他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

彼岸

 霊魂とは肉体を超越した自己同一性だ。人間はたとえ体が老い衰え、滅び去っても自分が自分であり続けることを望む生き物である。余人の大半は自分自身がそのままの状態で未来永劫存続して欲しい、そうであることが望ましいと思うようだ。私はそうではないが、それが一般的な人間の願望であるということは理屈では理解できる。

 死後の世界が洋の東西を問わず信じられているのもそれに付随するのだろう。不滅で無窮の自己としての霊魂が一時的であれ恒久的であれ身を置く場所が当然必要となり、それがあの世と呼ばれる所なのだろう。霊魂を信じるならばあの世もセットで存在しなければならない。どちらかがあってどちらかがないということは考えにくいのだろう。

 自己同一性への希求は肉体や物理を超えた人間にとっての強い欲求だと言える。自分が自分のまま在り続けたいという願いの大きさは考えてみれば凄まじいものだ。たとえ不可視かつ不可知な領域に属する概念や言葉を用いなくても、アイデンティティを保つために日常的に夜の殆どの人間がどれほどの労力を割き、また腐心していることか! かくいう私も自覚もないまま己を己たらしめるために数多くの骨折りをしているのだろうか。

 何故人間にとって自分が自分であり続けることが大切なのだろうか。生存上槽であるほうが好ましいからなのだろうか。自己同一性が損なわれかねない時に感じる恐怖は、どのような理由で起こるのだろうか。考えてみれば甚大にして深淵なテーマである。

 もしも肉体が滅んでも霊魂が不滅であれば、人間は死してなお自分で在り続けることになる。そして死後の世界に移るにしろすぐに生まれ変わるにしろ霊格は永遠に保持され、霊的な意味で未来永劫私は私であるということになる。その前提によって立つならば、私たちは肉体的な享楽や現世利益に固執すること無くあの世での安寧や転生した後の境遇を見越して生きることになり、信心深い生活をしなければならなくなる。霊的な見地に立った倫理や道徳はこのような過程によって成り立つ。

 しかし、仏教においては彼岸という概念がある。これは死んだ後あの世に行ったり別人あるいは別の生物に生まれ変わったりするというモデルとは全く異なる考え方である。死後の世界や転生後の待遇といった類いのものは霊的主体としての自分が肉体を超えて永続するという前提に基づく、これは彼岸と対になる言葉で例えれば此岸であろう。この世から離れても依然「我在り」という意識に拘泥し、自己同一性への執着を捨てられないならばこの世ならざる場所に在ったとしてもその状態は厳密には「彼岸」とは呼べないだろう。彼岸とは言わば悟りの境地であり、私が私である限り至ることはない。

 彼岸に至るには私であることをやめなければならない。一個人、一個の霊格としての己、即ちアイデンティティを手放さなければ例え死んだとしても此岸の域を出ることはない。私たちは己自身であることをどのような形であれ望むが故にそれに縛られ続ける。あの世も来世もスピリチュアルな牢獄に過ぎない。

 しかし、世の大半の人間にとってそれは問題ではない。世間では自己同一性への固執は物理法則のように疑問に思う余地のないことと見なされている。それを捨て去り、遠ざかりたいと願うのはよほどの奇人変人だ。そして他ならぬ私自身がそれである。

 変身願望や成長や進歩への志向では彼岸には至れない。姿形や霊的ステージといった類いのものがどう変容したところで「私が私であること」への偏執や執着という点では何も違いがなく、余人の殆どが抱く変わりたい、より良くありたいという願いはその域を出ることはない。

 それに何か問題があるかといえば、全く無い。むしろ人としての正しい在り方だと言ってもいいくらいだろう。それに疑問を抱くのは社会不適合者の烙印を押されても文句を言えないのではないか。しかし私は己が己であり続けることに何故人が固執するのか、頭では理解できても心情的には良く分からないし、可能ならば何者でもない状態を志向したいと願っている。要するに彼岸に至る道を求めている。

 だが、彼岸を望む私もまた私であり、それもまた捨て去らなければなければならないらしい。そこがこの手の分野にかぶれた凡人にとっては最大の壁となる。私は自分が自分でなくなればいいと考えているが、今の私が滅却したところで別の自分が生み出されるだけである。自分という代物は放擲しても唾棄しても心の中で無限に生み出される。どのような私であれそれが私であるならば根本的には何一つ変わらない。いかに私は無私、無我、忘我没我の妙境に到達し、それを保ち続ければいいのだろう?

 これは達するとか至ると形容している時点で望みが薄いのかもしれない。彼岸とは個我の消滅であり無念無想の状態である。しかし、そこに到達することを希求し志向する限り永遠にそれは成されないというのは何と皮肉な話だろうか。

 今生で立身出世を成し遂げ栄耀栄華を極めても、来世で恵まれた境遇に浴しても、死んだ後に極楽浄土に安住しても、「私であること」からは逃れられない。アイデンティティがどうであれ、どんな体験をどれだけ経験したところで、その一事は不変であり、それを潔しとしないならば何であれ瑣末なことだ。彼岸を望み、個我を放棄することが人生の目的ならば、生涯なにを獲得しようが死んだ後に高待遇を受けようがどうでもいい。

 自己同一性が何らかの形で担保されれば人は安心する。己を己たらしめる何かが明確であり続けるなら人は生存上様々な面で都合がいいということを私たちは本能的に知っているのだろうか。それから逸脱しようという暴挙は、人によっては全く理解できない欲求なのかもしれない。私個人としては、どんな形であれ私が私であること自体が窮屈に思えてならない。自分自身を肉体や物理の面に限らず、精神や霊魂の次元においても放下したい。しかしそれのために何かを思い、為したところで先に述べたように落第となるのだから難しい。

 しかし、何もしなければそれで良いかと言えばそうでもない。何もしないことを選び、拘れば即ち「何もしない」をしている状態となり、それにもまた執着が生じる。如何ともしがたい。それを志すことは、何者かになろうとすることや何かであろうとすることと比べて遥かに厄介な試みだ。

 完全に己を捨て去ることは個人的な目標として置いておくとしても、霊魂という概念の正体は肉体を超越した自己同一性だという見解には一考の価値はある。自分や他者の心について考察する時にこの見地は役に立ちそうである。自他共に精神活動や情緒情動の類いを分析するときには、自己同一性への執着という観点を踏まえれば深く洞察できるかもしれない。

 我々は自分自身を確立し、保持することに無意識に大変こだわる。ときにそれが様々な弊害を生み、人生を難しく苦しい旅路にする。霊的な探求や修練の最終的な目標地点をどこに置くにしても、我在りという視座に固執するがゆえに我々の生は常に困難を極めるという一事をよくよく理解し、忘れないようにすれば人生は少しは生きやすいものになるのではないだろうか。

 彼岸やそこへの道程が何であれ、我々の辛苦の根源は他ならぬ自己同一性にある。それを完全な意味で手放せなくても、それが我々に有害だということだけは念頭に置きつつ生活していきたいものだ。