読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

乱文手記置場

雑記、雑感その他

甘え

 甘えを許さない関係には価値が無いと思う。そして世間において大概の人間関係は無価値であり顧みる必要性がないとも思う。私が本当に望んでいるのは甘えられる関係なのだと今日になってはっきりと自覚した。そしてそれは容易には手にはいらないこともまた自明だと思い知りもしている。特別な店に行って対価を払いでもしない限り、男が甘えられるシチュエーションというのは容易には実現しないのが実情であろう。

 駄目な自分でも許して欲しい、それでもいいと言って欲しい、そうずっと希ってきたが、そのことを明確に意識の中で顕在化するようになったのはつい最近のことである。思春期や青年期を通して私は他人に甘える必要などないと思ってきたが、それは潜在的な本願を抑圧するために必死に言い聞かせてきただけなのかもしれない。

 人間全般などの大きなカテゴリーに敷衍して当てはまるかどうかは定かではないが、私個人に限って言うなら私は非常に甘ったれである。他者に甘えることが私にとって最大にして唯一の願いだったのではないかとさえ思う。その他者というのは有り体に言ってしまえば女性なのだが、私は恥を忍んで白状すると常日頃から母性に植えていたのだろう。それはあまりにも見栄えの悪い明言するにははばかられることであるし、これを書いている最中においても認めたくない思いがある。

 私は両親に甘えられなかった。私は長男だったため、父も母も私を厳しく躾けた。私は家庭は生活全般において辛いとか嫌だとか、やりたくないなどといった類いの意見を表明することはおろか思うことも許されなかった。私は社会的に好ましい人物になり、家という共同体における長男としての役割を冠水できるような人格や精神、加えて経済力や生活能力を備えた人間なるべくして両親にあらゆる一切を無理強いされた。そこには自分の考えを持つ余地など一切なく、また自らが抱いた辛苦の念を吐露する機会も一切なかった。そう考えれば私が母性や優しさといったものに憧憬を捨てされないのも我ながら無理からぬことのように思える。

 実際、男というものは多かれ少なかれそのような傾向があるのではないだろうか。男は社会において容易に弱音を吐いたり甘えたりすることが許されない立場にあり、どのような育成環境を背景にする者であれ本質的に母性を希求し、甘えられる関係性に飢餓感を抱いているものなのではないだろうか。他者、とりわけ異性から得られる優しさや受容といったものを冒頭で述べたように金を支払ってでも得たいという男にとっての望みは、単なる性欲の発露と断ずるにはあまりにも悲痛というか乞い縋るような思いのように思えてならない。

 一般に母親という存在は無条件に愛情を与える存在だということになっているが、果たしてそうだろうか。母親は母である前に女であり人間である以上、たとえ自分の子供が相手であっても無条件かつ無制限にすべての要素を肯定したり受容したりすることは極めて難しいのが現実だろう。母に限らず、家族という共同体は血縁で繋がった関係であるとともに経済的な共同体でもある。そしてそれを存続させる上ではやはり後者としての側面はどうしても無視できず、そのために共同体においては不利益や不都合を与える存在、つまりグズだとか足手まといだとか、社会不適合者だとか穀潰しだとかいった存在は当然否定されることになる。

 母と子の関係においてもその理屈が適応される。たとえ母親でも他者を制限や条件をつけずに愛することなどないだろう。私たちはほとんど一人の例外もなく母親を筆頭に肯定や賞賛、受容といったものが何の対価もなしには決して得られないということを人生の早い時期に学ぶ。そしてその苦い思い出は私たちの深層心理に棘にように突き刺さり、深い傷として癒やされることなく残り続ける。だから人は決して満たされない思いを抱えたまま終生行きていくこととなる。

 私たちは優しくされたいし甘えたいという本心をひた隠しにして生きている。それを明け透けに言うことはあまりに恥ずかしく、また惨めである。愛情が足りないという内的な欠落を表明することは一般的には憚られる。だから私たちはそれを隠蔽し、事も無げに社会で生活しようとする。しかし、それは単にごまかしているだけで、私たちは絶対に満たされることはない。

 他人から愛され、肯定され、受容されるには代償を払わなければならない。自分が無害で有益で、道徳や倫理的に悖ることのない、社会通念や規範に則った人格や精神の持ち主で、心身ともに健全で真っ当な存在であることを公私共に喧伝し続けなければ、私たちは他人から肯定的な感情を受け取ることができない。だからそれを得るために私たちは外面を取り繕い、自分の価値や能力を高めるための努力し、己が値踏みされてもいいように常に身構え続ける。

 言うまでもなく、そこには救いがない。後天的で作為的な努力や、去勢や見えを張って他人から賞賛され肯定され、受容されたところでそれは「本来の私たち」が愛を浴したことにはならない。私たちが潜在意識や本心、腹の底から渇望しているのはありのまま愛されることに他ならない。しかしそれは、人と人の間柄においては到底実現することは能わない虚しい願いでしかない。

 しかし私はそれが問題だといいのではなく、己の本当の望みを知ることが大切なのだと主張したい。願いや望みは叶うかどうかよりみ、自分が本当はどんな願望を抱いているかを正しく知る方が重要だと思う。それを知るためには叶わないという経験を積むことにもきちんと意味がある。自分を突き動かす源泉となる欲求が何であるかを知れば自分が為す行動がどんな本心に基づいているかが分かり、自然に己自身に対しても理解が深まるだろう。

 無条件に優しくされたり甘えられる関係性を他者と築けなくても、自分がそれを腹の底では渇望していて、世の大半の関係性はそれの成就のためには多くの場合有効でないと知れば、他人との関わりにあまり拘泥したり執着したりすることもなくなるだろう。それによってもたらされるのは生きやすさである。

 性別や年齢、社会的な立場などの別なく、どのような対人関係においても無条件に甘えたりすがったりできる関係性を築くことはやはりどう考えても不可能であり、諦めるしかないが、望みを捨てることにより無用な期待を捨てられることは大きい。我々は甘えを許されることは基本的にない。それが許されるのは極めて稀であり、そんな人間関係の希少さを私たちは理解しなければならない。そしてそんな関係を結ぶことができなくても何かを感じる必要もない。第一それはまず我々には手に入らないものなのだから。それが得られなくても悲しむには値しない。

 私たちは己の本当の望みを浮き彫りにし、常に忘れないようにしなければならない。それができなから我々は本来縛られなくていいはずのしがらみに囚われることになる。人間関係における私たちの本願は余程の例外を除いて成就しないものと心得、それを踏まえて他者と関わるべきだ。望みが何であるか知り、それが望むべくもないこともまた知ることで我々ははじめて現実に即した認識を持ち、物事に対して適切な対処が可能となるのではないだろうか。

 満ちることのない思い、潤されることのない渇き、果たされることのない大願を私たちは携え、見失わないようにしなければならない。甘ったれることできない現実に向き合う第一歩は、自分が甘えたいと思っている事を知ることからまず始まるのだから。