壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

人生

 人生失敗した。この文句を生まれてきてから何度吐いたか分からない。口に出さずに頭でこのフレーズを思ったことも回数に含めれば、何千何万という回数になるかもしれない。しかし、そもそも人生とは一体何なのだろうか。そんな大本の疑問を抱くこともなくただ闇雲に人生人生と愚痴り念じてきたような感があり、よくよく改めて考えてみれば甚だ奇妙な話である。

 人生とは生まれてから死ぬまでの間のことだ。それに対してやれ失敗しただのしくじっただのと寸評するのは滑稽である。それがどのような内容であったとしても、それが成功したか充実したかなどと考えること自体がナンセンスだ。そもそも成功した人生とは一体どんなものなのか。生きてから死ぬまでに何を得て、何を経験すればそれが満ち足りたものであるといえるのだろうか。

 第一満ち足りる必要などあるのだろうか。それが果たされないから心が満ちず、私は不本意な人生を送っているとずっと自分でそう思ってきたが、それが今日になってバカバカしく思える。自分が経験したことを過去現在未来という時系列において並べ、あれが良かっただのこれが悪かっただのと言って、それの総体を人生と呼び、それが成否を自問自答するというのはなんという不毛な営みだろうか。

 人生とはシリアルな出来事の羅列に過ぎない。それがいいか悪いかではなく、それはただ単にそれでしかない。それのクオリティがどうであれ、それは自分自身とどこまで関連があるだろうか。自分が歩んだ人生を自分それ自体だと見なすから人生の質や内容について煩悶することにある。私が送ってきた人生と「己自身」は完全に同一であるという前提は一体どこから来るのか。それにどれだけの正当性があるというのか。

 そんなものはない、今となって私はそう断言できる。「私という個人の人生」と私が何者であるかは実は何の関連もない。私の生涯がどんなものであろうとも、それは「私それ自体」を指し示すものではない。仮にもし私が自分の人生を始めから終わりまで全て望み通りに完遂でき、望んだ経験を全て願望のままに体験し尽くしたとしたならば、その人生と私は等号で結び付けられるかもしれない。しかし、現にそうではないし、そういう意味で「満ち足りた人生」を送った人間など恐らく有史以来誰一人存在していないのではないだろうか。少なくとも自分がそうでないというのは絶対的な事実としてはあるので、私にとってはそれで十分である。

 生まれ落ちる町を自分の意志で選べる人間がこの世にいるだろうか。両親を誰にし、どのような教育を施されるか、完全に望みのままに誂えることなど言うまでもなく不可能だ。生まれや育ちといった人生における背景となる要素は、誰にとっても本意でないものだろう。私がどんな町に生まれ、どんな家庭で育ったかについて事細かく述べる気はないが、それらはどれも私にとって望ましくも好ましくもなかった。土台が不本意なものにどうして満足や納得できるだろうか。

 無論この世には幸福な人生を送る人間もいるだろう。多くの愉悦に浴し快楽を貪るような満ち足りた生涯を満喫する人種もいるのかもしれないが、自分自身がそれでなく、将来的にも絶対にそうはならないと確信を持って断言できるならば、それの実在性やそれについての詳細など何の意味も持たないだろう。私は私の人生になんの意味も値打ちも見いだせない。ただその事実が厳然としてあるだけだ。他人の幸せなど全く無関係である。

 しかし、それが何だというのだ。自分の人生に愉悦や楽しみがなく、他人のそれにおいてはそれらが満ち満ちていようと、それが何だというのだろうか。だからどうしたの一語でそれは終わる話だ。そもそも先に述べたように、人生と自分を同一視することが問題の根本であると断じた時点で、一個の人間としてどのような人生を送ってきたか、また送るべきだったかなどは瑣末事だ。それの詳細について一喜一憂する段階はもうとうの昔に過ぎ去ったのだ、私の場合。

 人生という枠組みから脱することだ。それが成されればそれから人は解放され、自由になる。私の本当の願いは良い人生を送ることではなく、時系列に則った出来事の陳列に過ぎない「人生」と自分自身を切り離すことにあった。今はそれがはっきりと腑に落ちている。

 私たちは人生という枠の中に閉じ込められている。これは言うなれば生まれながらの幽閉状態であり、私たちは自分が虜囚であるということにも気づかずにぼんやりとした意識で生きている。私たちは人生と名付けられた枠組みに囚われた私たちはその中でどう過ごすか、牢獄の中をどう飾るかといったことに頭を悩ませ、他の房の囚人と比較して自分の独房の良し悪しを判断し落ち込んだり思い煩うのである。

 なんという滑稽なことだろうか。しかし、多くの人は自分が囚われた存在であるとは夢にも思わず、監獄の中で生き続け、死んでもそれに思い至ることはない。たとえどれだけ快適な環境であったとしても牢屋は牢屋である。宮殿のような造りだったとしても、刑務所は刑務所であることに変わりはないのに。

 囚人として満足して生きる道もあるのだろう。模範囚として充実した生もありかもしれない。しかし私自身はそれを望まない。それは私が身を置く「牢獄」が好ましくないから他人のそれを羨み負け惜しみで言っているのではなく……、いやそういう思いももしかしたらないではないかもしれないが、ともかく私は「出る」ことを望んでいるのは確かであり、これだけは確信を持って言える。

 私たちは自分が歩いてできた足跡や運転した車が作った轍を自身の片割れや己の一部だと見なすだろうか。人生にも同じことが言える。何度も述べるが生きてきた軌跡は単に軌跡に過ぎず、それ以上の意味合いなど本来は持たせようがない代物だ。そんなものに自分自身を投影して託すから人生のクオリティの是非について懊悩するハメになる。足あとは足の延長ではなく、車の通り道にできた溝は車のタイヤと同じにはならない。それと同じことが「私と人生」にも言える。

 よって、これまでのこともこれからのことも私には無関係だ。もちろん余人はそういう姿勢にあれこれ物言いをつけるだろうがそれもまた私にはどうでもいい。これは開き直りではなく、自身にとって不必要なものをただ手放し、別れを告げるだけのことだ。不要なゴミやガラクタでしかないものを後生大事に掴んで離さないどころか、それが自分の一部だと見なすようになった愚かな異常者、それこそがこれまでの私だった。私は単にもうそれをやめる。

 自分自身について語らなければならないとき、私は自身の人生について言い及ばなければならいこともあるだろうが、その時はその時に応じ適宜その時だけそれについて語るだけでよい。頑なに人生というパラダイムを拒絶する必要もまたない。己について語る上でそれが便宜の上で有益であるならば私は依然それに頼るだろう。しかし、もうそれは私と同一でもなく、私の本質を表すものにはなりえないのだ。

 私において人生は終わった。他人にとってはどうであるかは知る由もないが、重ねて言うがそれはどうでもよい。私は私の人生にただ「さらば」と言うだけであり、それだけで十分なのだ。この段になり私は、人生や生涯と称される重荷を下ろすときがようやく訪れたのだ。これは大変喜ばしいことだと言える。何よりこれで楽になる。少なくとも苦しみは減るだろう。