他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

恐れ

 人は常に不安にかられて生きている。自分の生活が何かによって脅かされ、崩壊させられはしないか、自分の肉体が突発的な事故などによって損なわれはしないか、などといった懸念が常に深層心理にはあるのではないだろうか。それらの不安とは更に言えば恐怖であり、それは人間の精神の根底に常にあり続けるものだ。

 恐れという感情はどのようなことをしても完全には払拭できない。仮にそれができるとしたらそんな人間は単なる腑抜けや廃人の類いだろう。常に不安であり続けることは生きていく上で必須であり、それの欠落は最悪命にかかわるだろう。危険から遠ざかり、自分にとって脅威となるものを取り除こうとすることは正常である。余人の大半はそれによって日々の暮らしを恙なく営んでいるのは疑う余地のないところだろう。

 しかし、この恐れという感情について深く考えることは日常においてあまりないのではないか。何かを心配したり不安をいだいたりすることはままあれど、「私はなぜこれに対して恐れるのだろうか?」と思いを巡らせることは稀である。私はこれまで生きてきて、自分を駆り立てる恐れという情動に対して無自覚であったことを我ながら不思議に思う。自分を突き動かす情緒に何の疑いも挟まずに生きてきたことを恥だとすら思う。そのようなわけで、本稿では恐れを主題として掘り下げて考察していきたい。

 恐れとは喪失への懸念である。自分が何かを失う、あるいは損ないはしないかと案じて抱く情緒が恐れである。それは金銭や時間に関するものかもしれないし、自分の肉体についての感情かもしれない。老いることや死ぬことに対する根源的な恐怖も失うこと、損なうことへの懸念によって惹起される。誰しも自分の若さや健康が時間の経過とともにどうしても保つことができなくなっていく。それにより頑健で若々しい肉体や精力や性機能などが衰えていく。そのことに思いを馳せれば、たとえどれだけ若くてもそのことを恐れるだろうし、あまり若くない人間には具体的な現象として老化や死を意識するだろうからそれに対する恐怖はひとしお強いものとなる。

 職を失ったり他人から嫌われたりすることにも恐れは常に付きまとうが、それらのシチュエーションにおける恐怖の根源も喪失への懸念である。失業は衣食住が充足した生活を脅かし、誰かに嫌われたり憎まれれば人間関係において様々な機会を失うだろう。私達はそれらの将来起こるかもしれない喪失を常に案じているし、それが情どうなって恐れという感情が起こるのである。私たちは自分が何かを怖いと思ったときに、自分が何を失うことを案じているのかと自問してみれば冷静な判断を下せるようになるかもしれない。その懸念が荒唐無稽なものであったり、失ったところで何の損も害もないものにすぎないと思い至ったとしたら、その不安や恐れは雲散霧消してしまうだろう。

 しかし、恐れにはもう一つの面がある。それは無知に対する反射的な情動という側面だ。私たちは知らないこと、知らないものを恐れる。赤の他人を警戒するのはそれ人物に対して何の情報も持っていないからであり、原理の分からない不可思議な現象を目の当たりにするようなことが仮に遭ったとしたら、その不可解さを我々はきっと恐れるだろう。対象を知らないという状況には好奇心よりも恐怖感を抱くことのほうが多いのではないだろうか。

 このように、恐れという感情には2つの面がある。しかし、もしかしたら後者は前者に内包されるかもしれない。なぜならば、知らない対象は自分にとって危害を加えたり損害をもたらすかもしれない何かかもしれないとも言えるからだ。未知に不安や恐怖を覚える感情もまた損失への懸念であるといえるなら、恐れの源泉はただその一点のみであると断じてしまうかもしれない。未知なる対象に抱くネガティブな情動もまた自分及び自分に関わりのあるものを害されたくないという防衛本能に基づくものである。

 恐れは肯定的な感情よりも大きなエネルギーである。ポジティブな情動は人を安心させるが、ネガティブなそれは人を具体的な行動に駆り立てる。その行動は具象的な何かを生み出すだろうし、目に見える状況を作り出す。恐れは人を動かす上で大いに効果的なものであり、自他共にそれによって突き動かされていると自覚を持つことは冷静に物事を判断する上では有効であるといえるだろう。

 私は常に何かを恐れているが、それは言い換えれば常に何かを失いはしないかと案じているのだ。それは私に自活出来るだけの生活能力をもたらし、良い影響をもたらしているかもしれない。しかし、言うまでもなく常日頃恐怖に駆られながら毎日を生きることは精神的に辛く、また私は恐れるがゆえに尻込みをして貴重な機会を失ってしまい、かえってその情緒が有害になっている場面も多々あるかもしれない。

 自身の内面で起こる情動は正しく使われなければならない。何にも恐れず動じないというのは一見良いことのように思えるが、それは能天気で浅はかな昧者でしかない。命を繋ぎ生活を営むためには恐怖は不可欠なものだ。何も恐れない人間はただの腑抜けであり生きる能力を持たない者に過ぎない。忌み疎むべき何かはこの世に数多存在しているのだから、それに対して全てを受容するのは当然間違っている。それらを避け、遠ざかるためにはそれらを恐れなければならず、生存上有益な恐怖は礼賛されるべきである。情緒というのは人間が生きていく上で使いこなすべき道具であるとも言えるだろう。

 恐怖を我がものとし、それを有効に活用しなければならない。それを成すために必要なのはそれを知ることだ。自分が何を恐れているかというところから始まり、その恐れが具体的にどんな状況に対する不安なのかと掘り下げていく。最終的に恐れという感情の源にある本質を照らし出すことによって恐れについて理解し、恐怖を腑に落とすのだ。何を恐れ、なぜ恐れるか、その恐れとは何か? そこまで思い至れば恐怖を適切な形で使いこなせるようになるだろう。

 私はこれまで無自覚かつ無批判に恐怖を感じてきた。それは免疫機構が過剰に反応してアレルギーを引き起こすように、私の人生に多大な悪影響を及ぼしてきた。恐れるあまり私は踏み出すべきときに踏み出さず、機を逸し時間を無駄に空費してきた。そんな自身の半生を振り返れば後悔の念に駆られる。怯えすくみ、無意味に消耗してきた歳月を私は今になってとても惜しく思う。

 しかし、これからはそうではない。恐れの本質を知悉し、それを有益に運用するすべを今の私は会得しつつある。適切な恐れを抱くことで人生における不利益や不都合を取り除き、遠ざけ避けていければ私はこれまでよりもマシな生き方ができるようになるだろう。それは無論、無思慮無作為無遠慮無鉄砲ではなく恐れるべきところでは恐れ、案ずるべきときに案ずる分別を身に付けるという話だ。

 人は恐れが適切でないときには勇猛かつ大胆であるべきだし、注意深くなければならない場面では慎重に臨むべきだ。重要なのはそれの見極めであり、それらのどちらか片方に偏ればいいというものではない。言うなれば中庸なのだが、これを達成するには、重ねて述べるように恐怖の念に対する深い理解が不可欠となる。

 「何を恐れるか」は即「何を失いたくない」である。人が恐怖するときには必ず失いたくない何かがある。それが具体的に何なのか知ることでどのように振る舞うべきかは自ずと見えてくるだろうし、それが実は必須でないと気づいたときにはそれに対する恐怖は消えてなくなるだろう。逆説的に「恐れない」とは「なくていい」ということであるとも言えるのだ。