書き捨て山

雑記、雑感その他

人間の本質

 人間の本質とはなんだろうか。どんな要素が私にとって自分の根幹、根源と言えるだろうか。肉体か、精神か。感情、思考、主義、思想、身分、戸籍、心、霊魂……。それらのどれもが自分であるような気もするし、またそうでないような気もする。自分自身をどう定義するかは各人の自由であるがこれが案外難しいのは言うまでもないことであろう。

 己の本地や本性が定まらなければ生きているこの世に対してもどう向き合えばいいか定まらない。目の前の事柄にただ場当たり的に翻弄されるばかりで、その場その場で自分の中で沸き起こる情緒や気分に振り回され、動物のように浅はかに生きるほかはなくなる。人を人たらしめる何かを人間は常に失わないようにしなければならない。自身の本質を見定めずに生きるのは畜生の振る舞いである。

 社会的な属性で持ってこれが私であるとするのは浅はかである。生まれ育った境遇や身に付けた経歴などといったものの殆どは先天的な要素だ。それは自分では選ぶことができないもので、もっと言うと他人の思惑によって一方的に与えられるものである。親や周囲の人間、社会や共同体の中で力を持つ何者かによって付与された何かを持ってこれが自分自身だなどとどうして言えるだろうか。少なくとも私はそうしたくない。戸籍謄本を取り寄せられ、「これがお前だ」と言われてその通りだ! と心底納得する人間が果たしてこの世のどこにいるだろうか。

 また、人間の本質は体ではない。遅かれ早かれ年老い衰えていく肉体こそが自分自身であるとすれば、人間は若さを失えばその存在価値が損なわれるということになる。それは生殖などの意味においてはその通りかも知れないが、それは人間の生物としての一側面にすぎない。動物や生命体としての性質を指して人間の本地とするのはあまりにも短絡的である。

 しかし、心もまたそれではない。心が人間の本質、本性であるとするならば、それの移ろいやすさや脆さをどう説明すればいいだろう。人は簡単に心変わりするし、状況に応じて意見などいくらでも覆す。そんな精神や情緒をして人間の本質とするのはあまりにも無理がありすぎるだろう。情動は無論、思弁や思索といった理知的な精神活動もまた同様である。感情も思考も即自分とするには心もとなく思える。

 魂や霊を自身の本質と見なすべきか。私はスピリチュアルな観点から自分を定義することをあまり適当であるとは思わない。霊が人間の本地なら、霊的な世界についても考えなければならず、想定することが増えていく。また、魂や霊の有無やそれらがどのようなものであるかについては根拠や証明のしようがないから何を言ったところで放言にしかならない。第一現実的な観点からどんどん遠ざかっていく。これは私にとって本意ではない。

 肉体でも精神でもない自分の本性とは何であろうか。脳裏をめぐる思考でも身を置く環境の中で惹起される突発的な感情でもない本当の自分とは? それを知るためには日常の生活を深く観察する必要がある。自分の身の回りはもちろん、自分自身がそれに対してどのような反応をしているかどうかを自覚してみるとよい。不意に起こる事象に自分がどう望んでいるか、己を省みたときに人は自分自身のなんたるかを知るだろう。

 人間の本質は態度に現れる、それが全てである。どんな高説を垂れようが頭のなかでどんな高尚な事を考えていようが、若かろうが歳を取っていようが、生活の中で見せる、あるいは行うことがそのままその人の本性であり、本地である。自分自身がどんな人間か知りたければ、日常の中にヒント、いや全ての答えが既にある。生活の中でどんな態度を表すかがその人間の全てなのである。

 不満や不機嫌が態度に出ているなら、それがその人間の全てである。私はこれまでの人生で理不尽を嘆き、不遇を託つばかりであったが、それこそが私における一切合財であった。それが良くない、恥ずかしいという話ではなく「私」は不平不満そのものであったのである。

 それは私にとって大きな発見であった。人生で起こるあらゆる不幸や不運に対して嫌な顔をしてそれを被ってきた。また、苦しむ度に、疲れる度に、騙される度に、奪われる度に私は悲嘆に暮れ被害者然としていた。そんな自分の態度を今になって改めて自覚している。

 それでもいいと思えるなら問題はないが、私はそうでない。態度即本質という観点で人間、とりわけ自身を見なすならば、自分が周り、ひいてはこの世界において表明しているその態度、振る舞いが望ましいかどうかを振り返って考えてみるべきである。不平不満を言い連ね、不機嫌で在り続け、被害者ぶりながら生きる態度! これが自分自身であるとするならば、それでよしとするべきだろうか。少なくとも今この段になって俺は自分自身の本性や本地に対して否と言いたい。

 客観的に見れば確かに私は被害者ではある。恵まれない境遇で生まれ育ち、弱者として社会の中で位置づけられ、非人道的な労働環境で割に合わない苦役を強いられている。経済的には困窮しているし、将来の見通しは言うまでもなく暗い。孤独であり、誰からも愛されず、屈辱と悲惨の中で呻吟しながら日々の暮らしを営んでいる。

 不満や不機嫌に堕する材料は俺の人生には事欠かない。だから俺は今までずっと斜に構えて生きてきた、そうするしかないしそれが当然だと思っていた。世の中や社会、周りの人間や環境が好ましくないということを理由にして常に俺は辛苦を被る哀れな被害者として振る舞い続けた。自己憐憫を表明する弱者としての自分こそが肉体や精神よりも私自身を形作る土台となっていたように思う。

 大切なのはこの世の様相よりも自分がそれに対してどう臨むかである。どのような環境で生まれ育ち、生きていくかを完全に望み通り選ぶことはできないが、それらに対してどのような態度でもって対処するかは完全に自身の手に委ねられている。それは究極的な、また完全なる自由でありそれこそが人間の本地、本性、本質である。

 生まれ持った肉体や生涯の中で培った精神も、親に付けられた名前や他人に与えられたレッテルも、思考も感情も私ではない。私を私たらしめるのは、この世界に対して表明する態度だけである。しかし、それは俺にとって本当に適切で望ましいものであるか、人生における問題はつまるところこの一事である。

 被る全てを憎み、妬み、恨み、倦み厭い生きてきた。そういう態度を取って人生を生きてきた。これを改めなければならないと今は思う。自らが何であるか、私はほんとうの意味で知らずに生きてきたように思う。人間は環境の産物にすぎないと思っていたし、自分もまた生まれつきの境遇に規定されると考えていた。それが低劣だから自分自身も低劣だと思っていたが、それは誤りであった。

 環境よりも態度が大事なのだ。自分がどんな態度で望むかが人間にとっての全てであるならば、どんな態度で人生に臨むべきかを常に自問することでよりよい人生を送ることができる。望ましくない態度で日々を送っているとしたら、それを改めることから始めるべきである。態度が人間にとってのすべてなのだから、それよりも優先すべきことなどありはしない。

 人間は態度ではじまり態度で終わる。肉体にも精神にも依らない自己の本質こそがそれであり、それがどうあるべきかが人生における全てだ。そこには大仰な言説も浮足立った空想も入り込む余地などありはしない。