壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

馴致されるなかれ

 私は去年、職場で予告もなく減給を食らったが、今日また予告もなく給料がもとに戻ると告げられた。今月かもしくは来月から私の手取りは15万円から17万円となり経済的にはこれで大分楽になる。少なくともこの先再度減給されたり失業したりなどといったことがなければ、心身に悪影響が出るほどに食費を削るなどといった必要はなくなる。ようやく人間並みの生活が営めるようになったのだ。

 しかし、この知らせを聞いて欣喜雀躍というわけにもいかない。なぜならこれは昇給ではなく不当に下げられた給与がその前の水準に戻っただけだからだ。言うなれば理不尽な仕打ちをされ続けていた状態からそれがなくなったというだけのことで、経済的な状況は別に好転しているわけではない。単にこれまでが異常事態であっただけである。

 だが、一瞬でも私の胸中に喜びの惹起が認められたことは確かである。それを自覚したときに私は自分が底辺の労働者として飼い慣らされているという現実を直視せざるを得なかった。私は不当に予告もなく言及された状態に数ヶ月甘んじ、その制裁が解かれたとたんにそれを喜んだのだ。これはもう馴致されているといっても過言ではないのではないか。私は自身の情動に対して大変な懸念を抱くに至った。

 人間には環境に順応する能力が備わっているが、それは逞しくもあり恐ろしい性質であると言える。それはどんな酷い目に遭っても人はそれに慣れて妥協してしまうということであり、あからさまに時間や労力を搾取され酷使されているという現実を理解しながらもそれを良しとしてしまうということである。そんな自分の気質を私は大変恐ろしく思う。

 かつて私は高校1年生の夏休みに母親の指図によりクリーニング工場で強制労働される憂き目に遭った。母は私を労働者として育て上げるべく高1の夏休みという貴重な時間の殆ど全てを労働に割くことを無理強いした。それにより私は望まない就労を強要され、大変苦しい思いをしたのだが、具体的にどんな仕事をどんな待遇でやらされたかということよりも、自分の肉体や精神が日を追うごとに少しずつ身を置いている就労環境に順応していく変遷や変容が印象深かったのを今でも覚えている。

 時給約600円で休憩を挟みつつ朝8時から午後6時頃まで、汚物まみれの洗濯物と格闘するのがそこでの主な仕事であった。全身の筋肉を絶え間なく酷使し、糞尿まみれの洗濯物素手で取り扱わなければならないその職場は筆舌に尽くしがたいほど嫌だったし、そんな職場にゆえなく放り込まれたのがこの上ない屈辱であった。そんなくじゅうと辛酸を味わうだけの環境での労働であったが、辞めたり逃げたりという選択肢は一切与えられず、当時の私は唯々諾々と嫌の言いつけどおりその工場で働くしかなかった。

 しかし、そんな仕事でも慣れてしまうのである。高1の15歳だった俺にとって生まれて初めての労働出会ったにもかかわらず、私の肉体と精神はそれに対して約2週間ほどで順応してしまったのである。始めて数日の間は泣くほど苦しく嫌だった仕事が、日を追うごとに日常の中でこなされる所作の一部分となり、労働中にかかる四肢への負担や、排泄物に塗れた洗濯物に対する生理的嫌悪感も薄らいでいった。

 仕事の慣れれば辛さも軽減されていくが、それ以上にそんな環境に順応していく自分が当時の私には大変恐ろしく感じられた。せめて貰いが多い仕事ならまだ考え用は在るが、全国的な水準から見れば下の下の給料しか得られないにもかかわらず、なぜ私はこんな仕事に慣れてしまっているのだろう。そんな疑問が労務の最中にいつも私の胸中にあった。加えて、こんなところに慣れ親しんでは絶対に駄目だという思いも並行して芽生えたのも覚えている。

 今日私が自身に対して抱いた違和感もまた高校時代に味わった思いと同じものであろう。苦しい境遇に慣れ親しんでいく自分、理不尽や不条理に馴致されていく自分への釈然としない感情である。それは逞しくもあり情けなくもある下層階級に属する労働者の気質である。それに対して私はどのように捉えるべきなのだろうか。

 朝三暮四という言葉を思い出す。ある日正当な理由無く給料を下げられ、それに甘んじた末、賃金を元通りにすると言われて喜ぶ私は、さながらその四字熟語の語源となった猿と同じではないか。つらい状況に順のする能力や逞しさは否定的に見れば単に船舶で鈍重であると言えるのではないだろうか。それを美徳とするか忌み嫌い唾棄するべきかどうか大変悩ましいところだ。

 順応しなければ生きて行けず、馴致されることで社会における自身の居場所を確保する。それが下層階級に属する労働者の現実であり、それができない者は生活する術を持たない社会不適合者ということになる。その烙印を押され生活の経済的破綻を避けるために労働者か否が応でも働かなければならないし、その際に待遇が悪いとか屈辱を味わうなどととは言っていられない。

 ワーキングプアとして生活力を備えるということは即ち、愚鈍に徹するということに他ならない。しかし、生活基盤を維持し、衣食住を賄うために浅はかに生きることを肯定しなければならないのは私にとっては本意ではない。私はやむを得ず行わなければならい行為を無理に肯定する必要はないと考える。無論それを過度に忌避する必要もなく、自分にとって有益であると思える間はそれに甘んじるのも案外悪くないかもしれない。

 面従腹背という言葉もある。これは大体の場合悪い意味で使われるが雌伏の時を送りながらも自分の本当の気持ちを忘れないようにすることは大切なのではないか。生活のために卑しい仕事に手を染めながらも自由や幸福を希求するというのはキツジョク的ではあるが極めて人間的である。そういう振る舞いはむしろ積極的に肯定されるべきではないか。

 人は愚鈍さによって環境に順応するがそれもまた良しである。鈍物であることで環境に適応し、労働者として社会で命脈を保つのはやむを得ないことではある。しかしその中でも自分の本当の望み、達するべきどこかを忘れないようにすれば、意識的に愚鈍であることができる。

 辛苦に満ちた状況に対して身も心も適応してしまうのは単に馴致されたということにすぎない。私はどのような労働環境においてはも常に不満を抱き続けたが、それは自身にとってはいい傾向であると今は確信している。それがどんな職場であっても、自分自身の本当の願い、自由や幸福への希求を放棄すること無く苦役に甘んじる精神を涵養しなければならない。

 今の仕事に問題があるからといって、短絡的に「それ」から逃避することは賢明ではない。今の職場から逃げ出したとしてもその先に待っているのは今の会社と同じかそれ以下の労働環境しか待っていないと確信して言える。私が本当に求めているのは下層階級からの脱却であり、それは転職という安直な手段に依っては達成することができないと理解している。

 減給や時間外労働などといった理不尽の中で私は現状への不満を抱き、一事は転職活動などを行っていたがこれは誤りだった。誰かに雇われて生きる限り、私は自身の人生や生活全般に満足することは永遠にないだろう。今は減給が撤回され本来の賃金をもらえる状態ではあるが、己が抱いている本願を決して失わないようにゆめゆめ気をつけなければならない。重ねて言うようにそれは単なる現状への不平不満ではない。