他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

顔貌所感

 私は自分の顔が死ぬほど嫌いである。身長などの容姿全般においても好ましくないがとりわけ嫌いなのが自分の顔面である。目鼻立ちが整っているとは言い難いのは勿論、何よりも嫌なのが母方の親族に顔の系統が類似しているという点である。

 私には親戚づきあいが殆どない。父方の親族に限って言えば流石に葬式などの集まりではやむを得ず顔を合わせることもあるが、母方に関しては盆や正月の集まりは勿論のこと、誰が死んだとしても全く接触がない状態である。私は子供の頃に毎年母方の親族の集まりに強制的に参加させられていたのだが、その際に母方の親族連中から筆舌に尽くしがたいほどの「酷い目」に遭わされたのがその原因である。その詳細については居間ここで書き記すのはあえて控えておきたい。

 とにかく、特筆すべきなのは私は母方の一族とその血を忌み嫌っているということである。私は母方の連中には二度と顔を合わせたくないし思い出すのも嫌なのだが、近年自身の顔の風貌がその死ぬほど憎んでいる母方の親族のそれにどんどん似てきているのは、鏡を見るたびに感じるし、自分の顔を視認する度に私はたまらなく嫌な気持ちになる。

 自分の顔貌が殺したいほど憎んでいる集団にどんどん似ていくという恐怖! これは言語に絶するほどのものであり、もし金をかけずに整形手術が受けられるならば喜んでそうしたい。鏡やガラスに写ったこの醜い顔をどうにかしたいと心から願っているにも係わらず、どうにならないのが現状である。一昨年よりも去年の顔が、去年よりも今年の顔が、どんどん母方の親族連中の顔面に酷似していくのを感じる。それを感じる度に私は自殺したくなるのである。

 顔以外にも、私は自身のアイデンティティに係わるすべての要素を忌み嫌っている。自分が自分であることが耐えられないのである。しかし、それらの筆頭がやはり顔面であり、不細工とか言う以前の問題で母方に似ている自分の顔が嫌で嫌で堪らない。それは顔面にとどまらず、血筋やDNAについての嫌悪にも繋がる。父方も父方で大概なのだが、母方に比べれば父方など可愛いものである。父方の親族や血統がどのようなものであるかについてはこの記事においては不要な情報だから伏せておく。

 津軽人というのは野卑で愚鈍な人種である。私の血統は父方も母方も純血のそれなのだが、母方の血筋は津軽人の中でもとりわけ低級であると言っても過言ではない。父方の一族は弘前青森市を中心に分布しているが、母方の一派は父方と違い僻地に分布している。また、従事している職業や社会的な地位といった点で見ても母方の連中は父方の親族に比べて明らかに劣っているという点も付け加えなければならない。そんな連中が子供の頃の俺に数限りない罵倒や嘲笑を浴びせてきたのは私の幼少期においてはトップクラスの嫌な思い出であり、そんな連中と容姿が似ているなど耐えがない屈辱である。

 私は母方の人間を心底憎悪している。根絶やしにしたいほどだ。しかし、そんな連中の血やDNAを私自身が受け継いでいるのはなんという悲劇だろう。それもパーセンテージでいうと50%は母方のそれなのだ。自身の血肉を形作る諸要素に対する生理的嫌悪感は私を常に責め苛み、苦しめている。歳を重ねるごとに母方の男の顔に自分が醜く変容していくのを留めることができる方法があるならどんな代償を払ってでも知りたいものだ。

 少なくとも肉体的な面で言うならば、私には肯定的に見られる点が何一つない。生まれつきの顔や身長などは後天的な努力や心がけでどうにかなるものではないし、親族連中を見渡してみればどう考えても容姿におけるマイナス要素は母方からの遺伝である。私は自身の肉体を明確に忌避している。重ねて言うがこの感情は顔貌において顕著である。まだ子供だった頃の私を面罵し侮蔑し、嘲った連中がまるで鏡やガラス向こう側に立っているかのような錯覚に陥る。その度に私は母方の親戚共から受けた手酷い仕打ちを思い起こすのである。

 赤の他人ならば関わりを断つのは極めて容易である。しかし、親族ならばそうは行かない。私は高校生になるまで母方の親族と関わりを持ち続けた。母を筆頭にした家族が親戚づきあいを私に強要したためだ。今となっては母方の悪辣さは私以外の家族にも知られる所なり絶縁状態ではあるが、血の繋がりに基づく人間関係は簡単に精算できないのだということを人生の様々な局面で痛感する。せざるを得ない。

 付き合いがなくなったからと言って親族とは他人にはなれない。絶縁し、仮に戸籍上でも他人になったとしても血縁者というものは亡霊のように人生につきまとう。肉体が滅ぶ日まで、DNAレベルでは常に血統は我々に甚大な影響を及ぼす。親族の影は体が消滅しない限り延々消えることはない。そのことを鏡に写った自分の顔を見るたびに私は思い知らされる。

 私は肉体、とりわけ顔を余所余所しく思う。こんなものがなぜ自分なのかと自問する日々である。生得的に私に与えられた諸要素が気に入らず、自分でなければいいのにと思う。許せない、軽蔑すべき、唾棄すべき要素の集まりでしかない己を心身ともに毛嫌いしている。

 なぜこれが私なのだろうか? 知性の欠片もない顔貌、百姓然とした肉体、こんなものがもし自分でなかったなら、指を指して腹の底からあざ笑ってやるのにと思う次第である。肉体即自分と単純に己を定義することは私には耐えがない。むしろ自分のアイデンティティと肉体を積極的に切り離すことで活路を切り開くべきであろう。

 肉体が自分であるなどと何の根拠があって言えるのだろうか。自分が好き好んで選んだ肉体であるならばそうであるかもしれないが、自身の体について人間は殆ど決定権を持っていない。せいぜい太るかどうかの選択の自由程度しか与えられていないではないか。自分の意志が殆ど介入し得ないものに対して愛着など持てるはずがないし、それを自分だと思え、などというのは無理のある話ではないだろうか。

 人は自分に対して肝心なことは何も決められない。どんな肉体や精神を持ち、どんな環境で生まれ、どんな教育を受けるか、何一つ選べない。選ぶどころか他人に押し付けられた諸要素を自分であるとしなければならないのはなんという理不尽さか。自分の人生を自分の意志で選んで生きているというのは大きな誤解である。

 世俗的な意味で言うところの「自分」は本当の意味で言うところの私とは違うのかもしれない。先天的に授けられた心身や生得的に身を置く環境から成る自分というのは私の意図しない人物にすぎない。それは私でありながら私でない存在であり、あまり固執しても仕方がない代物のように思える。

 どんな要素を自分とするかは難しいが、どれが自分でないかは明言できる。私にとっては生まれつきの要素は私ではない。肉体も精神も深い次元においては私ではないと言い切ってしまいたい。私の本地、本性は何処に在ると見なせばいいのだろうか。この問には答えがないかもしれない。何万編生まれ変わってもこの問は解決しないかもしれない。

 少なくとも、私でないといえるものについてはあまり執着するべきではないだろう。他人の思惑や企図によって与えられた肉体や考え方などには固執する義務はなく、深く思い入れる必要はないだろう。私でないものがどう在ったとしてもそれはもう重大事とは言えないことだけは確かである。