他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

完了

 愚痴をこぼしたり他人に胸中で毒づいたりするとき、人の内面では一体何が置きているのだろうか。私たちは不平不満を抱いたり、傲慢で身勝手な悪人に危害を加えられたり財産や労力を掠奪されたりすると、当然穏やかな心持ちではいられなくなるが、そんな悪感情を抱いたところで自分に何の益もないこともまた承知のはずである。何故人間は機嫌を損ねたり不遇を託ったりするだけで現状に甘んじてやむなしとしてしまうのだろうか。そうしてしまう精神の作用について内省してみたくなった。

 他人などの外的要因によって自身が窮状に置かれているとはっきりと自覚しているのにもかかわらず、何故私たちは具体的な対処をしようとも思わずに被害者意識を抱え込み自己憐憫に耽るだけで済ましてしまうのか。その理由としては、その手の情動をコンテンツとして私たちは自分の内側で「消費」してしまっていて、そういう目に遭うことを目標にしているフシがあるのではないだろうか。

 被害者として憂き目に遭っているかわいそうな自分、そしてその自己が被っている悲惨な状況とそれによって惹起する悲嘆や憎悪などといった情緒……。これらを人間は映画を鑑賞するように内心では楽しんでいる面があるのかもしれない。いや、そのように考えれば何故私たちは不遇や理不尽の中で安住できてしまっているのかという疑問をすんなりと解決できしてしまう。我ながら不本意ではあるが、自分自身思い当たるところもないではない。私たちは己の人生をまるで他人事のようにコンテンツして享受、鑑賞、消費しているのでは?

 言うまでもなく私たちは自分の人生の当事者であり主人公だ。にもかかわらず、心の何処かでは他人事のように自身の生涯を見なしている部分がある。というよりも、そうでなければどうして悲惨な境涯に「仕方がない」などと言ったり思ったりできるだろうか。私自身生まれも育ちも下の下であるが、どうにもならないと自分の人生に対して自暴自棄になるとき、思い返してみればまるでテレビゲームのなかのキャラクターでも見ているかのような余所余所しさでもって自身の生を放擲していたような感がある。

 苦しみ嘆いた時点ですでに私の中では全てが完了している。己の人生、ひいては生涯全てをコンテンツとして消費するという態度で生きるなら、そうなって当然だ。哀れな自分、可哀想な私、その惨めさをまるで遊びに興じるかのように受け止め、感じ取って、それでおしまいというわけである。それで良しとしてきた浅薄で愚鈍な自分自身の性向は唾棄されなければならない。

 苦心や煩悶、懊悩といった悪感情を堪能することがいつの間にか目的になってしまうのは何故なのだろうか。人生で如何ともしがたいことは山ほどあり、脱することができない苦境や絶望と言うものも数多ある。それらに対して自分自身の心を納得させるためのある種の防衛本能としてそのような精神的な作用があるのだろうか。被る理不尽や不条理から自分を守るため、自身の無力さを正当化するためにこのような試みが無意識の内に為されるのかもしれない。

 しかし、それによって私たちは何を得るというのか。精神的な安定など所詮は気休めにすぎない。私たちは心の安寧を犠牲にしても、己の苦境をはっきりと自覚し、それから脱するために何をすべきか考え、それを実行に移さなければならない。自分の人生をコンテツのように消費し、不平不満を抱いたり不遇を託つだけで「完了」させてしまうなど以ての外だ。

 辛苦に喘ぎ、自分の不遇を嘆くだけでそれで全てを終わりにしてしまう人間の本心はだいたいこのような感じである。少なくとも私はこれまでの人生で己を奮起扠せられなかった大本の原因がこのような精神構造に由来していると確信している。自分でも気づかない内に、苦しむことが目的となりそれによって一切が完了してしまっている。嘆き悲しむことで、自身を悲劇の主役として位置づけ自分を慰撫することが目標でありゴールとなってしまっていた。

 どの段階、どの地点でもって完了とするかで物事に対する姿勢は全く変わってくるだろう。私は最近になって、職場や家などで苦しめられている状況のなかで、自身を被害者として位置づけ己を憐れむことが目的化してしまっているのだと喝破した。思い返せば、この一事が私を足踏みさせていた。苦しみや哀しみの渦中で己を哀れみ、そこから脱却できないことを正当化して人生を空費してきた。

 苦しむ自分を憐れみ、被害者として振る舞い、そんな人生をコンテンツとして消費することが目的なら、内心では苦しみを礼賛しているということになる。仕方がないと諦められる心理の背景にはこのような自己憐憫と正当化があり、それらの根底にあるのは現状維持を図る怠惰な精神だ。それを今まで掘り下げて考えることもなく、自身の気質を直視し、向き合うこともしてこなかったように思う。

 自己憐憫のために人生を費やしてきた。それが目的であるがために私は苦しい境涯を変えようともしなかった。それどころか私は心の深いところではそれを是としていた。そのことに気づくのには、正直あまりに遅すぎた感がある。これまで自分が悲惨で屈辱にまみれた人生を好転させるために発奮できないのは自身の怠慢にあるとばかり思ってきたが、本稿で述べてきたような本当の理由や原因があるとようやく明確に知ることができたのは大きな収穫であった。

 このような視点を得たことで、自他ともに、嘆いたり悲しんだり、不平不満をこぼすだけで何もしない人間の様相への理解が一気に深まった。自己憐憫に浸る人間は己の苦しみや哀しみ、ひいてはそれらを被る自分自身をコンテンツとして享受しているが故に、それらを浴するためにむしろ率先して酷い境遇を選びそこに安住する。不幸な人種はそうなるべくしてなっているのであり、またそれは彼らにとっての潜在的な願望の発露によるものでもある。

 不幸から逃れるには、それを望まないことだ。そこがまず第一の出発点であるにもかかわらず、私たちは多くの場合、その地点に立つこともできないし、それができてないという自覚を持つことも難しいのが現状ではないだろうか。それこそが諸悪の根源であり、余人の多くが不幸せであり続ける原因であるといえる。

 悲惨や災厄を肯定し称揚する心根を捨て去るには畢竟、飽きるしかない。どんなコンテンツもいつかは飽きるように、自己憐憫への耽溺もまたいつか辟易するときがやってくるだろう。逆に言えば、心底うんざりするまで人間は苦しみを被り続け、俺の不遇を嘆き続けるのだろう。私たちが依然そうであるならば、我々は未だ苦しむことに飽きてはいないということなのだろう。

 これは偏執や依存の全般に言えることだ。私たちが何かを手放すことができるのはそれに懲り懲り、飽き飽きする段になってからだ。腹の底から辟易してはじめて私たちは何かと袂を分かつことができる。それができないならば、未だその域に達していないのである。

 悲嘆や呻吟、憤懣や怨恨、怨嗟、慟哭……それらの一切から遠ざかることが私の本懐であるはずだ。だから私はそれらに心の底から辟易していなければならないということになる。嫌気がさすまで苦しんだ自負は一応はある。だからこれからはそれを常に念頭に置き、もうたくさんだという思いを携えて万事に臨んでいきたい。あらゆる憂き目に遭うとき、それでもって「完了」してしまうことがないように。