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乱文手記置場

雑記、雑感その他

悔やみ

 生きる上で悔やむことがなくなれば、どれだけ心の重荷が減るだろうか。目下直面している面倒事や将来に対する漠然とした不安を抱くことは避けられないかもしれないが、とうの昔過ごさってしまった事柄に対して後悔の念を抱くことを完全に抱きしてしまえれば、人が被る苦しみがだいぶ減ぜられるのではないだろうか。しかしそれができるという人間は余人においてはそう多くはないだろうし、私もまたそのご多分に漏れず過ぎ去った日々に悔みながら生きているクチである。なぜ私は後悔するのだろうか。

 あの時ああすれば良かった、という無意味な空想をなぜ私は捨て去ることができないのだろうか。人生はやり直しがきかないなど百も承知で子供でもわかるようなことであるにもかかわらず、私はもしやり直せたら……などと夢想する。そしてあり得たかもしれない現実よりも良い状況、望ましい生涯を頭の中に思い浮かべ、かつ実人生とそれを比較して落ち込むなどという何の益もない「想像遊び」に興じる。

 それでいい気分に浸れるならばそれもいいだろうが、逆であるから問題である。後悔は必ず精神的な苦痛を伴う。無益な精神活動によって精神を害するのは自分にとって何の得にもならないのに、それを延々と続けるのはよくよく考えてみれば甚だ理解に苦しむ所業である。なぜ私はそんなことをするのだろうか。なぜそれをやめることができないのだろうか。

 そもそも「悔やむ私」は本来の私だと言えるだろうか。絶えず後悔の念を呼び起こしているのは本当に自分なのかという疑問が浮かぶ。望んでもいない感情が惹起するとき、その情動に自分があるのか、それとも「それを望んでいない思い」が私なのだろうか? 自身の内面で2つの自分が分裂してあってそのどちらかが自分なのか。またはそれらのどちらとも自分ではないのか。どれが自分かと思案している別の自分があって、それこそが己の本地だとするべきか。

 とにかく、心のなかに望まないものが厳然とあるということだけは確かだ。その望まない精神活動を自分自身を形作る要素として見なすかどうかであろう。後悔するなと念じてすぐにそれができるなら、はじめから問題など生じないし、人間の世界の悩みの大半は解消してしまうだろうが、通常それは容易ではない。悔やみは滅却できない心の働きだ。と言うよりも憎悪や嫌悪などといったネガティブな情緒は人間の心から一掃できないとある意味諦めるべきではないか。それができないから人の世に苦しみが絶えないのだし、それは誰の手によっても克服できないものだろうから。

 私達ができることはその内面の好ましくないものを我が物としない決意だ。それが起こることを人間は止めることができない。しかしそれをもってこれが私の本音、本性である、としないことは可能である。私の心のなかで後悔の念が起こっても、「私が後悔」しているのではなく「後悔という念」が私の内面に芽生えたと私と情念を分けて認識するのだ。これは悔いだけでなく、他の好ましくないあらゆる情緒に対しても有効な対策ではないだろうか。

 悔いが問題なのではなく、「私が悔やむ」という認識にこそ問題がある。人間は自分の心の中を完全に制御する術を持たない。もし100%自分の内面を思い通りにできる人間がいるならば、それは最早覚者や超人の類いだろう。そのような人種ももしかしたらいるかもしれないが、それは極めて稀な部類であり、無論私はそれではなく、将来そのようになる資質があるとも思えない。しかし、感情を抑制するのではなくそれを自分と同一視しないという対処ならば可能であろう。

 これは現実的かつ有効であると思われる。心の中の全てが即自分というのは誤謬である。自分の内面において自力でコントロールできる部分が果たしてどれだけあるだろうか。情動の大半を人間は制御できない。それならば、最早感情はそのまま全て自分を形作る要素であると断ずるのはそもそも無理がある話ではないか。

 人間の精神や内面の相当部分は自分ではない。後悔を唾棄したいと思うならばそれ自体を自分に由来するものだと思わないことである。たとえ何をどれだけ後悔したとしても、その念が自分自身とは無関係な事象にすぎないと断ずれは悔やみと自分を完全に分離できる。それがもう私を成すものでないならば、それに対して何かをする必要もない。何かに対して後悔してもしなくても、それは既に問題ではなくなる。

 悔やみというネガティブな感情について考えてみて、自分というものを捉え治す必要があると改めて感じた。それは人間の内面というのは100%全て自分なのではないということだ。自分の内心で起こる一切合切を自分そのものであると認識することがそもそもの問題であった。現在身をおいている状況に対して抱く悪感情にしても、過去に被った嫌な思い出や、かつての己の選択や判断への後悔の念の惹起……これらの全ては私そのものではない。

 私でないものをどうしようというのか。私でないなら、それはただ起こるままにしておけばいい。それらと事故を同一化して自分の中に含めるから人は苦しむのである。人の内面は100%即自分ではない。悪感情や好ましくない過去への執着や後悔の念などはそれを無理に抑圧したところで人間にはどうにもならないのだ。それならばそれらをただ起こるまま観察するだけでよい。この見地を得ることで人は「後悔する者」から「後悔を見る者」となるこの両者は似て非なるものだ。

 後悔する人は悔やむ思いを自分の一部、己を成す不可欠な要素であると見なしている。あの時ああすれば、という思いに浸りきるにしろ後悔の念を滅却しようと足掻くにしろそのどちらも徒労であり、その人は結局のところ苦しみから逃れられない。

 後悔を見る人は悔みを我が物とせず、それを自身の内面で起こるままにして注意深く観察する。悔やまずに生きるのではなく、悔みという感情から距離を置いてそれをただ見つめるのである。その人は人間の内面の御しがたい部分を認め、それは己に依らない現象にすぎないと喝破した見地を持つ。後悔という情動を滅却しようとはせず、その念が湧くまま任せるのである。

 感情に振り回されない視点を得れば内的な問題は解消する。いや、問題は既に問題でなくなると言ったほうが正しいかもしれない。私は悔やみ以外にも様々な否定的な感情に囚われ、それを滅することに躍起になっていた。しかし、それと格闘しようとすることは単に徒労でしかなかった。「自分の中」に良くないものがあり、ソレをいかに滅却するかという試み。それは根底から間違っていたのだと今になって思う。

 自分の肉体を完全に思い通りに操れる人間がいるだろうか。身長や体重、または生理現象の一切を自分の意のままにできる人間がこの世の何処にいるだろうか。また、それができないと問題にして嘆くものが何処にいるだろう。肉体に対してままならないと私たちは重々知っている。にもかかわらずなぜ心に対しては完全に制御しようと、またはできると思うのだろう。それは不可能であり、またする必要がないのだ。肉体、精神ともに思い通りにならない事柄についてはただ観照するしかない。

 悔やむという情動一つとってもそれを完全に減じ、滅すことなどそもそもしなくていいことだった。それは私には含まれない。私でないのならそれはそのままにするしかない。そしてそれは、燃える炎が遅かれ早かれやがて勢いを失い消えてしまうように、いつかは心から立ち退いていくだろう。

 私はずっと悔やみ続け、そのことを問題視し続けた。しかし、それはもう終わりにするべきだ。というよりも、それははじめから問題ではなかった。悔恨の念が自分の本質の一部や自身の根源と関わりがあると誤解するからこそそれは問題だと感じられるのであって、その根本的な誤謬を解くことを疎かにしてはならない。