他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

カルマ

 カルマという概念はこれまでずっと私を悩ませてきた。人生において自身が被っているあらゆる厄災や屈辱、悲惨や不遇の全ての原因が「自分のせい」などというのはあまりに理不尽に思えたからだ。昔2chで「前世で悪事を働いた者はその報いとして青森県に生まれてくる」などという書き込みがあり、これを目の当たりにした当時は大変不愉快に思ったものである。東洋思想におけるこのカルマというものは私にとってはそれ自体が極めて理不尽で不可解な到底許容できない代物であった。

 しかし、今になって私は業というものに対してある程度理解しつつある。カルマというのは単なる迷信ではないかもしれない、それを世迷い言だと断じるのは正しくないかもしれないという思いがある。それは単に己の不遇を前世の報いであるとして諦念するのではなく、今自分が被っている一切を理解するための鍵としてカルマという概念を利用できるのではないかと考えている。

 業とかカルマというのは人間に与えられた課題のようなものだと思う。これは生涯を通して解消、解決しなければならないもので、生前死後も引き継がれていくものなのだろう。誰しも前世の業を背負ってこの世に生まれてくるという世界観は、人間がこの世に生まれてくる意味や意義といったものを設定する上で有効だと思う。どのような境遇で生を受けるにしろ、それは今生で克服すべき何かをクリアするために必須なのだとしたら、人生の意味を納得することが容易になる。なぜ産まれ、生き、そして死ぬのか。そのことに対する一応の説明をつける為に有効な概念がカルマであると言えるだろう。

 自分自身の存在意義を考える上でカルマという考え方は有用である。カルマとは前世現世来世に跨る己が抱える問題であり、それを乗り越えるために人間が生まれてくるのだと考えれば、人生はなんとシンプルだろう。この世や己の意味を知る上でカルマという概念は使い勝手が良い。カルマにより、何故人間がこの世に生まれてくるのかという月並みだが万人を悩ませる問いへの筋の通った答えが一応は出るのだ。それが正しいかどうかは置いておくとしても、少なくとも個人的には腑に落ちる。

 この世や自分をどのように理解するか、どのような世界観を持って生きればよいか。この手の問題を解決するためのツールとしてのカルマは使える。他人を攻撃する時に前世の報いだ、などというのは言語道断で、カルマという概念は飽くまで内省のために用いられるべきものであり、その用途に限ればこれは有益である。ずっと忌避してきたこのカルマというものは自分を知る上で重要となるということは私にとっては一つの発見であった。

 カルマに限らず、どのような考えであってもそれは道具にすぎない。何であれ無闇に否定するのは益のないことだ。生きる上で使いようがあるものならば宗教用語でも学術用語でも何でも活用するのが賢明だろう。カルマは人生を理解する為に有効な概念であり、それにより何故生まれ生きるか、という類いの疑問で殊更煩悶することもなくなる。

 私はどのようなカルマを背負って生まれてきたか。それは私自身が個人的に把握すべきことだ。そのことについて一々文章にして述べる必要はない。しかし、人生における様々な辛苦に対して、これが私のカルマだと常に念頭に置き、そのことを忘れないようにすることは大切である。

 カルマがなければ、人生は理不尽で不可解なものとなる。それにまつわる視点がなくなれば人は、自身が被る不都合や不運に対してどう認識すればいいか分からなくなってしまうだろう。被る不幸であれ浴する幸福であれ、それが無意味だとしたら何であれ人間にとっては耐えがたいものだ。人間が最も恐れるもの、それは無意味である。人は心身が辛いから苦しむのではなく、自分の無意味さや無価値さに苦しむのだ。カルマに基づく自分や世界への見地はそういう意味で人を救いうる。カルマによって私は悩み事を抱え込み、諸々の事柄に煩わされるのだとしたら、それがどんなものであれ少なくとも無意味ではない。

 意味付けによって人は救済される。カルマは煩雑な人生における諸事に対する意味付けに有効である。自分がとある問題を抱えているとき、それが自分のカルマであり、それを乗り越えることこそが己が生まれてきた意味であると考える時、人は虚無感を覚えること無くそれに立ち向かっていくことができる。

 人生とはどこまでも個人的なものである。自分の中であらゆる事柄に意味が付与されれば、客観的にそれがどうであれ考慮する必要はない。自己完結という言葉はどのような文脈の中でも悪い意味で用いられるが個人的には首肯しかねる風潮である。生きる意味や生まれてきた理由などという類いの疑問は自己完結していればそれで十分であり、他人からの客観的な見地は不要である。カルマにより人生の意味を自分の中で腑に落とさせる。それだけでよい。

 しかし、カルマは自分自身の人生を理解する道具となるもので、他人に対して使うのは間違いである。誰かを指して前世の業だなどと言うのは以ての外であり、それは霊的な差別に繋がるだろう。自分以外の人間に業だのカルマだのと言って貶める人間を私は軽蔑する。カルマは自分に対してだけ使うべき概念である。

 本稿の冒頭においてカルマという言葉や考えを忌み嫌ってきたと述べたが、それは他人に向けられてその手のワードが使われることに対する嫌悪だ。私は己の生涯における一切をカルマであると断じはするが、他人の不幸や不運に対してはカルマや業という言葉を使って蔑んだり貶したりはしない。

 自身と己が被るものに納得するためにそれは活用されるべきだ。その用途に限定すれば業という概念は人間にとって有益だ。それには輪廻という世界観も抱き合わせとなり、それを前提にした認識を持つことになるが、前世や来世という概念もまた生きる上では有効であると個人的には思う。

 前世現世来世を通して向き合わなければならない問題が業であり、それを解決するために人間はこの世に生まれてくる。そういう視座から人生を認識すれば、かえって人生に悲観的になったり虚無感に苛まれることもなくなる。この視点から見れば人生は単純にして明快なものとなり、有意義なものとなるだろう。無意味な苦しみというのはこの世界観では存在し得ない。

 避けがたい苦しみを理解し、納得するためのツールとしてカルマという概念はある。生きる上でどうやっても逃れられない辛苦に意味が与えられたとき、人はそれに耐えられるようになる。カルマという観点は人間を強靭にし、絶望から私達を遠ざける一助となるはずだ。

 カルマは飽くまで問題であって罪ではない。カルマという言葉や思想にネガティブがイメージが付きまというのはそれを罪業と結びつける宗教観によるものだろう。悪事の報いとしての業ではなく、各々の魂が抱えている解決すべき問題が業であり、それ自体が人がこの世に生まれる理由なのだ。人生の意味はカルマの解消であり、生涯において直面する諸問題も突き詰めればこの一事である。そう捉えさえすれば私達が生きる世界の様相はだいぶ変わって見えるのではないだろうか。

 現世における問題を解決しなければそのカルマは来世に持ち越しとなるだろう。だから人生の諸問題から目を背けるべきでない。現世で抱えた問題から自殺などの手段で逃げれば、結局また来世で同じ問題に直面する、この世はもしかしたらそういう風にできているのかもしれない。