他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

不信

 これまで私は幾人かの他人から何度か「なぜお前は俺を信じないのか」といった趣旨の事を言われたことがある。そのような発言を私に向かってする人種は大抵、私にとっては信じるに値しない類いの人間で、私はその局面においては適当にはぐらかし事なきを得てきた。しかし、改めて考えてみると、その手の人間はなぜ私ごときの盲信を渇望していたのだろうか。

 思うに彼らは私を相当低く見積もり、見下していたのだろう。だからこそ連中は私が無批判に自分を盲信することが当然だと考え、実際にはそうでないことを憤ったに違いない。これは極めて傲慢な精神の発露であり、私が何を或いは誰を信じるか信じないかは無論私自身の手に委ねられているはずである。そんな取捨選択の自由すら何の権限もなく身勝手に侵害する人間を私は心底嫌悪する。

 この手の輩は頭の中で不信と敵対が等号で結びついているのだろう。疑いを挟まずに盲信することを立場の弱い人間に無理強いする様は正しく異常者である。信じるに足るなにかを相手に提示していない状況がまずあり、そのために自分が信頼されていないという事実を認識しているのかしていないのか定かではないが、「お前ごときがこの俺を信じないなど言語道断」などという趣旨の発言を他人に向かって臆面もなくいい花てる神経はある意味で見上げたものだ。

 私は基本的に何も信じない。不可知論者を自称してもいいほどだ。たとえ親族であったとしても、言うことを鵜呑みにするようなことはない。それが他人に対してならば猶のことである。他者とは私にとって信じるべきでない対象であり、それは人に限らずあらゆる事物にも敷衍して当てはまると思っている。

 体の免疫系は外界から入ってくる異物を容易に受け入れずに肉体を保護し、健常な状態を維持する。不信という姿勢は心や精神、霊魂といった領域において免疫の役割を果たす。何を受け入れるか、何を正しいと思うか、その指針を失わないことで人は道を誤らずに生を全うできる。体に免疫力をつけるように心に不信の芽を蒔き、それを育て維持していかなければならないのだ。

 先に述べたように不信即敵対では絶対にない。信じられない相手を闇雲に敵とみなすのは短絡的だ。過剰な免疫反応がアレルギー症状を引き起こすように、不信の念を以て誰かれ構わず敵意を剥き出しにしたり軽侮の念を露わにすることは考えるまでもなくマイナスに作用するだろう。

 また、多少信じるに足るような根拠が提示されたからといって、その対象への信頼を全幅のものとしてしまうのもまた危うい。何かを無批判に受容するなら、それによって被る一切に責任と覚悟を持って臨むべきだ。それができないならばやはり人は何かを盲目的に信用したり信頼したりするべきでない。

 何かを信じていいのはそれが自分を裏切った場合に心の準備ができているときのみだ。更に言うならば、信じることと裏切られるということは不可分であるとも言える。信じた何かが自分に意に沿わない結果を招いたとき、それが自身を裏切ったとき、恨み節を言うような人間はそれを信じる資格を持っていなかったというだけの話である。逆に言えば、裏切られる事を前提にしない信用や信頼は無責任であり、偽物なのだ。

 しかし、信じないことと疑うことは似て非なるものだ。「信じない」は安易に信じないというだけのことであり、盲信しないだけでそれ以上の邪推を挟まない状態である。対して「疑う」というのはある種の誇大な被害妄想に端を発する情動だ。物事の裏を読もうとし、下衆の勘繰りをしている状態であるとも言える。信疑ははっきりと分けて認識すべき感情であり、人を疑うことは好ましくないが信じないことは悪いことではないのだ。

 信じないというのは事物に対する中庸な見方である。ある対象を信じるとき、人はそれにあまりにも深く傾倒すぎているし、疑うならば邪推が過ぎる。不信はそれらのどちらにも属していない状況だ。何かに過剰に肩入れすることもなく、被害者ぶり過敏に警戒することもないニュートラルな状態と言い換えてもいい。

 「信じない」ことは悪いことではない。冒頭で述べたような人間たちは私が彼らに心酔し、全幅の信頼を置くことを無理強いし、私がその意に沿わないと見るやまるで私が大罪を犯した極悪人であるかのように責め罵り、激しい怒りを露わにした。しかし言うまでもなく彼らを安易に信頼することは浅はかで愚かなことである。人を騙したり酷使し操作しようとする悪人に限らず、不信を貫くことは基本的に正しい。すくなくとも間違いや悪事のたぐいではないことだけは確かだ。

 考えてみれば、「俺を信じろ」という言葉はなんと尊大だろう。そのようなセリフを相手に投げかけるような人間は他人を自分の傀儡として利用する腹づもりなのだろう。そのような人種が抱えている一番の問題は、その身勝手さではなく自分の恐るべき本音を自身が全く自覚していないという一点である。他人を道具として扱いながら自身の悪逆に終生その人は気づくこと無く、死ぬまでその振る舞いを改めはしないだろう。

 信認や崇敬を要求または強要する人間はそれだけで危険な存在だ。その傾向を見せた時点でその人物はたとえ親であっても距離を置かなければならない。その手の人種はどのような形であれいつの日か他人を必ず食い物にしようとする。そのような手合いと関わり合いになるなら、私たちはその悪漢の為に犠牲にならなければならなくなることは必定である、断言してもよい。

 不信は悪でないどころか人が生きる上で大切な能力だ。それはこの稿で何度も挙げたような悪人から遠ざかり自分の身を守るために必須なものであるだけでなく、もっと根源に関わる資質だ。無垢であることは盲滅法に信じない姿勢でもって達成される。偏りのない純粋な視点でこの世を捉えようとすれば、不信というアプローチは不可欠なものとなってくる。

 信疑はそのどちらも人の判断を狂わせ、認識を歪ませる。バイアスがかかった観点から物事を判断し、歪な欲望や疑心暗鬼の念などといったフィルターを通してそれを見ることになるという点で、信疑は同列だと言える。信じることにも疑うことにも偏ること無くありのまま物事に触れることを臨むならば人は、信じないという見地によって立たなければならない。その立場や姿勢を何によっても崩してはならない。

 信じない人は何物にも囚われない。逆に言えば、信じることで人はその対象に依存する。それは人間に不自由をもたらす。信じる姿勢はそれ自体が牢獄であり、他人に自分を信じさせようという試みは、その人を降りに閉じ込めようとする所業であるといえる。それを自分にしようとする人間が現れたならば、重ねて言うように私たちはその人物から離れなければならない。他人からの束縛や不自由を厭うならば。

 敵意や猜疑の念を持たずに不信を貫くべきだ。欲や願望を仮託せずに人や物を捉える姿勢こそが不信なのである。他者を信じるな。組織を信じるな。共同体を信じるな。通説を信じるな。己自身を信じるな。私は不信の誓いを立て、そのことを常に念頭に置きながらこれからは生きていくつもりでいる。

 唯々諾々と無批判に何かを信じることは愚の骨頂である。まして他人への盲信など以ての外だ。それは重ね重ね述べる通り、他人と敵対するということではなく、他者から自由になるために必要な姿勢であるというだけのことだ。