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書き捨て山

雑記、雑感その他

矛盾

 自由とは矛盾の肯定ではないか? そんなことがふと思い浮かんだ。自由が欲しい、自由になりたいと念じたり言ったりすることは誰でもするだろうし、私もまたそのご多分に漏れずそれを欲してきたが、そのくせ自由とは具体的に何か、ということについてはあやふやにしてきた。なんとなく、漠然としたイメージだけでそれを捉え、求め、またそれが得られないことで苦しみ悩んできたように思う。

 矛盾するものが並立する事を許容し肯定することが自由だ、などという言説を私は終ぞ聞いたことがない。また、これまで生きてきてそういう風に思ったこともなかった。にもかかわらず、何の前触れもなくそんな考えを思いついたのは我ながら不思議というか不可解である。しかしそれが何故か妙に腑に落ちる。

 考えてみれば理路整然とした世界に自由を感じない自分がいる。因果律に支配された世界観でこの世を捉え、矛盾のない状態を維持しながら生き続けるというのは改めて考えると不自由さがある。論理的に矛盾のない人生、理屈として筋が通った生涯、それが仮に実のあるものだとして、私たちに多くの実利をもたらしたとしても、そこにはなにかが足りないような感が確かにある。完全に秩序だった世界というものに私個人はあまり魅力を感じない。

 矛盾する理屈や状況が並立し、それが否定されることなく在り続ける状態があるとしたら、なるほどそこには確かに自由があると言えるかもしれない。矛盾や無秩序が否定されない状態が自由だというのは実感として私には分かる。理屈や論理から解放された精神こそが自由の根本であり本質だとするならば、自由を求めるものはその状態を志向するのが筋というものなのかもしれない。

 矛盾がない合理的な世界観また、損得勘定が徹底した価値観に基づいている。それは有り体に言えば、損害をもたらしかねないものを全て排除し、利潤や利益を追求し続ける生き方だ。余人の大半はこのような生き方をしているし、私自身も物心ついたときからそういう風にすることを強いられてきたし、目下そうしている。子供の頃から私はずっと言い知れない生きづらさを感じていたし、「そういう生き方」を礼賛する両親や教師を始めとした周囲の大人の言い分に疑問を感じていた。思い返せば彼らは矛盾のない世界の住人であり、そんな世界の中に私を引き入れようとしていたのだ。そして私はそれに対して違和感を覚えていたのだろう。そんな思いが大人になっても胸中でくすぶり続け、それが今になってようやく言葉にできるようになったというところだろうか。

 ここに書いてある文章も振り返れば矛盾ばかりだ。記事ごとに全く正反対の内容であることは日常茶飯事だし、ひどい場合には一つの文章の中でまるで食い違った主張をしていることすらあるかもしれない。文章だけでなく、私の生活、ひいては人生には自覚できない矛盾が横溢しているにもかかわらず私はそれに気付いていないのではないか。そして、自由という曖昧模糊とした代物のありかも実はそこにあるのではないか? 短絡的に何かを強制されないとか、自分の思い通りになるとか、そんなことではなく相矛盾したものが何であれ成立するところに本来の意味での自由があるのだとしたら、それは私にとっては衝撃的である。

 矛盾の中に自由がある、矛盾こそが自由そのものだ。総設定しながら生きるならば、私たちは理屈や論理、損得勘定などといったものから距離を置く必要が出てくる。理路整然と秩序だった世界、理屈の通った合理的な世界から離れてはじめて人間は自由になる。博愛を説きながら排他的な主張、利潤を追求しながらも損失を厭わない行動、禁欲的でありながらも享楽的な生き方。それが成り立つところにこそ自由がある。自分の裁量で何かができたり、他人に何かを無理強いされないことを自由だとするのは間違いではないが皮相的な解釈にすぎない。

 自由を求める人間が行き着く果てにあるのは矛盾への肯定である。理に適わない生き方にこそ自由があるが、それができる人間は世の中にはそう多くない。それがしたいと思い至ったところで結局のところ殆どの人間は損得勘定や理屈や論理といったしがらみの中で生きるしかないのが現実だろう。しかし、自由というものが本質的に何を指し、それが本当は何処にあるのかを知っているかどうかの違いは大きいだろう。それが分かっていれば自分が何処を目指すべきかで選択を誤ることはなくなる。たとえ道半ばで終わることになったとしても。

 思想の中でも、物理的な状況においても対立するものがそのままの状態で存在できるのが自由だ。それが保たれないところには不自由さがある。嫌っているものを必要とし、憎んでいる相手の生存を許さざるをえない、自由とはとどのつまりそんな奇妙な状態なのかもしれない。矛盾した、合理的でない、筋の通らない事象や事物の中に人間の自由が存する。自由を求めるならば混沌や不条理を肯定しなければならない。

 そう考えるならば、誰にとっても自由というのは好ましいというわけではないということもまた分かってくる。不自由を求め、乞い願う者が実は相当数いるのではないか。そしてそのような人種は、自由を熱望する者とは決して相容れないだろう。不条理の中で生きることをその手の人間は潔しとしないだろうし、秩序だった状況の中で安住することを彼らは望むだろう。

 自由という言葉が何を指し、それがどういう状況に当てはまるのかを明確にしなければならない。そして各人がそれを望む立場にあるかどうかも明らかにする必要があるだろう。不自由さを愛する人間は存外この世には大勢いるし、もしかしたらこの社会の多数派かも知れない。合理や秩序の中で生きることを是とする人種、つまり矛盾を否定する人間は本能的に自由から遠ざかることを内心では願っていると見ていいだろう。

 矛盾を肯定できるかどうかで自由へのスタンスが決まる。これは言い換えれば不条理や無秩序を許容するかどうかでもある。それらを是としない生き方も勿論ありではある。しかし、矛盾に対する積極的な肯定やそれへの追求という道もまた閉ざされるべきではない。向かうところが違う二者はどちらも否定されるべきではなく、重要なのは自分自身の足がどちらに向かっているかを知ることである。

 矛盾即自由、これを念頭に置いてみれば自他ともに自由に対して肯定派か否定派か歴然とするだろう。そのどちらかが悪なのではなく、ただ立場が明確なるというだけのことだ。自由を叫びながらも不自由を志向する人間は当然いるし、もし自分がそういう人間だとするならばそれを自覚しなければならない。

 猫に小判、犬に論語である。それは猫や犬が劣っているとか間違っていると言う話ではなく、単にそれらにとっては小判も論語も不要だし、それを無理強いするのは却って酷というものだ。それは人間にとっての自由という概念にも言えることで、それが要らない人種や、それが害毒になる者も少なからずいる。あらゆる人間にとって万能の良薬というものは存在しない。自由というものもまた然りだろう。

 自由は万人にとっての望みではない。しかしそれを望む者にとっては生涯を通して追求すべきものでもある。それが何であり、何処に在るかを明確にすることはそれに対してどういう態度を取るにしろ不可欠だ。そういう視点が今まで自分には欠けていたように思う。