書き捨て山

雑記、雑感その他

分割

 私はこれまでずっと、人生における時間を分割して認識してきた。主にそれはプライベートな時間とそうでない時間の二種類であった。子供の頃からその感覚は強くあり、何人も絶対不可侵な自分だけの時間と、他者との関わらなければならないパブリックな時間を完全に分け隔てて捉え、私は前者を尊び後者を塵芥のごとく扱い、大げさに言えば忌み嫌ってきた感がある。今にして思えば私的な時間と公的な時間というものをあまりにも厳密に分け過ぎだったとも思うし、私的な時間を重視するあまり、他人と接触することを疎かにし、それにより自身の人生を色々な意味で乏しいものにしてきたように思える。

 社会に出てからもそういった性向は顕著で、私は職場や会社といった他人と関わり合いになる時間を嫌悪し続けた。それはどんな仕事においても変わらず、私にとって働いている時間はその内容が何であれ全く無価値で無意味であった。労働という行為を他者からの時間や労力の搾取でしかないと定義し、勤務時間中に接触するあらゆる人間を疎み、憎んできた。これまで数え切れないほど転職し雑多な職種を経験したが、そのどれもが私にとっては忌まわしい苦役でしかなかった。それらの仕事それ自体がいわゆる底辺のそれであり、割に合わないキツい仕事だったということも大きいが、働くことがなぜ苦しいかというと、根本的な理由としてあげられるのは、本稿で述べているような公私を厳密に分けすぎる気質に基づく「プライベートでない時間」への忌避感情によるものであると思われる。

 ワークライフバランスという言葉があるが、それが就労時間と余暇の時間が適当な配分となっている生活が営める人種というのはこの国の社会においてどれほどの割合で存在しているのだろうか。私はいわゆる下流であり社会の底辺を這い回るような生き方しかしてこなかったから、仕事という行為に対しても憎悪の念を抱くのは当然である。下層階級における労働者というものは、オーバーな言い方をすれば人権を剥奪されて働かされている。

 だから私にとってどんな職場であれ働くことは忌まわしいし、仕事をしている時間など一秒でも短縮されるべきだと思ってきた。しかしこのような考えは、就労中の時間が単なる時間や労力の搾取であり、不当な苦役に過ぎないというだけでなく、それが強制されていない私的な時間、いわゆる「プライベート」がそれと比べて貴重で価値があるという思考にも依拠している。

 しかし、不可侵で神聖な自分だけの時間が確保され、それが掛け替えがなく値千金であるという考えは本当に正しいのだろうか。そういう考えは却って自分を害しているのではないか? 私の脳裏に、ふとそんな考えが思い浮かんだのは勤務時間中のある瞬間であった。私がこれまで後生大事にしてきた余暇の時間、プライベートというものは一体なぜ大事なのかと、これまで疑いもしなかったがそれについて自問する機会を今日何の前触れもなく得たのだ。

 公私を分け隔てて捉え、その一方に価値がありそれに属さないものには軽んずるという考えそれ自体に正当性や自明性があるというのは、結局のところ単にそう思っているだけではないだろうか。余暇の時間がたっぷり確保でき、拘束時間に見合った報酬が支払われているかどうかよりも、そもそも公と私という分類それ自体に疑問を抱くべきではないだろうか。

 時間にしろ空間にしろ、分けるというのは個人の主観の中だけの現象である。分別という内的な行為は正しいから行われるのだろうか? いや、正否は無関係だ。それが行われる背景に理由や動機を求めるならばそれは、我々が生きていく上で適切な選択をするためにそれが必要だからそれをしているだけだ。私たちは一個人、あるいは一個の生物として自らの生存上の戦略を立てるために己の身を置く状況や環境を認識し、逐一判断して行動しなければならず、そのための指標として分別や分割を意識の中で行っているにすぎない。つまり、それは単に生きるための方便でしかない。

 プライベートが貴重で尊く、労働のために拘束されている時間は忌むべきだという時間のぶん別は私たちにとって有益だろうか。それによって私たちは何か得るだろうか。また、それによって私たちはより良い生き方ができるようになるだろうか。私見の域を出ないが、どうもそうは思えない。

 無論、休日や余暇の時間は大切であることは言うまでもない。しかし、だからと言って即ちそうでない時間の価値が低いだとか無いというのも早合点ではないだろうか。更に言うと、私たちは生きるために分別を持つべきであり、それのために益のない分別などに執着する意味が感じられない。少なくとも私は、働いている若しくは働かされている時間について悪感情を抱くことで自分の生活が良くなるとは到底思えない。それどころか、余暇に重きを置き就労を軽んじる思考は我々を貧苦に追いやり、却って不幸に陥れるのではないだろうか。

 何かを分け隔て、そのどちらが尊く価値があるか考える前に、分けるという試みそれ自体に明確に意識するべきだ。分別という行為それ自体は良くも悪くもなく、人間が生きる上ではむしろ必須の技能であると言えるが、それについて無意識であったり無批判、無思慮であるならば、私たちはそれに振り回され、却ってそれに人生を生きづらいものにしてしまうだろう。

 無分別という状態は仏教においては悟りの境地と見なされ好ましいとされるが、日常的な感覚においてはやはり分別は避けることはできない。無分別は理想ではあるがそれを常に達成することは事実上不可能であり、普通に生活する上では分けて考えることは不可欠であることは否めない。重要なのはそれを自分が行っていることに自覚的であるかということと、それを何のために行っているかを忘れないようにすべきだ。

 我々は生きるために万物を分割して認識し、思考し、判断し、それに基づいて行動している。この一部始終は私たちが好ましい状況を作り出し、より良い人生を送るために為されているということを念頭に置かなければならない。逆に言えば、それに適わない分割に対しては重要でなく、捨て置いても構わないということになる。

 公私の区別をして時間を捉えるという感覚は結局のところ私たちの人生を却って窮屈にしてしまうように思えてならない。労働から解放されている時間はたしかに多いに越したことはないが、職場に拘束されている時間を問答無用で忌避することは私に何ももたらしはしないだろう。

 肉体が職場に拘束されており、自由が利かないとしても私の精神はどんな場所に在っても何者の影響も受けず支配もされないと己自身の中で定義してしまえばいい。そのような前提を踏まえるならば家の中でも会社の中でも大した違いはなくなり、公私の別という概念も消え失せてしまう。公と私という枠組みが取り外されれば、考えようによってはあらゆる一切の時間がプライベートだと断じることも可能だろう。このような見地から時間について捉えるなら、私にとって自由でない瞬間は絶対に存在し得ないと言える。

 働いている時間が不自由で好ましくないというのは一つの考えに過ぎず、それに依拠し執着するかどうかは私自身の主観のみに拠っている。何度も述べるようにそれは生存上有利に働くならば問題ないが、そうでないならばそれに固執する理由などありはしない。自分を生きづらくするだけの分離や分割、分別など唾棄してもいい時期に来ているといえるだろう。