読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

乱文手記置場

雑記、雑感その他

魂という牢獄

 スピリチュアルな分野においてよく唱えられる世界観の一つとして、人間は霊格を向上させるためにこの世に生まれてくるのであり、この世界は人間が冷静を成長させるための修業の場として創造された、といったものがある。これはその世界で名高い様々な人間が提唱する説で、この世や人間が存在する意味や私たちが生きている間に経験する辛苦に対する理由付けなどの観点から見て矛盾のない言説であるように思える。この思想により生き死ににまつわる一切に対して腑に落ちた状態で生きることができるだろう。

 しかし、霊的ステージを上げ、魂を成長させるとして、その最終的な帰結はどのようなものになるのだろうか。肉体を超えたところにある自己同一性や主体性といったものが霊魂だとするならば、それを無限に向上させ、進歩させていったその最終的に何がどうなるというのだろうか。スピ系ではより高次元の世界に行くとか、人間以上の髪に近い存在に転生するだとか色々な説が唱えられているが。結局のところどれも放言の域を出ないだろう。それらを鵜呑みにできるほど私は純粋ではなく、またそうなるべきだとも思わない。

 この世は修行の場であるという仮定や想定(設定と言っても良い)を前提として生きることに対しては特に反対する気はない。とどのつまり、自分やこの世界の存在意義や被る苦しみに対してどのように理解し、納得するかと言う話である。そのためにスピリチュアルな世界観を持って生きることは悪いことではない。むしろ虚無主義に堕するよりは信心深く生きたほうが建設的で人畜無害な生き方ができるだろうし、それは社会的に善ですらあるだろう。しかし、私個人はどうにもその世界観には首肯しかねるのである。

 霊魂という概念は、肉体を超越しても何らかの形で「自分」が保たれるという前提があって成り立つ。しかし、自分が自分であり続けるというのは私にとって必ずしも好ましいとは言えない。何故人は一個の人間であろうとするのか。過去現在未来において揺るがない自己と言うものを携えて生きていくことに、なぜ余人は窮屈さを感じないのだろうか。

 日常的な感覚や理屈の中に限って言うならば、それはかくいう私も「自己同一性」というものを否定することはない、というより不可能である。「昨日の俺はこう言ったが、今日の俺は昨日の俺とは別の人間だからそれは無効だ」などといったセリフを吐く人間には真っ当な社会生活は営めないし、最悪正気を疑われかねない。生きる上では「私は私」という前提を世俗的な領域や次元においては無視することはできないし、またするべきではない。

 一個の人間としての己であるという認識や時間の流れの中でも自分自身は損なわれずに同一であるという前提が私にはもう嫌なのだ。何故私は私なのか、何故そうでなければならないのか、そんな疑問が近頃頻繁に脳裏をよぎる。前述のとおり、実利や世俗的な必然性から言って、自己同一性は保たれなければならない。それは「正気」であることと同義であるし、それができない者は遅かれ早かれ社会から隔離されてしまうだろう。言うまでもなくそれは私にとって本意ではない。

 しかし、必要に迫られない状況においては、それを手放してもいいのではないか。俗世においてうまく立ち回り、生活を維持しなければならない場面においては私が私であることは避けられないとしても、この世界をどう見なすかや自分自身の存在意義を何とするか等と言った「戯言」と言っても過言ではないようなトピックを取り扱うような局面において、自己同一性という必要悪からは開放されたいと私は望む。

 余人はどうもそうは思わないようだ。ことに精神世界の類いに傾倒するような人種においては尚のことそうであるらしい。確固たる自分が肉体を離れても頑として実在し、それを向上・進歩・発展させていくというモデルがまるでこの世の真理であるかのごとくスピリチュアル系の界隈では盛んに喧伝されている。永劫に盤石な自分自身というものを携え、この世でもあの世でも、どんな世界においても己が己であり続けるのが当然だという認識が蔓延している。それがどうにも私には性に合わない。

 霊とは肉体に拠らない自己だ。肉体はいずれ年老い滅びるがそれとは無関係な不滅の自分が存在して欲しいという願望が人間にはある。そんな望みを叶えるために生み出されたアイディアが霊魂の正体である。それが実在するかどうか、仮に実在するとしてそれは一体どのようなものであるかどうかは生者には知りようがなく、当然私自身もそんなことは知らない。要するに魂とは不可知である。

 不可知のものをどう捉えるかは各人の勝手だ。各々の主観の中で、その実在性やそれが具体的にどのようなものであるかは如何様にもなりうる。それは畢竟、当人にとって最も都合の良い形で解釈されるというだけだ。不滅の霊魂がどんな次元のどんな世界でも確固たる実存を保ち、それが極楽のような環境で至福に浴すだとか、地獄のような所で辛苦を被るとか、あるいはこの世に何度も生まれ変わり、様々な事柄を経験して成長するだとか、説の違いはあれどそれらは唱え信奉する人間にとって都合のいい前提に依って定められると言う一点において共通している。

 仮に霊魂が存在していないと見なすとしても、それもまた見なす人間にとってそれが都合がいいと言うだけのことでしかない。肉体を離れた形で自己が存続するかどうかなどということを考えるの事自体がそもそも馬鹿らしいという思いもあるかもしれない。魂が不在であると考えるのはその方が自身に益するところが大きいという実利的な視座が根底にあり、それが存在するとした方が利が大きいとなればそのような人種もまた自身の霊魂の存在を容易に信じ込むだろう。

 つまり、人間は己に都合の良いことを信じ、それを事実や現実であると認識する。人間は万人がご都合主義で森羅万象を捉えているに過ぎず、それは己自身に対しても例外ではない。霊魂の有無やその詳細についても、それを語る当人にとっての願望の投影にしかならない。そこで問題になるのは、私個人は霊魂、ひいては自分自身のアイデンティティがどのようなものであれが好ましいのかということである。

 人間は見たいようにしか見れず、知りたいようにしか知れない。知覚や認識の前には願望というフィルターがあり、それのほうが物自体よりも人間にとっては重要となる。しかし人間はそれを自覚することができない。言うなれば人間は無自覚な欲望に振り回されて物事を見聞きし、頭の中だけの絵空事をこの世の実相だと信じて疑わない迷妄状態で生きているとも言える。

 何かを知り、解釈し論じる前に、自分が腹の底でどんな望みを抱いているかをはっきりと自覚しなければならない。それが明らかになれば自身にかかっている認知の偏りがどのようなものでその程度がどれくらいのものであるかをはじめて知ることができる。形而上形而下の別なく、一切について知り考えることは自己への探求に繋がる。それこそが知的活動の本懐であり最終的な到達点である。

 霊魂の実在や時間や肉体を超越した自己同一性への捉え方や見なし方は、とどのつまりは自分自身がどうありたいかという単純な簡単な問いに帰結する。私はそれらについては単なるしがらみと感じず、それからただ自由になることのみを欲している。霊格の向上や霊的ステージの向上、死後の救済などといった霊魂がどのような処遇を受けるかなどはどうでもよい。むしろ私はそれからの解放を望む。肉体が滅んでも私が私であり続けるという世界観は私にとって自分が永遠の虜囚であるかのように感じられる。私が何者であったとしても、私は私から逃れ解き放たれることを望んでいる。それだけははっきりと分かる。