壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

捨身

 私は何かにつけていろいろな事柄を恐れてきた。私が恐れる対象は大抵、金銭や機会の喪失などといった事柄についてだった。そしてそれを婉曲的に暗示するものや間接的に自身をそれに近づける事象などにもまた恐怖を抱き続けてきた。そしてとりわけ死は究極的な喪失であり、落命に至らなくても様々な形で肉体や精神を害することやそれについての懸念もまた私を絶えず戦慄させてきた。そんな懸念や不安を抱く材料はこの世に満ち溢れているし、私の人生は常に恐れとともにあった。

 しかし、果たして私は死ぬのだろうか。それは自明であり疑いようもないことだとばかり思ってきたが、それについてこのごろ疑わしく思うようになった。死ぬということは生まれてこなければならない。生まれてきたという事実や前提があってはじめて人間は死ぬことができる。

 しかし、私は一体いつ生まれたというのか。肉体的に生まれ落ちた日をもって自分が「生じた」とするのは短絡的過ぎはしないだろうか。生まれた瞬間から自我や意識があるというならば話は別だが、人間は誕生してから物心がつくまでの間には数年はかかるし、その人格も芽生えてから永遠に不変であるというわけではない。とにかく肉体即自分という前提には個人的には首肯しかねる。肉体だけをもって自己であると見なすことには私は反対の立場を取りたい。

 では精神や心、霊魂といった代物が己の本地なのか。私はこれにも疑問を抱かざるをえない。心変わりという現象は誰にでもあるだろう。昨日まで好きだったものがある日突然好きでなくなったり、好ましかったはずの人物が一瞬で仇敵となったりすることは日常茶飯事だ。そんな自身の内面を顧みれば心や精神、人格といった代物が全く盤石でも確固たるものでもないと否が応でも気付かされる。肉体は儚く、精神は移ろう。そのどちらも私自身、私そのものと見なすにはどうしても足りない、十分でないという感がある。

 私は何故私なのか。私は何をもって私なのか。己の拠り所はどこにあるのか。これらは月並みな問いではあるが人間の精神を狂わせかねない一大事だ。そしてこれらについて誰にとっても明白で客観的に正しい答えなど存在しないということは更なる大きな問題である。にもかかわらず私たちは日常的な瑣末事や生活上の諸事に忙殺され、その手の答えのない、しかし本質的かつ根本的な疑問に向き合うことをせずに生きているのが実情である。

 私たちは己が何者かを知らぬまま生きている。自分が何なのか分からない癖にそれが死に、滅び、損なわれ失うということについては何故か確信している。これはよくよく考えてみれば甚だ滑稽だ。知りもしない、分かりもしないものが無くなることを一体なぜ恐れる必要があるのだろう。それをする前に失いうる「それ」についてはっきりと認識するなり定義するなりすべきだ。しかしそれは先に述べたとおり無理な相談だ。

 知り得ないものを自分だと思うのは単なる錯覚ではないのか? 近頃はそう思えてならない。得体の知れない、定義不能の「自分」をなぜ私たちは後生大事に守ろうとするのだろうか。「私は死ぬという」命題は、私は生まれて目下生きているという前提があって成り立つが、その私は何をもって私なのかという疑問には答えが存在しない。

 定義不能のものは確固たる存在だとはとても呼べない。そんなものが滅びたり失われたりすると考えるのは迷妄でなければ何なのだろう。肉体も精神も脆く儚い。それらのどちらも自分自身だと見なしたくはない。いずれ必ず衰弱して死滅する肉体や、状況に応じていくらでも変じる心の両方とも私でないとするならば、私は心身のどちらにも依拠していない存在だということになる。自己の究極的な本質は不在であり、端から「ない」ものが一体どうやって損なわれたり失われたり、ましてや死ぬというのだろうか。生まれていないものは殺すことができない。それこそが人間の本質だとするならば、私たちにとって本当は死など恐るるに足りない幻想にすぎないのかもしれない。

 無論私も老いるし怪我もするし病気にもなる。そして遠からず衰えてくたばる運命にあるがそれは「私の肉体」であって私の痛みや苦しみ、滅びを意味しない。肉体即自分であるという前提や定義が苦悩の源であり、それが覆ればそれは最早問題ではなくなる。精神もまた然りである。「形而下の私」としての肉体と、「形而上の私」としての精神のどちらも自分と等号で結ばれないとするならば、それの変遷についてはもう一喜一憂する必要など無くなる。

 このアプローチによって苦痛が消えてなくなるわけではない。しかしこれにより私たちは、苦痛を被る立場からそれをただ観察する立場に転じる。私にとって心身の消耗や老衰は最早私事ではなくなり、辛苦の当事者としての立場から身を引くこととなる。私はどんな形でもなく、どんなところにもいない。私は私であることから遠ざかり、己を手放して生老病死と縁を切る。私は自身が生まれる存在でも死ぬ存在でないと気づくに至った。

 既に己の心身はともに私とは無関係だ。肉体的な死は私の消滅を意味しない。いや私は初めから無いのだから滅することはできない。存在しないものは壊すことも痛めつけることも不可能だ。私は「ない」が故に不滅であり、永劫不朽の存在だ。

 私の骨よ、私の血よ、私の内臓よ、私の肉よ、私の皮よ、私の脳よ、私の感情よ、私の思念よ、私の思想信条よ、私の霊よ魂よ、私でありながらも私と呼ぶには値しない全てのものよ。それらの全てに別れを告げる。それらはもう私ではない。

 痛みよ、苦しみよ、飢えよ、渇きよ、憂いよ、煩いよ、悲しみよ、憎しみよ、妬み恨み嫉みよ、恐れよ、虚しさよ、心の中で生じる全てのものよ、私はそれらの全てと縁を切る。それらはもう私ではない。

 自分とは無関係なものを人は大切にはしない。自分と縁のないものに固執する人間など存在しない。自分でないものならば簡単に捨てられる。私は自身の肉体や精神の変移や消滅には頓着しない。よって私は私が死ぬことを恐れないし、それの遠因たりうる全ての喪失への懸念もまた放擲できる。

 私は己に対して他人として振る舞う。私は私でありながら私に対して他者でもある。この矛盾が成り立つとき、そこには深刻さがない。肉にも心にも執着がなく、拘泥せず、シリアスのない自由と気楽さだけの境涯に私は到達する。

 恐怖を克服するには失うことを厭わないようになるしかない。そして究極的な喪失は死であり、それを超越することで本当の意味で人は恐れから解放される。富を失い、心身の安全を脅かされ、体を損ない、死に至る。その過程を恐れない人種というのは結局のところ、捨て身になった人間だ。逆に一個の人間としての「私」に固執して固持しようとする者は永遠に恐怖や不安から逃れることはなく、その者は常に死にうるし、また遠からず死ぬ。

 私の肉体、私の精神、私の痛みや苦しみ、それらの全てに対して、もうどうでもいいという姿勢、要するに捨身の振る舞いによって人は死ぬことや恐れることから解放される。恐れおののき、懸念や不安に囚われて生きることに辟易した人間は、自分自身を捨て去るという決断に踏み切る必要に迫られる。そしてそれをすることでしか畢竟、私たちは救われはしない。

 自分自身から離れ遠ざかることで私たちは死を超越し、永久不滅にして完全無欠の「何か」となる。それは仏教的な言葉で形容するなら大悟や成仏といった状態なのだろうか。それについては未だはっきりとは言えないがとにかく捨てること、遠ざかること、また手放すことは重要だということだけは確信を持って言うことができる。