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乱文手記置場

雑記、雑感その他

人格

 自分に害をなす人間に対して私達はどのように捉えればよいのだろうか。こいつは悪人だとか、許せない奴だとか、身勝手なサイコパスだとかそのように考えたところで有害な加害者としてのそいつが消えてなくなるわけではない。

 敵を敵であると認識するとき、私たちはその対象がどんな人格を有した存在であるかということを無意識に考え想定してしまう。自分本位な人間だとか、守銭奴だとか、自分のために他人を犠牲にすることを厭わない正確だとかいう具合である。私たちは自分でも気づかない内に嫌っている相手の人格や人間性を分析し、精神や心、人格がある血肉のある存在だと見なしてしまう。

 相手に何らかの考えがあり、それに基づいてそれが自分に被害をもたらすという前提でもって自分に危害を加える他者を想定することは、もしかしたら不毛で的はずれなのかもしれない。他人の心情や魂胆など何だというのだろうか。そんなものを想定して、自分を虐げる人間について考察して何になるのだろう。

 憎むべき、許せない奴がいる。しかし、それらの感情が何故私の中で起こるのだろう。憎悪の対象がどのような腹づもりでどんな悪行を私に働いているかなどといったこを掘り下げたところでそれが一体何になるだろうか。

 問題にすべきなのは常に自分自身なのだ。悪人がどんな人間であるかなどはどうでもよい。私はなぜ奴を憎むのか。この感情の源にあるのは一体何なのか。実際、人生の中で悪党との邂逅は、そんな自省や内省のためのいい機会なのかもしれない。

 自分にとって不利益や理不尽をもたらす存在に対して人は問答無用で憎しみを抱くだろうか、そんなことはないだろう。天災などを忌避することはあっても、自然現象を憎悪する人間がいるだろうか。獣や害虫を疎む人間は大勢いるが、それらに怨恨の場を持つ人間がいるか。

 「嫌い」と「憎い」との間には大きな隔たりがある。嫌うのは自分に有害なものを遠ざけたいという思いであり、憎むのは自分に害をなす存在への被害者意識の発露である。憎しみは加害者と被害者という関係性の中で生み出される情動だ。無論それは自分が被害者であるという前提に基づいている。

 邪悪な人間が悪意によって自分に危害を加え、掠奪や搾取を企み、自分が損なわれ消耗するという思いがその根底にはある。しかし、私はそれを好ましく思わない。そんな認識を持って生きていくことで自分が救われるとは到底思えないからだ。そんな感情に支配されることで一体何か得るものが一つでもあるだろうか。

 確かに自分の欲得のために他者を犠牲にし、それを当然とし、奪われ炒め詰められる人間を嘲りながら嬉々として虐げる悪漢というのはこの世には大勢いる。私自身目下そのような人非人によって散々苦しめられ、呻吟しながら日々汲々している。しかし、悪を成す人間がどのような存在で、その精神の様相の仔細について推し量り思いを巡らせれば巡らせるその人間に対して憎悪が膨らんでいくばかりだ。

 私がしなければならないのは奴から逃れ離れることであり、それがどのようなものか知ることではない。私はこれまで生きてきて数え切れないほどの「嫌な人間」と邂逅してきたが、それらがどういう人格や精神を持った存在で、どんな魂胆や思惑にって自分に危害を加えるか、そんな被害者意識に固執するばかりだった。そのような人種と接触せず、影響下に置かれないようにするためにどうすればいいかということはあまり考えてこなかった感がある。

 自分を騙しこき使い、虐げ辱めるような人間の魔手から逃れるには、力をつけるしかない。弱者はどんな形であれ食い物にされるだけであり、弱い者は常に被害者として甘んじるしか選択肢がない。貧窮し屈辱を味わっているなら、それは自分が目下弱者であるということに他ならず、その状況から脱却できないのは力不足だからだ。これは認めたくはないが厳然たる事実である。

 自分が弱く、力がないということがあらゆる苦境の根源であり原因だと自覚しなければならない。それができてはじめて、自分がどうすればいいかがはっきりと分かる。そしてこの過程の中で自分から掠奪し損害を与える加害者がどのような人間であるかは全く関係がない。

 加害者や悪党の人格や人間性は徹底的に無視するべきだ。むしろ自分にとって害悪な人種については精神や霊魂の存在を認めないくらいで丁度いいかもしれない。他人の心がどのようなもので、魂胆や心情について当て推量をすればするほどその対象を憎むことになる。

 憎しみは他人の心を推し量るから起こる感情であるが、それが私たちに何かをもたらすことはない。憎むべき相手から逃れるためにどうすればいいか考えなければならないのに、他者について類推することに時間や労力を費やす。それによって結局私たちは何もできず、不遇を託ち被害者として甘んじて人生を無駄にしてしまう。

 相手を憎むことをやめるにはその対象の人格や人間性を想定しないことだ。他人の魂胆や腹づもりなどブラックボックスのままでよく、知ろうとしないことだ。飽くまで考えるべきは己自身がどうすればいいかだ。自分が悪漢の魔手から逃れ、害されることも損なわれることもない状況に身を置くには何が必要か、どんな行動を具体的に取るべきかだけに意識を集中するべきだ。

 悪人がどんな人間か考えるのは、皮相的なものの見方にすぎない。本質に関わることはそこには何一つない。相手の気持ちなどどうでもよく、それから以下に遠ざかるかは自分自身にかかっている。悪漢の人格や人間性を分析し理解できたところで何一つ自体は好転しない。

 憎悪とは他者に対するネガティブな理解である。邪悪な魂胆が相手にあり、悪意があって自分に危害を加えているという思いがあってはじめて人は他人を憎むことができる。私はそれに何の意味も価値も見いだせないし、またそれをしたいとも思わない。よって、私は自分を苦しめる他者の人格や精神を完全に無いものと見なし、それによってもたらされる害悪は人災ではなく、天災のようなものだと断じることとする。

 他人など問題ではなく、根本は常に自分自身だ。悪いやつがどんな存在であるか論じても憎しみが増幅するだけだ。有害な他人の気持ちを推し量ろうとする過程で生まれる害毒のようなものが憎悪である。逆に自分に危害を加える存在を無理に知ろうとしないならば、私はそれを憎むことはないだろう。

 他人の人格や精神を問題にするべきでない。相手の心を認めない姿勢が憎しみの芽を摘むことになるだろう。人の気持ちを考えましょう、などと世間ではよく言われるが自分を不当に虐げ使役するような悪党の気持ちなど考えるだけ時間の無駄だ。なによりもそれによって私の内面に憎悪や怨嗟の情が惹起されるだけなのだから、これは百害あって一利なしだ。益のない、害しかもたらさないことなどしないほうが賢明であることは言を俟たない。

 考えるだけ無駄、ということは世の中にはたくさんある。自分にとって単に有害なだけの人間の心や精神、人格や人間性などはその最たるものだ。他人の人格を問題にすれば、私は余計で生産性のない感情に囚われるだろうし、それはその悪辣な人間が私に為す仕打ちよりもよほど私にとって悪い影響を及ぼすだろう。

 自分を嘲笑し、軽蔑し、詐取・掠奪し、危害を加える人間たちの気持ち、そんなものは一顧だにすべきでない。しなければならないのはそういう手合いからいかに距離を保ち、それらの影響下から遠いところに自分が達するかということだけだ。