壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

自己責任

 自己責任という言葉は大抵否定的な意味で使われる。苦境に陥っている人間に対して、その艱難の原因をその者自身に拠るものであると見なすとき、「お前のせいだ」というニュアンスで自己責任という言葉が盛んに用いられる。それは様々な場面で見られるだろうし、その言葉は大抵攻撃的な意味で相手に投げつけられる。

 私の人生もまた自己責任の一言で片付けられるのだろうか。生まれも育ちも悪く、経済的な事由により普通科の高校に通う機会すら無く、卑しい職業にしか就くことができずに社会の底辺を這うだけの人生を送ってきた私の生涯は自己責任という一言で表されるのだろうか。だとしたらそれは私にとって残酷な事実の突きつけとなるだろうか。

 しかし、一切が自分によるというのはある意味で望みがあると言えなくもない。問題の原因が自身によるものだとするならば、己の決断や行動によって状況が好転しうるということになるからだ。自力でなんとかなる余地があるならばそれは喜ばしいことであるといえるかもしれない。

 逆に、自分に一切の責任がないとするならば、それは絶望的である。責任の所在が己にないということはつまり、自力ではどうにもならないと認めることに他ならない。責任とは可能性と言い換えてもよいだろう。もし仮に私が誰かに「これはお前のせいではない」と言われたとき、それは即ち「お前の力ではどうにもならない」と宣告されていると言えるだろう。

 自己責任という言葉や概念は他人を攻撃するためのものではなく自戒として事故に向けて使われるべきだ。苦境に陥っているとき、自分以外の何かに原因を求めるならばその時点で自力で解決することは不可能になる。どんな状況にしろ、己による何かによってそれが引き起こされ、抜け出すことができないとするならば、己の力によってそこから脱せられると考えられる。自己責任は厳しくも希望が伴うと言えるかもしれない。飽くまで自分に向けてその言葉を使うなら。

 問題は何か、誰が悪いのか、その最終的な帰結が自分自身であるとするとき、人は自分の力で己が身を置く状況を変えようとする。そういう気持ちを持つことが結果的に個人を救済する。自分を救えるのは自分自身であり、自己責任とは克己心を鼓舞するための言葉としては有効である。

 しかし、客観的な因果関係から見て苦難の原因が明らかに自分のせいでない場合はどうすればいいか。その解決はただ一つ、客観を捨て去るのみだ。事実を冷静に見て明らかに自分には非がないとしても、その苦境から脱却できないのは己自身の力不足であり、紛れもない「自己責任」であると自身を戒めることで具体的に行動する上での原動力や動機づけが得られる。自己責任とは自分自身を戒めるための思想として有効に活用できる。

 自分を不当に扱い、虐げ騙し、搾取し使役する人間がどのような思惑で動いているかなど問題ではない。加害者としての他者がどんな人間であれそれもまた問題にするべきでない。全ては自分自身によるという確信を持ってこの世界を認識するべきである。これは皮相的に見れば理不尽で歯科な状況下にあっても、自身を鼓舞するためには大いに有益である。己に責任があるからこそ、現状を変え悪状況から脱する可能性も自分自身が孕んでいると考えることが可能となる。

 加害者としての他人、不条理な環境などといった外界に原因を求めてはいけない。それをした時点で我々は外界に対して敗北する。これにより我々は歯医者であることが確定し、その認識を改めるまでその苦境は決して覆ることはない。己自身を救うには、艱難辛苦から逃れられない根本的な原因が自分にあると断言するしかない。全ては私自身によると明確に宣言することで、能動的な意志を持って具体的に何をするべきかが見えてくる。それによって何をするべきかが確定し、最終的には不遇から脱することができる。

 天は自ら助くるものを助く。どのような不幸や不運であれ、究極的には自分自身が立つことでしか人間は救われることはない。希望とは常に厳しさの中にある。仮に先天的な要因や偶然による何かによって辛苦に喘いでいるとしても、それの全ての責任を自分が取るという気概を持つことが救済の端緒となる。これは意地や見栄という言葉に言い換えても良い。虚勢を張ることで苦渋や辛酸の中で呻吟する日々から抜け出すことができるのだと私は考える。

 私は悪くないのだと考えたり言ったりするのは容易いがそこには救いはない。責任がないということはそれを克服する可能性もないということだ。自分以外の何某かに責任の所在を求める限り、その人は絶対に救済されない。責任転嫁を行う人間は結局のところ救われることを望んでいるのではなく、自己憐憫に浸ること自体が人生の目的にしていると言っても過言ではない。生涯農地で被る一切に事故の責任を認めない者は永遠に被害者であり負け犬である。

 この世は被害者という立場に安住するかどうかを常に人間に問いている。この世が我々に課したり味わわせる一切に対して、我々はどのように振る舞いどのような姿勢で臨むかが肝心だと言える。外界が何を私達にもたらすかなど上辺だけの瑣末事に過ぎず、それに対して我々がどう見なし、何を為すかが本質であり、それが人間としてこの世で生きる意義となる。

 自分がどんな経験をし、どんな降伏や快楽を浴するか。またどんな辛苦を味わい、悲惨や屈辱を被るか。それらはもう度外視してもよい。自分の外側から何が与えられるかではなく、自分の内側がどのような様相であり、それに基づく己の言動がどのようなものであるかを常に人は意識しなければならない。

 外界ではなく、内側が全てだ。ましてや社会や他人が自分にどんな仕打ちをしたかなどは現在の私にはもう何の意味も価値もない。肝心なのはそれを受けた自分が胸中でどんな思考や感情に囚われ、どんな言動を実際に行ったかだけだ。生きるということは自己完結的な行為であり、内省こそが人生の目的、本質である。そのような意味合いを持って私は「自己責任」という言葉を肯定的に解釈し、実際に肝に銘じて生きていきたいと考えている。

 社会的な現象であれ、他人が自分にもたらす被害であれ、それは所詮自分自身を顧みるためのきっかけや材料にすぎない。己の内側にこそ全てがあり、あらゆる改善や向上の可能性がある。物事の原因は外側ではなく常に内にある。内面を意識的に観照する修練を積むことが人生においては重要である。霊的な意味を持って人間がこの世に生を受けるとするならば、己自身を深く知ることこそがそれであろう。

 人生とは徹頭徹尾個人的かつ主観的なものだ。客観的な視点や事実関係などは表層的なものであり、本質とは無関係だ。一切は己に拠り、自分自身は全ての起点となる。そのようなニュアンスで人間はあらゆる場面において自己に責任がある。この大いなる責任に目を向けか、背けて生きるかでこの世や人生に対するスタンスは正反対になるだろう。

 自己責任が持つ霊的かつ本質的な意味合いを知るためにこの世にはあらゆる理不尽や不条理が用意されているのかもしれない。これまで私を苦しめてきた他者や社会的な要因というのは全て、このような気づきを得るために必要なものだったのかもしれず、自己責任というのは一見新自由主義などの政治的な単語のように見えて、実はスピリチュアルな言葉なのかもしれない。