他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

意味付けによる防衛

 裸で外を歩く人間はいないだろう。正常な精神状態の人間ならばどんな形であれ何かを身にまとって生きているものである。これは羞恥心などいった問題ではなく単に防衛上の問題である。人間の体は寒さに弱いだけでなく素肌は傷つきやすい。もし全裸で街を歩けば道中の些細な事物への接触で体のあちこちが傷だらけになるだろう。人が服を着るのは着飾ることよりも自分の肉体を守るためである。

 服は身に纏うものであるが、心に対してもどうか。人間の精神もまた肉体同様に脆い代物であり、何らかの保護が必要であることは明らかである。そんな自分の内面を人はどのようにして保護しているのだろうか。そんなことがふと数多に思い浮かんだ。人は日常で服を着るときに特に意識的にはならないように、自身の精神に対しても何らかの防衛をして生活しているのではないか。

 人は人前に全裸で現れたりしないように、日常の中で内面をむき出しにして生きたりはしない。そもそも精神が剥き出しになっている状態とはどんな状態か。それは無意味さや無価値差に直面した状態だろう。自分自身やそれに付随する何かを無意味だとか無価値だと思ったとき、人間は精神的に「裸」にさせられる。それは体の身ぐるみを剥がされるのにも似ていて、通常ならば耐え難いものとなる。

 自己に対して無価値さや無意味さを感じたとき、それに人間は耐えられない。それは心を寒々とさせ、精神を蝕んでいく。さながら素裸に剥かれた人間が寒空の下で衰弱していくように、人は自分を無意味だとか無価値だなどと思ったときに、精神的に疲弊し、損傷するのである。

 これを避けるためには体に服を纏うように心にも何らかの武装が施されなかればならないが、それは何によってなされるだろうか。それは意味付けによってだ。人間は自分自身、ひいてはそれに関わる諸事にたいして意味付けをし、価値を見出すことにより自己の言動や存在そのものに正当性を持たそうとする。それが人間にとっての服や鎧のような役割を果たす。私たちは明確な自覚もなしに常日頃精神的に武装して生きているのである。

 「お前には価値がない」、「お前は無意味な存在だ」など他人に言われたり思われたりすることが何故問題なのか、そう考えれば明白である。これらの言葉、あるいは間接的なメッセージなどは人間の精神の武装を無効化する。それにより精神的に丸腰になった人間は様々な苦痛を味わうことに成るだろう。丸裸にされた人間が外気の寒さや全身にできた生傷に苦しむように。そして人はそれを被る気配を敏感に感じ取りそれを恐れ、そのような目に遭わないようあれこれと画策する。

 全裸の人間が寒さに凍え、体に傷を負い、最終的に死に至るように、精神的に無防備にされた人間もまた弱り、最悪の場合それによって命を奪われるかもしれない。意味付けによって自らの価値を確保し、それを確信することができない者、つまり自信がない人間はそのような危機に常にさらされていると言っても過言ではない。精神的に自身を守る術を持たない、あるいはそういう手段を奪われた人間には死が待っているというのは決して大げさな話ではない。

 人間は意味付けにより自分を守っているのだ。そして、自他共にそのような視点で捉えてみれば、各人が為す様々な言動の本質が見えてくるかもしれない。普段何気なく行っていることや考えていることの全てがある種の防衛本能によるものだと考えれば、自分や他人をより深く知ることができるようになるかもしれない。

 己を誇示しようとする言動によって自らを守ろうとする人間は最も分かりやすい。それは自分の価値を喧伝することで自己暗示をかけ、自信の存在を意味づけ安心したいという思いの表れである。自画自賛は他人に向けてのものである以前に、自分に言い聞かせるためのものであると考えれば、そのような手合いに対してもあまり腹が立たないだろうし、だいぶ涵養な気持ちを持って接することができるようになるだろう。

 他人を攻撃したり蔑んだりする人間は多少難解だ。他者の失敗をあげつらったり人格や人間性を否定したりする人間は外罰的な言動によって相手を低く値踏みし、相対的に自分自身の値打ちを高く認識しようとする。他人を責め蔑み嘲るといった行為の全ては全て自衛に基づくものだ。他者を貶めることによって相手の価値を低く感じることで安心を得たい、そのような願望が根底にあるのだと考えればよい。

 他人に対して献身的な振る舞いをする人間もまた自身の価値を高めるきっかけとして奉仕していると言えるかもしれない。どのような奉仕でもつまるところ自己満足のために行われると考えれば、他者に尽くす人間の精神を理解できる。偽善と冠される行為の本質を知れるだろう。

 自身を卑下し、自己憐憫に耽る人間に対してはどうか。辛く苦しく惨めで哀れな自分を喧伝することでその人は「悲劇の主人公」になれる。可哀想だと思われれば、生きているだけで立派で価値があると見なされるだろうから、そのような観点で言ってもない罰的な傾向ですら自身の価値を確保し、自身の意味を決定づけるための行為であると看破できる。

 自分自身が何かを行ったり発言したり考えたりするときにも自己の価値を担保するために何らかの意味付けが根源的な動機としてあると考えるべきだ。自分にまつわる何かを誇示しようと試みたり、何かを批判しようとするときに、自己の内面に意味づけによる自己保身、防衛本能が存すると自覚することで、より内省的になれる。

 無価値、無意味という言葉は虚無、むなしさに置き換えても良い。自分に対して虚しいと思うことが耐え難いから人間はあらゆる行為でもってそれを回避しようとする。他者への攻撃や否定、自分自身やそれに属するなにかへの肯定的な挙動の全ても根幹にあるのはむなしさを感じたくないという思いの現れだ。それがどのような形で顕現するかはさして重要ではない。人間の言動における全ての根源は虚無感からの逃避だ。

 人間の営みの全ては、自分に価値があると思いたいという悲愴な願いの発露だ。それが肯定的なものであれ否定的なものであれ、自他どちらに向けられたものであれそういう恐怖に駆られて人間は何かを礼賛し攻撃する。それを踏まえれば自分や他人の不可解な情動や行動といったあらゆる一切に対して理解を深めていくことができる。

 これまでたくさんの悪人と直接的であれ間接的であれ関わりを持ってきた。そして私はたくさんの被害を被り傷ついてきた。しかし私は、自身の何が、なぜ、どのように損なわれるのかという点についてこれまで考察が足りなかったように思える。また、自分が何を恐れ、不安に感じているのかに対しても同じであった。そんな私も最近になってそれの根源に対してようやく腑に落ちるようになってきた。

 無価値さや無意味さ、またの名をむなしさへの忌避画素の全ての源であった。様々な人間や状況によって味わわされる己の価値のなさを私は感じたくないがために、またそれを思い知ったときのむなしさが私には嫌だった。そしてそれは他人もまた同じであったのだ。

 この観点を得て、自分を攻撃する他者に対してもより理解が深まった。彼らは自らの価値を担保するために他人に対して外罰的な所業に及ぶのであり、自分の価値を辞任するために相手を責め苛み、軽侮の念を抱きぶつけるのである。そんな振る舞いの大本について理解しているかどうかの違いは大きい。