書き捨て山

雑記、雑感その他

得と徳

 私は徹底的に利己的でありたい。己に利する事を極限まで追求し、逆に自身に益のないことは徹底的に忌避していきたい。実利とは生きていく上で絶対に欠かしてはならない指針であると私は確信する。何が自分にとって長期的かつ最終的に得であるか、という視点を失うことがないようにしなければならないと私は自身に常に言い聞かせながら生活を営んでいる。

 ただし、安直かつ短絡的に得をしようとするのは悪手である。一時的な目先の得のために多くを犠牲にするのは間違いである。そうではなく、長い目で自分がどれだけ特をするかどうかという視座であらゆる事柄について判断し、考え実行に移さなければならない。自分が浴する恩恵を最大にするために必要な振る舞いを明確に想定し、これを実践しなくてはならない。

 このようなアプローチで以て得を突き詰めた先にあるのが徳である。自分に利する手段を用い、それに浴する状態に身を置くために万策を講じ、ただただ自身に有益なものを追い求めることに終始し、貫徹するとき、人の振る舞いは道徳的にならざるをえない。利に聡くなってはじめて人は善性を発揮する。逆に悪徳とは利害得失の計算ができない浅薄さや軽薄さによってもたらされる。悪人というものは得てして損得勘定ができないものである。

 自分の半生を振り返ってみても、損得勘定を正しく行えなかったときには大抵、不義理や悪徳に染まった言動を行っていたような感がある。長期的な視野児で自身や周囲を分析することが出来なくなったとき、いつも私の良心は鈍麻し、愚行に及ぶことすらままあった。それを思い起こせば大変恥ずかしくもあり、また損をしたものだとも思う。

 連連された利己主義こそが人間を善に導く。己の言動を省み、自分や身の回りに利益をもたらす行いこそが徳であり、功利主義と善行は深く結びついている。逆に言えば自他共に損害を被る未来を見通すことができないとき人は悪に染まるのだとも言える。

 利害関係を踏まえ、損得勘定ができるかどうかによって人間は善人と悪人に大別される。その能力を備えたものは必然的に善を為し、それができないものは愚行により自他を損なう。このような視座によって世間の事件や事象を見てみれば、世の中は案外シンプルに成り立っているといえるのかもしれない。

 情けは人のためならず、という諺がある。これは他人に施すことで巡り巡って自分自身も何らかの恩恵にあずかれるようになるという意味の言葉であるが、これを実践するには長期的な視野を持って、物事を捉える必要がある。最終的に自分が何を被り、何を浴すかを冷静に見通し、見極める知性が求められる。その能力を涵養すること道徳であり、それを修め実践できる人間こそ紳士である。洗練された人物は自分に利をもたらすものを決して見失わず、自分に害をなすものを遠ざけることが自然にできるものなのだろう。

 世間ではエゴイストは良くないという風潮があるが、それは次元の低いエゴイズムにのみ当てはまる言説であろう。自分にとって何がプラスになるかを適切に分析できる人間がどのような理由で悪い振る舞いをするだろうか。利己主義が悪と結びつくのは、当人が己の振る舞いが最終的に損になるか得になるかきちんと分析できていない場合だろう。本当の意味で己に利する行為というのは自然と人道に則ったものになるはずだ。利益や幸福を最大化するには聡明であるべきだし、そのための土台にあるのは目ざとい損得勘定である。得が最終的に徳に結びつくのだから、エゴイズムは本来ならば推奨されてしかるべきだ。

 しかし世の中の潮流がそのようにならないのは、結局それが世の相当数の人間には難しいからなのだろう。私がそれを実践できるほどの知性を備えているかどうかは取り敢えず置いておくとしても、自分自身に長い目で見てプラスに繋がるような生き方ができている人間などやはりほんの一握りなのだろう。だからこそこの社会は不平等であるし、幸福な人種とそうでないものにどうしても二極化してしまうは無理からぬ事なのかもしれない。

 他人や社会全般についてあれこれ考えたところで埒が明かないが、少なくとも私は己自身に福徳を引き寄せることは可能だと信じたい。天は自ら助くるものを助くという。「自ら助く」とはやはりどう考えても自身が浴する得の追求であり、本稿で何度も述べているように詰まるところ実利や損得を踏まえた振る舞いということになる。得を求めることを究めれば即ち徳となり、私はその徳によって人が幸福になるのだと思いたい。

 利己主義とは肯定され礼賛されるべき思想である。悪人とは損得勘定を正しく行えない人種であり、善人はその逆のタイプである。どちらを志向するかは人によるのだろうが、少なくとも私個人は後者を選択した。人が善を為すには第一に利己的である必要があり、これは本来ならば美徳とされるべきだろう。世間の風潮がどうあろうと私個人はエゴイスティックあろうとする人間の中にこそ善性が芽生えると信じている。

 利に聡ければ聡いほど人は悪から遠ざかる。悪感情に飲まれて他人と対立することは無益であり、自身に何ももたらさないと知る者は慎み深く振る舞うだろうし、最終的に時分の利益や幸福を最大化するために必要な行為が何かを知るものは勤勉かつ実直に日常生活に臨み、堅実な人生を歩むだろう。それこそがまさに模範的かつ善良な人間の姿ではないか。洗練された利己主義が人間をより高みへと導いていくと断言できる。

 自分にとって有益な道を歩むためには聡明でなければならない。それこそが人間が身に付けなければならない知性だと言える。常識や通念、倫理などではなく利己主義によって人間は善良に振る舞える。しかし、その意気に達するために人は、自分にとって何が得になるかを知り、見極めなければならない。そのような観点を培い、保ちながら生きる姿勢こそが私にとっての理想である。

 自分にとって得にならないことは基本的にしなくてよい。それを念頭に置いて生活してみれば、いかに自分が無駄なことに固執しているかが歴然とするだろう。無益な思考や感情、言動などは挙げるだけで両手の指で数えても足りないほどだろう。得になることをする、というよりもこのような逆からのアプローチも有効だろう。

 得を求めるのが高望みだとしても、損をしないように心がけることは容易である。自分を害さず、損なわないためには何を遠ざけ、何をするべきでないか。そのことを常に念頭に置きながら思考や情緒を観照する習慣が身に付けば生活の質は絶対に向上する。得は取り敢えず度外視するとしても、損を忌避するだけでも及第とすれば超えるべきハードルは決して高くはなく、またそれによって得られる恩恵は少なくはないはずだ。

 損害は悪徳である、と言う見地を得れば倫理という曖昧模糊な代物に対する理解が深まるというか腑に落ちる。自分や他人を損なう行いや考えこそ悪だと定義すれば、己に対して合理的な自戒が可能となるだろう。極端な話、犯罪行為をハゼ行なってはならないかという問いに対して明確な回答がこれによって得られる。

 善悪と利害は同義であり、道徳とは損得勘定である。得失を正確に認識し、何をすべきで何をすべきでないか判断し実行するのが人道である。このように考えながらこれまでの人生や目下の生活を振り返れば、どれほど自分が「悪徳」に染まっているか自覚できる。