壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

我を忘れて

 心ここにあらず、それは至福である。自分について思いを馳せない間だけ人間は幸福でいられる。そうでない瞬間は、それがどんな状況であったとしても至福も幸福も損しないと断言していいだろう。幸せになるためには、幸せでいるためには自分について考えないことだ。

 もっと言うならば自分自身が何者で、どんな存在であるかという定義を手放すべきだ。俺は津軽人であり、貧しい階層の家庭で生まれ育ち、高い教育も受けていないし、悲惨な就労環境で使役されるワーキングプアである。自身について客観的に捉えるならばざっとこのような感じになるが、それをどれだけ強く意識したところで私には何の特盛り駅も得られない。もっと言うと己を己たらしめるあらゆる属性や要素は私を不幸にするだけなのである。

 無論そうでない人間もいるかもしれない。良い環境に生まれて然るべき教育を受け、傷のない経歴を持ち容姿も並以上、人間関係や女性遍歴も恥ずかしくなく、過去現在未来のどれをとっても他人に堂々と公表できる。公私共に誰にもはばからずに生きられる人間もいるだろう。そういう者にとって自分が何者かを考えたり、自分を自分たらしめるものを列挙したりすることは全く苦ではないだろうし、それでもって幸福を実感できるのかもしれない。

 しかし、少なくとも俺はそうでない。人生というのは徹頭徹尾個人的なものであり、自分に当てはまらない事例については全く参考にならないし鑑みる価値もないのではないだろうか。自分においてはどうであるかということが人生においては最も重要である。という溶離もそれ以外に必要なことなどありはしない。いきるということはどこまでも主観に基づく営みなのだから。

 私は私であり続ける限り不幸であることからは決して逃れられない。それはこれまでは無論これから先も不変であろう。自分を定義づける一切合財が私にとっては不利益をもたらす、自身を決定づける全てが私を苦しめる源となる。他の人間にとっての自己同一性が各人にとっては幸福のきっかけになるとしても、私の人生にとっては逆である。私は私であることから解き放たれなければならない。幸福であろうとするならば。

 自分自身というのは牢獄である。過去現在未来という直線的な時系列の羅列という文脈の中で定義される私という存在は、それがどんなものであろうと私にとっては桎梏である。自己同一性、アイデンティティは一瞬の隙きもなく俺を苦しめ、責め苛んできた。低級で劣った、醜く価値のない自分に俺はずっと耐え難かったし、「自分であること」は常に俺にとっては問題であった。

 我思う故に我あり、というのは苦しみの門出である。自分がどんな状態であるかを考える時、そこにはいつも問題が生まれ、それはどんなときに私の頭を悩ませた。田舎出で学歴も低く、容姿も醜く収入も低い。そんな自分について考えるだけでいつも憂鬱だったし、それはどのような努力でもっても克服することのできない障害だった。

 私は飲酒や気晴らしの娯楽などでもって我を忘れようとした。幼少の頃はおもちゃやアニメや漫画やテレビゲーム、成人してからは専らインターネットと飲酒であった。そのどれもが私にとっては有害でしかなかったが、人生の様々な局面において、今にして思えば。必要なものだったような気がする。

 私はそれらを「我を忘れる」という一点の目的を達成するためだけに必要とした。私の人生においてはおもちゃで遊ぶことも酒を煽ることも全く同義であった。自分自身から逃れるために俺はそれらを必要とした。それは何であれ依存であった。子供がおもちゃで遊ぶのも、いい大人が酒浸りになるのも、実は本質は全く同じである。それらは己からの逃避という目的を為すための手段に過ぎない。

 私は自分自身や自らに与えられた人生から常に逃げ続けた。おもちゃなどの子供時代の娯楽はともかく、成人してからは酒に頼ってそれを行ったのは私にとって極めて有害だった。収入が低いため酒代も満足に出せなかった私は当然のごとく低質な安酒に手を出し、心身ともに健康を著しく害することとなった。のべつ幕なしに飲酒を続け、一日も酒が抜けないまま7,8年の歳月を無為に過ごした。

 私は気づいたときには、自身の惨めな境遇や現在の窮乏、将来への不安と絶望を紛らわすためには酒が手放せなくなった。いくら安酒といっても毎日浴びるように飲むには大枚をはたかなければならなかったため、私は経済的に当然困窮したし、就業していない時間の殆どは飲酒していたため、常に酩酊状態で何もすることができず膨大な時間をドブに捨てた。脳や内蔵にも支障をきたし、自律神経も失調し心臓発作まで起こす有様であった。

 心身ともに酒害に冒され、アルコールが体から抜けたときに生じる離脱症状などが現れても相当長い期間私は酒をやめることができず、飲酒に固執した。シラフになれば動機がして不安になり、脂汗が出て疲労困憊でも一睡もできないということも無論苦しかったが、酒が抜けて正気に戻ったときに自身にまつわるこれまでのことやこれから先のこと、自分が目下置かれている状況について冷静に考えざるを得ないことが何よりも苦痛で、それから逃げたい一心で酒を煽り続けていた感はある。苦しい思いをしても長い間酒が辞められなかった一番大きな理由は、自分という存在から逃避する道具として酒に依存してからに他ならない。

 ある時を境に私の体は一滴もアルコールを受け付けなくなり、心身が酒を求めてもそれを飲むことができない状態になった。ことここに至ってようやく私は断酒を決断せざるを得なくなり、今は特別な席で付き合い程度に飲酒するのみとなった。飲酒の習慣を断ち切るにあたって一番肝だったのは、前述したような自身の本心、つまり苦しみの源となる己とそれを成す一切から逃避や解放という本願を自覚することであった。

 自分が本当に求めている物事を認識できるかどうかで人間の行動には明確な違いや差が生じる。前述の自分の本懐を見定めなかったら私は未だに毎日安酒を煽り、酒で身を持ち崩していただろう。私にとっても本当の望みは自分自身から自由になることであり、それを根本的に成就するための方法として安易に酒に逃げないようにするべきだ、と思い至って私は断酒に成功したのだ。薬は全く飲んでいないし、医者や他人の力などは一切借りなかった。

 自分自身からの解き放たれることが私にとっての生涯を通した大きなテーマである。たくさん酒を飲むことや簡易な楽しみに耽ることはそれとは直接的には関係がない。そこに思い至るまでに時間はかかったが現在私は少なくとも安酒とは無縁な生活を送っている。

 忘我没我の境地に己を導くために、特定の何かは必要ではない。それを達成するために何かが必須だとした時に人はそれに依存することになる。それは趣味でも飲酒でも何でも同じだ。それは執着を生み結局はまた人間にとって苦しみをもたらし肉体や精神を害するだろう。我を忘れ、自分から自由になるためにはどんなことをとっかかりにしても構わない。そう思えれば人は何かに固執することもなく生きられるだろうし、余計な苦しみを被ることもなくなるだろう。

 何者にも依らず、常に我を忘れる。そんな境地が私にとっての理想である。そして、それは労働や家事などといった日常生活の最中にあるのかもしれない。簡易な娯楽や気晴らしに耽る必要などはじめから無かったのかもしれない。