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乱文手記置場

雑記、雑感その他

失敗

 これまで数え切れないほどの失敗を積み重ねて来た私の生涯は、しくじりが多いというよりもそれその物であったと言っても過言ではない。人生における全ての場面で私は取り返しのつかない過ちを犯してきた感がある。

 失敗続きの人生を振り返りながら、あり得たかもしれない成功についても思いを馳せるのはありきたりな思考の形態だろう。進路をああしておけば、就職をこうしておけば……。人間関係においてもあの時にあんな受け答えをしておけば、などといったありえないはずの成功したケースについて妄想を膨らませる。そんなときにふと思うのだ。「失敗しなかった自分、成功した自分は自分といえるのだろうか」と。

 私がもし親の反対を押し切り普通科の高校に進学し、きちんと受験勉強をしてまともな大学に入り、真っ当に就活を行い、平均的な就職をし、人並みに恋愛や結婚をしていたならば、そんな自分はもう到底自分とは呼べない赤の他人ではないか? 成功した、あるいは失敗しなかった「ifの自分」について夢想しながらこんな疑問が平行して私の脳裏に浮かぶ。そして私は自分が自分たらしめる要素として失敗は不可分であったと悟るのだ。

 成せなかったことや達せられなかった何か、結べなかった関係や訪れられなかった場所……それらが私を構成する諸物として私の自意識の中で機能を果たしているというのはなんとも皮肉な話だ。

 失敗していなかったらなら、成功していたとしたなら、そんな私は私とは呼べない。私を私たらしめるのは他ならぬ過失や喪失、あるいは被害や毀損といったネガティブな代物ばかりだ。私は生涯において何一つ得られなかったどころか、機会や可能性といった類いのものを失うばかりであったが、そのような事実こそが己それ自体だった。

 つまり、私という存在は無価値で、私の人生は無意味だと結論付ける他はない。そしてそんな代物について深刻に煩悶や懊悩を重ねてきたこれまでの自身を顧みれば滑稽この上ない。ゴミ未満の値打ちしかないものを必死になって護持してきた自分のバカバカしさ! 鏡に写った自身の像を指差して哄笑してやりたい思いだ。

 自分自身の無価値さや無意味さを認める時が来た、今になってそう思う。気休めの慰めなどよりも、現在に私には己の馬鹿さ加減を一笑に付すことが却って救いになるだろう。失敗こそが自分の本質であると断じたその瞬間、生活におけるあらゆる好ましくない要因や結果が何の脅威にもならなくなる。根本が間違いならば、その上になにが来ようともそれは問題ではない。どうせ大した人生ではないし、私は無価値で無意味である。そういう視座を失わなければ、私はどんな憂き目に遭ってもそれを問題とは見なさないだろう。

 これはある意味ではペシミズムであるかもしれないが、そこから立脚してはじめて見えてくる境地もあるのではないか。安直で気休めにしかならない前向きな言葉や思考や、綺麗事で糊塗された詭弁やでっち上げの大嘘にすがるよりは、絶望する方を私は選びたい。私は自分自身に絶望し、望みを断つことで新しい視点を得ることを志向したい。要するに故意的に一度どん底まで落ち、そこから這い上がるのではなく、底が抜けるまで極めたい。絶望の底が抜けたときに見いだせる何かこそがほんとうの意味の希望なのではないか。漠然とではあるがそんな風に思っている。

 自身の本質や自己同一性の根本が失敗や喪失ならば、損なうことや失うことを恐れる意味や必要はあるだろうか。それらを恐怖するのは「価値ある自分」や「意義ある人生」といった幻想を捨てられずに固執するからだ。何故己に値打ちがあるという前提で物事を捉えるのだろうか。そんな根拠や必然性が一体何処にあるというのだろうか。私に価値など無く、人生に意味などない。それで何の問題があるだろうか。

 失敗を恐れるのは自分に無条件に価値を見出しているからだ。人生は本来有意義であり、そうでなければならないという前提で生きるから、人は「人生に失敗」しうる。それらがはじめらから無価値、無意味なのだとしたら、一体何がどうやってそれらを台無しにできるだろうか。

 ないものは失いようがなく、損ないようがない。人生即失敗ならば、そんな人生ははじめから失敗のしようがない。何かに失敗したと思うとき、自分の中の前提を明確に意識するべきだ。そしてその前提が狂っている、間違っていると知ったとき、人は犯した過ちを悔やんだりしくじった自分を責めることもなくなる。

 本当は何事も失敗しようがない。首尾よくいけば、しくじることがなかったならば、こうなるだろうとかこうならねばならないという仮定は何であれ私たちを苦しめる。私はそれによって無駄に生涯を浪費してきた。私はずっとそれが嫌だったし、それによって苦しむことから救われたかった。

 私は成功を望み失敗を忌避し恐れた。だがしかし、それは迷妄に他ならなかった。自分は何かを得うる、成しうる存在であるのに、そうならないことを悔やんできた。前提としての考え方が根本から間違っていたとも知らずに! 私は価値があり、人生には意味があるのに、それが諸般の事情によって損なわれたという誤謬こそが私にとっての心労の根源であった。

 失敗、被害、喪失など被りようがない。もともと人間には失うものなど何一つありはせず、本質的にはどんなものも得ることはない。この世に何かを携えて生まれてくる人間がいるだろうか。また、何かを携えたまま死んでいく人間がいるだろうか。一人の例外もなく人間は空手で生まれ死んでいく。その過程で何を浴し何を被ろうとも、それは一時的なものでしかない。成功や栄達、獲得も所有もなんであれ皮相の、上辺だけの代物でしかない。そこに「ホント」はない。

 そんな私たちが一体何に失敗するというのか。何かを有ると見なした瞬間からそれを失いかねないと人は憂い始める。それは絶え間なく人を苦しめ、我々の生を困難なものにする。現に私は常に失敗や喪失を懸念し、恐怖し、煩悶し呻吟してきた。損なわれる可能性がある自分というセルフイメージがその原因であった。そのことに気づき、それが間違いだと思い至るまで、私はかなり長い歳月を要した。

 「失敗した」という文句は傲慢さを孕んでいる。本当は首尾よく恙無くいくはずだったという無根拠な前提がそこにはある。そんな奢りが結局のところ自分自身を痛めつける。尊く掛け替えのない「私」が毀損され台無しになった! そんなことを大っぴらに言う人間がいたら、思い上がるなと一喝されるだろう。害されうる、損ないかねない私を念頭に置き、それを掲げることは本来恥ずべきことだと言える。

 過去犯した失敗への後悔や、将来それを犯しうることへの不安や心配はとどのつまりは鼻持ちならない自惚れなのだ。そんなものが自家中毒のように人間を苦しめる。言うまでもなくナンセンスである。私は失敗できる人間だなどと公言することは重ねていうが恥ずかしい。

 私は過去現在未来において失敗のしようがないと断言する。元来人は徒手空拳で生涯を貫徹するしかなく、また何かを得たとしても何であれそれは暫定的なものでしかない。それが手にできなくても、不意に失っても、私はもうそれを問題だとは思わない。私という存在がしくじる可能性はどんな局面でもゼロであり、私は何も失わず損なわれず、害されることもない。だいいちそれは天地がひっくり返っても不可能なのだ。