書き捨て山

雑記、雑感その他

ダメージ

 人間は精神的に傷を負うとき、常に能動的である。というよりも自分の心が傷ついたという思いがあってはじめて人間は精神にダメージを負う。外的な要因や他者による何らかの働きかけが決定的な要因になることは絶対にない。人間が精神的な打撃や痛手を負うときには、一つの例外もなく自らが自らを傷つけている。

 無論、肉体的な損傷は別だ。体にできる物理的なダメージは心の問題ではないし、基本的には何かによってつけられるものだ。病は気からという言葉はあるが傷や打撲などといった代物は気の持ちようではどうにもならない。体の傷と心の傷は一緒くたにされることがままあるが、これらは全く別のものであると認識されなければならない。

 人間の精神に何らかの作用をもたらすことができるのは最終的には当人のみである。他人の手によって何かをされたとしても、それは何であれ間接的な影響を与えるのみだ。それはきっかけに過ぎず、根本的には自分の認識によって人間は心に傷を負うようにできている。

 環境に敗北したと思ったときに人間は挫ける。人は自分の精神が傷つけられたと感じたときに心にトラウマを抱え込む。それらのどちらも当人自身が「自分はダメージを受けた」と認識してはじめて起こる内的な現象だ。どのような状況下でどんな人間の悪意でもって、どれほどの仕打ちを受けようが、最終的に自己が損なわれた、傷ついたと見なすことで人は心に傷を負う。

 全ては自分自身によっており、環境や他人など実は一切関係がない。私たちにとっての世界とは自分の頭の中の思考や感情が大半を占めており、少なくとも精神的に消耗したり打撃を受けたりするかは完全に己の裁量によっている。それを意識できなければ、人間は外界に振り回されて生きるしかなくなる。内面の葛藤やわだかまりの本当の原因が己にあるという視点を持たなければ我々は永遠に本質に至ること無く無用な苦しみを甘受し続けるだろう。

 肉体的な傷はどうにもならないが心のそれは自分次第で負うか負わないかを決めることができる、最終的な決定権は自分自身がどんな場合においても握っているということを肝に銘じなければならない。それを忘れたとき、人は被害者となり尊厳を奪われ屈辱を味割ることになる。内面の主導権を他人や外部に明け渡したときに私たちは社会や世間、この世界に対して敗北を喫する。「私は傷ついた」と言ったり思ったりするのはそういう意味で禁忌だと言える。

 これは自分を痛めつけるのは本質的には常に自分自身だということでもある。求めるものが得られない、忌むべき事柄が自分に降りかかる、嗜虐的な他人から損害を被る……これらの出来事を根拠にして私たちは自分で自分にむち打ち、ダメージを受けたと騒ぎ立て、己で作った傷を愛でたり見せびらかしたりしている。加えてそれを至極当然のことと見なして疑問を抱くこともなく死ぬまでこの愚行を延々繰り返しているのだ。いくつになってもどんな環境においても私たちは他ならぬ自分自身を能動的に加虐しているという事実がある。

 人間の人格や精神が繊細で傷つきやすいなどと最初に言い出したのは一体何処の誰なのだろうか。人は心に傷を負いうるという前提で生きなければならないと誰が最初に言い出したのだろうか。そうでなければならないなどという決まりは言うまでもなく存在せず、私自身そうでない方が生きやすいと思う。誰の手によっても、どんなことがあっても自分の精神は堪えるたりはしないという確信を持ってもいいのではないか。というよりももってはならないという法もないのだが。

 私はこれまで生きてきて数え切れないほどの憂き目に遭ってきた。敵となった他者は星の数ほどいたし、どんなときでも自らを被害者だと見なして常に「傷ついて」きた。しかしそれは己に自ら鞭打つような自傷行為でしかなかった。自分は脆い存在だと喚きながら自分で痛めつけて作った傷を見せびらかして自己憐憫に浸り続けた、ただそれだけの人生でしかなかったように思う。

 内面や精神という面に限れば、人間は「傷つく」ことはあっても「傷つけられる」事はありえない。人はどんな時も能動的に自らの意志や決定でもって傷つく。それを肝に銘じておけば私たちは他人の悪意や害意に翻弄されることはなくなる。それは絶対に起こり得ない現象となる。

 「お前は弱く、他人からの影響を多分に受ける存在だ」思い返せば何者かによってずっとそんな刷り込みをされていたような気がする。それは両親や教師などといった権威付けられた他者はもちろん、メディアなどを介した間接的な存在によるものから常に受け続けたマインドコントロールであった。人を馴致させるには畢竟、己を弱く移ろい易い存在だと自認させるのが一番手っ取り早いということなのだろう。

 強くある必要はないが弱いのは問題である。また、肉体が頑健かどうかは生得的に決まっているが精神が脆弱かどうかは後天的な要素による。打ちひしがれ、くじけるかどうかはいつも自分自身が判断する。それを忘れ去ったとき人間は他人に流され操作されるようになる。それだけは命に変えても避けなければならない。

 ずっと他人のいいようにされてきた。それは私が己を弱いと信じ切っていたからに他ならない。私を利用し搾取し、時間や労力を掠奪していった、あるいは目下それらをしている連中の手によって私は被害を被っているのでは断じてない。私を苦しめ辱め続けていたのは他ならぬ私自身であった。それに気づき、意識的でなければならない。自分を嗜虐している己自身の存在とその所業を。

 この段になれば最早他人などどうでもいい。己を苦しめている原因は常に自分自身だと断ずることとその姿勢を崩さない意識だけあれば十分である。その心構えさえあれば精神を損なうことはありえない。これによって人は絶対安全圏に常に身を置くこととなる。

 何人たりとも私を痛めつけることも損なうことも、害することも能わない。それを前提とするだけで人間は無敵である、心の領域に限っては。自分を傷つけるのはいつ、どんな局面においても自分自身であり、本来一個の人間の精神は絶対に他者の手が届かない場所にある。そんな代物を一体誰が毀損できるだろうか。

 己の精神を損なえるのは己のみ。外界や他者はせいぜいそのきっかけに過ぎず、自身の本質は内面にある。どんな苦境や凶事に見舞われても人間に求められるのは唯一つ、内省である。己自身を見つめる目を失わなければ人は、自身を虐待している愚行を見逃すこともなく、それに及ぶ自らの振る舞いを正せるだろう。大切なのは自分の内側で何が起こり、自分が自分にどんな仕打ちをしているかを自覚し、意識し続けることだろう。

 自分を取り巻く環境や他者から「なんとなく」影響を受けることで人間は脆弱になる。自分を弱いと見なした瞬間、人間は打ちのめされる。逆にそれをしなければ精神的に屈服することなどありはしない。そんな姿勢、態度を維持し続けることで私たちは心に傷を負うことがなくなる。

 「精神にダメージを受ける」という奇妙な現象は完全に一人相撲である。傷つく者とと傷つけられる者は同一で、それ以外の登場人物は実は一人もいない。これが人生の実相であり、私は己を後生大事に守るふりをしながら自身を痛めつけ、またその所業に自覚を持つこともしない。そして無用な苦しみに終生呻吟し続ける、大本の原因を知ろうともしないで。

 少なくとも私個人は、それに終止符を打つ。私はもう傷つかない、何によっても。