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乱文手記置場

雑記、雑感その他

最終的な目標

 私にとっての人生における最終的な目標は自分自身に対して感じる虚しさの克服である。自分の存在を無意味、無価値だと思い知るときに感じる虚しさ。これを乗り越えることによって私の人生は完遂するのだと最近確信している。無駄、無為、徒労や喪失等といった先に突きつけられる虚しさにどうやって打ち勝つか。それだけが私の生涯における関心事である。

 主観的に見ても客観的に見ても、私は価値のない人間である。それは物心ついてからずっと味わわされてきた実感だ。何の値打ちもなく、無意味な存在である己について様々な事柄を通して思い知らされてきた人生だった。私は誰からも愛されず、尊重されることもなくこの歳までおめおめと生きてきた。自らを省みたところで、誰かに胸を張って誇れるような要素など私には何一つ無く、他人や身内はもとより自分自身が自分に対して出来損ないの烙印をはばかり無く押すことができるほどだ。

 生きてきた中で被ってきたあらゆる経験がそれを裏付け続けた。日本最底辺の僻地で生まれ、貧しい家庭で育ち、頑迷で狭量な両親に人生の進路を阻まれ、他人に蔑まれ嘲られ虐げられ、騙され奪われこき使われてきた。私には振り返って懐かしみ思い出もなく、将来への明るい展望も全く無い。他人に自慢できる物など何一つ手元にはなく、銀行の預金残高すら心もとない有様だ。どんな側面から見ても私という人間には価値が無いということを常日頃、あらゆる瞬間に絶え間なく突きつけられるような、そんな人生を私はこれまで歩んできた。

 私は自身の人生をどうにかしたいとずっと思ってきたが、それは私にはままならないものだった。どれだけ心がけを良くしても、どれだけのことをしても私の生まれや育ち、後天的な努力を持ってしても私は己の人生を好転することはできなかった。太りやすく、背は伸びず、性格は陰気で内向的、田舎者で貧乏人、無知で低学歴……。なにをもってしても、何処をとっても申し分ないほどの出来損ないとしてこの世に生まれ落ちた私はどんな手を尽くしても人並みには生きられず、自分の無価値さや無意味さに打ちひしがれるばかりで為す術もなかった。

 それを肯定的に解釈、あるいは正当化を試みようともした。精神世界に傾倒し、ポジティブシンキングにアファメーション引き寄せの法則やホ・オポノポノ、瞑想やら宇宙人からのメッセージ、斎藤一人小林正観エトセトラエトセトラ……。私はその手のスピ系の類いの情報やコンテンツにインターネットや書籍などを通じ広く浅く触れつつ、実践もして自身の生涯をどうにかして肯定しようと躍起になった。

 しかし、それは叶わなかった。私は結局自分自身、己の人生に「然り」と一言言うために東奔西走、七転八倒の末に万策尽きて今日に至っている。スピ系のどんな言説でもっても私の存在や人生を肯定することは絶対に不可能であり、それは自分自身を欺くことにしかならない。低級で下等な人間でしかない自分を巧言令色で糊塗し、自分の本音を捻じ曲げて精神世界にかぶれて無理矢理に肯定するというのは馬鹿げた所業である。自分自身を肯定する、然りと言う。ただそれだけのことのために私はたくさんの時間や労力を割いたが、結局それは骨折り損でしかなかった。

 私は自身を絶対に肯定できないという絶望、それに直面している。愚かで浅はかで貧しく惨めな自分、何の取り柄もなく代償無くして誰からも好かれない自分、それをどうやっても変えられない動かしがたい現実に打ちのめされ私は途方にくれている。弓折れ矢尽きて絶望の只中で一つ得たものがあるとするならば、それこそが人生の本質なのではないか、ということだ。

 私を絶望させる諸々の事柄、それは上辺だけのものにすぎない。自分の無価値さを思い知りそれを絶対に覆せないと悟ったとき、言うまでもなく人は絶望に打ちひしがれる。八方手を尽くしても自分自身を持て余してどうにもならなくなり、何処にも救いもなく逃げ場もない。そんな状況に直面したときに人は思う、「どうすれば?」。

 その答えを私はもっていない。しかし、それを知るためにこそ私はこれからの人生の全てを賭す準備と覚悟はできている。己の無価値さや人生の無意味さから虚しさを覚え、それを払拭しようと策を講じ、諦観を経てに至る。そこから先にあるものは何か? これこそが私が明日から考えるべき、取り組むべきテーマであると心底思う。私の人生はそれに対する答えを探す旅路であり、その過程に何を浴し、被り、体験するかは瑣末事に過ぎなかった。

 絶望は終わりではなく始まりだ。そこに至ってから人間の新しいステージの幕が上がる。私は少なくともその意気には達したのだと実感している。私は己の過去、現在、未来に深い絶望を覚え、それを払拭することを諦めている。しかし、それで全てを終わらせるのにはまだ早いはずだ。絶望を知った先にある何らかの境地を知りたい。それが今の私が抱く一番の望みだ。世俗的な降伏や安寧などは今の私にとって最早眼中にない。

 私はこれまでずっと、人生のあらゆる瞬間を私は肯定できなかったが、それですら今になって然りと言える。絶望に至る道程がこれまでの人生であり、絶望の向こうの境地を見出す、その域に達することこそが生涯における大願であるという確信を得た今、絶望に直面した、あるいは目下しているシチュエーションを福音、または天の導きだと確信する。私はこの段に至り、生きてきて被った全ての災難や損害、不遇や不運を祝福だと思えるようになってきた感すらある。

 私の人生はずっとどん底だったが、その底はもう抜けてしまった。その先にある者は一体何かを私は未だ完全には知らない。それを我がものとするための新しい局面が始まったのだ。それは世俗的な問題解決や、不平不満、愚痴、現実逃避などとは一線を画す全く新しいステージだ。

 絶望や虚しさ、虚無感といった無意味や無価値が生むネガティブな感情をどのようにして、どのような形で昇華するべきか。何度も言うがその答えを私は未だもっていないし、皆目見当もつかない。しかし、残りの寿命が尽きるまでに私が向かうべき方向がここに来てはっきりと見定まった。たとえこの先どんなことがあろうとも、私にとってそれは至福である。一切合切、森羅万象に然りと答えられる心づもりだ。

 人生における隘路が一気に開け、一本の大きな道にたどり着いたようなものだ。その先に何があるかなどはどうでもよく、ただ目の前がひらけて明瞭明白たる道筋が示されたという一点が重大だ。

 これまでの人生は絶望に至るまでの道のりであり、これから先の人生はその彼岸へ向かう道である。それはもう迷いようのない一本道であり、生きる上で浴する全て事柄がそれを達成するためのきっかけとなる。幸不幸ともに清濁併せ呑むような覚悟ができている。

 失うことも得られないことも、傷つくこともしくじるも最早その一点の目標を達成するための過程に過ぎなくなった。これらのことに私は一喜一憂することはなくなり、人生の終りを迎えるまで猪突猛進していける。最終的に待ち受けているものが何であれそれを受け入れる覚悟が今の私には既にできているのだ。

 絶望の彼岸にあるのはあらゆる一切に対する肯定か? それとも肯定という概念すらも超越したなにかか? 未だ知り得ず、想像も届かないその境地へ思いを馳せながらもそれに至る道程としての一日一日をただ全力でもって生きていきたい。