壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

植え付けられた欲望

 生きていく上で私はたくさんのことを望み、求めたがその殆どを得ることは叶わなかった。それは大いに心残りであり続けたし、これから先も変わらないだろう。しかし、願望や欲望というのはどのように心の中で起こるのだろうか。それらの起源に対して私はこれまであまり深く考えもしなかったのは盲点であった。何だか良く分からない衝動に駆られるだけでなく、それが満たされないと言って不満を抱き不遇を託ってきた自身の生き方を振り返ってみればそれはとても滑稽であったように思える。

 私の内面には絶え間なく限りない欲望が生じた。しかし、その出処についての探求を私はあまりしてこなかった。それらのうちで本当に本心からのものだといえるものがいくつあっただろうか。本当に満たされなければならない望みと、そうでない望みの二種類があるように思える。

 この手のことに対して考察するにあたっては、満たされなくても良い望みについて考えたほうが容易いだろう。必要でない欲望を見定め、それを取り除いていけば自分にとっての本当の望みが分かっていく。形而上形而下の別無く、要不要を峻別するには不要なものから挙げる、つまり消去法で考えるのが有効となる。

 満たされなくても良い、満たす必要のない欲望とは他者によって植え付けられたものである。親や教師、会社の上役などと言った他人の思惑によって押し付けられたノルマや設定されたハードルをクリアする為に満たさなければならない望みが代表的だろう。また、メディアを通して間接的に植え付けられた願望や欲求などもこれに該当するだろう。テレビやインターネットで喧伝されている事物を得ようとしてあれこれ画策することもまた不要な欲望である。他人の都合や企図によって作為的に刷り込まれた願望や欲望に駆られ何かを必死になって追い求め、それを得るために八方手を尽くし、得られなければ打ちひしがれ無意味に自分を責める。このような一連の内的な流れの無価値さを考えれば、それがまったくもって不要であると断じることができる。

 このように考えてみれば、人間にとって本当に抱かなければならない望みなど本当は大して多くないように思える。誰の思惑にも依らない自発的な欲求など、極端な話生理現象によるような代物程度のものではないだろうか。生き物は元来多くを求めないし、生存情必要な条件が満たされればそれで問題はないはずである。

 しかし、人間だけはそうでない。人間は本来望んでいないものを望み続ける。求めていないものを求めるという倒錯状態が人間特有の強欲というものである。無駄なものを手に入れよう、失わないようとすることで無駄な苦しみが生じる。そしてそれが人生を不必要に困難なものとするのだ。

 無為自然欲求を満たすことは容易い。腹が減れば食べ、喉が渇けば飲む。催せばそれを足し、眠くなれば寝る。せいぜいそんなところであり、それを実現するだけならば人生は気楽なものだ。シンプルな欲求は人を苦しめないし、それが満たされないとしてもそれによってもたらされる苦しみの出処ははっきりとしているから思い悩むことも少ないだろう。

 本当の意味で必要なものを求める時、それは苦行にはならない。得られるときにはごく自然に難なく得られるし、得られないとしてもそれは明々白々たる理由や原因によって得られないのでそこには煩悶もない。

 しかし、本心では求めていないものを求めるならそれは単なる苦行となるだろう。他人に操られ本意でもないのにそれを追い求めることになんの意味があるだろうか。人は心の深いところでその無意味さを自覚してしまうから、他人の思惑で何かに駆られることを苦痛に感じるのだ。植え付けられた欲望によって奔走するのは他人の操り人形になることを意味し、それは操られる人間にとっては損でしかない。

 植え付けられた願望に駆られる限り、人は他人に利用される側でしかない。他人に操作されることを潔しとしないならば、自身の内奥で惹起する望みに対して熟考するべきである。自分の本心からの望みはともすれば曖昧模糊としたものかもしれないが、直接的または間接的に他人の思惑によって植え付けられた偽の望みは本心からのそれに比べれば判然としている。

 人は望みが叶わないから苦しむのではなく、望まないことを望むから苦しむのである。そして望まない望みは他人によって植え付け、刷り込まれた欲であり、人はそれが何であるか自覚していなければならない。欲に駆られて生きることは人生の浪費であり、それが満たされないことで不満を抱いたり悲嘆に暮れることは単に無駄で無意味なことでしかない。それを見抜くことが大切だ。

 直接植え付けられる欲について見抜くことは簡単である。他人を利用し、操作しようと目論む人間の意図を読み取ることは容易く、そういう手合いが撒き餌として提示するものに乗せられないように自衛を試みることは決して難しくはない。

 問題となるのは間接的に心に刷り込まれる欲の方だ。家庭や学校などの場、マスメディアやインターネットなどを介して植え付けられる欲は、常に巧妙に偽装されて我々にもたらされる。それはあたかも自分の意思に基づいて抱いた願望であるかのように思え、人として生きていく上で自然な願いのように見えるような形で与えられる。それが自分を他人がコントロールするための刷り込みに過ぎないと簡単には見抜けないようにできている。

 欲を満たせる人間は他者に容易くコントロールされる。それは他人を道具のように扱い、自分の欲得や心理的な充足のために操作したい人間にとっては都合の良い人間だ。欲に駆られ、他人のために踊る人間は社会的には好ましい人間であるとされ、会社などでは重宝されるだろう。他人を操作したがる人間は動かしたい対象に常に撒き餌を与えようとし、それに食い付く人間を欲しているからだ。

 逆に欲を満たせない人間はコントロールされない。他人が提示する撒き餌を求めようとしないから操作したがる人間にとっては好ましくない存在だ。そういう人間は社会では使えない役立たずであるとされるだろう。相手を操作しようとする人間からしてみればこの手の存在は驚異に感じるかもしれない。

 他人を操作したいという願望を持つ者は欲を満たそうとしない、あるいは満たせない人間に対して恐怖を与える。これが手に入らないとこれだけ損をするとか、このハードルを超えられないとこれこれこういうペナルティがあるとかといった具合である。その手の脅迫によって発破をかけることで「操作したがり」は過剰に欲望を充足しようとしない者を意のままにしようとする。

 私はそういう思惑にまんまと乗せられていた。出処の分からない欲を自分の心からの欲求だと錯覚し、それを追い求め、それが満たされない度に打ちひしがれ、自分には価値がいないと思い至り絶望していた。望みを叶えられない人生は無意味で、願いどおりに生きられない自分には何の値打ちもないのだと。

 しかし、それは浅はかな思い違いであった。自分に起因しない欲など叶えたり満たしたりする必要はない。他人に操られ利用され踊らされていただけの自分がつくづく滑稽である。また、自分の願望や欲望といった内面の現象も自分に依らないものが相当数含まれているということを改めて知るに至った。自分の内側にも他人の思惑や意図が入り込んでいるということを踏まえてみれば人生の辛苦を減らせるかもしれない。