壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

心理的ホメオスタシス

 この記事は本当なら先週の土曜日に書かなければならなかった文章である。しかし、三連休で面倒くさくやる気も起きなかった私は結局月曜日の夜遅くになるまで記事の作成に全く手を付けることもなく、今頃になってようやく文章を書いているという次第である。自分自身の無精を深く恥じるとともに、なぜ自分がやるべきことを先延ばしにするというか怠けるのかという点に疑問をいだいた。

 なぜ人は怠惰にほだされるのだろうか。やりたいこと、やるべきことを後々まで先延ばしにしてしまうのは、一体なぜなのだろうか。そんなことをこの三連休にぼんやりと考えていた。毎日最低3000字の文章を書くという目標を掲げたのに、それをずっと怠け続けた。三日間の休みの間に特にこれといった用事もなく、心身ともに不調に悩まされたのでもないにも拘らずである。そんな心理の原因はなんだろうか。

 生物には恒常性という性質がある。生き物は置かれている環境の変化に対抗して体内の状態を一定の状態に保とうとする。主に恒常性は生き物の生理現象などに対して用いられる用語なのだそうだが、そのような性質や傾向は肉体のみならず精神においても言えるかもしれない。つまり、心理的ホメオスタシスが働くがために人間は怠惰に流されてしまうのかもしれない。

 もしかしたら人間は、あれがしたいこれをすべきだと意識の表層では思っていても本音ではなにもしないのが本当の願望であるかもしれないのだ。目下自分が置かれている状況に多少不満や不安を抱いていても、よほど逼迫しない限り人は現状維持を望むものなのかもしれない。何もせずに済むならそれが人間にとってのベストなのだ。

 衣食住に於ける用が一通り足りているなら、人間は本来それだけで十分なのかもしれない。その上で何かをしたい、するべきだと思ったとしてもそれは自分の本音とはかけ離れた願望にすぎないのかもしれないし、それは実は達成される必要のないハードルであるかもしれないのである。

 人間全般、生物全般といった広範な話ではなく、自分自身のケースに限定して考えてみる。強制的に何かをやらされているときに気乗りしないというのは腑に落ちるが、自分から望んで何かをやろうと思ったにも拘らず、それにいつまでも取り掛かれないということが今まで生きてきてままあった。この三連休においてもそのような傾向が顕れたのだが、それも先に述べたような心理的ホメオスタシスによるものだと言えるだろう。

 ここで問題になるのは、私は文章を書くということを忌避しているのかどうかである。嫌々文章を書いているならばこれは問題である。毎日最低3000字書く習慣を身に着け文章を書くことを生業としていかなければならないのに、休みにそれから遠ざかりたいと思うなど言語道断である。人間は元来現状維持を望むものだと言っても、これに限っては難なくこなさなければならないのに、それが危うい状況なのだ。

 現状を打破するにはもう書くしかないのに、私は深層心理においてはそれをしたくないのではないか。それに私は大きな不安を覚える。脚本や小説ではなく、雑記雑感の類いでも忌避感情があるとするならば、やはり私はワーキングプアとして一生を終えるしかないのだろうか。そんな危機感に駆られて連休最終日の夜遅くになってこんな記事を大急ぎで書いている有様は我ながら情けない。

 人間にとっての望みなど所詮原動力としては大したことはないのかもしれない。夢や希望よりも不安や恐怖に駆られた方が人間は積極的になれるのかもしれない。今この記事を書いている動機もどちらかと言えば前者よりも後者によるものである。好ましくない状況を想定し、それから遠ざかるための手段として具体的な行動を行うようにすれば人間は怠惰に流されることなくことに当たることができるのではないか。

 忌避や嫌悪の念は人を建設的にする。望まない状況を強くイメージし、そこから以下に遠ざかるか考えれば自分が何をするべきかは自明である。本当に望まないという意志があるならばそれを実践できるだろう。人生を好転させるためには積極的に行動しなけれなばならないし、それを行う上で必要になるのは自らに鞭打つことだ。

 自身の障害を顧みれば、夢想は私の人生に何一つもたらさなかった。億万長者になるだとか花形の職業に就くだとか、そういう類いの空想は私を具体的な行動に駆り立てることは一切なかった。生きていく上で大事なのは為すか為さないかの一事のみであるし、為す方に自分を導くために必要なのは楽観よりも悲観なのだ。

 何かを行うためには心理的ホメオスタシスの均衡を意図的に乱す必要がある。それが損なわれてはじめて人は何かをしなければという思いに駆られ実際に行動に移すだろう。それを成すのに必要なのが先に述べたようなネガティブな感情だ。

 悲観は人を積極的にする。それによってもたらされるのは逃れるための力である。好ましからぬ物事から自身を遠ざけるために必要な力を蓄えるために必要なものを人に教えるのは常に否定的な感情だ。逃げるために、遠ざかるためには自分が何を求めていないか知る必要があり、その洗礼を自らに施すために必要なのは否定的な情動であると言える。

 逃れるという行為は否定的なニュアンスで語られるが、私は肯定的に捉える。なぜなら逃げるのにも力が必要だからだ。力のない人間には逃げるという選択肢を選ぶことすらできず、仮に選べたとしてもそれを完遂することは能わないだろう。自分から望まないものを遠ざけたり、それから逃れたりするためにはそれを成す力を蓄えなければならない。

 力とは気力、体力、知力などといった何かを成す上で必要な能力であり、それを涵養するためには具体的な行動を継続的に行わなければならない。それを達成するために必要となるのがくだんのようなネガティブな情動となる。

 人は何かを行うために意図的に心理的ホメオスタシスを崩すようにしなければならない。思い返せば、無意識にそういうふうにやってきたフシがいくつも思い当たる。否定的な感情や悲観的な観測を肯定的に捉えて自身の行動の原動力としてうまく利用すれば能動的に生きていけるようになるかもしれない。

 これまでの私の生き方に足りない観点がこの記事を書くことによって浮き彫りになったようなきがする。世間ではポジティブな感情が尊ばれ、ネガティブなそれは排除すべきだとされているのが一般的であるが、感情は自らを突き動かすきっかけや道具にすぎないのだから、実利に適う感情ならばどんなものでも活用すべきであり、そういう類いの情緒はたいてい否定的なものである。

 人間は現状維持を深層心理では望んでいるが、それを覆すには否定的な感情が必要である。また、不安や恐怖、悲観といったネガティブな情動は自身を鼓舞するために使える道具にすぎない。それを自分を同一視し、振り回されるのではなく、怠惰にほだされないようにするために活用することができれば後ろ向きな感情も生きるための一助となりうる。

 心に備わっている恒常性とそれを作為的に崩すために必要な情動を明確に意識することが肝要である。要するに怠け癖を治すには常に不安であり続ける必要があるというただそれだけの話しだ。誰でも知っていることを腑に落とすにはそれについてじっくり考える必要があり、その意味でこの記事を書く意味もあったように思える。