされた人生は実りのある意義深い人生であるといえるのだから。

 今生で身に降りかかる一切の災いに感謝を捧げよう。それらは俺の人生を方向性を決定づけてくれる瑞祥にほかならない。また、巡り合う悪人たちの全てに幸あれ。彼らは一人の例外なく俺の人生の師であるのだから。