壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

人類皆無価値

 誰しも皆等しくに価値がない、これこそが真の平等である。自分自身含め、この世に尊い存在など誰一人としていないのではないか、最近ふとそう思うようになった。この世界になにがしかの価値のある人種が何処かに存在しているという仮定や前提は人間を単に不幸にするだけなのかもしれない。尊く貴い、値打ちのある「なにものか」という幻影のような存在に、これまで私は知らぬ間に苦しめられてきたような気がする。これは大変馬鹿げたことだ。

 思うに、対人恐怖症という奇妙な精神的な疾患の原因もこのような迷妄によるものなのではないだろうか。無闇矢鱈に他人に価値があると見なし、その「価値ある他者」からどのような評定がくだされるか戦々恐々としている人間が患う病がそれであるように思えてならない。私自身もまた他人を過剰に恐れながら生きてきたが、何故他人を恐れるのかという根本的な部分を考えもせず、闇雲に関わる全ての他社に対して怯えすくみ、恐れるばかりであった。他人の目や評価を気にするのは他者という存在が無条件でなんらかの価値を有していると思い込むからに他ならない。

 この世にいる全ての人間に価値がないとするなら、どんな理由があって私たちは他者を恐れるだろうか。男も女も目上も目下も、親も子も、一切の生きとし生けるものは皆平等に価値がないとするなら、何物も恐れるいわれなどないということになる。会社のなかで上役の評価を恐れるのはその人物が自分よりも価値があるという前提があるからだし、女に対して恐怖心を抱くのは女から嫌われることを懸念してのことであり、その大本にあるのは異性に対して無条件に価値を見出しているからに他ならない。

 これらは根本的に間違っている。自分も含めてこの世に生きてうごめいている万人には無条件に確保された価値などない。誰しも何らかの値打ちが生まれつきあるという誤謬こそが単に恐怖心を抱く原因である。それを克服するには、万人が無価値な存在であると断ずるのが最も効果的である。無論それは自分自身にも当てはまるが。

 価値のない人間に嫌われたり見下されたりしたところで何のダメージもないだろう。自分と比較して同等以上の相手にこれらのことをされれば私たちは精神に打撃を受けるが、何故そうなるかという理由は先に述べたとおりだ。これを避けるには人間という存在は皆例外なく価値がなく、尊い者など地球上に誰一人存しないという前提を崩さずにこの世を渡るより他はないのだ。これ以外の解決策を少なカウとも現状私は知らない。

 これは他人を蔑むとか侮るという話ではない。価値がないと見なすのは存在価値の否定等といったものとは全く異なると断言した。ただ単に万人は価値が「ない」だけであって、嘲りや貶しをする根拠があるというわけではない。この違いは決定的ではあるが、言葉で説明するのはもしかしたら難しいかもしれない。単に無価値であるということは軽蔑や嘲笑の念を抱く理由にはならない。

 価値が「ない」というのは事物に対するニュートラルな見方でありそれ以上でも以下でもない。ただ必要以上に他人に対して畏まる必要がないというだけの話である。他人を恐るるに足る存在であると無闇に買いかぶるせいで対人関係の無用な苦しみンを我々は被っているように思える。私はこの手の心労にはもういい加減辟易しているし、世間一般の社会通念がどうであろうともうこの前提を手放して少しでも生きることを容易にしたい。

 万人が無価値であるならば、自分自身もまた然りであろう。自分自身を高く見積もることでも精神は苦痛を被る。「価値ある私」と言う前提を持ってしまえば、それがいずれどんな理由にしろそれが損なわれる可能性が付いて回るだろう。己が損なわれるという不安や懸念がまた内心に恐怖を生み、それが我々を常日頃苦しめることになる。自分が価値ある存在だと思うこともまた辛苦の源となる。

 自分自身と言う存在が無価値であるならば、我々は己を損なう懸念から解放されるだろう。ないものをどうやって失えるだろうか。価値という尺度から解き放たれてはじめて人間は捨て身にも空手にもなれる。外的な要因でどれだけの憂き目に遭ったとしても自己が損なわれることなど絶対に有り得ないという確信。これこそが私を救済する境地だと言えるが、どのようにしてこれに達すればよいか。

 簡単だ。価値という概念それ自体が単なる妄想にすぎないと見向きさえすればよい。価値の有無や多寡などというのは人間の頭の中だけで便宜的に存在するものでしかない。それは実存のない妄想に過ぎず、我々は実体を持たない幻影のような代物を後生大事に抱え込んで生きていると言っても過言ではない。

 それがまるで無意味だとまでは言わない。私達が生きていく上で、要不要の峻別を持つことは絶対に不可欠であり、それを行う上で価値という尺度で万物を断ずることは生きている限り避けることはできない。しかしそれは飽くまでやむを得ずしなければならないことであって、しなくてよい場合でも常にそれに固執しなければならない義務など我々は背負っていない。例えるならば、定規は必要な時にのみ手に持つべき道具であり、そうでない場合は手放して何処かにしまっておけばいいだけのことだ。

 長さを測らなければならない時には定規が必要であり、重さを量るなら秤が必要だろう。しかし、重さや長さが問題でないとき、それらの道具も長短や軽重の概念も無用となる。それらはただ有効に活用するためだけに存在するのであって、それ以上の何かにはならない。価値という代物も物事の重要さを見極め判断を下す場合にしか有用でないのだから、それが必要なときにだけ用いられるべきだ。逆に言えば、それが必須でない局面においては捨て置いてよい。

 他人を値踏みし、どのように対応するべきか考えなければならない局面というのは大して多くはないはずだ。他者をどのような基準で評価し、優劣や美醜、貧富などといった観点から自身と比較して相対的にどうであるか分析して判断を下すことが「絶対に避けられない」状況とはどのような場合だろうか。それは仮にあるとしても相当稀ではないか。稀であるならば、基本的にはそれはしなくて良いと言ってしまった方が妥当ではないだろうか。

 ましてや自分自身対して価値があるかどうかなどと、それについて考えなければならない状況など本当にあるのだろうか。少なくとも他者に対しては人間関係を円滑にする必要性などを加味して、ある基準により誰がどれだけ価値があるかどうかといったようなことを考慮しなければならないこともあるだろうが、こと己に対しては価値などあろうがなかろうがそんなことはどうでも良いではないか。

 と言っても他人に対しても相手の貴賎などどうでもいいことがほとんどであろう。他者を見誤ることが致命傷となることは通常生きていてまずありえない。他人がどれだけ価値が高く優れ、美しかったとしても、それが私自身にとってどれだけの意味があるだろうか。どれだけ尊い存在に対しても、私自身が自分の中で価値がないと思えば、少なくとも私にとってその相手は取るに足らない。

 誰しも皆平等に価値がない。それを見失わないようにした。よって何者からのどんな評価や評定も恐れる必要など全く無いと断言できる。また、己もまたハナから価値がないから、貶めることも損なうことも傷つくことも絶対に有り得ないのだと今この段になって私は確信できる。