他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

中庸

  何事も中庸が一番だ。どんなことも偏りすぎてはいけない。自由を求めたつもりがただの野放図や無秩序に行き着いてしまうとするなら、それはやり過ぎでありそんな状態は「自由すぎ」ということにはならないだろう。私たちが求めているのはどんなものであれ「丁度いい塩梅」の範疇に収まるもののはずだ。先程の自由を例に取ってみるならば、何かを強制されることなく自らの意思に応じた選択が可能であり、かつほどほどに秩序だった安定した状態が私たちが望むそれとなるだろう。

 ねばならぬ、という思いはそれがどんなものに対してであれ人間の精神を束縛し、我々を不自由な状況に追いやる。我々は一切のしがらみに囚われないことを志向するのなら、極端を避ける必要がある。ねばらなぬと叫ばなければならないことも生きる上では多々あるだろうが、そんな場合においても自分がそれに固執し、囚われているということには自覚することが必要である。

 我々が胸中で抱く願望全般にそれが当てはまる。何かを絶対に叶えなければならないとか、思い通りにならなければならないという強迫観念を抱いたとき、それが成就したとしてもそこには苦しみがある。願いが一つ叶ったとしても私たちの人生はそれで大団円とはならず、すぐに次の達すべき地点、超えなければならないハードルが設定される。そしてそれは際限なく続き、終わらない焦燥を携えたまま我々の人生は浪費され続ける。それに虚しさを感じるのは私だけではないはずだ。

 願望実現は主に自己啓発やスピリチュアルの分野においては重視されている。しかし、願うことと叶うことが抱き合わせで語られることについては個人的に賛同できない。我々には言うまでもなく数多の望みがあるが、それが逐一実現するかどうかに気を揉み、それが成されないからといって一喜一憂すること自体が正しくないように思えてならない。

 望み通りの結果が得られないとき、私たちはなぜ失望し打ちひしがれるのだろう。まるでそうする義務があり、何者かに強制されているかのようにお定まりの失意や落胆、消沈の念を抱える内面の現象について、ふと疑問に思う。叶わない願いにも価値なり意味なりを認めてもいいのではないか? 実現しない、成就されなかったという事実や結果にシリアスになる必要などないのではないか? そんな問いが私の中で浮かんできた。

 叶わない願い、達成されなかった望みにも然りと言っても良いではないか。少なくともそれをしてはならないという決まりはないはずだ。私は思い通りになった物事よりもむしろ、成就しなかった願望の方が愛しく感じられることさえある。これはつい最近になって抱き始めた感情であるが、実現しなかった数多の願望や、裏切られた期待の数々を肯定したくなった。我ながら奇妙というか不思議な感覚である。

 叶ってもいいし、叶わなくてもいい。結果に頓着せずに絶えず限りなく願い続ける。これが私が思い至った心境だ。これは私の中では願望実現や自己啓発といった分野における中庸で、絶望にも希望にも振り切れない立場だ。達成や成就などといった結果にフォーカスせず、それをあえて度外視して願い望み続けるという姿勢である。

 叶わなくても構わないというと否定的なニュアンスで受け取られかねないが、それに拘ったり固執しないという意味で私はそれを唱えている。夢や希望が望み通りになるかどうかについて「ねばならぬ」という執着を捨て、なおかつ自分にとって望ましい結果や状況について夢想することは放棄しないというスタンスだ。

 希望の対極にあるのは絶望であるが、願望の実現の可否について執着しないということは絶望を意味しない。願うことと叶うことは全く別の話でありこれらはそれぞれが関連性はあるが独立していると私は考える。思い通りになりならそれは無論喜ばしいことではあるが、そうならなかったとしても望みを修正するなりすげ替えるなりするだけでよい。それくらいの気持ちで願いという代物に臨んだほうが精神衛生上好ましいと言える。

 思い描いた通りでねばならないという思考は人間を決して幸福にはしない。願望実現や自己啓発で喧伝されるようなメソッドが多くの人々を楽にし、苦しみを減じているようにはとても思われないし、実際そうはなっていないだろう。しかし、一切の望みを捨てて絶望や悲観に固執して生きることもまた間違っている。だからこそ私たちに必要なのは結果に期待せずに願うという姿勢なのだ。

 どちらでもいいということは畢竟、どうでもいいということだ。願望や結果に対する柔軟な姿勢を突き詰めれば、誤解を招く表現になるがそういう結論になる。だが、結末に頓着せずに融通無碍に夢想する精神は何と自由なものだろう。私はこれまで望みが叶うことや思い通りになることだけを願い、それが実現しないことを常日頃問題視し、落胆し、更に言えば傷ついてきた。たくさんの労力や時間を割き、希望に胸を躍らせ青写真を思い描いていたのに、そんな夢が幻と消え踏みにじられ、潰えた! そんな思いが私の内奥にはどんな瞬間にも常にあり、そんな悔恨がくすぶり続け私の精神を支配し続けていた。私は希望と絶望という両極端を去来し中庸に留まるという視点を持つことは全く無かったし、そんなことを露程にも考えなかった。

 これは成就しなかった願いは無価値であり、それのために費やされた時間や労力は無意味だと見なす思想に基づいている。こんな考えを一体誰が私に植え付けたのだろうか。人間の本能や生理としてこの前提が払拭できないなどということはないはずだ。人は結果に固執せず望みを持つことができるし、それは全然難しくない。要は単にそうするか否かだけの話でしかない。

 結果が期待を裏切るものであったとしても、それを問題だと思わなければそれで終わる話だ。それを許せないから人は望み通りにならないことに悩むことになる。叶わないということは本質的な問題ではない。そう考えれば、結果に構わずに夢想することはただそれだけで侭ならない私たちの人生の辛苦を解消する一助になる可能性を秘めている。

 是非がでもこうでなければならないという拘りは人間を決して幸福にはせず、却って無用な苦しみを私たちにもたらす。私たちは苦しみを歓迎し、礼賛しているだろうか? もしかしたらそういう人種もこの世に入るかもしれないが、少なくとも私はそうではないし、何事についてであれ結果の如何に振り回される必要性など最早一切感じはしない。私は気持ちの上においてもう結果には頓着しないと心に決める。

 望ましい未来を想定せず、この世界や自分自身に幻滅して生きることは不毛であるが、好ましい結果以外を許容しない意固地な生き方も窮屈で有害である。私たちに必要なのはそれらのどちらか一方でなく、中庸の立ち位置である。即ち、期待せずに望む姿勢、結果などどうでもよく、希望を抱き邁進する過程に集中しそこに価値を見出す生き方を是とする。

 結末や成果に拘泥するのは仕事であり、いきさつやなりゆきに重きを置くのは遊びである。要するに私は人生におけるすべての局面で「遊びたい」のだ。仕事は結果が全てであり、遊びは過程に本質がある。どちらか一方だけに偏執すればそれもまた中庸でなくなってしまうから難しいところではあるし、仕事に徹すべき時も多々あるだろう。しかし、本心では自分がどちらを良しとするかということを常に明確に意識することでこの記事で重ね重ね述べているような中庸にできるだけ近づけるだろう。