書き捨て山

雑記、雑感その他

愛と感謝

 お前には感謝する気持ちがない、と母親に2、3年ほど前に言われた記憶がある。母は私が両親をはじめとしたあらゆる他者に対して感謝の念を持ち合わせていないから、人生全般に行き詰まっているのだろう、というような趣旨のことを私に言い放ち、当時私は母の発言に不愉快な思いをさせられたのを覚えている。

 私は他人に感謝など一切しない。何故ならば、感謝というのは愛に対する返礼であり、愛は人の世には絶対に存在し得ないからだ。人間と人間との関係性におけるあらゆる営みには打算や思惑が絶対にあり、そこに愛が介在することなどあり得ない。だから愛なき世界には感謝も存在することもなく、それを念じることも口に出して表明することも有り体に言えば胡散臭い嘘っぱちの発言、挙動でしかない。

 愛は神が一方的に人間に与えるものであり、感謝はそれを受けた人間が神に捧げるものである。つまり愛も感謝も神と人間の間柄においてだけ成立するのであり、それらは人間同士で融通し合う何かではない。どんな関係性においてもどんな状況であっても、人間の間には愛も感謝も厳密はありえないのだと私は断言したい。

 私はこれまで人を愛せないことと誰からも愛されないことを気に病んできた。また、他人に心底感謝することも能わぬ自分に嫌悪の情を抱くこともままあった。しかしそれらの類いの悩みも所詮、愛や感謝という代物が人の世に何らかの形で存在しうるという誤った前提がもたらす誤謬でしかない。ありえないことが現になかったと、煩悶することは単に愚かである。無いものは無いと断じ、期待や希望を廃するのは正しい道である。そこから外れるのは迷妄の道である。

 愛は無条件かつ無制限の恵みである。それを与えられる人間がこの世の何処にいるだろうか。どれほどの聖人、大人物がそれを持ち、他人に与えるというのだろうか。私はこれまでそのような人間と邂逅したこともなければ風の噂で聞き及んだこともない。加えて、自分がそれに類する、若しくは準ずる人間であるなどとは毛頭思わないし、将来的にその手の人種に成り得る兆しなどとも欠片も持ち合わせてはいない。

 感謝はその愛を受けた上で心の内奥で惹起する感情である。愛が人間の世界において絵空事でしかないならば、厳密な意味での感謝というのもまた然りだ。礼儀礼節や便宜上感謝の言葉や態度を表明するべき、若しくはそうした方が望ましい状況というのは無論あるだろうが、その際に述べられる言葉や態度は上辺だけの見せかけだけの感謝でしかない。人の世に愛が存在し得ないように、感謝の念やそれに基づいた言動も原則ありえないと言える。

 この世の全ては有限である。時間も富も無限に持っている人間など存在しない。たとえ世界一の大富豪でもその所持金は無尽蔵ではないし、どれだけ暇を持て余している自由人でも永遠に生きながらえるわけでもない。我々は財産にしろ余暇の時間にしろ全て有限にしか所有してないし、それらの有形無形の別なく限度ある代物を他人に提供するのだから無制限だの無条件だのと言う話には絶対にならないのは自明だ。

 これは心理であり変えることも目を背けることも不可能だ。その前提を正しく認め、その上で他者に金や時間、労力の類いを提供するのだから、その際には必然的に条件や上限を設けた上でそれを行うことになる。その仔細がどうであれ、少なくとも無条件かつ無制限に無限の富、時間、労力を他者に差し出せるはずがない。それができないならそれは何であれ愛と称せられるべきではない。

 人間が他者に何かを明け渡すとき、略奪や搾取という形を取らないのであれば、それは条件付きでの提供となる。それは良くて一対一のギブアンドテイクとなる。現実にはギブとテイクは等価ではない場合が常であり、だからこそ人間関係は私たちの悩みの種となる。もし仮に労働者と雇用者の立場が完全に対等で、労働者がどんな場合においても拘束時間や労働力に見合った正当な報酬が得られるなら、我々の社会で労働を忌避するものなど相当少数になるだろう。しかし現実にはそうではなく、またそれを解決する手立てを持つ者も現状現れていないのは言を俟たない。

 世間では労働以外のシチュエーションでも等価交換が原理原則になっている取引は極めて稀であり、仮にそれが成立していたとしても、結局のところ私たちは他者から何かを引き出すには条件を満たすだけの何かを差し出すか、するかしなければならない。ギブアンドテイクという関係には愛はないし、ギブとテイクが釣り合っていたとしても、その関係性には愛などない。

 自分にも他人にも愛など決してありはしない。自分が他人に理由も打算もなく、無条件に無制限に何かを提供しようと思わないように、他人もまた自分にそういう施しなど原則しないとはっきりと認識するべきだ。そして愛がないという現実を自明で当然のことであると考え、それについて悲観したり罪悪感を抱いたりするべきではない。仮に人間以外の生き物の場合であっても、自分のことを度外視して他の個体のために尽くしたりはしないのだから、「愛がない状態」は他ならぬ自然の摂理であり、それに従って全てが執り行われる有り様について何かを思う必要など本来ないのだから。

 自分が他人に為したことを愛と称することはできるし、謝意を言葉や行動で示すことも可能だ。しかし、それらはそれであるように見せかけたり振る舞ったりしているに過ぎず、それそのものではない。装ったり見せかけたりしたところでそれは本当たり得ないのに、何故そうしなければならないのだろうか。何故そうすることに固執するのか。

 方便としての愛や感謝は世間にはある。しかし方便は方便でしかなく本質にはかすりもしない。人が生きるためには本当でないことも場合によっては有効だったり有益だったりすることはままある。しかし、そうでないならば方便に何の価値があるだろうか。それは大切でもなければ大事でもない。ならばそんなものは捨て置けばいい。無尽蔵の施しや恵みなど頭の中だけの妄想でしかないのだから。

 愛せないことも愛されないことも自然であり、それを悲しんだり罪の意識を感じたりする必要は全く無い。愛は天から人に一方的に与えられるものでしかなく、万人はそれをただ受け取るだけだ。

 感謝とはこの神と人間の関係性を意識することに他ならない。特別な儀式や供物は不要である。感謝とは愛を感じ取ることであり、恩寵や天佑を自覚すればそれで完了する。そこには難しい理屈や面倒な工程が入り込む余地など一切ない。私は天から愛されていると声高に叫ぶだけで十二分に神に返礼したことになる。

 重ね重ね言うように人の世には愛も感謝もあり得ない。それらを声高に唱え、振りかざすものは自覚があろうがなかろうが詐欺師である。我々は金銭的な見返りであれ行為であれ、代償なしに他人から何かを得られはしないのだと努々忘れないようにしなければならない。

 人格や情緒の欠落によって何かを愛せないとか感謝できないなどと考えるのは自他共に誤謬である。この世の実相を正しく見据えれば自然とそうなるのだから、そこに煩悶する材料など何一つありはしないのだ。しかしどうも世間一般でまかり通っている通念と、ここで私が述べた見解との間には著しい隔たりがあるようだ。それに絆されたり流されたりしないよう、常に意識的に生きなければならない。そんな自戒をもって本稿の締めくくりとしたい。