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乱文手記置場

雑記、雑感その他

他人の価値

 私は他人が恐ろしく、また嫌いだ。誰も彼も不可解で得体の知れない怪物にしか思えない。血縁のない赤の他人は言うまでもなく、親戚縁者や両親ですらも私にとっては全く理解不能な他者であった。私は星の数ほどの他人から数え切れないほどの酷い仕打ちに遭わされてきた。直接対面して心身に危害を加える者もいたし、ネットなどを媒介して間接的に私を攻撃する者もいた。その誰もが私には理不尽かつ不条理な災厄そのものであった。

 しかし、なぜ私は他人に対して恐怖し嫌悪し、憎悪するのだろうか。取るに足らない愚物でしかないような連中にさえ私は分け隔てなく恐れてきた。これが自身の生涯を振り返ってみれば良く分からない。なぜ私は他人やそれが私に対して行う言動を恐れるのだろう。自分ではない個体の全てを私は嫌い、恐れ、憎んでいるがその情動の源にはどんなものがあるのだろうか。

 私は他人に見下されるのが恐ろしい。他人から軽侮や嘲笑の念を向けられることを耐え難く感じる。私は他人から自分の価値を値踏みされ、低劣であると思われることを心底恐れているし、他人が言葉や態度でもって落胆や失望を露わにするととても傷心する。言うなれば他人の一挙手一投足に一喜一憂し、常に他人の目を気にし、自分の価値の多寡を他社に委ねているのだ。

 しかしなぜだろうか、私自身疑問に思う。自分の値打ちを低く見積もられたり否定されたりすることでなぜ私は精神に打撃を受けるのだろうか。それは自分と相対する他人を無条件に価値があると見なしているからだろう。もし私が対面している相手に取るに足らない存在であると思えば、その対象が私にどんな判断を下し、それを露骨に言動で表明したとしても私は何も思わないはずである。そうでないならば、私は万人に対して自分と同等以上の価値を認めており、かつ他人が私を値踏むという行為に何らかの権威付けを私自身が自分の中で行っているからである。私は無批判に他者の判断に価値を認め、それらが為す評定によって自分の価値が確定すると愚かにも盲信しているのだと言ってよい。

 全く馬鹿げた話だ。たしかに私は他人から見たら取るに足らない人間だし、社会的かつ客観的に見ても価値の低い人間だと言わざるをえないだろう。しかし、だからと言って自分と接触したり何らかの関わりを持つ他人に値打ちがあると断言する根拠は何処にもないのだ。仮にある他者が私と比べてどのような観点で見ても圧倒的に優等で地位が高く、人間として価値があったとしても、その対象に対して私が引け目を感じなければならない道理など何一つないのだ。

 他人が自分と比較してどれだけ優秀で価値が高いとしても、それに対して私がへりくだる義務などない。私にとって最も大切で優先すべき人間はほかならぬ自分自身であるはずだ。客観という観点で自分と他人を比較し、その視点でもって自分には価値がなく、価値ある存在に罵られ蔑まれ嘲られたときに一々律儀に心に傷を負うことの何と愚かなことだろうか。一言で言えばそれは単なる馬鹿正直な情動に過ぎない。

 たしかに余人の大半は私よりも豊かだし学もあれば容姿も優れているだろう。私は標準的な日本人と比べて生まれも育ちも卑しく、経済的にも困窮しており、誰からも愛されずに知人他人の別なく見下され嘲笑の的にはなっている。しかし、自分以外の個体がどのような存在で、その値打ちはいくらで、それが私に対してどんな感情を持ち、どんな評価を下し、それをどのような形で表明したとしても私には一顧だにする義務がないのは自明だ。にもかかわらず私はこれまで、人から貶されたり見限られたり蔑まれることにあまりに鋭敏であり過ぎたように思える。

 人の評価を気にするのは他人というもののオーソリティを盲信しているからだ。自分以外の人間など取るに足らないと考えれば、他人にどう思われようと全く気にならなくなるはずだ。客観的にどうかなどと主観的な「私の生涯」においては無意味であり無価値だ。それは私に何ももたらさない。

 客観という視点を完全に捨て去れば、他人の意見や評価は無効化できる。人生とはどこまでも主観的なものであり、他人から見た自分がどのような存在であるかなど考慮に値しない。他人がどれだけ尊い存在で、どれだけ正しかったとしても、それは私とは何の関係もない。他人が下す評価にはどこまでも無関心であるべきだ。

 他人からの物理的および精神的な攻撃から如何に自分を守るべきか。それは他人の価値を認めない姿勢によって達成される。相手が自分よりも優れていてもその対象の所業の正当性を決して認めなければ、私は少なくとも精神に限っては完全に無傷でいられるはずである。他人を恐れるのは他人を無批判に価値があると見なす愚昧さがもたらす幻想である。尊くないものを恐れる必要はない。

 他人を貶めよという話ではない。自分に対して危害を加えない他者は尊重しなければならない。何故ならそうした方が自分自身に益があるからである。利害得失を度外視して他人を見下したり軽率に相手の価値を低く値踏みすることは愚かだ。そうではなく、誰から構わず他者というものに値打ちや価値があると無批判に思い込むのをやめればいいと言うだけの話だ。

 森羅万象の一切合切は皆等しく価値がない。自分に価値がないだとか他人には価値があるとか、または逆に考えたりすることの全ては迷妄である。全員が等価なのではなく、無価値である。だから必要以上に己を誰かに誇示する必要もなく、他者に対しても闇雲に畏怖する必要もない。価値ある他者から低い評価をされ、「お前は価値がない」と言われることを私はずっとこれまで恐れてきたのだ。それは他人には価値があるという誤謬がその全ての根源的な原因であった。

 そして自分自身もまた無価値であると肝に銘じるべきだ。他人の価値を認めないということは、それ即ち相対的に自分の価値を高く見なすということではない。それとは逆に、他人を不当に高く見積もらない代わりに自身に対してもどこまでも謙虚であるべきだ。自他共に根拠もなく価値を高く見積もらなければ問題は起こらないだろう。

 私は他人は勿論のこと、両親に失望されることも大変恐れていた。それは無条件に親という存在が自分にとって大切で価値があると内心思ってきたからだ。しかしそれは間違いである。無条件かつ無批判に何者かに価値があるだとか権威を持っているという誤った観念が、その対象が下す判断や評価を過剰に恐れる原因を生む。それは重ねて言うように私にとっては単に有害な代物だ。たとえその対象が親であっても、自分に有害であると判断したならば、それに対する考えを改めなければならない。

 無批判に何かに価値があると思うべきでない。それは自分自身も例外ではない。他人を無意味かつ不当に高く見積もれば、それの評価に過敏になり、己を買い被ればそれは単に傲慢さを生み、それもまた私に害をなすだろう。

 皆平等に価値がない。これを念頭に置けば私はもう正当な理由無く何者かを恐れはしないだろう。それは相手への不遜ではなく、正当な見識である。他者への恐れの源は他人への買い被りだ。世俗的な意味において成功している人間や客観的に自分よりも優れている人間に対してもそれは例外ではない。他人を無批判に高く見積もらないことだ。それによって他人からの評価を恐れる理由がなくなる。