壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

「どのように」と「何故」の問い

 この世界は何故存在しているのか。日常の瑣末事に囚われ日々汲々として生きていると、この手の問いが頭に浮かぶ暇もない。しかし、忙中閑ありというように僅かに息つく暇があればふと、そのような問が不意に私の胸中に湧いてくる。この世界は何故、何のために生み出され、存続しているのだろうか。そんな遠大過ぎる疑問である。

 また、「どのようにして」この世が成り立っているかという疑問もあるが、これは冒頭の問いとは細かい点で異なる。Howから始まる疑問は理屈や因果関係によって難解ではあっても説明や理解が可能である。事物について知識を蓄え理解を深めれば「どのようにして」という問いの答えはいずれ明確な形で顕現し、我々はそれにより納得できるだろう。しかし、それは「何故」の説明にはならない。これはWhyから始まる疑問である。

 「どのように」の問いは論理による説明が付けば終わる。原因と結果、それらの一部始終の過程を解説するだけだ。しかし「何故」の問いにはそこから一歩踏み込んだ理由が必要となる。因果についての説明ではなく、そもそも「なんで」、何のためにそれが起こり、我々にもたらされるのかという疑問である。それはどのようにの問いと較べて大きく、また根深いものである。科学や理屈での説明はこの問いについての根本的な解決とはならない。

 我々はWhyの問いを抱いたとき、ある意味で欲深になる。どのようにそれが起こるかの説明だけでは満足できなくなるのだから。ある問題があり、それの原因が何で、それを解決するために必要な手段はこれこれこう、それが為されればどのような結果が得られるか……。これらの一連の流れだけではWhyの問いを持つ者は不満なのだ。それた単なる上辺だけの説明だとしか思えなくなってしまうのは強欲と言えなくもない。その疑問自体が極めて贅沢な悩みなのかもしれない。

 何故この世界がこのような形で存在しているのか、という問いを抱きその答えを探し求める者の人生は困難である。その問いに対する明確な答えは恐らく誰にも解き明かせはしないだろうし、解決できない問題の答えを追い求めて煩悶する人間が幸福であるはずがない。そんな苦悩が高尚であるとまでは言わない。しかし、ある種の人間はその疑問を無視して生きることはできず、例え他人が何らかの意図を持って用意した安直な答えであっても時にそれを渇望する。

 この問いを解消する最も安易な方法は宗教に傾倒することだ。宗教はこの手の問いに決して言い淀むこと無く明確な回答を用意する。宗教はこの世の成り立ちから人間が想像された理由、生きる目的と死んだ後はどうなるかまで懇切丁寧に答えを用意する。森羅万象にまつわるWhyの疑問に筋道の立った回答の体系が宗教であり、これは答のない問いを携えて生きることに疲れた人々にとっては極めて魅力的である。人生において体験する全ては宗教により意味付けされ、虚無感に苛まれること無く生涯を完遂することができるようになる。

 しかし、宗教に依存したとき人は、それによる世界観や体系的な教義という網や牢獄とでも呼べる代物に束縛されることになる。それによる弊害の実例は世の中を見回せば枚挙に暇がないだろう。答えのない、ある種不毛な疑問を解消するために伝統的なものであれ新興のものであれ宗教に頼ることの弊害は、現代社会を生きる人間の多くは既に知っているだろう。要するに宗教にのめり込めば人は、そのしがらみに縛られて生きるしかなくなるのである。大抵の人間にとってそれは苦痛だから宗教じみたことを現代人は十把一絡げにして忌避する傾向がある。

 しかし、Whyの問いに向き合う人間が必ずしも宗教に傾倒するわけではない。もしもくだんの問いに目を背けず、かつ宗教にもかぶれること無く生きるとするならば、その生き方は修羅の道だ。その人生は出口のない道を延々手探りで死ぬまで歩み続けるような苦行の人生となる。人間の精神は虚無や空虚に耐えられるようにはできていないため、不意にこの道に迷い込んだ者の相当数は精神を病んでしまうだろう。

 畢竟、この世が「なんで」「何のために」存在しているか、森羅万象一切合切は何故このような形で在らねばならないのか、という類いの疑問に対する宗教を廃したスッキリとした解決、解消の術などないのだろう。つまるところもしかしたら全ては無意味で無価値だと結論付けるしかないのだろうか。少なくとも、世俗的な観点において気を揉む事自体が時間の無駄の一言に尽きるのかもしれない。しかし、私はそれが気がかりで仕方ない。無駄だと分かっている疑問を捨てされないでいる。これは私一人ではなく、その手の途方もない悩みを抱えて生きてる人間には共通のことだと思われる。

 どんな生き方をしたところで、結局のところそれは不毛なのかもしれない。そんなニヒリズムに思い至り、迷妄の中で絶望する。建設的で希望的な答えなど用意されていない。そんな事実に直面して途方にくれているのが今現在の私の心境だ。

 自分が産まれ生きている意味やこの世が存在する理由について付け焼き刃でも何らかの答えを設定しようと試みたこともある。スピリチュアル関連の言説の受け売りを自身に言い聞かせこの世の全てに説明がつくような世界観を信奉しようとした。しかし、結局のところあまり気乗りがせず、目下虚無感を抱えながら生きるだけの状態に留まっている。

 浴すること、被ること、自分自身にまつわる全ての一切が完全に無意味で価値がないとしたならば、どうしてそれでも生きていかなければならないのだろうか。私は何故生きるのか。なんのために死ぬのか。月並みな疑問は日を追うごとに、歳を重ねる度に深刻さを増していき、人を苦しめることになる。自分は無価値で意味がない存在ではないか、そんな疑念が頭をよぎると私は堪らなくなる。

 私は鄙びた町の貧しい家の長男としてこの世に生まれ落ちた。そんな私は物心ついたときから親をはじめとした周囲の人間たちに、人並み程度に金を稼ぎ適齢期で結婚し、標準的な家庭を築き模範的に歳を重ね、円満に生涯を閉じるよう義務付けられ無理強いされながら生きてきたような感がある。それは能力や資質の面で果たされなかったが、仮にそれが実現できたとしても私は、そんな人生にWhyの問いを抱かずにはいられなかっただろう。考えないほうが良いような、目を背けるべき疑問を無視することができない人種にはそんな業がどんな生き方をしてもつきまとうのかもしれない。

 もうこの世に居た堪れないといった気持ちになる。しかしそれは、短絡的な自殺願望ともまた違った感情だ。仮に死ぬとしても、その行為にも付いて回るのだ、なんで? という問いが。産まれた謂れ、生きる目的、死ぬ理由。何故? 何のために? 私は未だそれを知らず、また分かるはずもない。その絶望を目の当たりにしながら日常の瑣末事や日々の諸事に身をやつし、糊口を凌ぎほうほうの体で生きている自分自身の下らなさを時折自覚して愕然とする。

 スピ系や宗教に依らずに根源的な無意味さや無価値感と対峙する。今、これが私の生涯における大きな主題となっている。気休めや目眩ましで糊塗された世界観に依存することなく、絶望を携えながらも己やこの世界の全てと真摯に向き合い、人生を完遂しなければならない。この段に至っては一個の人間としてどう生きるかなど些細な事だといえる。私の生は当面、社会通念や信仰、思想信条などを取り払った荒涼たる境地で孤軍奮闘が続くだろう。