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乱文手記置場

雑記、雑感その他

問題

 私はこれまでずっと自分が問題を抱えて生きていると思ってきた。自分は数え切れないほどの問題を解決あるいは克服しなければならず、それが果たされないから自分は不本意な人生を送っているのだと考えていた。しかし本当にそうだろうか。私は「問題を持って」いるのだろうか。

 これは私と問題が別々に存在しているという前提に基づいた認識である。しかし、これらを分けて考えていることがそもそも間違っているのではないかと今日脈絡もなく思い至った。自分自身と問題の2つは実は不可分なのではないか、と。

 自己のアイデンティティとは即ち問題それ自体であり、自分が自分であることと問題を見出しそれと奮闘することは同じなのかもしれない。労働中にふと、問題を抱えている状態が己が己であることの証明となっているような気がしてならなくなった。強制的に苦役に従事している最中で、仕事上の問題と格闘している只中にあって前触れ無くそんな仮説が思い浮かんだ。

 私の人生には目下数多くの問題がある。それは貧困であり、以前自身の胸中で消化しきれてないな過去への後悔と解消できない未来への不安、将来性が全くない下層階級の賤業に従事し続けなければならない絶望的な状況に対する不満など、数え上げればきりがない。しかし、それらの問題の全てが考えようによっては自分を自分たらしめている要素の一つ一つではないかと。私は貧乏で孤独で不遇を託ち、低賃金で割に合わない仕事をして限りあるかけがえのない人生を消耗している。しかし、そんな問題が仮にもしある日突然雲散霧消してしまったら、私は何を持って自分が自分だと確信を持って自他に誇示できるのだろうか。労働の最中、そんな疑問が脳裏にかすめた。

 自分にとって好ましくないから問題は問題であるにもかかわらず、それが自分自身の本質かもしれないとは! それは受け入れがたいことのように思われたが、そう解釈すればいろいろな事柄が腑に落ちるような感じがした。私は問題を解決したいと本心では実は思っていないのではないか? 生きている間にあれやこれやと問題を見出し、それらをあげつらいああでもないこうでもないと悪戦苦闘しているような風を装い、実のところそれが自分が自分であることの証としてはいないか。自己のアイデンティティとして抱えている問題を実は利用しているというか、自分を自分たらしめる「問題」を常に躍起になって血眼で探しているのが実際の所ではないか? 自分が頭を悩ませている種種雑多な問題は実は自分自身について言及するための道具にすぎないのではないか?

 もしそうだとしたら滑稽である。自分が自分であることの証明として本心では問題を求めていたのだから。常に人生は問題ばかりであると思ってこれまで生きてきたが当然だ。私は腹の底では問題を携えて生きることを常に欲していたのだから。問題の本質は問題を望む心それ自体であった。そう思えば私の生涯は、自分を自分たらしめるために直面すべき問題を常に追い求めた、実に不毛なものであったと思う。

 これは自分自身をどう定義するかといっ自己へのアイデンティティにも関わる。何故なら、深層心理で問題を抱えることを渇望しているならば、問題とは人間にとって己の本質であり、問題即自分という図式が成り立つからだ。何によって私は私であると言えるのか、そんな月並みでありながらもシリアスで重大な疑問への答えの一つとして、問題こそが自分そのものだ、というものが挙げられる。

 問題とは自分に本来なら良くないものであるはずだ。しかし、本稿に於いては「汝それなり」という結論が出つつあるのだから、書きながらも我ながら奇妙に思われる。自己の本質が自分にとって好ましくない状況や事物、事象に他ならないという大きな矛盾をどのように捉えればいいのだろうか。

 辛く苦しく、嫌だから問題は問題であるはずなのに、それが自分自身の根源であるとしたならば、それは私が私であることがそもそも好ましくなく、自分自身とは手放してもよい、いやだきして然るべき代物なのではないか? そんな思いすら湧いてきてしまう。自分でないもの、己を取り巻く何かが悪いのであって、それをなんとかしなければならないという観点が転換され、自分自身それ自体こそが問題の核心であったと私は今まさに知りつつあると言えるのかもしれない。

 この視座を保った生き方は、何が問題でありそれをどのように解決するかといった古式ゆかしい取り組みとは全く異なるものとなるだろう。どんな困難に直面しても目を向けるべきなのは自身の内面ということになる。原因は常に己自身の中にあり、自分に拠らないものは全て皮相に過ぎない。目を向けるべきなのはどんな局面においても私なのである。一見理不尽で自分には何の非もなく感じられたとしても、それは上辺や見かけに於いてそう思えるだけのことなのだ。この視点は厳しいが革新的である。

 問題が問題でなくなるとき、私自身もまたなくなってしまう。それを喪失であると見なす限り、私たちは無限に問題を生み出しそれを抱え続け、そしてそれゆえに苦しみ続ける。それから逃れる一つの道は己を捨て去ることだけである。自分即問題で、それが嫌ならばそういう結論に至るしかなくなる。

 私は掛け替えのない存在であり、それを害する何らかの問題ががあるという前提を放擲しそれを単なる誤謬として切り捨てる。その先にあるのは無我、忘我の境地であろう。我を忘れたところに本当の愉悦や至福がある。一切の問題から解き放たれ、「我あり」という軛から抜け出したい。それが今の私にとっての望みである。

 抱えている問題の質や量がその人が何者であるかを表す。しかしだからこそ、何者かであることをやめるとき、どんな問題であれ消え失せる。それによって何かが変わるわけではない。自分自身の内面ですら何ら変化がないかもしれない。しかしそこには気づきがある。問題と自分が不可分であり、それらが何故生じるか、それへの気づきが私たちに冷静さをもたらす。煩悶や呻吟ではなく、自身やそれを取り巻く全てに対する冷徹に洞察するとき、私たちはそれが必須でも不可欠でないということを知る。そして、それだけで十分なのだ。特別なことをする必要など全く無い。

 自我は問題なくしては存在できず、私とは問題そのものである。究極のソリューションは自分自身から自由になることであり、自己を手放すことによってのみそれは可能となる。問題は苦しみでありそれの源は私たち自身の本質であった。よって苦しみの源を立つには私たちは私たちであることに拘泥してはならない。

 それに躊躇いがあるなら、それは即ち苦しみや煩いに実は辟易していないのだ。それへの躊躇は辛苦や煩悶を実は拒んではいないことの現れである。我が強い者は内心問題を抱え込みそれにより苦しむことを望んでいる。表向きでは自身を悩ませる諸事に嘆き悲しみ、嫌そうにしていてもそれは自己憐憫であり、それは彼にとって実は理想なのだ。

 しかし私はそうではない。巷の他人が自己とそれを悩ませる問題についてどう見なしていたとしても無関係だ。私個人はもう問題に取り組むことも「我あり」という思いに囚われることもたくさんだ。苦悩や煩悶からはもういい加減に別れを告げたい。そのために必要なのは何かに対しての行為ではなく、ただ「さらば」と一言言うか思うかするだけで十分なのである。