他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

無念無想

 私は考えることに重きを置きすぎていた。これまでの人生を顧みてそう思う。私は己のうちに起こる情動にはある程度の距離を置いて捉え、それを観察してそれに振り回されないように意識的に自らを御することができていたと自負するものの、その一方で思弁や思索、思惟という精神活動については殆ど野放図に、自身の内面において繰り広げられる我儘にしていた。

 それどころか私は思考と自分を不可分な一如の存在として定義し、それをこれまでずっと自明なものだと見なしてきた。私は自身の内的な世界において、思考を感情よりも一段高い位置に置き、それを自分の本質だと思い込んできた。なぜ思考即自分なのかと、疑問を挟む余地はないと断じてきた感がある。それは何の根拠もない大変な誤りであると、私はつい最近になって気づいてきた次第だ。

 巷では「感情に流されるな」という戒めがよく言われる。感情的になることは間違いのもとであり、自分にとって有益ない感情に振り回され、身を滅ぼすようなことがないようにと私たちは常に心の何処かで自身の情動には気を配る習慣があるだろう。感情的にならないということは美徳とみなされることが多いだろう。

 しかし、理性について現代人の大半はあまりにも無批判である。理性的になるな、という警句を私はこれまで終ぞ聞いたことが無い。世間一般の言においては理知的であることは望ましいとされ、頭の中で考えている内容を自分自身であると断ずることに疑問を挟む余地はない、ということになっている。

 私は「考える」という行為はあまりにも不当に高く評価されていると思う。また、「思い」を自分の本地と見なすことに反対である。自身の内面において惹起する情動の全てが問答無用で即自分である、とならないのならば、それは理知的な精神活動においてもまた同様ではないだろうか。感情と同様に、思考即自分という図式もまた成り立たないのではないだろうか。

 私は思うことや考える事を完全に自分の意志のみで為していると確信できない。むしろ逆で、他人やメディアによる刷り込みやマインドコントロールなどにより、感情は無論のこと思考もまた相当な部分で操られていると感じる。そう考えれば、思考が自分のアイデンティティの根幹を成すという見方は根拠に乏しいと言える。感情に対して距離を置き、批判的に臨むならば、理性に対してもそうするべきだと私は思う。

 私は思考、感情ともにそれ即ち私であるとは言えない。更に言えば、自分の内的な精神活動全般に対して距離感というか、「己ならざるもの」であるかのように感じる。悪感情が内面で惹起するときも、取り留めもなく何かを思うときも、自分とはまるで無関係な現象が自身の内部で作動しているかのような感覚を、最近になって抱き始めている。

 己自身がままならないとき、その己が己であるとなぜ断じることができるのか。自分の意図しない方向へ向かおうとする思考、止めようと心がけても留まらない思索、思弁などがなぜ私自身だと言えるのか。己の内面で惹起する様々な悪感情と自分を切り離す芸当ができるならば、理性的な領域においてもそれを適用すべきだ。つまり、人間が生きる上で有害な悪感情があるのならば、有害な「悪い思考」もまた定義されるべきで、これとも最終的には決別するように私たちは努めなければならないのではないか。

 この思考は私にとって何をもたらすか、常に自問する習慣を身に着けなければならない。冷静に判断を下し、正しく己を導く思考もあれば、我が身を自滅に追いやるそれもまた少なからずあるはずだ。私はこれから先、自分の思いや考えにも手綱を取るように心がけなければならない。自分にとって不要のない思考を己の内面から削ぎ落とし、手放すことを始めなければならない必要性を感じる。

 思慮深さとは単に愚鈍さの現れだ。私は幼い頃から色々と考え込む性質の人間だった。私はそれが自分の賢さゆえの気質だとずっと思って生きてきたのだが、それは大きな間違いであった。人生において肝心なのは具体的に何を為すかであり、何を思い感じたかではなかった。そのことに私は色々と手遅れになってから愚かにも気付いたのだ。多くの現代人は考えることに重きを置くだろうし、私もまたそうであったが、自身の生涯を顧みて、そういうタチが自分にとって如何に有害であったか近頃思い知ることも多々ある。

 考えと自分を完全に同化させることはことによっては危険ですらある。人間は一時の激情によって破滅することもあるし、また生存に適わない思考によっても身を滅ぼすこともあるのではないか。情緒に関する警句は世の中に数多くあるが、思考についての戒めの言葉というのはあまりないように思う。せいぜい、悲観するよりも前向きに考えろ、などと言うような類のものがある程度だ。

 ただ覚めた視点で思いや考えを観照することだ。私は物心がついてからというもの、思考を自身の一部と見なして今日まで生きてきた。これを改めるということは、自己の認識を根底から覆す試みとなる。胸中の思考がどのようなものであれ、それを自分のアイデンティティと切り離して観察する時間を設けなければならない。情動に対しては勿論のこと、理知的な領域に属す精神活動にも人は批判的になるべきだ。

 ただ何も考えなくなるのではない。沈思黙考から皮相浅薄に転ずることもまた正しくない。理性に基づいた精神活動が有益である場合もあり、それを欠いてはならない状況もまた多々あるだろう。そのような自体にも盲滅法に考えることに批判的であればいいという話でもない。重要なのは自己と思考との距離感である。考えることやそのないというと自分自身を同一視しないことだ。

 情緒も理性も私そのものではないという視点を会得すべきだ。それらのどちらにしろ生きるために有益なら道具として活用すべき代物に過ぎず、自己のアイデンティティの根幹と見なす観点を捨て去らなければならない時が、少なくとも私個人においては訪れていると言っていい。

 思考は単に形而上の道具にすぎない。それが有効である場合には大いに使えば良く、それが不要であればそれを手放せばよい。心の中で絶えず起こる思いをそのまま自分の本質だと見なせば、それをそのまま抱え込むことになる。これは例えて言うならば要不要の別無く雑多な道具を闇雲に携えている状態である。これでは不必要な道具は単に重荷となり、逆に使うべきものを使うこともできなくなろうだろう。

 思いや考えはそれがどのようなものであれ、私の本質にはあたらない。どれだけ効果で便利な道具であっても、それが体の一部には絶対にならないのと同じだ。物は物に過ぎず、それと肉体は決して同化することはない。このような形而下においては自明なことが、形而上の世界においても当てはまる。先に述べたように、気分や情動、理性や思考という人間の内面で起こる様々な諸事もまた形のない道具である。それらがどんなものであろうと、それは道具以上の何かになりはしないのだ。

 人間の本性や本地とは何か、それはあまりに難しい問いであるがそれが短絡的な情緒や思考ではないということは言える。「少なくともそれではない」と明らかにすることで問いの答えに僅かならでも近づける。

 感情や思考を指して「これは私ではない」と宣言したとき、人は必須でないものを手放し少しだけ身軽になる。それにより私たちは多少は楽に生きられるようになるのではないか。少なくとも必要でない思いを抱え込み、あれも私これも私として深刻に思い煩うよりはマシな生き方ができるはずである。